知ら - みる会図書館


検索対象: いのちと生きる
188件見つかりました。

1. いのちと生きる

192 「おかあさん、ほら、自分の手でコーヒーカップ持ってるのよ。病院では手がふるえて、 なにも持てなかったでしよ」 知らぬ間にわたしはコーヒーカップを持っていたのだ。カップを持ったけの力が戻っ てきた。 「ついでに、ちょっと立ち上ってみてね、足にも力が入るかもしれないわー 長女がそう言い、わたしはソフアの背につかまって立ち上った。覚束ないが、足にカ が入る。つかまった手を放してみると、よろけそうになりながら、転ばずに両足を踏み しめているのだ。 長女が声をあげて泣いた。わたしの手を両手に包みこむようにして、その上にぼたぼ たと涙を落した。 「よかった、よかった、昨夜から眠っていないの。何度も部屋に入ろうとしたのだけれ ど、おとうさんと二人きりにさせた方がいいと思って、歯を食いしばって我慢したの」 わたしは長女の頭をそっと撫でた。 あたたかいスープを飲んだ。フランスパンを小さく切って、チーズフォンデュー て食べた。家族で鍋料理を囲んだ。いずれも病院食には出ないメニューである。体の末 端まで活力が沁みこんでゆく。

2. いのちと生きる

123 ます。先生方が、あの人、まだ生きてるのかと驚くくらい、延ばしてみせますよーと言 「とにかく万全の手を尽します。がんばりましよう。午後から家族の方に説明しますか ら、医局に来るようにお伝えください」 わたしは無言で立ち上り、一礼して部屋から出た。医師は励ますつもりで生存率を強 調したが、術後八年生存しているのは、三十九人中のたった一人だけである。その一人 の僥倖に望みを託すほど、わたしは甘くない。 午後になって長女夫婦と十七歳、十三歳の孫二人が揃ってやってきた。長女夫婦は医 師に呼ばれて手術の説明を受けるために、医局へ行った。病室で高校生と中学生がふざ けている。二人はわたしの病状を知らず、手術をすれば病気は必ず恢復すると知らされ 査ている。 の 伸び盛り、食べ盛りの二人に接しているだけで、わたしもつられて弾んでくる。長女 術の一家は出産の前後の三カ月を、わたしの家に同居した。長女の妊娠、出産、産後の肥 立ち、すべてをわたしは援助してきた。孫たちは誕生のときから少年少女になった現在 まで、祖母のわたしと深く関わってきた。 「ばーばちゃん、手術して、早く元気になってね。帰ってくるの、皆で待ってるよ」

3. いのちと生きる

事情を話せばある程度納得してはくれるだろう。しかし病名を打ち明けるには時機尚 早なのである。 暁方に少し眠って朝を迎えた。 夫も眠れなかったらしく、腫れ・ほったい眼をして起き出してきた。無言だった。 「昨夜、札幌に電話をかけたの。今日、すぐに上京してくるって。全部任せなさいって。 だから、安心して : : : 」 七十歳を過ぎた夫の老いにわたしは気がっかなかったのだ。未経験なことに直面した とき、直ちに対応できないのが老いの兆しなのだろう。それを知らずにいきなり自分の 感情を爆発させたことは、わたしの不覚であった。 「今日は会社を休む。昨夜眠れなかったから、頭が痛いんだ。朝食は要らないから、も う少し寝てくる」 夫はそう言って寝室に戻った。 わたしは電話の前に坐りこんで、予定表をにらみながら次々に電話をかけた。急な病 気で入院するからと言うと、必ず病名を尋ねてくる。「病名はまだ判明しませんが、す ぐに入院するようにとの医師の命令ですので」とわたしは応える。

