意識 - みる会図書館


検索対象: いのちと生きる
55件見つかりました。

1. いのちと生きる

109 わたしの乏しい思考能力では、いたずらに死についての周辺を廻っているだけで、確 かな手応えはなにも出てこない。 ソクラテスは人間の本質を魂と定義し、魂を知の働き と解釈した。人間と他の生きものとの共通項を取り去ってゆけば、最後に人間に残され るものは、知であると判断した。 ソクラテスは死そのものよりも、人間らしい生き方を見失わないこと、死後のことよ りも、この生をいかに生きるべきかに焦点を当てたのである。死を透して見る生の尊厳 とは、知の働きを失わない生、生きものの本能に埋没しない生を指すのだろう。 しかし、わたしはソクラテスのように人間の知の働きを信じることができない。なぜ ならば、今、すでに肉体の変化によって精神が席捲されているからである。知の働きに よって死の意味を解明し得たとしても、検査食と下剤によって衰弱してゆくわたしが、 舞 見死の恐怖にさいなまれる事実を、どう解明したらよいのだろうか。 人間は知の働きによって、存在のすべてをコントロールできるものではない。知の働 京きの奥には人間自身が制御し切れない存在そのものの根源に深い闇の領域がある。生き ものとしての本能もその領域に入るだろう。 わたしが抱く死への恐怖、それはわたしが持っている生存本能である。生ある限り排 除することのできない人間の本質である。だからこそ生に執着するのであり、執着する

2. いのちと生きる

れるのである。それ以後の家族の苦しみは深刻である。患者が亡くなるまで秘密を守り 通したと語った人が大部分であった。 自らの闘病体験を語るシンポジストは、長い間自分の病名が分らず、医師からも明確 な返答を与えられない。家族が洩らした言葉の断片によって病名を知り、かえって闘病 の意欲がそそられたと言った。 病名を本人に隠した方がよかったのか、告げた方がよかったのか、一人一人の体験は すべて違うので、シンポジウムの結論は出なかった。わたしは、人前で語った経験のな いシンポジストたちに、 いかに寛いで、心を開きながら語らせるか、司会者として準備 をし、心を砕いた。 机の前に腰掛けて、わたしはシンポジストたちの顔を思い浮べた。司会者という立場 を超えて、彼らの生き難い生を愛おしみ、わたしのなかに深く刻みつけられていた。彼 らが語った告知の順序は、いずれにしても家族が知った上で本人に知らせる。本人だけ が知っていて家族が知らないというケースは、一例としてなかった。 わたしの今の立場は稀有な例である。どうしてこうなってしまったのか考えてみるの だが、自然の流れとしてそうなったとしか思えない。流れのままに病名を夫に告げるし か、他に思案が浮ばないのである。教わるべき人も読むべき手引書もないわたしは、事

3. いのちと生きる

去ってゆき、一人になったという思いは深いが、意外に冷静だった。 量としては不足がない、と今まで過してきた年月をしきりに計っていた。青年期には 平均寿命二十歳余の時代であった。そこの関門から三倍以上の人生の量に恵まれてい 二十歳前後で人生を打ち切られた人たちを数多く見てきたので、これだけ生きることが できたら上出来である。 六十四年は多過ぎはしないが、決して少なくはない。その年月は社会の激動期に当り 楽なことばかりではなかったが、歴史や社会の変り目に触れた密度の濃さを感じる。 供を産み、育て、社会人となった子供たちと接する楽しみも与えられた。孫たちもすく すくと成長している。自分の仕事もどうにか続けてきた。 わたしは自分を慰めるために、今までの人生をすべて肯定しようとした。そうでもし なければ九十。ハーセントの確率で間違いない悪い方の結果を肯定できないのである。 狽たしの身に今起りつつあることを、自分の人生のなかに組みこんでしまう方法で、受け の容れるしかない。 タ闇が迫ってきた。一人で部屋のなかにじっとしていたわたしは、急いでカーテンを 引き、電気をつけた。夫がもうすぐ帰宅する。夫だけではなく、家族にも話さなければ れならない。生命が危ぶまれるほどの病気であることは確かだけれど、自分自身がまだ納

