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検索対象: 「死の医学」への序章
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1. 「死の医学」への序章

ようつう の後一一年半は、大変健康にすごしましたが、昭和四十八年一月に、激しい腰痛に襲われ、 よもや再発とは気付かず、六カ月を診療生活に追われておりましたが、完全に消失しな よう い腰痛が気になり、レントゲン写真を撮ってみて、びつくりしてしまいました。第三腰 椎の変形があり、癌の転移をハッキリとこの目で確認せざるを得ない事になりました。 癌の転移↓死というパターンが頭をよぎり、ショックで泣き伏した事を思い出します〉 〈昭和四十八年当時、とても感銘をうけ、カづけてくれた本に『ガンに勝っ』丸山勝 くまおかそういち ) ・、久・熊岡爽一 ( 現在澡一 ) 共著があります。癌と正面から取り組んで、再発胃癌で、十 年を生きられた丸山氏の闘病記です。 ( 丸山氏は ) その当時、十年目ですから、昭和三 っ を 十八年頃に勇敢に癌告知をうけられ、主治医と共に、癌と闘って、ごまかしのない生き る 方をなさった方です。 ゅ を 私のような乳癌の場合、わざわざ告知をしなくても、癌である事はわかってしまいま 年 すが、今でも胃癌など内臓癌の場合、癌の告知をすることは少ないので、 ( 丸山氏の ) その勇気に感服いたしました。 それでも、当時の私の悩みは強く、医学的統計の数字、再発癌の生存年数など、常に 頭にちらっき、どうしたら丸山氏の様につよく十年間も生き抜けるであろうかと不思議 に思ったものです。その秘密は何であったのか。宗教なのか、その人の人格、性格的な 強さなのか。「死ーを考える時、逆に申せば、残り少ない人生を、如何に充実して生き られるか、又どうしたら生きられるか。疑問が渦を巻いて私を悩ませました。 ] 87 うず

2. 「死の医学」への序章

「死の医学」への序章 むしば ガンで肉体を蝕まれ、昼となく夜となく痛みに苦しめられていた西川医師にとって、耐え 抜く源泉としての「内的生活」のカの大きさについてフランクルが指摘するところは、大い なる啓示となったに違いない。 もしガン患者が「内的生活」を失ったら、苦痛と死の恐怖にさらされて、強制収容所の多 くの囚人たちのように、精神的人間的に崩壊してしまうかもしれない。しかし、その人なり の「内的な豊かさ」を維持し得たなら、苦痛や死の恐怖に耐えて、最後に成し遂げておきた まっと いと思うことを全うし得るのだーーー西川医師はそう考えたに違いないと、私は思うのである。 死刑囚と無期囚 黒沢明監督の往年の映画『生きる』の主人公は、平凡な市井の人であったが、自分が治る 見こみのないガンであると知ったとき、自分はこの世に何かを残そうと決意し、町に小公園 をつくることに奔走する。 人間とは不思議な存在である。死を間近かなものと意識した瞬間から、残されたわずかな ぜんりっせん 月日を猛然と活動し、何かを成し遂げようとする。西川医師も前立腺ガン、しかも進行した ガンとわかってから、「何かを残したい」という意識を急速に抱き始めた。そのための生き こってんい る意欲つまり「内面化ーがあったればこそ、骨転移の苦痛にも耐え抜くことができたのであ