4. いのちと生きる

ゆく。風のない空へ一筋の煙は高くどこまでも昇ってゆく。 煙になってしまえば夫も妻もなく、かたちのすべてが消え、ただ風まかせで空を漂う ばかりだ。その先の行く先がどこなのか、誰も知らない。 眼を覚ますと次男の顔が見えた。 次男はこわばった顔でわたしをうかがい、改まった口調で、 「おとうさんは実に安らかでした。眠るように・ほくの腕に抱かれて息を引き取りました 苦しみは少しもなく、ほんとうにそのときがいつなのか、傍にいた医師もあわてたほ 誰も気がっかなかったのです」 と言った。夫は末っ子の次男をもっとも愛していた。仕事が多忙で家に顔を見せにこ なくなると、夫は自分から次男の会社まで出かけて、顔を見に行かなければ気が済まな いのだった。 「亡くなる前日まで元気で、医者は身内に知らせる必要なんかないと言ったんだ。しか しアメリカ出張中の兄貴にだけは知らせようと、会社の人に頼んで行く先を追っかけて もらった。おやじの容態を知らせるつもりだったのに、そのときは亡くなった知らせに なってしまって :

5. いのちと生きる

と言いながら、学校の話、友達の話などを、小鳥がさえずるように話して聞かせる。 わたしは彼らの話をうっとりと聞いている。それがいっか知らぬが、孫たちは十代で 祖母を見送ることになるだろう。彼らの人生の過程のなかで、順序として年長者を見送 る、。フログラムの進行として実に自然である。 名残りは惜しいが長く生きたものから先へ、という順序に組みこまれてしまえば、孫 たちはわたしとの別れの空白を、年月とともに自然に埋めてゆくだろう。孫たちにとっ て祖母の病気と死は、人生の光とともにある影として真実を知ってゆくチャンスになる。 すでに祖母と孫という領域を越えて、世代の隔りを繋ぐ友情を感じている。子供たち、 その配偶者をもふくめて、人間同士としての友情を感じる。わたしの治療に当っている 医療スタッフに対しても、友情の兆しを感じている。 それは致命的な病気を抱えているわたしの、いのちへの愛おしさがそうさせるのだろ うか。一人一人のいのちが貴重なものとして迫ってくるのだ。 夜、処置室に呼ばれて腸を洗うことになった。医師が二人、つきっきりでわたしの腸 に液を注入し、。ハキュームのような機械で吸い出す。液を注入しては吸い出す作業が続 けられているうちに、ふっと気が遠くなりそうな気分になった。体のなかの水分がすべ て吸い尽されて、打ち萎れて枯れ果てた樹骸になって横たわっているようだ。

6. いのちと生きる

112 わたしは四角の盆にのせられた病院食が眼に浮ぶ。限られた予算内で工夫をこらした病 院食だと知っていても、知っていることと食欲とは別である。 他の五人の患者たちの食べる姿を見ているだけで、わたしも食べなければと焦るのた。 体力をつけるために一口でも口に入れようと一応の努力を試みてみる。しかし、その努 力でさらに食欲は失われ、べッドテーブルの上に置いてある病院食が視野に入るだけで、 吐気をもよおしてくる。 わたしは家庭を営みはじめた時点から、食べさせるための努力もしつづけてきた。家 族の食べものを調整するのは、必然的にわたしの責任だったから、食べる、排泄する、 眠るという生きものの三原則を充たすために、何十年間も責任を果した。家族の一人一 人が独立し、三原則を自らの手で充たしめる力がつくまで、わたしは営々と食べものの 調整に力を尽してきた。 家族が独立して別世帯を持ち、老夫婦二人の家庭となってからも、食べものの調整の 責任はわたしにあった。すでに初老を越えた夫婦の老いの日々を健やかに保っために、 口に合う食事をつくり続けてきた。 完全絶食の指示によって、わたしは食べることすべてから解放されたのである。生れ 落ちたときから一刻の休みもなく動ぎ続けてきたわたしのなかの消化器も休むことを許

7. いのちと生きる

深刻な話になりそうなところを、もう一人の医師が明るい声で、 「あなたは肝機能がとてもよい。検査のデータがいいのです。だから悪いところを切 さえすれば、あとは正常な肝臓がふくれてきて、正常に機能するのですよ」 と一一 = ロった。 大腸と肝臓を同時に切除するので、かなりの難手術になりそうだが、医療チームが 1 善を尽して努力するので、安心して任せてくたさいと、三人は口々に言った。 「それで、手術は成功したとして、あと、どのくらい生きていられるのでしようか」 答えを期待したわけではなかった。医師たちがどのような表現でわたしの余命を知 せるのか、それを試してみようという意識があった。医師たちが単なる外科的な手技亠 会得しているのでなく、生命に対する畏敬の念がどの程度あるのか、それが知りたか一 たのである。 「開けてみなければ分りませんが、そうですねえ、この病院では腸肝同時切除は三十亠 例あります。あなたは四十例目になります」 告知を絶対にしない方針なので、患者に病状を説明するとき、もっとも医師が緊張 る瞬間である。一つ一つ言葉を選び、決して癌ではないと患者に思いこませなくては らない。

