思わ - みる会図書館


検索対象: こゝろ
269件見つかりました。

1. こゝろ

話しているうちに、私はいろいろの知識を奥さんから得たような気がしました。しかしそれ がために、私は機会を逸したと同様の結果に陥ってしまいました。私は自分について、ついに 一言も口を開くことができませんでした。私はいいかげんなところで話を切り上けて、自分の 部屋へ帰ろうとしました。 さっきまでそばにいて、あんまりだわとかなんとか言って笑ったお嬢さんは、いつのまにか 向こうの隅に行って、背中をこっちへ向けていました。私は立とうとして振り返った時、その うしろすがた 後姿を見たのです。後姿だけで人間の心が読めるはずはありません。お嬢さんがこの問題に ついてどう考えているか、私には見当がっきませんでした。お嬢さんは戸棚を前にしてすわっ ひざ ていました。その戸棚の一尺ばかりあいているすきまから、お嬢さんは何か引き出して膝の上 はじ へ置いてながめているらしかったのです。私の目はそのすきまの端に、おととい買った反物を 見つけ出しました。私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。 私がなんとも一一一一口わずに席を立ちかけると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思 うかと聞くのです。その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければわからないほど不意でし た。それがお嬢さんを早く片づけたほうが得策だろうかという意味だとはっきりした時、私は なるべくゆっくらなほうがいいだろうと答えました。奥さんは自分もそう思うと言いました。 奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっているところへ、もう一人男が入り込まなければな らないことになりました。その男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化を きたしています。もしその男が私の生活の行路を横切らなかったならば、おそらくこういう長 すみ とだな

2. こゝろ

同じでした。私もじっと考え込んでいました。 私は当然自分の心をに打ち明けるべきはずだと思いました。しかしそれにはもう時機がお くれてしまったという気も起こりました。なぜさっきの言葉をさえぎって、こっちから逆襲 しなかったのか、そのところが非常なてぬかりのようにみえてきました。せめてのあとに続 いて、自分は自分の思うとおりをその場で話してしまったら、まだよかったろうにとも考えま した。の自白に一段落がついた今となって、こっちからまた同じ事を切り出すのは、どう思 案しても変でした。私はこの不自然に打ち勝っ方法を知らなかったのです。私の頭は悔恨にゆ られてぐらぐらしました。 ふすま 、と思いました。私に 私はが再び仕切りの襖をあけて向こうから突進してきてくれればいし 言わせれば、さっきはまるで不意撃ちに会ったも同じでした。私にはに応ずる準備も何もな した′」ころ かったのです。私は午前に失ったものを、今度は取りもどそうという下心を持っていました。 それで時々目を上げて襖をながめました。しかしその襖はいつまでたってもあきません。そう しては永久に静かなのです。 書そのうち私の頭はだんだんこの静かさにかき乱されるようになってきました。は今襖の向 どこうで何を考えているたろうと思うと、それが気になってたまらないのです。ふだんもこんな 先ふうにお互いが仕切り一枚をあいだに置いて黙り合っている場合はしじゅうあったのですが、 7 私はが静かであればあるほど、彼の存在を忘れるのがふつうの状態だったのですから、その 時の私はよほど調子が狂っていたものとみなければなりません。それでいて私はこっちから進

3. こゝろ

いた。その三日目は私の課業が午で終る楽な日であった。私は先生に向かってこう言った。 「先生雑司が谷の銀大口はもう散ってしまったでしようか」 からぼうず 「また空坊主にはならないでしよう」 先生はそう答えながら私の顔を見守った。そうしてそこからしばし目を離さなかった。私は すぐ言った。 「今度お墓参りにいらっしやる時にお伴をしてもよござんすか。私は先生といっしょにあす こいらが散歩してみたい」 「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんしゃないですよ」 「しかしついでに散歩をなすったらちょうどいいじゃありませんかー 先生はなんとも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんたからー と言って、どこまでも墓参と散歩を切り離そうとするふうにみえた。私と行きたくない口実だ かなんだか、私にはその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。私はなおと先へ出 る気になった。 「じゃお墓参りでもいいからいっしょにつれていってください。私もお墓参りをしますか ら じっさい私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先 まゆ けんお 生の眉がちょっと曇った。目のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪とも畏怖とも片 づけられない微かな不安らしいものであった。私はたちまち雑司が谷で「先生」と呼びかけた ひる

