かったと言われるのもつらかった。私は電報をかける時機について、人の知らない責任を感じ 「そうはっきりした事になると私にもわかりません。しかし危険はいっ来るかわからないと いう事だけは承知していてください」 ステーション 停車場のある町から迎えた医者は私にこう言った。私は母と相談して、その医者の周旋で、 ひとり あいさっ 町の病院から看護婦を一人頼むことにした。父は枕もとへ来て挨拶する白い服を着た女を見て 変な顔をした。 父は死病にかかっていることをとうから自覚していた。それでいて、眼前にせまりつつある 死そのものには気がっかなかった。 「いまになおったらもう一ペん東京へ遊びに行ってみよう。人間はいっ死ぬかわからないか らな。なんでもやりたい事は、生きてるうちにやっておくに限る」 母はしかたなしに「その時は私もいっしょにつれていっていただきましようなどと調子を 合わせていた。 さみ 時とするとまた非常に寂しがった。 「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」 私はこの「おれが死んだら」という言葉に一種の記憶をもっていた。東京を立っ時、先生が 奥さんに向かって何べんもそれをくり返したのは、私が卒業した日の晩のことであった。私は 笑いを帯びた先生の顔と、縁起でもないと耳をふさいだ奥さんの様子とを思い出した。あの時 かあ
180 を行李の底へほうり込んで利用しないのです。それをまた大勢が寄ってたかって、わざと着せ しらみ ました。すると運悪くその胴着に蝨がたかりました。友だちはちょうどさいわいとでも思った のでしよう、評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに、根津の大きな泥溝の中へ 捨ててしまいました。その時いっしょに歩いていた私は、橋の上に立って笑いながら友だちの 所作をながめていましたが、私の胸のどこにももったいないという気は少しも起こりませんで した。 おとな そのころから見ると私もだいぶ大人になっていました。けれどもまだ自分でよそゆきの着物 をこしらえるというほどの分別は出なかったのです。私は卒業して髯をはやす時代が来なけれ ば、服装の心配などはするに及ばないものだという変な考えをもっていたのです。それで奥さ んに書物はいるが着物はいらないと言いました。奥さんは私の買う書物の分量を知っていまし た。買った本をみんな読むのかと聞くのです。私の買うもののうちには字引もありますが、当 然目を通すべきはずでありながら、ページさえ切ってないのも多少あったのですから、私は返 事に窮しました。私はどうせいらないものを買うなら、書物でも衣服でも同じだということに 気がっきました。そのうえ私はいろいろ世話になるというロ実のもとに、お嬢さんの気に入る たんもの ような帯か反物を買ってやりたかったのです。それで万事を奥さんに依頼しました。 奥さんは自分一人で行くとは言いません。私にもいっしょに来いと命令するのです。お嬢さ んも行かなくてはいけないと言うのです。今と違った空気の中に育てられた私どもは、学生の 身分として、あまり若い女などといっしょに歩き回る習慣をもっていなかったものです。その しよさ どぶ
こ、こら っていた事柄ではないのです。だから私は驚きました。驚いたけれども、叔父の希望にむりの うかっ ないところも、それがためによくわかりました。私は迂闊なのでしようか。あるいはそうなの むとんちゃく かもしれませんが、おそらく従妹に無頓着であったのが、おもな原因になっているのでしよう。 私は子供のうちから市にいる叔父の家へししゅう遊びに行きました。たた行くばかりでなく、 よくそこに泊りました。そうしてこの従妹とはその時分から親しかったのです。あなたも御承 きょ - っい 知でしよう、兄妹のあいだに恋の成立したためしのないのを。私はこの公認された事実をかっ なんによ ふえん * てに布衍しているかもしれないが、しじゅう接触して親しくなりすぎた男女のあいだには、恋 こう に必要な刺激の起こる清新な感じが失われてしまうように考えています。香をかぎうるのは、 せつな 香をたきだした瞬間にかぎるごとく、酒を味わうのは、酒を飲みはじめた刹那にあるごとく、 恋の衝動にもこういうきわどい一点が、時間のうえに存在しているとしか思われないのです。 