8. いのちと生きる

院長の表情にためらいの色が浮んた。 「この際、楽観的な予測をして時機を遅らせたらたいへんなことになります。九十。ハ セントの確率で間違いありません。しつかりと覚悟を決めて、治療を受けましよう。治 療開始は一刻を争いますから」 やはりそうだったのか、間違いないとは悪い方の予測が当っていたのだ。戸塚院長は 慰める言葉もみつからないのか、黙ったままわたしに寄り添うようにべンチに腰掛けて 「先生、ありがとうございました。よく言ってくださいました。仕事をキャンセルする のも、治療の覚悟を決めるのも、病名を知らなければ未練が残ります。これからどうす るか自分で考えますー 一応はそう言ったが、無念の想いがこみ上げてきた。ホスビス建設が軌道に乗ろうと していて、院長とともにその完成をどれほど願ってきたか。だが、わたしはスタッフか ら外れなければならない。 肝 「診察中の患者を待たせているので、これで帰ります。あとのことはどのような相談に も乗りますからね。・ほくを頼りにしてくたさい。元気を出すのですよ 院長は桜町病院へ帰った。

9. いのちと生きる

が約東されているはずの少女たちに、突然にふりかかってきた不条理。 少女たちには理解し難い不条理を、周囲の人たちはどう説明し、どう納得させたので あろうか。少女たちはリカちゃん人形の着せ替えの衣裳を買うように、屈託のない表情 でウィッグの品定めをしている。 わたしの胸に、一瞬、安心感が走った。 少女たちの人生の短さに較べて、わたしは何倍も生きてきた。少女たちがこれから経 験することは難しい、さまざまな経験も重ねてきた。同じ病名でありながら、わたしの 発病の時期は、充分に生きたのちである。 二人の少女の危うそうな覚束ない未来を、わたしはすでに獲得してきたのだ。獲得し た挙句の発病とは、なんと幸せなことではないか。他人と較べて自分の幸福度を測ると は、浅ましいと否定しながらも、その端から少女たちを対象にして自分の安心感を得よ うとしていた。 少女たちの寿命と自分の寿命を較べることの残酷さを知りながら、わたしは少女たち の稚さが快い。少女たちの運命の痛ましさを感じながら、それを押し分けるように、あ の子たちと較べて、と自分の人生の量を計算している。そして、その量の大きさに満足 を得ようとするのだ。

10. いのちと生きる

たのは、その後の長い戦争への予感だったのだろうか。十三歳の少女に時代の足音など 聞えるはずがないのだけれど、北海道の大地の揺籃から否応なく出されたのち、人の世 の苦しみと楽しみを存分に身に受けた。 半世紀の年月は長い。その長さの分だけわたしは北海道を知らない。、 しまわたしは、 ひとりの旅人に過ぎないのである。 「さあ、着いた。早く。ハジャマに着替えて、休んだら : : : 」 わたしは早速べッドにもぐりこんだ。札幌市内の長女の家はマンションの一画で、周 囲にはビルが建ち並んでいる。街の様子は東京とほ・ほ変りはないが、やはり空は高く広 。空気がしんと澄んでいる。 明日から入院する大学病院は長女の家から車で十五分。渋滞がないのでほ・ほ時間通り に目的地に着くことができる。東京の交通事情に較べて、それだけでもわたしの肩から 力が抜ける。東京で病院のべッドが空くまで検査通院をしたら、往復のラッシュによっ てわたしの体は、かなり消耗するだろう。 夜、家族が揃い、テーブルにたくさんの料理が並んだ。「しばらくのお別れと、壮行 会を兼ねて乾盃」と長女の夫が言い、「がんばってくるからね。病気になんか負けない わよ」と、わたしは少し気取って応えた。