3. 「死の医学」への序章

服差しは昇る太陽よりも照らして 以上が、医学会総会のシンポジウムでの私の発言であった。 若き法律学徒の訴え 「死の臨床、に取り組む医師や看護婦たちが用いているキイワードの一つに、「クオリテ イ・オプ・ライフ , (qualityoflife) というのがある。イギリスやアメリカのホスピスの推進 者たちが、タ 1 ミナルケアの理念として用いてきた言葉である。 直訳すれば、「生命 ( 生活 ) の質」だが、学会でもいまだ定訳がないため、原語のまま使 われている。それは、延命措置によって得られる生物学的な生命の長さ、つまり「生命の トが増えても、患者を人間全体として見る眼の養成が行なわれなければ、医の目指すものは 満たされるものではないということを、このエピソードは示しています。この座談会から二 十年経った現在、この問題は克服されたでしようか。 私は医学界に対し、 ) は患者を人間全体として診る " 患者学。教育、治療者と患者との人 間関係におけるコミュニケーションのあり方についての実践的な教育訓練、臨床体験を通 しての問題解決型学習、の三点を医学教育のなかに積極的に導入してほしいと希望するもの です。 め

4. 「死の医学」への序章

し、子宮内膜症のため子宮摘出手術を受けたのをはじめ、その腸転移のための手術、さらに たんのうしゅよう 胆嚢腫瘍の手術と、三度も手術を受けたうえに、全身症状の悪化に陥って、何度も入退院を 繰り返すという闘病生活を、すでに十年も送っており、研究所の退職も余儀なくされた。一 方、栗田さんは音楽学校出身の主婦で、一人息子を育て、ピアノや油絵や詩などの豊富な趣 味を持った家庭生活を送っていたが、数年前に乳ガンとなり、やはり再発転移で入退院を繰 り返している。 て 二人とも東京郊外の多摩市に住む近所同士だったが、とくに親しい交際をしていたわけで なはなかった。柳澤さんが入院していたとき、同じ病院の外来診療を受けに来た栗田さんが病 を 室に柳澤さんを見舞ったのが、お互いの病気について話し合うきっかけになったのだった。 生 柳澤さんが退院すると、今度は栗田さんが入院し、見舞いの文通が始まった。一九八三年夏 をのことだった。 二柳澤さんは、通りいつべんの見舞い状にするのをやめ、自分の専門の科学の知識を生かし はぎわらさくたろう て、生命や細胞ややガンについて、萩原朔太郎や高村光太郎などの詩を織りまぜなが ら、平易な読み物風の解説文を綴り、それを栗田さんに送った。 そんなことをしばらく続けてから、柳澤さんは、耐える力、希望、苦しみ、神、信仰など へと、手紙に書くテーマを広げていった。これに対し、栗田さんも、懸命に生きようとする 自分の気持を書いた。 199

5. 「死の医学」への序章

〈人間が強制収容所において、外的にのみならず、その内的生活においても陥って行く カカ まれ あらゆる原始性にも拘わらず、たとえ稀ではあれ著しい内面化への傾向があったという ことが述べられねばならない。元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、ある 場合には、その比較的繊細な感情素質にも拘わらず、収容所生活のかくも困難な、外的 かれら 状況を苦痛ではあるにせよ彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。 なぜならば彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃 る れる道が開かれていたからである。かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間が え 植 を しばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックス 樹 の が理解され得るのである〉 ( 傍点は原文のまま ) ゴ この最後の指摘は、人間存在を考えるうえで、大変大きな意味を持っている。もし人間が で えきびよう 「外的生活」のみで生きているとするなら、暴力や飢餓や疫病の荒れ狂う強制収容所におい ふち ては、頑丈な身体の人間が生き抜き、繊細な人間はたちまち死の淵に突き落とされることに なるはずである。ところが、フランクルが目撃した現実は、そうではなかった。分かれ目に なったのは、「内的生活」だったというのだ。つまり、 いくら身体が頑丈でも生きることに 対する内面的な依りどころを失った人間は、精神的人間的に崩壊していったのに対し、「内 的生活ーを豊かに持ち得た人間のほうが、たとえ繊細で弱そうに見えても、耐え抜くことが できたというわけである。

