こ、つしよう いなか れしがる父よりも、かえって高尚に見えた。私はしまいに父の無知から出る田舎臭いところに 不快を感じだした。 まいとし 「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人たっ てあります」 私はついにこんな口のききようをした。すると父が変な顔をした。 「なにも卒業したから結構とばかり言うんじゃない。そりや卒業は結構に違いないが、おれ の一一一口うのは少し意味があるんだ。それがお前にわかっていてくれさえすれば、 私は父からそのあとを聞こうとした。父は話したくなさそうであったが、とうとうこう言っ 「つまり、おれが結構ということになるのさ。おれはお前の知ってるとおりの病気だろう。 去年の冬お前に会った時、ことによるともう三月か四月ぐらいなものだろうと思っていたのさ。 たちい それがどういうしあわせか、きようまでこうしている。起居に不自由なく、こうしている。そ たんせい むすこ こへお前が卒業してくれた。だからうれしいのさ。せつかく丹精した息子が、自分のいなくな ったあとで卒業してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれるほうが、親の身になればう れしいだろうじゃないか。大きな考えをもっているお前から見たら、たかが大学を卒業したぐ らいで、結構だ結構だと言われるのはあまりおもしろくもないだろう。しかしおれのほうから 見てごらん、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前にとってより、このおれにとって結 構なんだ。わかったかい」
家へ帰って案外に思ったのは、父の元気がこのまえ見た時と大して変っていないことであっ 「ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業がでぎてまあ結構だった。ちょっとお待ち、今顔 を洗ってくるからー むぎわらぼう 父は庭へ出て何かしていたところであった。古い麦藁帽の後へ、日除けのためにくくりつけ ノケチをひらひらさせながら、井戸のある裏手の方へ回って行った。 たうすぎたないハ、 学校を卒業するのをふつうの人間として当然のように考えていた私は、それを予期以上に喜 私んでくれる父の前に恐縮した。 「卒業ができてまあ結構だ」 親 両父はこの言葉を何べんもくり返した。私の心のうちでこの父の喜びと、卒業式のあった晩先 生の家の食卓で、「おめでとう、と言われた時の先生の顔つきとを比較した。私にはロで祝っ てくれながら、腹の底でけなしている先生のほうが、それほどにもないものを珍らしそうにう 中両親と私 うち
かび 、」うり は予定どおり及第した。卒業式の日、私は黴臭くなった古い冬服を行李の中から出して着た。 あっラシャ 式場にならぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。私も風の通らない厚羅紗の下 に密封された自分のからだをもてあました。しばらく立っているうちに手に持ったハンケチが ぐしょぐしょになった。 はだか とおめがね 私は式がすむとすぐ帰って裸体になった。下宿の二階の窓をあけて、遠眼鏡のようにぐるぐ る巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上 にほうり出した。そうして大の字なりになって、部屋のまん中に寝そべった。私は寝ながら自 分の過去を顧みた。また自分の未来を想像した。するとそのあいだに立って一区切りをつけて いるこの卒業証書なるものが、意味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。 うち ばんさん 私はその晩先生の家へごちそうに招かれて行った。これはもし卒業したらその日の晩餐はよ そで食わずに、先生の食卓ですますというまえからの約束であった。 食卓は約束どおり座敷の縁近くにすえられてあった。模様の織り出された厚い糊の硬い テープルクロース 卓布が美しくかっ清らかに電燈の光を射返していた。先生の家で飯を食うと、きっとこの はしちやわん せんたく 西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、箸や茶碗が置かれた。そうしてそれが必す洗濯 したてのまっ白なものにかぎられていた。 「カラやカフスと同じことさ。よごれたのを用いるくらいなら、いっそはじめから色のつい たものを使うがいし 。白ければ純白でなくっちゃ」 こう言われてみると、なるほど先生は潔癖であった。書斎などもじつにきちりと片づいてい のり こわ
