あいだ - みる会図書館


検索対象: こゝろ
81件見つかりました。

1. こゝろ

多少それが手がかりにもなった。しかし先生は現に奥さんを愛していると私に告げた。すると えんせい 二人の恋からこんな厭世に近い覚悟が出ようはすがなかった。「かってはその人の前にひざま ずいたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとする」と言った先生の言葉 は、現代一般のだれかれについて用いられるべきで、先生と奥さんのあいたには当てはまらな いもののようでもあった。 や 雑司が谷にあるだれだかわからない人の墓、 これも私の記憶に時々動いた。私はそれが 先生と深い縁故のある墓たということを知っていた。先生の生活に近づきつつありながら、近 いのち づくことのできない私は、先生の頭の中にある生命の断片として、その墓を私の頭の中にも受 け入れた。けれども私にとってその墓はまったく死んだものであった。二人のあいたにある生 とびら かぎ 命の扉をあける鍵にはならなかった。むしろ二人のあいだに立って、自由の往来を妨げる魔物 のようであった。 そうこうしているうちに、私はまた奥さんとさし向かいで話をしなければならない時機が来 はださむ た。そのころは日の詰まってゆくせわしない秋に、だれも注意をひかれる肌寒の季節であった。 先生の付近で盗難にかかったものが三、四日続いて出た。盗難はいずれも宵のロであった。大 うち したものを持ってゆかれた家はほとんどなかったけれども、はいられた所では必す何か取られ た。奥さんは気味を悪くした。そこへ先生がある晩家を空けなければならない事情ができてき た。先生と同郷の友人で地方の病院に奉職しているものが上京したため、先生はほかの二、三 名とともに、ある所でその友人に飯を食わせなければならなくなった。先生はわけを話して、

2. こゝろ

こころじようぶ こつけい 「そういうと、夫のほうよ 。いかにも心丈夫のようで少し滑稽だが。君、私は君の目にどう映 りますかね。強い人に見えますか、弱し冫 、人こ見えますかー 「中ぐらいに見えますーと私は答えた。この答は先生にとって少し案外らしかった。先生は またロを閉じて、無言で歩きだした。 先生の家へ帰るには私の下宿のついそばを通るのが順路であった。私はそこまで来て、曲が り角で分かれるのが先生にすまないような気がした。「ついでにお宅の前までお伴しましよう か」と言った。先生はたちまち手で私をさえぎった。 さいくん 「もうおそいから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、細君のために」 先生が最後につけ加えた「細君のために」という言葉は妙にその時私の心を暖かにした。私 はその一 = ロ葉のために、帰ってから安心して寝ることができた。私はその後も長いあいたこの 「細君のために」という一一 = ロ葉を忘れなかった。 はらん 先生と奥さんのあいだに起こった波瀾が、大したものでないことはこれでもわかった。それ でいり がまためったに起こる現象でなかったことも、その後絶えず出入をしてきた私にはほぼ推察が できた。それどころか先生はある時こんな感想すら私にもらした。 ひとり 「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女はほとんど女として私 に訴えないのです。妻のほうでも、私を天下にたた一人しかない男と思ってくれています。そ ういう意味からいって、私々は最も幸福に生まれた人間の一対であるべきはずです」 私は今前後の行きがかりを忘れてしまったから、先生がなんのためにこんな自白を私にして うち いつつい