6. 「死の医学」への序章

「死の医学」への序章 274 私は、幼少の頃より病弱で、九歳の時には、主治医より月 ″、児中毒〃を赤痢と誤診さ びようとう じんぞう れまして、隔離病棟にて全く見当違いの治療を受けたために、腎臓機能障害をおこし、 " 今夜が峠だ〃と言われるところまでいきました。なんとか命だけは取り留めましたが、 別の病院へ転送されて、腎臓病治療のため、二年間の入院生活を送りました〉 このような自己紹介に始まる長文の手紙は、 " 生命の尊重。の教育と『輝け命の日々よ』 がなぜ結びつくかについて、次のように続けていた。 〈小児の眼を通してではありますが、病院で展開されるさまざまな人生を見せられ、ま さに病院は人生の縮図だと痛感しています。 このような体験によりまして、 " 生命の大切さ ~ " 人生の重み気さらには " 海いの残 らぬ人生のためこ、 。いかに生きるか″ということを、私なりに常に考えてまいりました。 そして、このことを次の世代へ訴えてゆくことが、現在教職についておる私の使命であ むた り、私の体験を無駄にしないことだ、と考えておるのでございます。 しかしながら、中学一一年生の生徒たちには、私の指導力の不足もあって、こちらの意 とするところが充分に伝えられずに思い悩んでおる毎日でございました。 こんな折、が放映した「輝け命の日々よ』にめぐり逢えました。さっそく録画 し、″道徳″と″学級指導〃の二時間の授業で生徒たちに見せ、西川先生の生き方につ

7. 「死の医学」への序章

私がこの事例を日野原学長から教えられたのは、第二十一回日本医学会総会における「医 学教育カリキュラム再編計画」シンポジウムの準備段階でのことだった。日野原学長は、日 本の医学教育においては、過去何十年もの間、単に主訴や既往歴、家族の病歴などを聞くこ ペインヤント・プロファイル とを教えるにとどまり、患者の生活環境や生活歴などのいわゆる "patient profile" ( 患者の 生活像 ) に目を向けるような教育が欠けていたこと、しかし生活像にこそ発病や病状悪化の 原因と治療の手がかりが潜んでいるのであって、そこに視点を向ける眼を持たせる教育が必 要であることなどを強調していた。 ( 日野原学長は、この問題を、一九七九年に著した「医 章 序療と教育の刷新を求めて』〔医学書院〕で体系的に論じている。 ) へ 心身医学や精神医学においては、患者の生活像はもとより、心の奥底にある抑圧された感 医情までをも聞き出すことが、不可欠のことなのだが、一般の内科や外科においても、実は本 死来、同じような眼が必要なはずであった。ところが、それが欠けているというのである。こ れは、診療のためのインタビューという狭い意味での「聞く行為の問題点なのだが、日本 の医学のなかで、よりよきケアのための、広い意味での「聞くー行為がないがしろにされて きた原因の一つは、狭義のインタビューについてさえ、その重要性を認識させる医学教育が なかったことにあるよ、つに田 5 える。 診療に直結するインタピューも、一一一一口うは易く行ない難いものであるように、ケアの局面に おける「聞くー行為も、別の意味で困難がっきまとう。病む者の心の奥深くにある苦悩や不 安をどこまで共有し得るかという問題かかかわってくるからだ。 140