一度平気でそこを通り抜けたら、慣れれば慣れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経はだん まひ だん麻痺してくるだけです。私はどう考え直しても、この従妹を妻にする気にはなれませんで した。 と言いました。けれども 叔父はもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしてもいい しゅうげん ことわざ 善は急げという諺もあるから、できるなら今のうちに祝言の杯だけはすませておきたいとも言 いました。当人に望みのない私にはどっちにしたって同じことです。私はまた断わりました。 叔父はいやな顔をしました。従妹は泣きました。私に添われないから悲しいのではありません、 結婚の申し込みを拒絶されたのが、女としてつらかったからです。私が従妹を愛していないご
むとんじゃく た。無頓着な私には、先生のそういう特色がおりおり著しく目にとまった。 かんしよう 「先生は癇性ですね」とかって奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それほど気 にしないようですよ」と答えたことがあった。それをそばに聞いていた先生は、「ほんとうを いうと、私は精神的に癇性なんです。それでしじゅう苦しいんです。考えるとじつにばかばか しい性分だ」と言って笑った。精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、ま たは倫理的に潔癖たという意味か、私にはわからなかった。奥さんにもよく通じないらしかっ その晩私は先生と向かい合わせに、例の白い卓布の前にすわった。奥さんは二人を左右に置 いて、ひとり庭の方を正面にして席を占めた。 「おめでとう」と言って、先生が私のために杯を上げてくれた。私はこの杯に対してそれほ どうれしい気を起こさなかった。むろん私自身の心がこの一一一口葉に反響するように、飛び立つう れしさをもっていなかったのが、一つの原因であった。けれども先生の言い方もけっして私の うれしさをそそるうきうきした調子を帯びていなかった。先生は笑って杯を上げた。私はその 笑いのうちに、ちっとも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時にめでたいという真青も 汲み取ることがでぎなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくおめでとうと言いた がるものですね」と私に物語っていた。 と、つ かあ 奥さんは私に「結構ね。さそお父さんやお母さんはお喜びでしよう。と言ってくれた。私は 突然病気の父の事を考えた。早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。
なったのでしよう。まあ早くいえば老い込んだのです」 先生の一一一一口葉はむしろ平静であった。世間に背中を向けた人の苦味を帯びていなかっただけに、 私にはそれほどのてごたえもなかった。私は先生を老い込んだとも思わない代りに、偉いとも 感心せずに帰った。 それからの私はほとんど論文にたたられた精神病者のように目を赤くして苦しんだ。私は一 年前に卒業した友だちについて、いろいろ様子を聞いてみたりした。そのうちの一人は締切の 日に車で事務所へかけつけて、ようやく間に合わせたと言った。他の一人は五時を十五分ほど おくらして持って行ったため、あやうくはねつけられようとしたところを、主任教授の好意で やっと受理してもらったと言った。私は不安を感するとともに度胸をすえた。毎日机の前で精 ほんだな 根のつづくかぎり働いた。でなければ、薄暗い書庫にはいって、高い本棚のあちらこちらを見 こうずか こっとう 回した。私の目は好事家が骨董でも掘り出す時のように背表紙の金文字をあさった。 梅が咲くにつけて寒い風はだんだん向きを南へかえていった。それがひとしきりたっと、桜 うわさ ばしや、つま の噂がちらほら私の耳に聞こえだした。それでも私は馬車馬のように正面ばかり見て、論文に むちう 鞭たれた。私はついに四月の下旬が来て、やっと予定どおりのものを書き上げるまで、先生の 敷居をまたがなかった。 やえざくら かす 私の自由になったのは、八重桜の散った枝にいっしか青い葉が霞むように伸びはじめる初夏