4. こゝろ

「正直よ。正直にいって私にはわからないのよ」 「じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしやるんですか。これは先生に聞くよりむし ろ奥さんに伺っていい質問ですから、あなたに伺います」 「なにもそんな事を開き直って聞かなくってもいいじゃありませんかー 「ましめくさって聞くがものはない。わかりきってるとおっしやるんですか」 「まあそうよ」 「そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしよう。世の 中のどっちを向いてもおもしろそうでない先生は、あなたが急にいなくなったらあとでどうな るでしよう。先生から見てじゃない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福に なるでしようか、不幸になるでしようか」 「そりや私から見ればわかっています。 ( 先生はそう思っていないかもしれませんが ) 。先生 は私を離れれば不幸になるたけです。あるいは生きていられないかもしれませんよ。そういう と、己れになるようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんたと信じ ていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいま すわ。それだからこうしておちついていられるんです」 「その信念が先生の心によく映るはずたと私は思いますが 「それは別問題ですわー 「やつばり先生からきらわれているとおっしやるんですか。 おのぼ

5. こゝろ

こ、つしよう いなか れしがる父よりも、かえって高尚に見えた。私はしまいに父の無知から出る田舎臭いところに 不快を感じだした。 まいとし 「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人たっ てあります」 私はついにこんな口のききようをした。すると父が変な顔をした。 「なにも卒業したから結構とばかり言うんじゃない。そりや卒業は結構に違いないが、おれ の一一一口うのは少し意味があるんだ。それがお前にわかっていてくれさえすれば、 私は父からそのあとを聞こうとした。父は話したくなさそうであったが、とうとうこう言っ 「つまり、おれが結構ということになるのさ。おれはお前の知ってるとおりの病気だろう。 去年の冬お前に会った時、ことによるともう三月か四月ぐらいなものだろうと思っていたのさ。 たちい それがどういうしあわせか、きようまでこうしている。起居に不自由なく、こうしている。そ たんせい むすこ こへお前が卒業してくれた。だからうれしいのさ。せつかく丹精した息子が、自分のいなくな ったあとで卒業してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれるほうが、親の身になればう れしいだろうじゃないか。大きな考えをもっているお前から見たら、たかが大学を卒業したぐ らいで、結構だ結構だと言われるのはあまりおもしろくもないだろう。しかしおれのほうから 見てごらん、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前にとってより、このおれにとって結 構なんだ。わかったかい」

6. こゝろ

その年の六月に卒業するはずの私は、ぜひともこの論文を成規どおり四月いつばいに書き上 げてしまわなければならなかった。二、 三、四と指を折って余る時日を勘定してみた時、私は 少し自分の度胸を疑った。ほかのものはよほどまえから材料を集めたり、ノートをためたりし て、よそめにも忙がしそうに見えるのに、私だけはまだなんにも手をつけずにいた。私はただ 年が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。私はその決心でやりたした。そうして くう たちまち動けなくなった。今まで大きな問題を空に描いて、骨組だけはほ・ほできあがっている くらいに考えていた私は、頭をおさえて悩み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。 てすう そうして練り上げた思想を系統的にまとめる手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並 「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のおかげですね」 「殺されるほうはちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」 その日はそれで帰った。帰ってからも父の病気のことはそれほど苦にならなかった。先生の 言った自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいう一言葉も、その場限りの浅い印象を与えた だけで、あとはなんらのこだわりを私の頭に残さなかった。私は今まで幾たびか手をつけよう としては手を引っ込めた卒業論文を、いよいよ本式に書きはじめなければならないと思いたし う」

7. こゝろ

212 話にそれほど耳を傾ける気も起こりませんでしたが、はしきりに日蓮の事を聞いていたよう そうにちれん です。日蓮は草日蓮といわれるくらいで、草書がたいへんじようすであったと坊さんが言った 時、字のまずいは、なんだくだらないという顔をしたのを私はまだ覚えています。はそん な事よりも、もっと深い意味の日蓮が知りたかったのでしよう。坊さんがその点でを満足さ せたかどうかは疑問ですが、彼は寺の境内を出ると、しきりに私に向かって日蓮の事をうんぬ んしだしました。私は暑くてくたびれて、それどころではありませんでしたから、ただロの先 あいさっ でいいかげんな挨拶をしていました。それもめんどうになってしまいにはまったく黙ってしま ったのです。 たしかそのあくる晩のことだと思いますが、二人は宿へ着いて飯を食って、もう寝ようとい う少しまえになってから、急にむずかしい問題を論じ合いだしました。はきのう自分のほう から話しかけた日蓮の事について、私が取り合わなかったのを、快よく思っていなかったので す。精神的に向上心がないものはばかだと言って、なんたか私をさも軽薄もののようにやり込 ぶべっ めるのです。ところが私の胸にはお嬢さんの事がわだかまっていますから、彼の侮蔑に近い言 葉をただ笑って受け取るわけにいきません。私は私で弁解を始めたのです。 「その時私はしきりに人間らしいという一一一一口葉を使いました。はこの人間らしいという一一一口葉 のうちに、私が自分の弱点のすべてを隠していると言うのです。なるほどあとから考えれば、

