時間 - みる会図書館


検索対象: いのちと生きる
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1. いのちと生きる

132 ストレッチャーに横たわっているわたしの顔に、自分の顔をくつつけるようにして看 護婦が言った。入院以来今まで、検査で関わってきた医師が緑色の手術着を着て傍に寄 ってきた。 「・ほくたち、皆で手術に立ち会います。執刀は教授です。安心してください」 と一 = ロった。 意識はそこまでであった。午前八時から夜の八時までの十二時間、わたしは手術室で 別世界の人間になっていた。 夫の葬儀 午前八時から夜まで、絶対的な無の世界にわたしは入っていた。どれほど眠りが深く ても無意識が存在するが、全身麻酔には眠りすらない。わたしの人生から、すとんと断 ち切られた十二時間は、臓器だけが動いている無明の世界である。 夜半に少し意識が戻ったとき、周囲に何人かの人の気配を感じた。その気配はわたし に集中し、注意力のすべてが注がれている。それに対してなにか応えなければと心は動

2. いのちと生きる

る。このままずるずると体力が下降して、自然に死が訪れればそれも結構ではないか。 わたしが消えても世はこともなく穏やかで、時間は廻り日は移る。二日か三日は人々 のロの端にのぼるだろうが、去った人は日々に疎くなってゆく。この世に絶対に必要な 人間だなどと、わたしは自分を位置づけてはいない。 医師がわたしの名を呼び、元気づけようとさまざまに言葉をかけるが、眉ひとっ動か す気も起らない。夜中に変ったことでも起きないかと案じて、看護婦が一時間ごとに巡 回してきては、懐中電灯でわたしの顔を照らし、確認しては去って行く。 レントゲン室に運ばれたり、検査室に運ばれたりしているだけで、その結果に対する 興味はまったくない。今さらデータがどうあろうとも、それは医療者にとって必要なだ けで、わたし自身にとって必要ではない。 手術創の抜糸を終えてしばらくした頃、腹腔内の一カ所にかすかな痛みを覚えた。腹 腔内をさっと一巡して走ったような痛みは、時を経ずに二巡するようになった。二巡し たあと痛みは小休止する。小休止があるのでわたしは痛みを軽く考えていた。 回診のとき、「どこか不快なところはありませんかーと尋ねられても、軽い痛みを訴 えるほどのこともないだろうと黙っていた。痛みが走っても、そのあと小休止がくるの で、小休止までの辛抱なのである。痛みを言い立てて、これ以上点滴が増えたり治療が

3. いのちと生きる

状態になった。「今の苦しさを我慢すれば、きっとよくなるーと彼女は言い続けた。 子のたたりだと、二度と口にはしなくなった。水子供養をしたので病気は必すよくなる と、彼女は静かに生を終えるその瞬間まで信じることができた。 医師がふと洩らした言葉で、あと四カ月から半年と自分の命数を数えてみても、直面 する瞬間までわたしは自分の今在るいのちを信じているだろう。その瞬間は自分の意辯 が失われているはずだから、人間は自分の死を自覚せぬままポイントを越えるのではな いだろうか。 迎えに来た看護婦が、 「あら、顔色が悪いわねえ。検査がきっかったのねえ、早く病室に帰って休みましょ と言った。車椅子に乗ったわたしは、看護婦に押されて病室に戻った。 7 病名を知らない人々 病院の朝は早い 午前六時に枕もとのス。ヒーカーから、「おはようございます。朝の検温の時間です。

4. いのちと生きる

患者さんはお熱を計ってお待ちくださいーと声が聞える。 と 朝の光が射しはじめて、うとうととまどろみのなかにいる頃、「患者さんは : 声が聞えてくると、自分の身分が患者であることをあらためて自覚させられる。当り前 のことだけれど、起床時間、消灯時間、家族との面会時間、食事の時間まで、すべて時 間によって管理されている患者なのである。 そして、朝の採血がくる。多いときは十本の試験管が立ててあり、そのなかに端から 血液が採取されてゆく。採取された血液がどのような目的に使われるのかは、不明であ る。百項目にもわたる検査のために、毎朝のように採血しなければと、看護婦が血管に 注射針を刺しながら言う。 しばらくして検温と脈拍の記録にくる。食欲、便通、睡眠の状態、気分の良し悪しな どが記録される。自己申告なので申告しない限り、「著変なしーと記録され、訴えが少 なく手のかからない患者として印象づけられる。 わたしは良い患者を装うつもりはなかったが、ナースコールを押したことは、それま で一度もなかった。眠れない夜を過すこともあるが、昼間眠ればよいと思い、そのまま 眼を覚ましている。病院食が食べられなくても、別の食べもので補っている。 病院食が廊下の向うから台車で運ばれてくる。大部屋の六人のべッドは頭の方を壁際

