120 の な私の父も、容子の父も、酒好きであった。 君それで気が合ったかといえば、話は別。 はじめて父親二人だけで呑んだ夜があったが、楽しかったか、どんな話が出 そたか、など一切語らなかった。 調子に乗って呑みすぎ、互いに言いたい放題になり、酒で拍車がかかって、 傷つけ合う結果になったのか、逆に互いに遠慮があって、気まずく、いつもう まい酒もまずかったのか。 どちらの親も一言も口にせず、二人だけの痛飲は、一夜限りの出来事で終わ
ノートの隅には、言い訳か、自分を鼓舞するためか、 「おくれました仕方ないです忙しかったので」 「眠い近くのオヂサンも机に頭をブッケたイタ : さあまじめにやろう ! 次のページより」なんて走り書きも。 しかし教授の喋ることを漏らさず書きとろうと、必死にペンを走らせた跡は の たが な明らかで、その内容は期待に違わず興味深く、作品を書く時に大いに役にたっ 君た。 ノートには私がメモをして返し、翌週にはまた容子がその日の授業の成果を そ見せてくれる。ちょっと変わった交換日記のようになった。
の な次は、無論というか、結婚式。 とい 君ふだんの生活が質素な割りに、冠婚葬祭には思い切った金をかける うのが、名古屋のしきたり。 とりわけ、「家と家との結婚」の披露目である結婚式には金をかける。派手 というか、モダンな式場を選び、さらに披露宴を一流の料亭で開く等々。 だが、面倒臭がりの私は「家業を継ぐわけではないから」と、それら一切を 断わった。どうせ、「筆一本でー生きられるかどうかはともかく、貧乏学者と して終わる。世間の目など、気にしなくていい。
の い 容子の希望を病院に伝え、手術はしない、抗癌剤も使わない、ただ「効きそ い 君うだ」と本人が望むワクチンやサプリメント類は用いる。人院もせず、定期的 に通院して、注射などをするだけ。そう決まった。 あわただ 慌しいような、虚ろで、時間が止まったような十月、十一月が過ぎた。私 と容子は、表面上、とりたてて何かを話すこともなかった。後で聞くと、九月 末の段階で、鎌倉に住む娘と、ニューヨークから一時帰国した息子には、「三 ヶ月もっか、どうか」と告知がなされていた。容子には、「癌だけど、治そう ね」とだけしか言えていない。
の い 二人でオーロラを見に出かけたことも。 い 君以前から一度はオーロラをわが目で見てみたかった。アラスカのフェアバン クスに行けば、年間二百五十日もオーロラが出ているというので、一週間も滞 在すれば大丈夫だろうと旅程を組んだ。 たしかにオーロラは出ていた。その証拠というか、オーロラの磁気がグラフ に記録されていくのも見た。しかし、オーロラそのものは目には見えなかった。 たの 愉しみにしていた夜になっても、あたりは明るいまま。夏のことで、アラスカ にうん は白夜であった。これでは見えるわけがない。私は呆然とした。 1
の けんか な「夫婦」と書けば、親しげな顔して付いてくる言葉が「喧嘩」。 君 ところが、幸か不幸か、いや、もちろん「幸ーだが、喧嘩らしい喧嘩をした 覚えがない。 理由は幾つかある。 ある時期から、私は駅前のマンションに仕事場を持ち、朝早くから、そちら に出て、再び夫婦が顔を合わせるのは、夕食時。ちょうど子供たちが独立した 頃であり、夕食は夫婦二人きり、駅かいわいのレストランや居酒屋で待ち合わ せ、ワインや焼酎のお湯割りなど飲みながら済ませてしまうことも珍しくなく
の い 新人賞の波紋は妙なところで拡がった。 い 君名古屋は大都会なのに、当時は新人作家のデビュ ーが少なかった。 このため、文壇の初年兵でしかなく、ひたすら原稿に取り組むべき身だとい そうのに、キャリア組の士官のように、あるいは腕ききの下士官のように見なさ れ、地元のメディアからはさまざまな原稿の依頼があったり、講演会などに呼 ばれたり、会合への出席を求められたりと、たちまち有名人扱い。 地縁があって、断われば角が立っし、あるいはキザに見られたりする。 私は危険を感じ、「無名」に戻らなければと思った。書ける量は多くなくて ひろ
の い 文學界新人賞授賞式。 い 君いや、式というより、文藝春秋社の一室で、賞状と賞金を渡されただけで、 記者会見も。ハーテイもなかった。 とはいえ、五万円というまとまった金額を貰った。文学で得た賞金は文学で 使うべきだと、単純な私は思った。 たまたま 偶々、季節は夏。大学教師の身には、長い休みが眼の前に在る。いっそ信州 あたりへ行き、執筆に専念しよう、と早々に決めた。 出版などの形で報いられることはなかったが、この前年には上諏訪で一夏、 もら
「医者に教える気か ! 」 と、怒鳴りつけた。 その後になって、この医師に検査を受けた折、 「あんたの肝臓はフォアグラだな、アハハ」 と笑われたが、ただそれだけで説明がなく、といって訊くなり、問い返すな の なりすることも、怒鳴られたことを思い出すと、こわくてできない。 君私がこのやり取りを知ったときは、もう後の祭りであった。 「フォアグラ」というのは、つまり、すでに肝硬変が進んでいたのではないか。 その段階で、きちんと検診し、本人にも自覚させ、本格的な治療を受けてい れば なぜ 何故もっとはっきり病状を伝えなかったか、何故悪い肝臓を放置したか、そ の医師にはいまも恨みが残る。容子は、定期的に検診を受けているので、まさ か重い病気が進行しているなどとは思いもせず、同じ病院に通い続けた。
ので、「その程度でよかった」と慰めたが、彼女は「ごめんなさい」を繰り返 しながらも、まだ合点が行かぬといった様子でいる。 とし 「歳だもの、そういうことも起るさ、それより、注文を」 「歳と言ったって : : : 」 どうてん かよほど心外なのか、動顛しているのか、まだ、こだわっている。私はとり合 なわず、 君「とにかく、早くそばを」 叱るように言った。 あいまい けれど容子は、納得がいかないような、曖昧な顔のまま。 はず それもその筈、後になってわかったのだが、この頃すでに癌細胞が血液の中 いたずら に人りこんでいての悪戯ーー頭脳の機能を阻害したための事故であった。 このときそれがわかっていれば : : : と、後々まで、悔やむことになった。 119 しか がん