言っ - みる会図書館


検索対象: こゝろ
270件見つかりました。

1. こゝろ

話しているうちに、私はいろいろの知識を奥さんから得たような気がしました。しかしそれ がために、私は機会を逸したと同様の結果に陥ってしまいました。私は自分について、ついに 一言も口を開くことができませんでした。私はいいかげんなところで話を切り上けて、自分の 部屋へ帰ろうとしました。 さっきまでそばにいて、あんまりだわとかなんとか言って笑ったお嬢さんは、いつのまにか 向こうの隅に行って、背中をこっちへ向けていました。私は立とうとして振り返った時、その うしろすがた 後姿を見たのです。後姿だけで人間の心が読めるはずはありません。お嬢さんがこの問題に ついてどう考えているか、私には見当がっきませんでした。お嬢さんは戸棚を前にしてすわっ ひざ ていました。その戸棚の一尺ばかりあいているすきまから、お嬢さんは何か引き出して膝の上 はじ へ置いてながめているらしかったのです。私の目はそのすきまの端に、おととい買った反物を 見つけ出しました。私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。 私がなんとも一一一一口わずに席を立ちかけると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思 うかと聞くのです。その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければわからないほど不意でし た。それがお嬢さんを早く片づけたほうが得策だろうかという意味だとはっきりした時、私は なるべくゆっくらなほうがいいだろうと答えました。奥さんは自分もそう思うと言いました。 奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっているところへ、もう一人男が入り込まなければな らないことになりました。その男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化を きたしています。もしその男が私の生活の行路を横切らなかったならば、おそらくこういう長 すみ とだな

2. こゝろ

こ、つしよう いなか れしがる父よりも、かえって高尚に見えた。私はしまいに父の無知から出る田舎臭いところに 不快を感じだした。 まいとし 「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人たっ てあります」 私はついにこんな口のききようをした。すると父が変な顔をした。 「なにも卒業したから結構とばかり言うんじゃない。そりや卒業は結構に違いないが、おれ の一一一口うのは少し意味があるんだ。それがお前にわかっていてくれさえすれば、 私は父からそのあとを聞こうとした。父は話したくなさそうであったが、とうとうこう言っ 「つまり、おれが結構ということになるのさ。おれはお前の知ってるとおりの病気だろう。 去年の冬お前に会った時、ことによるともう三月か四月ぐらいなものだろうと思っていたのさ。 たちい それがどういうしあわせか、きようまでこうしている。起居に不自由なく、こうしている。そ たんせい むすこ こへお前が卒業してくれた。だからうれしいのさ。せつかく丹精した息子が、自分のいなくな ったあとで卒業してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれるほうが、親の身になればう れしいだろうじゃないか。大きな考えをもっているお前から見たら、たかが大学を卒業したぐ らいで、結構だ結構だと言われるのはあまりおもしろくもないだろう。しかしおれのほうから 見てごらん、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前にとってより、このおれにとって結 構なんだ。わかったかい」

3. こゝろ

いた。その三日目は私の課業が午で終る楽な日であった。私は先生に向かってこう言った。 「先生雑司が谷の銀大口はもう散ってしまったでしようか」 からぼうず 「また空坊主にはならないでしよう」 先生はそう答えながら私の顔を見守った。そうしてそこからしばし目を離さなかった。私は すぐ言った。 「今度お墓参りにいらっしやる時にお伴をしてもよござんすか。私は先生といっしょにあす こいらが散歩してみたい」 「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんしゃないですよ」 「しかしついでに散歩をなすったらちょうどいいじゃありませんかー 先生はなんとも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんたからー と言って、どこまでも墓参と散歩を切り離そうとするふうにみえた。私と行きたくない口実だ かなんだか、私にはその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。私はなおと先へ出 る気になった。 「じゃお墓参りでもいいからいっしょにつれていってください。私もお墓参りをしますか ら じっさい私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先 まゆ けんお 生の眉がちょっと曇った。目のうちにも異様の光が出た。それは迷惑とも嫌悪とも畏怖とも片 づけられない微かな不安らしいものであった。私はたちまち雑司が谷で「先生」と呼びかけた ひる

4. こゝろ

「だから先へ死ぬという理窟なのかね。するとおれもお前より先にあの世へ行かなくっちゃ ならないことになるね」 「あなたは特別よ」 「そうかね」 「だって丈夫なんですもの。ほとんど煩ったためしがないじゃありませんか。そりやどうし たって私のほうが先だわ」 「先かな」 「え、きっと先よ 先生は私の顔を見た。私は笑った。 「しかしもしおれのほうが先へ行くとするね。そうしたらお前どうする 「どうするって : 奥さんはそこでロごもった。先生の死に対する想像的な悲哀が、ちょっと奥さんの胸を襲っ たらしかった。けれども再び顔をあげた時は、もう気分をかえていた。 ふじよう * 「どうするって、しかたがないわ、ねえあなた。老少不定っていうくらいだから」 奥さんはことさらに私の方を見て冗談らしくこう言った。 私は立てかけた腰をまたおろして、話の区切りのつくまで二人の相手になっていた。

