198 「私はかげへ回って、奥さんとお嬢さんに、なるべくと話をするように頼みました。私は 彼のこれまで通って来た無一一一一口生活が彼にたたっているのたろうと信じたからです。使わない鉄 いました。そうなれば私たって、その人たちとと違っている点を明白に述べなければならな くなります。それをうけがってくれるようなならいいのですけれども、彼の性質として、議 論がそこまで行くと容易にあとへは返りません。なお先へ出ます。そうして、ロで先へ出たと おりを、行為で実現しにかかります。彼はこうなると恐るべき男でした。偉大でした。自分で 自分を破壊しつつ進みます。結果からみれば、彼はただ自己の成功を打ち砕く意味において、 偉大なのにすぎないのですけれども、それでもけっして平凡ではありませんでした。彼の気性 をよく知った私はついになんとも言うことができなかったのです。そのうえ私からみると、彼 はまえにも述べたとおり、多少神経衰弱にかかっていたように思われたのです。よし私が彼を けんカ 説き伏せたところで、彼は必す激するに違いないのです。私は彼と喧嘩をすることは恐れては いませんでしたけれども、私が孤独の感にたえなかった自分の境遇を顧みると、親友の彼を、 同じ孤独の境遇に置くのは、私にとって忍びないことでした。一歩進んで、より孤独な境遇に うち 突き落すのはなおいやでした。それで私は彼が家へ引き移ってからも、当分のあいだは批評が ましい批評を彼のうえに加えずにいました。ただ穏やかに周囲の彼に及。ほす結果を見ることに したのです。
ちち 「私は今まで叔父任せにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んた父 に対してすまないという気を起こしたのです。叔父は忙がしいからただと自称するごとく、 うち 毎晩同じ所に寝泊りはしていませんでした。二日家へ帰ると三日は市のほうで暮らすといった ゆきき ふうに、両方のあいだを往来して、その日その日をおちつきのない顔で過ごしていました。そ うして忙がしいという一一一口葉を口癖のように使いました。なんの疑いも起こらない時は、私も実 際に忙がしいのだろうと思っていたのです。それから、忙がしがらなくては当世流でないのだ ろうと、皮肉にも解釈していたのです。けれども財産の事について、時間のかかる話をしよう という目的ができた目で、この忙がしがる様子を見ると、それがたんに私を避ける口実としか 受け取れなくなってきたのです。私は容易に叔父をつらまえる機会を得ませんでした。 として、はじめて女を見ることができたのです。今までその存在に少しも気のつかなかった異 めくら 性に対して、盲目の目がたちまちあいたのです。それ以来私の天地はまったく新しいものとな りました。 がぜん 私が叔父の態度に心づいたのも、まったくこれと同じなんでしよう。俄然として心づいたの です。なんの予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼の家族が、今までとはまる で別物のように私の目に映ったのです。私は驚きました。そうしてこのままにしておいては、 自分の行先がどうなるかわからないという気になりました。 は
そは癖にならないように大事を取らせるつもりだと、かねて言い越したその夫は、妹の代りに 自分で出て来るかもしれなかった。 こうしたおちつきのないあいだにも、私はまだ静かにすわる余裕をもっていた。たまには書 物をあけて十ページもつづけざまに読む時間さえ出てきた。いったん堅くくくられた私の行李 は、いつのまにか解かれてしまった。私は要るに任せて、そのなかからいろいろなものを取り 出した。私は東京を立っ時、心のうちできめた、この夏じゅうの日課を顧みた。私のやった事 はこの日課の三が一にも足らなかった。私は今までもこういう不愉快を何度となく重ねてきた。 しかしこの夏ほど思ったとおり仕事の運ばないためしも少なかった。これが人の世の常だろう と思いながらも私はいやな気持ちにおさえつけられた。 私はこの不快なうちにすわりながら、一方に父の病気を考えた。父の死んだあとの事を想像 した。そうしてそれと同時に、先生の事を一方に思い浮かべた。私はこの不快な心持ちの両端 おもかげ に地位、教育、性格の全然異なった二人の面影をながめた。 私が父の枕もとを離れて、ひとり取り乱した書物の中に腕組みをしているところへ母が顔を 出した。 「少し昼寝でもおしよ。お前もさそくたびれるたろう 母は私の気分を了解していなかった。私も母からそれを予期するほどの子供でもなかった。