8. こゝろ

五 すま 「私が夏休みを利用してはじめて国へ帰った時、両親の死に断えた私の住居には、新しい主 人として、叔父夫婦が入り代って住んでいました。これは私が東京へ出るまえからの約束でし た。たった一人取り残された私が家にいない以上、そうでもするよりほかにしかたがなかった のです。 叔父はそのころ市にあるいろいろな会社に関係していたようです。業務のつごうからいえば、 今までの居宅に寝起きするほうが、二里も隔たった私の家に移るよりはるかに便利たと言って やしき 笑いました。これは私の父母が亡くなったあと、どう邸を始末して、私が東京へ出るかという 相談の時、叔父の口からもれた一一一一口葉であります。私の家は古い歴史をもっているので、少しは その界隈で人に知られていました。あなたの郷里でも同じことだろうと思いますが、田舎では ゆいしょ 由緒のある家を、相続人があるのにこわしたり売ったりするのは大事件です。今の私ならその くらいの事はなんとも思いませんが、そのころはまだ子供でしたから、東京へは出たし、家は ます。『お前もよく覚えているがいい』と父はその時わざわざ私の顔を見たのです。だから私 はまだそれを忘れずにいます。このくらい私の父から信用されたり、ほめられたりしていた叔 乂を、私がどうして疑うことができるでしよう。私にはたたでさえ誇りになるべき叔父でした。 乂や母が亡くなって、万事その人の世話にならなければならない私には、もうたんなる誇りで はなかったのです。私の存在に必要な人間になっていたのです。 かいわい うち

9. こゝろ

「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」 「私はお気の毒に思うのです」 「気の毒だが信用されないとおっしやるんですか」 先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、このあいたまで重そうな赤い強い色を。ほた。ほ つばき た点じていた椿の花はもう一つも見えなかった。先生は座敷からこの椿の花をよくながめる癖 があった。 「信用しないって、特にあなたを信用しないんしゃない。人間全体を信用しないんです」 しーカき その時生垣の向こうで金魚売りらしい声がした。そのほかにはなんの聞こえるものもなかっ こ、つじ た。大通りから二丁も深く折れ込んた小路は存外静かであった。家の中はいつものとおりひっ そりしていた。私は次の間に奥さんのいることを知っていた。黙って針仕事か何かしている奥 さんの耳に私の話し声が聞こえるということも知っていた。しかし私はまったくそれを忘れて しまった。 「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。 先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答を避けた。 「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用 のろ できないようになっているのです。自分を呪うよりほかにしかたがないのです 「そうむずかしく考えれば、だれだって確かなものはないでしよう」 「いや考えたんしゃない。やったんです。やったあとで驚いたんです。そうして非常にこわ

10. こゝろ

216 えしやく 規則のごとくくり返しました。私の会釈もほとんど器械のごとく簡単でかっ無意味でした。 たしか十月の中ごろと思います、私は寝坊をした結果、日本服のまま急いで学校へ出たこと ぞうり はきものあみあげ があります。穿物も編上などを結んでいる時間が惜しいので、草履を突っかけたなり飛び出し たのです。その日は時間割りからいうと、よりも私のほうが先へ帰るはずになっていました。 こうし 私はもどって来ると、そのつもりで玄関の格子をがらりとあけたのです。するといないと思っ ていたの声がひょいと聞こえました。同時にお嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。私は くっ てかず いつものように手数のかかる靴をはいていないから、すぐ玄関に上がって仕切りの襖をあけま した。私は例のとおり机の前にすわっているを見ました。しかしお嬢さんはもうそこには、 うしろすがた なかったのです。私はあたかもの部屋からのがれ出るように去るその後姿をちらりと認めた だけでした。私はにどうして早く帰ったのかと問いました。はむ持ちが悪いから休んたの だと答えました。私が自分の部屋にはいってそのまますわっていると、まもなくお嬢さんが茶 を持って来てくれました。その時お嬢さんははじめてお帰りといって私に挨拶をしました。私 は笑いながらさっきはなぜ逃げたんですと聞けるようなさばけた男ではありません。それでい て腹の中ではなんだかその事が気にかかるような人間だったのです。お嬢さんはすぐ座を立っ ふたことみこと て縁側伝いに向こうへ行ってしまいました。しかしの部屋の前に立ち留まって、一一言一一一言内 と外とで話をしていました。それはさっきの続きらしかったのですが、前を聞かない私にはま るでわかりませんでした。 そのうちお嬢さんの態度がだんたん平気になってきました。と私がいっしょに家にいる時 ふすま うち