4. いのちと生きる

185 、 - ホフラの新緑のみ 房が満開である。北国の遅い春が終り、夏がはじまろうとしてした。。 : ずみずしさ、空が広く高い。 長女が運転する車の助手席に乗ってわたしは街の様子を眺めた。入院するときも同じ ように助手席に乗っていた。 , 得体の知れない危険な内臓を孕んでいる腹部を、わたしは 抱えこむようにしていた。街の風景などを眺める余裕はなく、これから寄せてくる運命 の変匕こ、 イ冫ただ怯えるばかりだった。 手足は麻痺していても、車の助手席から眺める街の風景は軽やかである。限られた狭 い空間の病室に二カ月余も拘束されていた身にとって、街の拡がりは頼りないほどしら じらと明るい 病気になる前までわたしが暮していた日常性とは、このようなあっけらかんとした風 朝景だったのだ。毎日の暮しのリズムは、深い意味や細やかな計算もなく、おりおりの気 と 夜分によってくり返してきただけである。 泊長女が営む家庭も平凡そのものである。わたしがくり返してきた日常と似たようなリ ズムで生活している。わたしは居間のソフアに横たわり、長女の家庭を街の風景のよう に眺めている。煮こんでいるシチューの香りが台所から漂い、祖母のために孫たちが活 けた花が咲き盛っている。

5. いのちと生きる

て一生重労働を科せられるでしよう。敗けたのですから当然です。皆さんは必ず生き延 びてください。これでお別れです」 彼は、長靴を音立てて揃えると挙手の礼をした。わたしが真正面から眼をそらさずに 青年士官をみつめたのは、そのときが最初であった。 敗戦の翌年、青年士官から手紙が届いた。 彼は大学で土木工学を専攻していた。自ら希望して軍人になったのではなく、大学卒 業ののちダムエ事の現場に勤務しているとき、召集令状がきて徴用されたのだった。敗 戦のとき一度は殺されることを覚悟したが、・ とうにか本業に戻った。 台風のたびに河川が氾濫し、多くの人命が失われている。河川の災害復旧を急がなけ れば、ようやく戦争が終って生き延びることができた人たちの命が危ない。毎日災害現 場で専門の知識を生かして働いている、と自分の近況をくわしく綴ってあるのだった。 わたしも自分の近況を知らせる返信を出した。毎日着物を売って食糧を得ている。着 物はわたしの嫁入りに備えて、母親が一枚一枚買い整えた。農家は若い娘向きの派手な 着物を欲しがるので、わたしの着物は食糧に代るのが早い。米のほかに芋や大根なども おまけしてくれるので、家族の食糧のために、おおかた底をついてしまったと返信に書

6. いのちと生きる

「四本のチュー・フから溜った滲出液を外へ出すのです。一日に何度もガーゼを取り替え なければなりません」 そう言いながら。ヒンセットで新しいガーゼを右脇腹に何枚も重ねた。どこをどう切り 開かれたのか、自分の眼で確かめようと少し頭を擡げて見た。胸から下腹にかけて、ま っすぐの長いガーゼがテープで止めてある。長い百足が体のまんなかにへばりついてい るようだ。 右脇腹のガーゼは夜半にもたびたび取り替えられた。その度にべっとりと黄色に汚れ たガーゼが除かれ、新しいガーゼが重ねられる。無限に滲出する体液を無限に補うよう に、鎖骨下に埋めこまれたチュー・フから、体液と同じ色の薬が体のなかに注がれる。 どのような仕組でわたしの体に黄色の液が循環し、生理的リズムを確保しているのか、 まったく不明である。その不明さを解明しようとする意志力も好奇心もすべて失われ、 ただ、されるがままになって身を横たえている。 術後三日目にわたしは集中治療室から病室に戻された。個室である。差額ベッドの個 室は存在せず、術後の重症患者のみ個室に入ることが許されている。病室に落ち着くと、 ようやく窓から外を見る余裕ができた。 むかで

7. いのちと生きる

「あなたは自分の病名を知っているから言いますが、この薬は抗癌剤です。体のどこ亠 に潜んでいる癌細胞を念のため叩くのです。副作用の弱い薬ですから、体に影響は与と ません。今日からこれを飲んでください」 医師はオレンジ色と緑色の二色に分けられたカプセルを指した。わたしは危険な爆癶 物を見るようにそれを見た。副作用のイメージの強い抗癌剤にしては、二色とも決し一 毒々しい色ではない。 胃壁を痛めないための胃腸薬を先に飲み、次に抗癌剤、そして、貧血を防止するた」 の薬をあとに飲む。三種とも必ず食後に飲むように、と医師が指示した。 今まで、病名の告知をはしめ、治療のための説明を何度も受けてきた。レントゲン一 イルムや、スキャンの映像なども見せられてきた。抗生物質や点滴液など、さま まな薬の解説も聞かされた。自分では病気のことを認識しているつもりだった。 痺 麻しかし、「抗癌剤です」と現物を眼の前に示されると、わたしは動揺せずにはいら 4 然ない。今まで頭のなかで抽象的に理解していた病気が、急に具象化されたのである。 術によって切除された肝臓も大腸も、またその一部に発生した癌細胞の塊りも、わた 1 は直接にこの眼で見たのではない。術後のさまざまな症状に悩まされはしたが、病気力 のものの中枢は隠されて見えなかった。 175