CL な 膩Ⅱ旧ⅡⅧⅧ II 9 7 8 4 0 4 1 0 0 1 1 2 7 I S B N 4 ー 0 4 ー 1 0 0 1 1 2 ー 9 C 0 1 9 5 \ 5 0 0 E 定価 : 本体 300 円 ( 税別 ) 「一てろ ・夏目漱石 ( なつめそうせき ) 本名、夏目金之助。現在の新宿区喜久 井町に生まれ、明治二十六年、東大英 文科卒業。大学院へ進むとともに教職 に就く。漢文学や俳句にも親しみ、正 三十三歳の - 、。岡子規と交友が深かった。 年にイギリスへ国費留学。帰国して後、 朝日新聞社に入社してからは、本格的 に文筆生活に入り、「三四郎」「こ、ろ」 「行人」など、不朽の逸ロ明を残した。申釜 衰弱と胃潰瘍により、大正五年十二月 九日永眠。日本最大の文学者としての 地」阯は、生・を経るごとに ~ 咼まっている 「こゝろ」は後期三部作の終曲で あるはかりでなく、漱石文学の 絶頂をなす作品。自我の奥深く に巣くっているエゴイズムは、 ここできりきりのところまて押 しつめられる。誠実ゆえに自己 否定の試みを、自殺にまで追い つめなけれはならなかった漱石 は、そこから「則天去私」という 人生観にたどりつく。 大正三年作。 夏目漱石 ラ 角川文庫クラシックス カバーデサイン / / 豊田富路暮 暁印刷
姉から同じような意味の書状が一「三度来たということを打ち明けました。はそのたびに心 配するに及ばないと答えてやったのだそうです。運悪くこの姉は生活に余裕のない家にかたづ いたためこ、 ~ いくらに同情があっても、物質的に弟をどうしてやるわけにもゆかなかったの 私はと同じような返事を彼の義兄あてで出しました。そのうちに、万一の場合には私がど うでもするから、安心するようにという意味を強い一一一一口葉で書き現わしました。これはもとより 私の一存でした。の行先を心配するこの姉に安心を与えようという好意はむろん含まれてい ましたが、私を軽蔑したとよりほかに取りようのない彼の実家や養家に対する意地もあったの の復籍したのは一年生の時でした。それから一一年生の中ごろになるまで、約一年半のあい おのれ だ、彼は独力で己をささえていったのです。ところがこの過度の労力が次第に彼の健康と精神 のうえに、影響してきたように見えだしました。それにはむろん養家を出る出ないのうるさい センチメンタル 問題も手伝っていたでしよう。彼はだんだん感傷的になってきたのです。時によると、自分 だけが世の中の不幸を一人でしよって立っているようなことを言います。そうしてそれを打ち 消せばすぐ激するのです。それから自分の未来に横たわる光明が、次第に彼の目を遠のいてゆ くようにも思って、いらいらするのです。学問をやりはじめた時には、だれしも偉大な抱負を もって、新しい旅にの・ほるのが常ですが、一年とたち二年と過ぎ、もう卒業も間近かになると、 急に自分の足の運びののろいのに気がついて、過半はそこで失望するのがあたりまえになって
ここう いうと、あなたの地位、あなたの糊ロの資、そんなものは私にとってまるで無意味なのでした。 どうでもかまわなかったのです。私はそれどころの騒ぎでなかったのです。私は状差しへあな うち たの手紙を差したなり、依然として腕組みをして考え込んでいました。家に相応の財産がある ものが、何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位地位といってもがき回るのか。私はむし ろ苦々しい気分で、遠くにいるあなたにこんな一瞥を与えただけでした。私は返事をあげなけ ればすまないあなたに対して、言い訳のためにこんな事を打ち明けるのです。あなたをおこら ぶしつけ すためにわざと無躾な一言葉をろうするのではありません。私の本意は、あとを御覧になればよ あいさっ くわかることと信じます。とにかく私はなんとか挨拶すべきところを黙っていたのですから、 私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。 その後私はあなたに電報を打ちました。ありていに言えば、あの時私はちょっとあなたに会 いたかったのです。それからあなたの希望どおり、私の過去をあなたのために物語りたかった のです。