8. 「死の医学」への序章

わけガン患者となり、自分の人生があまり長くなさそうだと自覚してからは、ライフワーク としていた分裂病の再発と分裂病者の社会復帰に関する研究を、やめるわけにはいか 倒れるまで続けるんだ、と考えるようになっていた。それを生きるための一つの支えにした のである。 西川医師の生き方は、ある意味で、自己中心的な生き方ということができる。 ある意味でーーとは、どういうことなのかを、少し説明しておく必要があろう。 かんべき 例えば、神経症の患者のなかには、完璧主義の傾向の強い人が少なくない。親子関係、友 章 序人関係、会社での人間関係などについて、「かくあるべし」という規範のようなものを固く 〈抱き、そこから逸脱することができない。あるいは、道徳的な規範を絶対視して、それに反 、。吉局、自分をがんじがらめにして、対 医することは自分であっても他人であっても許せなし 死人関係が成立しなくなり、社会生活に適応できなくなってしまう。こういう患者に対しては、 医師が、 「人間、少してれんほれんなところがあったほうがいいんですよ」と、自由な生き 方について話しかける。「そんなに親のことばかりを考えなくてもいいんですよ。親のこと なんか二の次にして、自分本位になってみてはいかがですか」とか、「友達に一所懸命尽く したのに、感謝されないのでがっかりしているといいますが、人に親切にするのは、そうす ることが自分にとって楽しいとか満足だとか、そういうときだけにしておいたほうかよいで すよ . とか、あるいは「会社で部下がいうことを聞かないので落ちこんでいるということで すが、課長に反発するくらいのほうが、活気があっていいじゃないか、と考えてみてはどう 230

9. 「死の医学」への序章

医療界に大きなインパクトを与えたのは、クオリティ・オプ・ライフ ( a o 、生命・生活 の質 ) というキーワードである。末期患者にいたずらに濃厚な治療を継続するのは無意味ど ころか残りわずかな日々を台無しにしてしまうおそれがある、それよりは痛みや苦しみを緩 和して、一日一日を少しでも平和で有意義なものにしたほうが、医の本質にそうものであろ うというのか、 O の理念である。患者の O を高めることこそ、死の臨床やターミナ ルケアの目標なのだということが広く理解されるようになるにつれ、という視点はガ ン医療だけでなく、循環器病や老人病などの治療法を再評価し洗練されたものとするために 序も導入されるようになっている。 まっただなか ( そういう一九八〇年代の変化の動きの真只中で、私はこの本を出したのだった。「死」と 学 いまだためらいのある時期だったが、 医いう文字を一般読者向けの本のタイトルに使うのは、 死そうであればこそ、「死」という文字を積極的に前面に打ち出して、この問題への読者の関 心を高めたいと考えたのである。その後、「死」の問題を論じた本がたくさん出版されるよ うになった。死を考えるとは、 いかに生くべきかを考えることであってみれば、高齢化社会 を迎えたいま、「死の医学」を論じることはいよいよ重要になっていると、私は考えている。 著者 一九九〇年秋 318

10. 「死の医学」への序章

を紹介しようというところにあった。ただ、宗教的な背景も告知の実情も違う日本で、この 種の本の意味を広く理解してもらうには、適切な解説を別冊で付したほうがよいという編集 せいろか 判断から、聖路加国際病院小児科の細谷亮太医師と私の対談が別冊に掲載された。 この邦訳の企画・編集を担当していた湯本道子さんは、ちょうどその頃、ほるぶ出版が刊 行していた科学絵本「科学者からの手紙ーシリーズの一冊として、柳澤桂子さんが執筆した 「いのち』 ( 桑原伸之・絵 ) の編集も担当していた。柳澤さんが病床で書いた「いのち』は、 イ単に生命の生物学的な解説に終わらず、病気について、そして幸せとは何かについてまで、 な話を発展させていた。柳澤さんの『愛をこめ : : : 』と「いのち』は、八五年五月から六月に をかけて相次いで出版された。『愛をこめ : : : 』は主婦の友社からだったが、湯本さんが「ぜ ひ読んでいただければと、二著を私に送ってくださったのである。 ゅ よ あて を柳澤さんは、その後も日記を書き短歌を詠み続けている。私宛の手紙から一部を記させて 二いただく。 〈病名診断がはっきりしない状況下で長期間の闘病生活を送ることは、思い起こすこと がた も耐え難いほど苦痛なことでございました。そんな状況で心を外へ向けざるを得ません でしたし、また医療に対する不満、無念さがあの本を書くエネルギーになりました。け れども、私がこれだけ苦しみましたのも、決してお医者様方が悪意でなさったことでは なく、これが人間の限界というものであると存じます。人間であることの苦しみと悲し