3. こゝろ

そのままにしておかなければならず、はなはた所置に苦しんたのです。 あきや 叔父はしかたなしに私の空家へはいることを承諾してくれました。しかし市のほうにある住 居もそのままにしておいて、両方のあいだを往ったり来たりする便宜を与えてもらわなければ 困ると言いました。私にもとより異議のありようはずがありません。私はどんな条件でも東京 へ出られれま、 。しいくらいに考えていたのです。 子供らしい私は、故郷を離れても、また心の目で、なっかしげに故郷の家を望んでいました。 もとよりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという旅人の心で望んでいたのです。休みが来 れば帰らなくてはならないという気分よ、 をいくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあ ったのです。私は熱心に勉強し、愉决に遊んたあと、休みには帰れると思うその故郷の家をよ く夢に見ました。 ゆきき 私の留守のあいだ、叔父はどんなふうに両方のあいだを往来していたか知りません。私の着 いた時は、家族のものが、みんな一つ家の内に集まっていました。学校へ出る子供などは平生 おそらく市のほうにいたのでしようが、これも休暇のために田舎へ遊び半分といった格で引き 取られていました。 みんな私の顔を見て喜びました。私はまた父や母のいた時より、かえってにぎやかで陽気に ひとま なった家の様子を見てうれしがりました。叔父はもと私の部屋になっていた一間を占領してい る一番目の男の子を追い出して、私をそこへ入れました。座敷の数も少なくないのたから、私 うち をほかの部屋でかまわないと辞退したのですけれども、叔父はお前の家だからと言って、聞き ふるさと

4. こゝろ

うち 「お前が東京へ行くと家はまた寂しくなる。なにしろおれとお母さんだけなんたからね。そ のおれもからださえ達者ならいいが、この様子じゃいっ急にどんなことがないとも言えない 私はできるだけ父を慰めて、自分の机を置いてある所へ帰った。私は取り散らした書物のあ いだにすわって、心細そうな父の態度と言葉とを、幾たびかくり返しながめた。私はその時ま せみ ほうし た蝉の声を聞いた。その声はこのあいだじゅう聞いたのと違って、つくつく法師の声であった。 私は夏郷里に帰って、煮えつくような蝉の声の中にじっとすわっていると、へんに悲しい心持 ちになることがしばしばあった。私の哀愁はいつもこの虫のはけしい音とともに、心の底にし み込むように感。せられた。私はそんな時にはいつも動かずに、一人で一人を見つめていた。 あぶらぜみ 私の哀愁はこの夏帰省した以後次第に情調を変えてきた。油殫の声がつくつく法師の声に変 りんね * るごとくに、私の取り巻く人の運命が、大きな輪廻のうちに、そろそろ動いているように思わ れた。私は寂しそうな父の態度と一一一一口葉をくり返しながら、手紙を出しても返事をよこさない先 生の事をまた思い浮かべた。先生と父とは、まるで反対の印象を私に与える点において、比較 のぼ のうえにも、連想のうえにも、 いっしょに私の頭に上りやすかった。 じようあい 私はほとんど父のすべても知り尽していた。もし父を離れるとすれば、情合のうえに親子の 心残りがあるだけであった。先生の多くはまた私にわかっていなかった。話すと約束されたそ の人の過去もまだ聞く機会を得ずにいた。要するに先生は私にとって薄暗かった。私はぜひと もそこを通り越して、明るいところまで行かなければ気がすまなかった。先生と関係の絶える さみ

5. こゝろ

「私は寂しい人間ですーと先生はその晩またこのあいだの一一一一口葉をくり返した。「私は寂しい 人間ですが、ことによるとあなたも寂しい人間じゃないですか。私は寂しくっても年を取って いるから、動かずにいられるが、若いあなたはそうよ 。いかないのでしよう。動けるだけ動きた いのでしよう。動いて何かにぶつかりたいのでしよう。 「私はちっとも寂しくはありません」 うち 「若いうちほど寂しいものはありません。そんならなぜあなたはそうたびたび私の家へ来る のですか」 ここでもこのあいだの言葉がまた先生の口からくり返された。 「あなたは私に会ってもおそらくまだ寂しい気がどこかでしているでしよう。私にはあなた ねもと のためにその寂しさを根元から引き抜いてあげるだけの力がないんたから。あなたはほかの方 うち を向いていまに手を広げなければならなくなります。いまに私の家の方へは足が向かなくなり ますー 先生はこう言って寂しい笑い方をした。 さいわいにして先生の予言は実現されすにすんた。経験のない当時の私は、この予言のうち に含まれている明白な意義さえ了解しえなかった。私は依然として先生に会いに行った。その うちいつのまにか先生の食卓で飯を食うようになった。自然の結果奥さんとも口をきかなけれ