員のロがあるが行かないかと書いてあった。この朋友は経済の必要上、自分でそんな位地を捜 し回る男であった。このロもはしめは自分の所へかかってきたのだが、もっといい地方へ相談 ができたので、余ったほうを私に譲る気で、わざわざ知らせてきてくれたのであった。私はす ぐ返事を出して断わった。知り合いの中には、ずいぶん骨を折って、教師の職にありつきたが っているものがあるから、そのほうへ回してやったらよかろうと書いた。 私は返事を出したあとで、父と母にその話をした。二人とも私の断わったことに異存はない ようであった。 「そんな所へ行かないでも、まだいい口があるだろう うかっ こう言ってくれる裏に、私は二人が私に対してもっている過分な希望を読んだ。迂闊な父や 母は、不相当な地位と収入とを卒業したての私から期待しているらしかったのである。 「相当のロって、近ごろじゃそんなうまい口はなかなかあるものじゃありません。ことに兄 さんと私とは専門も違うし、時代も違うんたから、二人を同じように考えられちや少し困りま 「しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやっていってくれなくっちゃこっちも困る。 人からあなたのところの御一一男は、大学を卒業なすって何をしておいでですかと聞かれた時に 返事ができないようじゃ、おれも肩身が狭いから」 じゅうめん 父は渋面をつくった。父の考えは古く住み慣れた郷里から外へ出ることを知らなかった。そ の郷里のだれかれから、大学を卒業すればいくらぐらい月給が取れるものだろうと聞かれたり、
87 先生と私 はそれを一一杯かえてもらった。 「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」と先生が聞いた。先生は半分縁側 の方へ席をすらして、敷居ぎわで背中を障子にもたせていた。 私はただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという目的もなかった。返 事にためらっている私を見た時、奥さんは「教師 ? 」と聞いた。それにも答えずにいると、今 度は、「じゃお役人 ? 」とまた聞かれた。私も先生も笑いだした。 「ほんとういうと、まだ何をする考えもないんです。しつは職業というものについて、まっ たく考えたことがないくらいなんですから。だいちどれが善いか、どれが悪いか、自分がやっ てみたうえでないとわからないんだから、選択に困るわけだと思います」 ひっきよう 「それもそうね。けれどもあなたは畢竟財産があるからそんなのん気なことを言っていられ るのよ。これが困る人でごらんなさい。なかなかあなたのようにおちついちゃいられないか ら 私の友だちには卒業しないまえから、中学教師のロを捜している人があった。私は腹の中で 奥さんのいう事実を認めた。しかしこう言った。 「少し先生にかぶれたんでしよう」 「ろくなかぶれ方をしてくださらないのね」 先生は苦笑した。 「かぶれてもかまわないから、その代りこのあいだ言ったとおり、お父さんの生きてるうち
いちごん 私は一言もなかった。あやまる以上に恐縮してうつむいていた。父は平気なうちに自分の死 を覚悟していたものとみえる。しかも私の卒業するまえに死ぬだろうと思い定めていたとみえ る。その卒業が父の心にどのくらい響くかも考えずにいた私はまったく愚か者であった。私は かばん 鞄の中から卒業証書を取り出して、それを大事そうに父と母に見せた。証書は何かにおしつぶ されて、一兀の形を失っていた。父はそれを丁寧に伸した。 「こんなものは巻いたなり手に持ってくるものだ」 「中に芯でも入れるとよかったのに」と母もかたわらから注意した。 父はしばらくそれをながめたあと、立って床の間の所へ行って、だれの目にもすぐはいるよ うな正面へ証書を置いた。いつもの私ならすぐなんとかいうはずであったが、その時の私はま るで平生と違っていた。父や母に対して少しもさからう気が起こらなかった。私は黙って父の なすがままに任せておいた。いったん癖のついた鳥の子紙の証書は、なかなか父の自由になら おのれ なかった。適当な位置に置かれるやいなや、すぐ己に自然ないきおいを得て倒れようとした。 私は母をかげへ呼んで父の病状を尋ねた。 と、つ 「お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たりして何かしているが、あれでいいんですか」 「もうなんともないようだよ。おおかたよくおなりなんだろう」 母は案外平気であった。都会からかけ隔たった森や田の中に住んでいる女の常として、母は とこま
飯になった時、奥さんはそばにすわっている下女を次へ立たせて、自分で給仕の役をつとめ おもてだ た。これが表立たない客に対する先生の家のしきたりらしかった。はじめの一、二回は私も窮 屈を感じたが、度数の重なるにつけ、茶碗を奥さんの前へ出すのが、なんでもなくなった。 「お茶 ? 御飯 ? ずいぶんよく食べるのね」 奥さんのほうでも思い切って遠慮のないことを一一一口うことがあった。しかしその日は、時候が 時候なので、そんなにからかわれるほど食欲が進まなかった。 「もうおしまい。あなた近ごろたいへん小食になったのねー 「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」 奥さんは下女を呼んで食卓を片づけさせたあとへ、改めてアイスクリームと水菓子を運ばせ 「これは家でこしらえたのよ 用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客にふるまうだけの余裕があるとみえた。私 「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。 「どうしたかね。 またどこかにしまってあったかね」と先生が奥さんに聞いた。 「ええ、たしかしまってあるはすですが」 ありどころ 卒業証書の在処は二人ともよく知らなかった。