5. いのちと生きる

ハネリストの控え室で彼女は酸素を吸っていた。疲れたら彼女がすぐに横になるこ , ができる大きなワゴン車を運転してぎたのも、重い酸素ボンべを運びこんできたのも、 彼女に対する日本的ホスビスケアを支える八日市場市立病院の人たちである。わたし ~ 支援者たちの熱い友情に感動を禁じ得なかった。 時間がきて他のパネリストたちとともに、彼女は壇上に並んだ。「つらくなったら、 いつでも控え室に引っこんでね」と、事前にわたしは彼女に何度も言った。しかし彼亠 は堂々と少しのためらいもなく、癌の発見から告知、手術、そして再発と、病気の経 を淡々と熱をこめて話した。退院したのちの生きてゆく目標は、仕事に熱中すること 1 一人息子を育てることで、自分は離婚しているとも語った。 入院五回、手術八回、そのうち全身麻酔による大きな手術を三回受け、放射線照射 ( 治療を何度も経験している彼女である。そのような治療の合間に家族旅行を楽しみ、 外旅行も楽しんできた。 「病気と闘う精神は、持久走の精神力と似ている。孤独で苦しいけれど、完走するこ 1 を目標に走っている。私は自分の病状を常に知りたいと思っているので、病気に対す , 疑問や不安を医師に直接話すことにしている。医師との信頼関係は確立しているので、 そのことは自分にとって幸せである。私が死を迎えるとき、いのちを延ばすための蘇ル

6. いのちと生きる

127 てうなずいてくれるだけでよいのである。 タ陽の残照が西空を赤く染めていた。活動的な昼間の時間から沈静した夜の時間に移 行する、たそがれのひとときである。病院の門の前にバスが止まり、次々と吐き出され あかねいろ る人々をかき分けるようにして夫が道に飛び出してきた。茜色の空を背にしてその姿 は黒い輪郭だけのシルエットである。 夫は病院の門から全力疾走で玄関目指して走って来る。コート の裾をひるがえして、 走る、走る。そしてすぐにその姿は玄関のなかに消えた。三階のわたしの病室まで、夫 は階段を駆け登って来るのだろう。 病室の入口から夫が入ってきた。息を切らせてはいなかった。門から走ってきたこと も、階段を駆け登ってきたことも、わたしには悟らせまいと意識したのか、いつもの落 査ち着いた夫の様子であった。 の 「どうだ」 術そう言っただけだった。 あれも聞いてもらいたい、 これも話したいと思いつめていたわたしは、話す必要がな くなっていた。 「手術、明日九時からだって、終るのは夕方か夜になると思うよ

7. いのちと生きる

今日のすべての検査が終ったあとで、わたしは医師に呼ばれた。 「一週間後に、どなたかおうちの方と一緒に来てください、そのときお話しします」 人間ドックの結果を聞くだけですのに、どうしてわたし一人ではいけないのですか。 自分の体のことですから、わたしが知っていればよいと思うのですがー と言ったのだ。そのとき医師は迷ったような表情を浮べ、 「やはり、おうちの方に来ていただぎます」 と一 = ロった。 ちらっと不安がよぎったが、わたしは頭を振って不安を打ち消した。そして、メニ = ーを見ながら食べたい料理を選ぶことに没頭した。 運ばれてきた料理に口をつけた。意外に食欲がある。体に異変が起きたのであれば、 料理がおいしいはずがない。脂がたっぷりと含まれた肉料理を、これほどの食欲で食べ ることができる。体の底から活力が充ちてくる。デザートまでのフルコースを、わたし は少しの食欲のかげりもなく終えることができた。 食欲だけでなく、体は好調そのものである。肝臓の丸い影など忘れることにしよう。 健康であるという確かな実感を信じよう。 そう思ってわたしはレストランを出た。講演会の開催時間まで一時間の余裕があった。