6. こゝろ

私はがその時何か言いはしなかったかと奥さんに聞きました。奥さんはべったんなんにも 言わないと答えました。しかし私は進んでもっと細かい事を尋ねすにはいられませんでした。 奥さんはもとより何も隠すわけがありません。大した話もないがと言いながら、一々の様子 を語って聞かせてくれました。 奥さんの言うところを総合して考えてみると、はこの最後の打撃を、最もおちついた驚き をもって迎えたらしいのです。はお嬢さんと私とのあいだに結ばれた新しい関係について、 最初はそうですかとただ一口言っただけだったそうです。しかし奥さんが、『あなたも喜んで ください』と述べた時、彼ははじめて奥さんの顔を見て微笑をもらしながら、『おめでとうご ざいます』と言ったまま席を立ったそうです。そうして茶の間の障子をあけるまえに、また奥 さんを振り返って、「結婚はいつですか』と聞いたそうです。それから『何かお祝いをあげた いが、私は金がないからあげることができません』と言ったそうです。奥さんの前にすわって いた私は、その話を聞いて胸がふさがるような苦しさを覚えました。 ふつか 「勘定してみると奥さんがに話をしてからもう二日余りになります。そのあいだは私に 対して少しも以前と異なった様子を見せなかったので、私はまったくそれに気がっかずにいた のです。彼の超然とした態度はたとい外観だけにもせよ、敬服に値すべきだと私は考えました。 彼と私を頭の中で並べてみると、彼のほうがはるかにりつばに見えました。『おれは策略で勝

7. こゝろ

面目のないのに変りはありません。といって、こしらえ事を話してもらおうとすれば、奥さん からその理由を詰問されるにきまっています。もし奥さんにすべての事情を打ち明けて頼むと すれば、私は好んで自分の弱点を自分の愛人とその母親の前にさらけ出さなければなりません。 まじめな私には、それが私の未来の信用に関するとしか思われなかったのです。結婚するまえ から恋人の信用を失うのは、たとい一分一厘でも、私には堪え切れない不幸のようにみえまし こうかっ 要するに私は正直な道を歩くつもりで、つい足をすべらしたばかものでした。もしくは狡猾 な男でした。そうしてそこに気のついているものは、今のところただ天と私の心だけたったの です。しかし立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今すべったことをぜひとも周 囲の人に知られなければならない窮境に陥ったのです。私はあくまですべった事を隠したがり ました。同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。私はこのあいだにはさまっ てまた立ちすくみました。 五、六日たったのち、奥さんは突然私に向かって、にあの事を話したかと聞くのです。私 はまだ話さないと答えました。するとなぜ話さないのかと、奥さんが私をなじるのです。私は この問の前に固くなりました。その時奥さんが私を驚かした言葉を、私は今でも忘れずに覚え ています。 『道理でわたしが話したら変な顔をしていましたよ。あなたもよくないじゃありませんか、 あいだがら 平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは』

8. こゝろ

「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年たった夏のとつつきでした。私はいつでも 学年試験のすむのを待ちかねて東京を逃げました。私には故郷がそれほどなっかしかったから です。あなたにも覚えがあるでしよう、生まれた所は空気の色が違います、土地のにおいも格 別です、父や母の記憶もこまやかに漂っています。一年のうちで、七、八の二月をそのなかに くるまれて、穴にはいった蛇のようにじっとしているのは、私にとって何よりも暖かいしし心 持ちだったのです。 いとこ 単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。い ゃなものは断わる、断わってさえしまえばあとには何も残らない、私はこう信じていたのです。 だから叔父の希望どおりに意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした。過去 一年のあいだいまだかってそんな事に屈託した覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったので す。 ふところ ところが帰ってみると叔父の態度が違っています。元のようにいい顔をして私を自分の懐 おうよう に抱こうとしません。それでも鷹揚に育った私は、帰って四、五日のあいだは気がっかずにい ました。ただ何かの機会にふと変に思いだしたのです。すると妙なのは、叔父ばかりではない のです。叔母も妙なのです。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へは とく、従妹も私を愛していないことは、私によく知れていました。私はまた東京へ出ました。 ふるさと