5. こゝろ

いと私が注意した時、奥さんは『大丈夫です。本人が不承知のところへ、私があの子をやるは ずがありませんから』と一言いました。 自分の部屋へ帰った私は、事のあまりにわけもなく進行したのを考えて、かえって変な気持 ちになりました。はたして大丈夫なのだろうかという疑念さえ、どこからか頭の底にはい込ん できたくらいです。けれども大体のうえにおいて、私の未来の運命は、これで定められたのだ という観念が私のすべてを新たにしました。 私は昼ごろまた茶の間へ出かけて行って、奥さんに、けさの話をお嬢さんにいっ通じてくれ るつもりかと尋ねました。奥さんは、自分さえ承知していれば、いっ話してもかまわなかろう というようなことを一一 = ロうのです。こうなるとなんだか私よりも相手のほうが男みたようなので、 私はそれぎり引き込もうとしました。すると奥さんが私を引き留めて、もし早いほうが希望な らば、きようでもいい、稽古から帰って来たら、すぐ話そうと言うのです。私はそうしてもら うほうがっ」、つ力しし 、と答えてまた自分の部屋に帰りました。しかし黙って自分の机の前にす わって、二人のこそこそ話を遠くから聞いている私を想像してみると、なんだかおちついてい られないような気もするのです。私はとうとう帽子をかぶって表へ出ました。そうしてまた坂 の下でお嬢さんに行き合いました。なんにも知らないお嬢さんは私を見て驚いたらしかったの です。私が帽子をとって『今お帰り』と尋ねると、向こうではもう病気はなおったのかと不思 すいどうばし 議そうに聞くのです。私は『ええなおりました、なおりました』と答えて、ずんずん水道橋の 方へ曲がってしまいました。

6. こゝろ

悪くはないのだろうくらいに考えていた。 「そんなにたやすく考えられる病気じゃありませんよ。尿毒症が出ると、もうだめなんだか ら 尿毒症という一一一一口葉も意味も私にはわからなかった。このまえの冬休みに国で医者と会見した 時に、私はそんな術語をまるで聞かなかった。 「ほんとうに大事にしておあげなさいよ」と奥さんも言った。「毒が脳へ回るようになると、 もうそれつきりよ、あなた。笑いごとじゃないわ」 無経験な私は気味を悪がりながらも、にやにやしていた。 「どうせ助からない病気たそうですから、いくら心配したってしかたがありません」 「そう思い切りよく考えれば、それまでですけれども」 奥さんは昔同じ病気で死んだという自分のお母さんの事でも思い出したのか、沈んた調子で こう言ったなり下を向いた。私の父の運命がほんとうに気の毒になった。 すると先生が突然奥さんの方を向いた。 しず 「静、お前はおれより先へ死ぬだろうかね」 「なぜ」 「なぜでもない、ただ聞いてみるのさ。それともおれのほうがお前よりまえに片づくかな。 だんな たいてい世間じゃ旦那が先で、細君があとへ残るのがあたりまえのようになってるね」 「そうきまったわけでもないわ。けれども男のほうはどうしても、そら年が上でしよう」

7. こゝろ

私はがその時何か言いはしなかったかと奥さんに聞きました。奥さんはべったんなんにも 言わないと答えました。しかし私は進んでもっと細かい事を尋ねすにはいられませんでした。 奥さんはもとより何も隠すわけがありません。大した話もないがと言いながら、一々の様子 を語って聞かせてくれました。 奥さんの言うところを総合して考えてみると、はこの最後の打撃を、最もおちついた驚き をもって迎えたらしいのです。はお嬢さんと私とのあいだに結ばれた新しい関係について、 最初はそうですかとただ一口言っただけだったそうです。しかし奥さんが、『あなたも喜んで ください』と述べた時、彼ははじめて奥さんの顔を見て微笑をもらしながら、『おめでとうご ざいます』と言ったまま席を立ったそうです。そうして茶の間の障子をあけるまえに、また奥 さんを振り返って、「結婚はいつですか』と聞いたそうです。それから『何かお祝いをあげた いが、私は金がないからあげることができません』と言ったそうです。奥さんの前にすわって いた私は、その話を聞いて胸がふさがるような苦しさを覚えました。 ふつか 「勘定してみると奥さんがに話をしてからもう二日余りになります。そのあいだは私に 対して少しも以前と異なった様子を見せなかったので、私はまったくそれに気がっかずにいた のです。彼の超然とした態度はたとい外観だけにもせよ、敬服に値すべきだと私は考えました。 彼と私を頭の中で並べてみると、彼のほうがはるかにりつばに見えました。『おれは策略で勝