8. いのちと生きる

149 空腹だった。 わたしは総務部の総務課に配属された。総務課長は少尉に任官したばかりの青年士官 で、総務課の事務員として採用されたわたしに「しつかり働いてください」と声をかけ た。その青年士官が夫だった。 わたしは背中まであるまっすぐな髪を二つに分けてお下げに結んでいた。「必勝ーと 染めた日の丸の鉢巻をきりりと締めると、こめかみのあたりが緊縛されて眼尻が吊り上 った感じになった。その緊張感が空腹を忘れさせ、働く意欲をかき立たせた。 父の着物をほどいて自分で縫った久留米絣の上下のもんべを着ていた。胸に住所氏名、 血液型などを書いた布切れを縫いつけ、空襲で怪我をしたときの識別票の代りにした。 青年士官はわたしの胸にある住所氏名に眼を走らせ、 会「 << 型ですか、・ほくも < 型です。同じですねー の と白い歯を見せて笑った。それまで険しい表情の軍人ばかり見慣れていて、軍人の前 日 きに出るとわたしは体をこわばらせて緊張するのだった。しかし、その青年士官の笑顔に は、えもいわれぬ愛嬌があった。 おおあざあざ 仕事は宛名書きである。宛先は県全体の市町村に及び、大字、字と呼ばれる山間僻地 の住所も数多くあった。わたしの隣の席で、同年齢の少女が作業をしている。わたしが

9. いのちと生きる

『旧約聖書』はユダヤ教の聖典であゑ神の義と律法を守り抜くために五千年の興亡を くり返しているユダヤ民族の魅力が、わたしをとらえて放さない。民族の歴史の一端に 触れようと、七月から八月にかけての旅への期待に、わたしの胸ははずんでいた。 旅の予感は興奮をかき立てる。世界地図を取り出して訪れる各地を地図の上でなそっ てみたり、その地の予備知識を得ようとして本を買いこんでみたりした。一月から四月 まで一生懸命に仕事をして旅の空白を埋めようと、身も心も充実していたのだった。 わたしは昭和初年のファシズムの勃興期に生れた。軍部の擡頭とともに十五年戦争の なかで育ち、少女期、青年期には敗戦前後の混乱に振り廻された。そして戦後の飢餓時 代に家庭生活をはじめた。 子供たちがそれそれに成人し、夫の社会的地位も安定して、わたしはようやく自分の 楽しみを追うことができるようになった。この十年ほど、テーマを持って事前にかなり 勉強してから海外旅行に出かける。 旅への興趣の興奮をかき立てられているとき、わたしはふと自分の年齢を思った。す でに初老の域に達している。旅の途中で体の不調に遭えば同行者に迷惑をかける。健康 体であることは日々の暮しのリズムのなかでよく分っているが、念のため、自分の体を チェックしてみよう。

10. いのちと生きる

たことは、「おれは遺されるのかーの一語であった。「夫は肩で大きく息をしている。恐 怖に歪んだ顔で上眼遣いにわたしをみつめた。夫にとって遺されることがそれほど恐怖 なのだろうか。先に逝くものの恐怖はどうなる。わたしは夫の身を案じる余裕を失って いた」ここには、突然、死の病を突きつけられた時の動揺と混乱がよくあらわれている。 こんな弱さをむき出しにする二人の人間が、死んでもなお揺るがず強めあう心の絆は、 夫婦というものの縁の深さを伝え、読者に感動を与えずにはおかない。 また愛するものの死を受け入れ、その人のいない自分の人生をこれから生きていくた めの新しい出発への準備の仕方をも、この本は意図しないで示唆していてくれる。 故郷北海道の自然の美しさや、医師、看護婦さんたちの優しさ、子供たちゃ孫との心 の通いあい、時に織り込まれているホス。ヒスで最後まで講演をし、尊厳を保ちながら逝 った若い女性のエ。ヒソード、そして病が癒えて社会復帰する希望にあふれた日々など、 どんな病気にも冒されない人間のすばらしさが、全編の各所に燦然と光を放っている。 死を受け入れる覚悟のついた後の境地は、経験した人のみが示し得る威厳に満ちてい 「わたしが煩悶する前に、先へ先へと備えがあり、その備えに身を委ねてさえいれば、 いつのまにか平安が与えられている。努力してそうしているのではなく、わたしを解放 る。