9. こゝろ

こ、こら っていた事柄ではないのです。だから私は驚きました。驚いたけれども、叔父の希望にむりの うかっ ないところも、それがためによくわかりました。私は迂闊なのでしようか。あるいはそうなの むとんちゃく かもしれませんが、おそらく従妹に無頓着であったのが、おもな原因になっているのでしよう。 私は子供のうちから市にいる叔父の家へししゅう遊びに行きました。たた行くばかりでなく、 よくそこに泊りました。そうしてこの従妹とはその時分から親しかったのです。あなたも御承 きょ - っい 知でしよう、兄妹のあいだに恋の成立したためしのないのを。私はこの公認された事実をかっ なんによ ふえん * てに布衍しているかもしれないが、しじゅう接触して親しくなりすぎた男女のあいだには、恋 こう に必要な刺激の起こる清新な感じが失われてしまうように考えています。香をかぎうるのは、 せつな 香をたきだした瞬間にかぎるごとく、酒を味わうのは、酒を飲みはじめた刹那にあるごとく、 恋の衝動にもこういうきわどい一点が、時間のうえに存在しているとしか思われないのです。 一度平気でそこを通り抜けたら、慣れれば慣れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経はだん まひ だん麻痺してくるだけです。私はどう考え直しても、この従妹を妻にする気にはなれませんで した。 と言いました。けれども 叔父はもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしてもいい しゅうげん ことわざ 善は急げという諺もあるから、できるなら今のうちに祝言の杯だけはすませておきたいとも言 いました。当人に望みのない私にはどっちにしたって同じことです。私はまた断わりました。 叔父はいやな顔をしました。従妹は泣きました。私に添われないから悲しいのではありません、 結婚の申し込みを拒絶されたのが、女としてつらかったからです。私が従妹を愛していないご

10. こゝろ

っても人間としては負けたのだ』という感じが私の胸に渦巻いて起こりました。私はその時さ けいべっ そが軽蔑していることだろうと思って、一人で顔をあからめました。しかしいまさらの前 に出て、恥をかかせられるのは、私の自尊心にとって大いな苦痛でした。 私が進もうかよそうかと考えて、ともかくもあくる日まで待とうと決心したのは土曜の晩で した。ところがその晩に、は自殺して死んでしまったのです。私は今でもその光景を思い出 にしまくら ひがしまくら すとそっとします。いつも東枕で寝る私が、その晩にかぎって、偶然西枕に床を敷いたのも、 何かの因縁かもしれません。私は枕もとから吹き込む寒い風でふと目をさましたのです。見る ふすま と、いつも立て切ってあると私の部屋との仕切りの襖が、このあいだの晩と同じくらいあい ています。けれどもこのあいだのように、の黒い姿はそこには立っていません。私は暗示を ひじ 受けた人のように、床の上に肱を突いて起き上がりながら、きっとの部屋をのそきました。 かけぶとん ランプが暗くともっているのです。それで床も敷いてあるのです。しかし掛蒲団ははね返され すそ たように裾の方に重なり合っているのです。そうして自身は向こうむきに突っ伏しているの 書私はおいと言って声をかけました。しかしなんの答もありません。おいどうしたのかと私は どまたを呼びました。それでものからだはちっとも動きません。私はすぐ起き上がって、敷 先居ぎわまで行きました。そこから彼の部屋の様子を、暗いラン。フの光で見回してみました。 その時私の受けた第一の感じは、から突然恋の自白を聞かされた時のそれとほ・ほ同じでし た。私の目は彼の部屋の中を一目見るやいなや、あたかもガラスで作った義眼のように、動く うずま