8. こゝろ

同じでした。私もじっと考え込んでいました。 私は当然自分の心をに打ち明けるべきはずだと思いました。しかしそれにはもう時機がお くれてしまったという気も起こりました。なぜさっきの言葉をさえぎって、こっちから逆襲 しなかったのか、そのところが非常なてぬかりのようにみえてきました。せめてのあとに続 いて、自分は自分の思うとおりをその場で話してしまったら、まだよかったろうにとも考えま した。の自白に一段落がついた今となって、こっちからまた同じ事を切り出すのは、どう思 案しても変でした。私はこの不自然に打ち勝っ方法を知らなかったのです。私の頭は悔恨にゆ られてぐらぐらしました。 ふすま 、と思いました。私に 私はが再び仕切りの襖をあけて向こうから突進してきてくれればいし 言わせれば、さっきはまるで不意撃ちに会ったも同じでした。私にはに応ずる準備も何もな した′」ころ かったのです。私は午前に失ったものを、今度は取りもどそうという下心を持っていました。 それで時々目を上げて襖をながめました。しかしその襖はいつまでたってもあきません。そう しては永久に静かなのです。 書そのうち私の頭はだんだんこの静かさにかき乱されるようになってきました。は今襖の向 どこうで何を考えているたろうと思うと、それが気になってたまらないのです。ふだんもこんな 先ふうにお互いが仕切り一枚をあいだに置いて黙り合っている場合はしじゅうあったのですが、 7 私はが静かであればあるほど、彼の存在を忘れるのがふつうの状態だったのですから、その 時の私はよほど調子が狂っていたものとみなければなりません。それでいて私はこっちから進

9. こゝろ

212 話にそれほど耳を傾ける気も起こりませんでしたが、はしきりに日蓮の事を聞いていたよう そうにちれん です。日蓮は草日蓮といわれるくらいで、草書がたいへんじようすであったと坊さんが言った 時、字のまずいは、なんだくだらないという顔をしたのを私はまだ覚えています。はそん な事よりも、もっと深い意味の日蓮が知りたかったのでしよう。坊さんがその点でを満足さ せたかどうかは疑問ですが、彼は寺の境内を出ると、しきりに私に向かって日蓮の事をうんぬ んしだしました。私は暑くてくたびれて、それどころではありませんでしたから、ただロの先 あいさっ でいいかげんな挨拶をしていました。それもめんどうになってしまいにはまったく黙ってしま ったのです。 たしかそのあくる晩のことだと思いますが、二人は宿へ着いて飯を食って、もう寝ようとい う少しまえになってから、急にむずかしい問題を論じ合いだしました。はきのう自分のほう から話しかけた日蓮の事について、私が取り合わなかったのを、快よく思っていなかったので す。精神的に向上心がないものはばかだと言って、なんたか私をさも軽薄もののようにやり込 ぶべっ めるのです。ところが私の胸にはお嬢さんの事がわだかまっていますから、彼の侮蔑に近い言 葉をただ笑って受け取るわけにいきません。私は私で弁解を始めたのです。 「その時私はしきりに人間らしいという一一一一口葉を使いました。はこの人間らしいという一一一口葉 のうちに、私が自分の弱点のすべてを隠していると言うのです。なるほどあとから考えれば、

10. こゝろ

いました。ただ奥さんがにらめるような目をお嬢さんに向けるのに気がついただけでした。 でんずういん 私は食後を散歩に連れ出しました。二人は伝通院の裏手から植物園の通りをぐるりと回っ とみざか てまた富坂の下へ出ました。散歩としては短かいほうではありませんでしたが、そのあいだに 話した事はきわめて少なかったのです。性質からいうと、は私よりも無ロな男でした。私も 多弁なほうではなかったのです。しかし私は歩きながら、できるだけ話を彼にしかけてみまし た。私の問題はおもに二人の下宿している家族についてでした。私は奥さんやお嬢さんを彼が どう見ているか知りたかったのです。ところが彼は海のものとも山のものとも見分けのつかな いような返事ばかりするのです。しかもその返事は要領を得ないくせに、きわめて簡単でした。 彼は二人の女に関してよりも、専攻の学科のほうに多くの注意を払っているように見えました。 もっともそれは二学年目の試験が目の前にせまっているころでしたから、ふつうの人間の立場 から見て、彼のほうが学生らしい学生だったのでしよう。そのうえ彼はシュエデンルグがど うだとかこうだとか言って、無学な私を驚かせました。 我々が首尾よく試験をすましました時、二人とももうあと一年たと言って奥さんは喜んでく れました。そういう奥さんの唯一の誇りとも見られるお嬢さんの卒業も、まもなく来る順にな っていたのです。は私に向かって、女というものはなんにも知らないで学校を出るのたと言 ぬいはり 、ナよな いました。はお嬢さんが学問以外に稽古している縫針だの琴だの生花だのを、まるで眼中に うかっ 置いていないようでした。私は彼の迂闊を笑ってやりました。そうして女の価値はそんなとこ ろにあるものでないという昔の議論をまた彼の前でくり返しました。 , 冫 彼まべったん反駁もしま はんばく