わが家は動かすことのできないものと父は信じ切っていた。その中に住む母もまた命のある あいだは、動かすことのできないものと信じていた。自分が死んだあと、この孤独な母を、た った一人がらんどうのわが家に取り残すのもまたはなはだしい不安であった。それたのに、東 むじゅん 京でいい地位を求めろと言って、私をしいたがる父の頭には矛盾があった。私はその矛盾をお かしく思ったと同時に、そのおかげでまた東京へ出られるのを喜んだ。 私は父や母のてまえ、この地位をできるだけの努力で求めつつあるごとくに装わなくてはな らなかった。私は先生に手紙を書いて、家の事情を詳しく述べた。もし自分のカでできること があったら、なんでもするから周旋してくれと頼んだ。私は先生が私の依頼に取り合うまいと 思いながら、この手紙を書いた。また取り合うつもりでも、世間の狭い先生としてはどうする こともできまいと思いながら、この手紙を書いた。しかし私は先生からこの手紙に対する返事 がきっと来るだろうと思って書いた。 私はそれを封じて出すまえに母に向かって言った。 「先生に手紙を書きましたよ。あなたのおっしやったとおりちょっと読んでごらんなさい」 母は私の想像したごとくそれを読まなかった。 「そうかい、それじゃ早くお出し。そんなことはひとが気をつけないでも、自分で早くやる ものだよ 母は私をまだ子供のように思っていた。私もじっさい子供のような感じがした。 「しかし手紙じや用は足りませんよ。どうせ、九月にでもなって、私が東京へ出てからでな
その時の私は腹の中で先生を憎らしく思った。肩を並べて歩きだしてからも、自分の聞きた いことをわざと聞かずにいた。しかし先生のほうでは、それに気がついていたのか、いないの か、まるで私の態度にこだわる様子を見せなかった。いつものとおり沈黙がちにおちつきはら ′」うはら った歩調をすまして運んで行くので、私は少し業腹になった。なんとかいってひとっ先生をや つつけてみたくなってきた。 「先生」 「なんですかー 「先生はさっき少し興奮なさいましたね。あの植木屋の庭で休んでいる時に。私は先生の興 奮したのをめったに見たことがないんですが、きようは珍らしいところを拝見したような気が します」 先生はすぐ返事をしなかった。私はそれをてごたえのあったようにも思った。また的がはず れたようにも感じた。しかたがないからあとは言わないことにした。すると先生がいきなり道 すそ いけがき の端へ寄って行った。そうしてきれいに刈り込んだ生垣の下で、裾をまくって小便をした。私 私は先生が用を足すあいだ・ほんやりそこに立っていた。 「やあ失敬」 生 先先生はこう言ってまた歩きだした。私はとうとう先生をやりこめることを断念した。私たち の通る道はだんだんにぎやかになった。今までちらほらと見えた広い畑の斜面や平地が、まっ ゃなみ たく目にはいらないように左右の家並がそろってきた。それでもところどころ宅地の隅などに、 すみ
先生は苦笑した。懐中から蟇口を出して、五銭の白銅を子供の手に握らせた。 「おっかさんにそう言っとくれ。少しここで休ましてくたさいって」 りこう 子供は怜悧そうな目に笑いをみなぎらして、うなすいて見せた。 せつこうちょう 「今斥候長になってるところなんたよ」 子供はこう断わって、躑躅のあいだを下の方へかけおりて行った。犬も尻尾を高く巻いて子 としかっこう 供のあとを追いかけた。しばらくすると同しくらいの年恰好の子供が二、三人、これも斥候長 のおりて行った方へかけて行った。 先生の談話は、この犬と子供のために、結末まで進行することができなくなったので、私は ついにその要領を得ないでしまった。先生の気にする財産うんぬんの懸念はその時の私にはま ったくなかった。私の性質として、また私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の 念に頭を悩ます余地がなかったのである。考えるとこれは私がまだ世間に出ないためでもあり、 またじっさいその場に臨まないためでもあったろうが、とにかく若い私にはなぜか金の問題が 遠くの方に見えた。 先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざというまぎわに、だれでも 悪人になるという一一一一口葉の意味であった。たんなる一一一一口葉としては、これだけでも私にわからない ことはなかった。しかし私はこの句についてもっと知りたかった。 ふところ がまぐち しっぽ
「私はきらわれてるとは思いません。きらわれる訳がないんですもの。しかし先生は世間が きらいなんでしよう。世間というより近ごろでは人間がきらいになっているんでしよう。だか らその人間の一人として、私も好かれるはすがないじゃありませんか」 奥さんのきらわれているという意味がやっと私にのみこめた。 私は奥さんの理解力に感心した。奥さんの態度が旧式の日本の女らしくないところも私の注 はや 意に一種の刺激を与えた。それで奥さんはそのころ流行りはしめたいわゆる新しい言葉などは ほとんど使わなかった。 うかっ つきあい 私は女というものに深い交際をした経験のない迂闊な青年であった。男としての私は、異生 しようけい に対する本能から、憧憬の目的物として常に女を夢みていた。けれどもそれはなっかしい春の 雲をながめるような心持ちで、たた漠然と夢みていたにすぎなかった。だから実際の女の前へ 出ると、私の感情が突然変ることが時々あった。私は自分の前に現われた女のためにひきつけ られる代りに、その場に臨んでかえって変な反発力を感じた。奥さんに対した私にはそんな気 がまるで出なかった。ふつう男女のあいだに横たわる思想の不平均という考えもほとんど起こ らなかった。私は奥さんの女であるということを忘れた。私はただ誠実なる先生の批評家およ び同情家として奥さんをながめた。 「奥さん、私がこのまえなぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あな なんによ ばくぜん
