東京 - みる会図書館


検索対象: そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)
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1. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

にする校名であったらしく、 「ヒトッパシ、ですって ? 」 コメント。 不思議そうに訊き返しただけで、ノー・ 無理もなかった。私が復員して受験した時は、「商」を嫌った軍国主義時代 の名残りで、「東京産業大学」という校名であった。これが、入学後、旧名の の な東京商科大学に戻り、更に法学社会学部なども持っ綜合大学となって、校名は 君発祥地に因んで一橋大学に。おかげで、こちらは一つの大学にいるのに、校名 はず だけが二転三転。新しい校名になってまだ日が浅く、彼女の知る筈がない。 そしかし、さらに彼女をとまどわせたのは、ヒトッパシを経済の大学と説明さ れて、「では卒業されたら、会社員になるのですか ? 」という質問への私の答 えであった。 つもり 「就職する心算はなくて。いまは学者の卵だけど、とりあえずはどこか大学に 勤めるにせよ、行く行くは筆一本で生きたいと思って : : : 」

2. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

少々せつかちなところもある母だが、縁談を断わり続けるのに、うんざりし ていたのか、これはいい話と思ったのか、アドレスを頼りに、早速、先方の家 へ訪ねて行った。 当時の名古屋では、結婚は本人同士というよりも、家と家。 なこうど かお見合いはもちろんだが、縁談があると、仲人や縁者を通しての情報収集、 ないわゆる「聞き合わせ」を重ね、仲人が間に入って、話を進めていくのが普通 君であったが、私の母はそうした名古屋的手続き抜きで、私の告白を聞くといき なり相手の家に素っ飛んで行った。 幸い、相手の父親は、東京生まれの東京育ちの上、ハルピン・大連などの外 地暮らしが長く、話が早い。若い日には、当時としては珍らしいオートバイを 乗り廻していたりしたというだけに、母のそうした「飛びこみ」が気に人って、 話は一気にまとまってしまった。 『悪魔の辞典』などを著したアメリカの作家アンプローズ・ビアスによると、

3. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

あきら 諦めるほかないじゃないか。私は自分に言い聞かせた。 こつけい はんりよ 滑稽かもしれぬが、一度しか会っていない彼女を、ゆくゆくは伴侶に、とす ら考えていた。 東京暮らしのあいだに、私にも幾人かの女友達ができたが、結婚まで思いっ めたのは、はじめてであった。それだけに、失恋の痛み、絶交の痛みは大きか にうぜん なったが、ただ茫然としているわけにもいかなかった。

4. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

すると、そんな私のスケジュールのことなど何も知らない筈の娘が、 「今日、『総理と語る』なんでしよう ? 」 と言う。一昨日、日本橋までの往復でいろいろ話すうちに、聞かされたこと であるらしい。 「お母さんは、自分の病気が篤くなったとき、お父さんがきちんと仕事できる の なかどうか、気にしていたんだから。十七日には『総理と語る』があることも一言 君っていたわ。こんなに急に穴を開けると、テレビ局の人たちも困るでしよう ? お母さんのためにも、ちゃんと行ってきて下さい」 そ たしかに容子ならそう言うだろうし、そう望むだろう。そして、いまばかり は私の我を通すより、容子の望むように行動してやりたい。 これでお別れだ、と思って、東京へ出かけた。もっとも、対談番組にもかか わらず、私は終始むつつりとして、総理とはほとんど口をきかないままであっ こ 0 あっ

5. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

れだけの人たちが一所懸命にやってくれているのだから、もし、今夜このまま、 容子がもう助からなくても、やむを得ないんだ。一瞬のことであったが、私は はじめて、そんな覚悟をしていた。 応急処置が小休止して、医師から説明を受けた。癌の病勢と関係があるかな かいかは分からないが、おそらく脳血栓、しかも心肺停止の状態だという。 なその夜、容子の意識は戻らなかった。いや、医師によると、九割がたは心肺 停止状態のままだろう、と。奇跡的に心臓が動きはじめても、意識は戻らず、 植物状態になる可能性が高いーーとも。 おぶちけい 十七日は、テレビの年末番組「総理と語る」のために、官邸で小渕恵 三総理と対談をする予定であった。東京に行って、収録をし、茅ヶ崎へ戻って くるまでに、容子は死んでいるかもしれない。 いったん引き受けた仕事ではあるが、総理なんかと話している場合ではなか っ〔。 130 ぞう

6. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

圏なった。 その日一日の電話のメモや、仕分けした郵便物の中の急ぎの物などを持って きてくれる。このため、帰宅して改めて喧嘩するような種子はなくなっている。 ただ一夜、おそく帰宅した際、彼女に悲鳴を上げさせた事がある。 その日は、東京に出た際、何かついでがあって秋葉原あたりの商店街にまわ の いかり い な . りノ 、ふと興がって、「七つボタンは桜に錨」の軍歌で馴染まれた旧海軍予科練 い の制服を買った。私は茅ヶ崎駅からのタクシーの座席で、すばやく、それに着 替えた。 玄関のチャイムを鳴らし、いつものように、 「おい、おれだ」 「はあーい」 こた と応えてドアが開いたが、悲鳴と共に、音高く、また閉ざしてしまった。真 白の服を着た怪しい男ーー私は礼儀正しく敬礼までしていたのだがーーに踏み

7. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

たたず とまどって佇んでいると、オレンジ色がかった明るい赤のワンピースの娘が やって来た。くすんだ図書館の建物には不似合いな華やかさで、間違って、天 ようせい から妖精が落ちて来た感じ。 「あら、どうして今日お休みなんでしよう」 小首をかしげた妖精に訊かれても、私にも答えようがないし、ずっとそこに の い 立っているわけにもいかない。仕方なく、私は家へ戻ることに決めた。 い 君近くに、「栄町」という市電の交差点があって、そこから私の家は徒歩で七、 八分の距離。栄町は、昔の東京で言えば銀座尾張町に近く、名古屋でいちばん の繁華街で、かっ交通の中心になっている。市内の東西南北〈市電やバスが出 ており、どちらに向かうにせよ、この交差点に行けばよい。 「とにかく、栄町にでも出ましようか とりあえず二人は歩き出した。 歩きながら、「どこの大学ですか」と訊かれ、校名を告げたが、はじめて耳

8. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

十二月も半ばになって、容子が気にしたのは、体調や通院のせいで、毎年の お歳暮を手配していないこと。一家を差配する主婦らしい心配であった。 - も、り 十五日、「そんな体調でわざわざ : : : 今年は失礼させて貰ってもいいじゃな い ? 」と反対する娘をお供に、東京日本橋のデ。ハートまで出かけた。あれこれ 手配して、「疲れたわ」と言いながらも満足そうに帰宅。これが自分の意志で の なの最後の外出になった。 君翌日夜、台所に立っ容子の様子が変で、声をかけた。 「どうした ? 」 そ「うーん、ちょっとトイレに行くわ トイレに人るなり大きな音。駆け寄ると、容子が意識を失って倒れていた。 急いで救急車を呼び、娘に連絡する。救急指定でもある徳洲会病院へ運ばれ る。夜間受付には、医師や看護師、何人ものスタッフが待ちかまえていてくれ、 運び込まれた容子を、文字通り走り回り、血眼になっての応急処置。ああ、こ

9. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

一方、容子の父親は、同じ酒呑み同士なのに、肝臓癌に。大柄の体が削ぎ取 られるように小さくなり、容子の兄に背負われ、大山城の花見に行ったのが、 最後になった。 か癌はいずれにせよ、早期発見が肝要にちがいない。 たまたま な偶々、茅ヶ崎の駅前ビルに、東京の有名病院の内科医が独立して開業したの 君で、容子は血圧が高めでもあるし、早速、月二回の検診を受けることにした。 ところが、この医師のいた大病院では趣味人というか、筆の立っことでも有 ゆえ そ名な医師が何人も輩出しており、この医師もまた風流人。それ故かどうか、名 医という評判ながら、どこか患者を見下すようなところがあった。 そして、ある日、処方箋にそれまでに比べて記載漏れかと思われる箇所があ 、不要かどうか医師にたしかめてくれと、薬局で言われ、医院に引き返して、 そのことを訊くと、とたんに医師は大声を張り上げ、 122 せん

10. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

こちらも、 ふる 「そうさ、お前より旧いっき合いだからな」 たた そんな減らず口を叩きながら机に向かった。柿見と対話するのに疲れると、 茅ヶ崎の海で泳いだ。同じ日課を繰り返すうちに、春は終り、夏も過ぎていた。 秋の海の、最初は反発しながら、徐々にこちらに親しんで、やがては媚びてく の なるような、不思議な温かみが気持よかった。 ぬ 君濡れた体で家に戻ると、容子が食事の仕度をしておいてくれ、今日は息子が もはたけ 畠でネギを引き抜いてお百姓さんに叱られたとか、ニワトリに追いかけられて てい そほうほうの態で逃げ帰ってきたなどと、報告を受ける。そしてまた、原稿を広 げて、柿見との対話をゆっくり続ける。 こんな生活をしたかったのだ。私は、自分が充たされているのを感じた。 無名になりたくて引っ越してきたのだから、忙しくなったり気軽に東京に呼 び出されたりするのを避けるために、電話を急いで引くこともしなかった。 しか