130 私は兄といっしょの蚊帳の中に寝た。妹の夫だけは、客扱いを受けているせいか、ひとり離 れた座敷にはいって休んだ。 せき 「関さんも気の毒だね。ああ幾日も引っ張られて帰れなくちゃあ」 みようじ 関というのはその人の苗字であった。 「しかしそんな忙がしいからだでもないんだから、ああして泊っていてくれるんでしよう。 関さんよりも兄さんのほうが困るでしよう、こう長くなっちゃ」 「困ってもしかたがない。ほかのことと違うからな」 兄と床を並べて寝る私は、こんな寝物語りをした。兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助か らないという考えがあった。どうせ助からないものならばという考えもあった。我々は子とし て親の死ぬのを待っているようなものであった。しかし子としての我々はそれを一一一一口葉のうえに 表わすのをはばかった。そうしてお互いにお互いがどんなことを思っているかをよく理解し合 っていた。 「お父さんは、まだなおる気でいるようだな」と兄が私に言った。 じっさい兄の一一一一口うとおりに見えるところもないではなかった。近所のものが見舞いにくると、 父は必ず会うと言って承知しなかった。会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶことができなかっ たのを残念がった。その代り自分の病気がなおったらというようなことも時々つけ加えた。 「お前の卒業祝いはやめになって結構だ。おれの時には弱ったからね」と兄は私の記憶をつ つついた。私はアルコールにあおられたその時の乱雑なありさまを思い出して苦笑した。飲む かや
その年の六月に卒業するはずの私は、ぜひともこの論文を成規どおり四月いつばいに書き上 げてしまわなければならなかった。二、 三、四と指を折って余る時日を勘定してみた時、私は 少し自分の度胸を疑った。ほかのものはよほどまえから材料を集めたり、ノートをためたりし て、よそめにも忙がしそうに見えるのに、私だけはまだなんにも手をつけずにいた。私はただ 年が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。私はその決心でやりたした。そうして くう たちまち動けなくなった。今まで大きな問題を空に描いて、骨組だけはほ・ほできあがっている くらいに考えていた私は、頭をおさえて悩み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。 てすう そうして練り上げた思想を系統的にまとめる手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並 「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のおかげですね」 「殺されるほうはちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」 その日はそれで帰った。帰ってからも父の病気のことはそれほど苦にならなかった。先生の 言った自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいう一言葉も、その場限りの浅い印象を与えた だけで、あとはなんらのこだわりを私の頭に残さなかった。私は今まで幾たびか手をつけよう としては手を引っ込めた卒業論文を、いよいよ本式に書きはじめなければならないと思いたし う」
卒業。神田一ッ橋の東京府立第一中学校入学。 一四歳 明治一四年 ( 一、 一月、実母千枝五四歳で死去。三島中洲の経営す る麹町二松学舎へ転校、漢学を学ぶ。 一六歳 明治一六年 ( 一八 秋、大学予備門受験のため、駿河台の成立学舎に 入り英語を学ぶ。 一七歳 明治一七年 ( 一八八四 ) 小石川極楽水そばの新福寺の二階に橋本左五郎と 下宿、自炊する。七月、養父、無断で金之助名義 の下谷西町の家屋を売却、同家を明け渡さないた め、立退請求の告訴を提起される。九月、大学予 備門予科に入る。同級に中村是公、芳賀矢一、福 原鐐二郎、橋本左五郎らがいた。入学後まもなく 盲腸炎を病む。 明治一八年 ( 一八八五 ) 猿楽町の下宿末富屋に中村是公ら一〇人余と起居 を共にする。 一九歳 明治一九年 ( 一八 七月、学校落第。この落第を転機に、以後卒業ま で首席。自活を決意し、中村是公と本所江東義塾 の教師となり、そこの寄宿舎に転居。急性トラホ ームを病み、自宅から通学を始める。大学予備門 第一高等中学と改称。 明治一二年 ( 一八 一月、塩原家より復籍して、夏目姓にかえる。七 月、第一高等中学予科卒業。九月、本科英文科一 年入学。 明治一三年 ( 一八八九 ) 一月、正岡子規と交友を結ぶ。当時の同級に山田 美妙斎、上級に川上眉山、尾崎紅葉、石橋思案ら ・、、た。五月、子規への手紙にはじめて俳句を記 す。「子規の七艸集ー評にはじめて漱石の筆名を 署名。八月、学友と房総を旅行、九月、紀行漢詩 文集「木屑録」を執筆、松山の子規に送って批評