8. いのちと生きる

う。モーツアルトもショパンも今を生きているように、わたしも音楽のなかに溶けこみ ながら、永遠性を失わずにいられるような気さえしてくるのである。 肝動脈撮影のため放射線科に運ばれる。 検査のうちで、もっともハ ドであり、小規模の手術ほどの準備が行われる。検査後 二十四時間の絶対安静のため、尿カテーテルが入れられ、細菌感染予防のため下半身の 消毒も厳重だ。 脚のつけ根の動脈から細いカテーテルを通し、血管に造影剤を注入しながら肝臓内の 血管を調べるのである。ものものしい機械に囲まれて、台の上に仰向けになったまま寝 返りも打てない不自由さはある。しかし痛みも苦しみもなく、鎮静剤の注射を打たれて、 うとうとと浅い眠りのなかをたゆたっているうちに、二時間半にわたる検査は終了した。 今まで読んだ闘病記などによると、術前の検査すら苦痛の激しいものであり、その苦 痛に耐えることが闘病であるような記述が多い。しかし、わたしにとって今のところ少 しの苦痛もなく、むしろ医療者が精魂こめて組み立てたプログラムに、やんわりと乗っ ている感じである。 そして、一つ一つのプログラムを次々にこなしながら、手術という最大のイベントに

9. いのちと生きる

間かかわらず、手術の前日はもちろんのこと、未だにわたしの前に現れない。夫婦にとっ ての空白の時間である。 その時間を埋めるすべを、いまだにわたしは知らない。 札幌の病院で 北海道の四月は、まだ早春である。 わたしは北海道の中央部、大雪山系の山々が重なる末端のあたりに位置する空知郡上 砂川町で生れた。明治の中期に、山野に露出した石炭が発見され、日本の工業化へのエ ネルギー資源として、財閥系の企業が開発を進めた場所が上砂川町である。 わたしの父は大学の採鉱学科を出てすぐに就職し、上砂川町の現場に赴任した。そこ の社宅で結婚生活をはじめて、次々と子供が生れた。 二人の兄のあとにわたしは長女として生れ、十三歳までそこで育った。父の転勤によ って北海道を離れたのは、、 月学校を終え女学校の入学試験の直前のことだった。 生れ育った北海道に、わたしは半世紀を経て戻ってきた。鮭は産卵のために故郷の川 を遡るが、わたしは病気のために故郷の大地に遡行してきた。産卵を終えた鮭は故郷の

10. いのちと生きる

術や、痛々しい医療はやめて欲しい。痛みのコントロールだけをしてもらい、家族や友 人、信頼する医師に囲まれて自然消減したいー 彼女は自分に与えられた時間を堂々と使い切り、満場は感動の嵐に引きこまれた。彼 女の一つのいのちを中心にして、他の。ハネリストも司会者も聴衆も生命への賛歌と愛に 充たされた時間だった。 / 彼女の消えようとしてゆくいのちの炎が大きく燃え上り、場内 の人たちの一人一人の胸に火玉となって突進したという印象であった。 それから一カ月経たぬうちに彼女は亡くなった。わたしは告別式であの紺のスーツを 着てふくよかに笑っている彼女の遺影と対面した。三十五歳の短い生涯であった。 「裕子さんのように、皆さんから惜しまれて死ねるかしら。わたしはどうも裕子さんの 真似はできそうにもないわ」 と山崎医師に言った。 「そんなこと言うの、早いですよ。死ぬ、死ぬと簡単に言わないでください」 長谷氏が横からロを出し、山崎医師は無言だった。 「たとえ手術がうまくいっても、そのあと、また病気が再発して : : : 」 涙声になりそうなのをわたしはようやく抑えた。毎日通ってくる長女にも、ときおり 顔を見せる家族にも、わたしは決して愚痴をこ・ほさない。愚痴をこぼせば家族が困るこ