あなたは返電をかけて、いま東京へは出られないと断わってきましたが、私は失望し て長らくあの電報をながめていました。あなたも電報だけでは気がすまなかったとみえて、ま 書たあとから長い手紙をよこしてくれたので、あなたの出京できない事情がよくわかりました。 と、つ ど私はあなたを失礼な男だとも、なんとも思うわけがありません。あなたの大事なお父さんの病 しようし うちあ 先気をそっちのけにして、なんで、あなたが家を空けられるものですか。そのお父さんの生死を 3 忘れているような私の態度こそ不都合です。ーー私はじっさいあの電報を打っ時に、あなたの お父さんの事を忘れていたのです。そのくせあなたが東京にいるころには、難症たから、よく いちべっ
128 父は医者から安臥を命ぜられて以来、両便とも寝たままひとの手で始末してもらっていた。 潔癖な父は、最初のあいだこそはなはだしくそれを忌みきらったが、からだがきかないので、 やむをえずいやいや床の上で用を足した。それが病気のかげんで頭がだんだん鈍くなるのかな ぶしようはいせつ んだか、日を経るにしたがって、無精な排泄を意としないようになった。たまには蒲団や敷布 まゆ をよごして、はたのものが眉を寄せるのに、当人はかえって平気でいたりした。もっとも尿の 量は病気の性質として、きわめて少なくなった。医者はそれを苦にした。食欲も次第に衰えた。 たまに何か欲しがっても、舌が欲しがるたけで、咽喉から下へはごくわずかしか通らなかった。 さや 好きな新聞も手に取る気力がなくなった。枕のそばにある老眼鏡は、いつまでも黒い鞘に納め さく られたままであった。子供の時分から仲のよかった作さんという今では一里ばかり隔たった所 に住んでいる人が見舞いに来た時、父は「ああ作さんかーと言って、どんよりした目を作さん の方に向けた。 「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫でうらやましいね。おれはもうためだ」 「そんなことはないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気にな ったって、申し分はないんだ。おれをごらんよ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。た だこうして生きているだけのことだよ。達者だってなんの楽しみもないじゃないか 浣腸をしたのは作さんが来てから二、三日あとのことであった。父は医者のおかげでたいへ ん楽になったといって喜んだ。少し自分の寿命に対する度胸ができたというふうに機嫌が直っ た。そばにいる母は、それに釣り込まれたのか、病人に気力をつけるためか、先生から電報の あんが ふとん
あわ 私はその翌日も暑さを冒して、頼まれものを買い集めて歩いた。手紙で注文を受けた時はな おっくう んでもないように考えていたのが、いざとなるとたいへん億劫に感ぜられた。私は電車の中で いなかもの 汗をふきながらひとの時間と手数に気の毒という観念をまるでもっていない田舎者を憎らしく 思った。 ひとなっ 私はこの一夏を無為に過ごす気はなかった。国へ帰ってからの日程というようなものをあら かじめ作っておいたので、それを履行するに必要な書物も手に人れなければならなかった。私 こずえ ずんた葉におおわれているその梢を見て、来たるべき秋の花と香を思い浮かべた。私は先生の うち 家とこの木犀とを、以前から心のうちで、離すことのできないもののように、し っしょに記憶 うち していた。私が偶然その樹の前に立って、再びこの家の玄関をまたぐべき次の秋に思いをはせ た時、今まで格子の間からさしていた玄関の電燈がふっと消えた。先生夫婦はそれぎり奥へは ひとり いったらしかった。私は一人暗い表へ出た。 私はすぐ下宿へはもどらなかった。国へ帰るまえに調える買物もあったし、ごちそうを詰め た胃袋にくつろぎを与える必要もあったので、たたにぎやかな町の方へ歩いて行った。町はま なんによ だ宵のロであった。用事もなさそうな男女がそろそろ動くなかに、私はきよう私といっしょに 卒業したなにがしに会った。彼は私をむりやりにあるバーへ連れ込んだ。私はそこでビールの 泡のような彼の気炎を聞かされた。私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎであった。 き てすう