にする校名であったらしく、 「ヒトッパシ、ですって ? 」 コメント。 不思議そうに訊き返しただけで、ノー・ 無理もなかった。私が復員して受験した時は、「商」を嫌った軍国主義時代 の名残りで、「東京産業大学」という校名であった。これが、入学後、旧名の の な東京商科大学に戻り、更に法学社会学部なども持っ綜合大学となって、校名は 君発祥地に因んで一橋大学に。おかげで、こちらは一つの大学にいるのに、校名 はず だけが二転三転。新しい校名になってまだ日が浅く、彼女の知る筈がない。 そしかし、さらに彼女をとまどわせたのは、ヒトッパシを経済の大学と説明さ れて、「では卒業されたら、会社員になるのですか ? 」という質問への私の答 えであった。 つもり 「就職する心算はなくて。いまは学者の卵だけど、とりあえずはどこか大学に 勤めるにせよ、行く行くは筆一本で生きたいと思って : : : 」
少々せつかちなところもある母だが、縁談を断わり続けるのに、うんざりし ていたのか、これはいい話と思ったのか、アドレスを頼りに、早速、先方の家 へ訪ねて行った。 当時の名古屋では、結婚は本人同士というよりも、家と家。 なこうど かお見合いはもちろんだが、縁談があると、仲人や縁者を通しての情報収集、 ないわゆる「聞き合わせ」を重ね、仲人が間に入って、話を進めていくのが普通 君であったが、私の母はそうした名古屋的手続き抜きで、私の告白を聞くといき なり相手の家に素っ飛んで行った。 幸い、相手の父親は、東京生まれの東京育ちの上、ハルピン・大連などの外 地暮らしが長く、話が早い。若い日には、当時としては珍らしいオートバイを 乗り廻していたりしたというだけに、母のそうした「飛びこみ」が気に人って、 話は一気にまとまってしまった。 『悪魔の辞典』などを著したアメリカの作家アンプローズ・ビアスによると、
あきら 諦めるほかないじゃないか。私は自分に言い聞かせた。 こつけい はんりよ 滑稽かもしれぬが、一度しか会っていない彼女を、ゆくゆくは伴侶に、とす ら考えていた。 東京暮らしのあいだに、私にも幾人かの女友達ができたが、結婚まで思いっ めたのは、はじめてであった。それだけに、失恋の痛み、絶交の痛みは大きか にうぜん なったが、ただ茫然としているわけにもいかなかった。
すると、そんな私のスケジュールのことなど何も知らない筈の娘が、 「今日、『総理と語る』なんでしよう ? 」 と言う。一昨日、日本橋までの往復でいろいろ話すうちに、聞かされたこと であるらしい。 「お母さんは、自分の病気が篤くなったとき、お父さんがきちんと仕事できる の なかどうか、気にしていたんだから。十七日には『総理と語る』があることも一言 君っていたわ。こんなに急に穴を開けると、テレビ局の人たちも困るでしよう ? お母さんのためにも、ちゃんと行ってきて下さい」 そ たしかに容子ならそう言うだろうし、そう望むだろう。そして、いまばかり は私の我を通すより、容子の望むように行動してやりたい。 これでお別れだ、と思って、東京へ出かけた。もっとも、対談番組にもかか わらず、私は終始むつつりとして、総理とはほとんど口をきかないままであっ こ 0 あっ
れだけの人たちが一所懸命にやってくれているのだから、もし、今夜このまま、 容子がもう助からなくても、やむを得ないんだ。一瞬のことであったが、私は はじめて、そんな覚悟をしていた。 応急処置が小休止して、医師から説明を受けた。癌の病勢と関係があるかな かいかは分からないが、おそらく脳血栓、しかも心肺停止の状態だという。 なその夜、容子の意識は戻らなかった。いや、医師によると、九割がたは心肺 停止状態のままだろう、と。奇跡的に心臓が動きはじめても、意識は戻らず、 植物状態になる可能性が高いーーとも。 おぶちけい 十七日は、テレビの年末番組「総理と語る」のために、官邸で小渕恵 三総理と対談をする予定であった。東京に行って、収録をし、茅ヶ崎へ戻って くるまでに、容子は死んでいるかもしれない。 いったん引き受けた仕事ではあるが、総理なんかと話している場合ではなか っ〔。 130 ぞう