256 ければならないと思いました。同時にもうどうすることもできないのだと思いました。座敷の くま 中をぐるぐる回らなければいられなくなったのです。檻の中へ入れられた熊のような態度で。 私は時々奥へ行って奥さんを起こそうという気になります。けれども女にこの恐ろしいあり さまを見せては悪いという心持ちがすぐ私をさえぎります。奥さんはとにかく、お嬢さんを驚 かすことは、とてもできないという強い意志が私をおさえつけます。私はまたぐるぐる回りは じめるのです。 私はそのあいだに自分の部屋のランプをつけました。それから時計をおりおり見ました。そ らち の時の時計ほど埒のあかないおそいものはありませんでした。私の起きた時間は、正確にわか らないのですけれども、もう夜明けにまもなかったことだけは明らかです。ぐるぐる回りなが ら、その夜明けを待ちこがれた私は、永久に暗い夜が続くのではなかろうかという思いに悩ま されました。 我々は七時まえに起きる習慣でした。学校は八時に始まることが多いので、それでないと授 業にまにあわないのです。下女はその関係で六時ごろに起きるわけになっていました。しかし その日私が下女を起こしに行ったのはまだ六時まえでした。すると奥さんがきようは日曜だと 言って注意してくれました。奥さんは私の足音で目をさましたのです。私は奥さんに目がさめ ねまき ふだんぎ ているなら、ちょっと私の部屋まで来てくれと頼みました。奥さんは寝巻の上へ不断着の羽織 を引っかけて、私のあとについて来ました。私は部屋へはいるやいなや、今まであいていた仕 ふすま 切りの襖をすぐ立て切りました。そうして奥さんにとんだ事ができたと小声で告げました。奥 おり
「私はちょうど他流試合でもする人のようにを注意して見ていたのです。私は、私の目、 私の心、私のからだ、すべて私という名のつくものを五分のすきまもないように用意して、 に向かったのです。罪のないは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくら いに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の目 の前でゆっくりそれをながめることができたも同しでした。 ほう′」、つ が理想と現実のあいだに彷徨してふらふらしているのを発見した私は、ただ一打ちで彼を 倒すことができるだろうという点にばかり目をつけました。そうしてすぐ彼の虚につけ込んだ のです。私は彼に向かって急に厳粛な改まった態度を示しだしました。むろん策略からですが、 しゅうち こつけい その態度に相応するくらいな緊張した気分もあったのですから、自分に滑稽たの羞恥だのを感 ずる余裕はありませんでした。私はまず『精神的に向上心のないものはばかだ』と言い放ちま て退こうと思えば退けるのかと彼に聞きました。すると彼の言葉がそこで不意に行き詰まりま した。彼はただ苦しいと言ったたけでした。じっさい彼の表青には苦しそうなところがありあ りと見えていました。もし相手がお嬢さんでなかったならば、私はどんなに彼につごうのいし かわ 返事を、その渇き切った顔の上に慈雨のごとく注いでやったかわかりません。私はそのくらい の美しい同情をもって生まれて来た人間と自分ながら信しています。しかしその時の私は違っ ていました。
ってに考えていたに違いありません。ある日私は突然往来でに肉薄しました。私が第一に聞 いたのは、このあいだの自白が私だけに限られているか、または奥さんやお嬢さんにも通じて いるかの点にあったのです。私のこれから取るべき態度は、この問に対する彼の答しだいでき めなければならないと、私は思ったのです。すると彼はほかの人にはまだだれにも打ち明けて いないと明言しました。私は事盾が自分の推察どおりだったので、内心うれしがりました。私 おうちゃく はの私より横着なのをよく知っていました。彼の度胸にもかなわないという自覚があったの です。けれども一方ではまた妙に彼を信じていました。学資の事で養家を三年も欺いていた彼 ですけれども、彼の信用は私に対して少しもそこなわれていなかったのです。私はそれがため にかえって彼を信じだしたくらいです。だからいくら疑い深い私でも、明白な彼の答を腹の中 で否定する気は起こりようがなかったのです。 私はまた彼に向かって、彼の恋をどう取り扱うつもりかと尋ねました。それがたんなる自白 にすぎないのか、またはその自白についで、実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。 しかるに彼はそこになると、なんにも答えません。黙って下を向いて歩きだします。私は彼に 隠し立をしてくれるな、すべて思ったとおりを話してくれと頼みました。彼は何も私に隠す必 要はないとはっきり断言しました。しかし私の知ろうとする点には、一言の返事も与えないの です。私も往来だからわざわざ立ち留まって底まで突き留めるわけにいきません。ついそれな りにしてしまいました。