圏なった。 その日一日の電話のメモや、仕分けした郵便物の中の急ぎの物などを持って きてくれる。このため、帰宅して改めて喧嘩するような種子はなくなっている。 ただ一夜、おそく帰宅した際、彼女に悲鳴を上げさせた事がある。 その日は、東京に出た際、何かついでがあって秋葉原あたりの商店街にまわ の いかり い な . りノ 、ふと興がって、「七つボタンは桜に錨」の軍歌で馴染まれた旧海軍予科練 い の制服を買った。私は茅ヶ崎駅からのタクシーの座席で、すばやく、それに着 替えた。 玄関のチャイムを鳴らし、いつものように、 「おい、おれだ」 「はあーい」 こた と応えてドアが開いたが、悲鳴と共に、音高く、また閉ざしてしまった。真 白の服を着た怪しい男ーー私は礼儀正しく敬礼までしていたのだがーーに踏み
たたず とまどって佇んでいると、オレンジ色がかった明るい赤のワンピースの娘が やって来た。くすんだ図書館の建物には不似合いな華やかさで、間違って、天 ようせい から妖精が落ちて来た感じ。 「あら、どうして今日お休みなんでしよう」 小首をかしげた妖精に訊かれても、私にも答えようがないし、ずっとそこに の い 立っているわけにもいかない。仕方なく、私は家へ戻ることに決めた。 い 君近くに、「栄町」という市電の交差点があって、そこから私の家は徒歩で七、 八分の距離。栄町は、昔の東京で言えば銀座尾張町に近く、名古屋でいちばん の繁華街で、かっ交通の中心になっている。市内の東西南北〈市電やバスが出 ており、どちらに向かうにせよ、この交差点に行けばよい。 「とにかく、栄町にでも出ましようか とりあえず二人は歩き出した。 歩きながら、「どこの大学ですか」と訊かれ、校名を告げたが、はじめて耳
十二月も半ばになって、容子が気にしたのは、体調や通院のせいで、毎年の お歳暮を手配していないこと。一家を差配する主婦らしい心配であった。 - も、り 十五日、「そんな体調でわざわざ : : : 今年は失礼させて貰ってもいいじゃな い ? 」と反対する娘をお供に、東京日本橋のデ。ハートまで出かけた。あれこれ 手配して、「疲れたわ」と言いながらも満足そうに帰宅。これが自分の意志で の なの最後の外出になった。 君翌日夜、台所に立っ容子の様子が変で、声をかけた。 「どうした ? 」 そ「うーん、ちょっとトイレに行くわ トイレに人るなり大きな音。駆け寄ると、容子が意識を失って倒れていた。 急いで救急車を呼び、娘に連絡する。救急指定でもある徳洲会病院へ運ばれ る。夜間受付には、医師や看護師、何人ものスタッフが待ちかまえていてくれ、 運び込まれた容子を、文字通り走り回り、血眼になっての応急処置。ああ、こ
一方、容子の父親は、同じ酒呑み同士なのに、肝臓癌に。大柄の体が削ぎ取 られるように小さくなり、容子の兄に背負われ、大山城の花見に行ったのが、 最後になった。 か癌はいずれにせよ、早期発見が肝要にちがいない。 たまたま な偶々、茅ヶ崎の駅前ビルに、東京の有名病院の内科医が独立して開業したの 君で、容子は血圧が高めでもあるし、早速、月二回の検診を受けることにした。 ところが、この医師のいた大病院では趣味人というか、筆の立っことでも有 ゆえ そ名な医師が何人も輩出しており、この医師もまた風流人。それ故かどうか、名 医という評判ながら、どこか患者を見下すようなところがあった。 そして、ある日、処方箋にそれまでに比べて記載漏れかと思われる箇所があ 、不要かどうか医師にたしかめてくれと、薬局で言われ、医院に引き返して、 そのことを訊くと、とたんに医師は大声を張り上げ、 122 せん
こちらも、 ふる 「そうさ、お前より旧いっき合いだからな」 たた そんな減らず口を叩きながら机に向かった。柿見と対話するのに疲れると、 茅ヶ崎の海で泳いだ。同じ日課を繰り返すうちに、春は終り、夏も過ぎていた。 秋の海の、最初は反発しながら、徐々にこちらに親しんで、やがては媚びてく の なるような、不思議な温かみが気持よかった。 ぬ 君濡れた体で家に戻ると、容子が食事の仕度をしておいてくれ、今日は息子が もはたけ 畠でネギを引き抜いてお百姓さんに叱られたとか、ニワトリに追いかけられて てい そほうほうの態で逃げ帰ってきたなどと、報告を受ける。そしてまた、原稿を広 げて、柿見との対話をゆっくり続ける。 こんな生活をしたかったのだ。私は、自分が充たされているのを感じた。 無名になりたくて引っ越してきたのだから、忙しくなったり気軽に東京に呼 び出されたりするのを避けるために、電話を急いで引くこともしなかった。 しか