私 - みる会図書館


検索対象: そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)
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1. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

分であった。 他人については描写したことがあっても、私自身には、何の心用意もできて 居らず、ただ緊張するばかりであった。 長い時間、あれこれと悩んだだけで、何の答えも出せずにいると、私の部屋 に通じるエレベーターの音がし、聞きなれた彼女の靴音が。 の うたごえ こぶし な緊張し、拳を握りしめるような思いでいる私の耳に、しかし、彼女の唄声が 君聞こえてきた。 こちらがこんなに心配しているというのに、鼻唄うたって来るなんて、何と あき そいうのんきなーーと、私は呆れ、また腹も立ったが、高らかといっていいその 唄声がはっきり耳に届いたとき、苦笑とともに、私の緊張は肩すかしを食わさ れた。 私なども知っているポピュラーなメロディに自分の歌詞を乗せて、容子は唄 っていた。 126

2. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

そう告白すると、彼女はびつくりしたように、立ち止まって私の顔を見直し、 「筆で ! 」 と、念を押すようにたしかめたあと、「そうなの」とつぶやいて、黙り込ん か彼女の驚きは、「筆は一本、箸は二本」などと言われるような、職業として なの文筆業の危うさを案じてのことと思ったが、これは、後で私の早とちりとわ 君かる。 たまたま 私の言葉足らずというか、彼女のほうも早とちりをしたというか、偶々、彼 か 女の無二の親友が名古屋の大きな筆問屋の娘であった。その大問屋の様子を思 い浮かべて、「私にはとてもとても」と彼女は思いこみ、私の発言に対して、 コメントになった。 とっさに何もコメントできなくなり、またもノー 一方、「あの図書館へよく来ますか」という私の問いに対しては、かぶりを 」 0 はし

3. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

とは何であろうか、とぼんやり考えはじめた。はげしく生き、そして死んでし まった者たちに代って、私は、何ができ、どう生きればいいのだろう。私は大 じゅばく 義の呪縛からいかにして自分自身を回復して行けるのだろうか。 やがて私は、そうした問いかけに対して、小説という形で答えようと決めた。 か話を旧に戻す。 い 天使かと思ったほどであったから、「彼女を伴侶に」というのは、当時の私 い 君にとって、かけがえのない大きな夢であった。 もともと私は単純というか、思いつめるタイプなのに、戦後はじめて燃え上 たた そがった思いを、たちまち叩き消されたのだから、たいへんなショックを受けた はず。 ところが、そんなに長いあいだ、深いショックに沈み込んでいたという覚え がないし、その種のメモも日記も残していない。 我ながら不思議な気がするが、ふりかえってみれば、私はまだ在学中の身で

4. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

の な昭和二十七年春、大学を卒業。大病をした父親から「店を継がなくてよいか 郡ら、名古屋 ( 戻るように」と促され、私は近隣の岡崎市にある愛知学芸大学の 専任講師となり、名古屋の実家から通勤するようになった。 旧制大学卒業の数日後、私はすぐ新制大学の教壇へと、妙な横滑り。一転し て、学生たちを高みから見下ろす形になった。 学生たちとは余り年齢も違わない。軍隊帰りなどで、私より年長の学生もい て、そのうちの一人が、講義中に弁当の蓋を開け、食べ始めようとした。 若すぎる教師への挑発である。私がどう出るか、学生たちは私を見つめた。 4 ふた

5. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

新婚旅行の写真は、この一枚が残っているだけ。他は失くしてしまったのか、 それとも、その一枚しか撮らなかったのか。 私たち新婚夫婦の姿を、誰かに頼んで撮ってもらうこともなく、二人の写真 は残っていない。 か「まるで私、お猿さんと新婚旅行に行ったみたい」 い 後々まで、九州でのたった一枚の写真を見る度、彼女のつぶやきを聞かされ い 君ることになった。 「私もお猿さん仲間みたい」 「私を猿扱いにして、お気に人りなのね、 ュな′」 AJ 、も 0 うら 怨まれる結果になったが、そもそも別府へ行ったのが、温泉よりも猿見物の ためであり、彼女には不満かもしれぬが、動物好きの私には気に人りの構図の 写真であった。

6. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

ホールには、レッスンかたがた相手をしてくれる女性たちもいて、踊るも見 るも、気楽な雰囲気。ダンス上手もいれば、全くの初心者もいて、それぞれが それなりに踊っている。その男女たちを何気なく酔眼で追っていて、私は声を 立てそうになった。 一種の奇跡であった。 の い 妖精ーー彼女がいて、私と同年輩の男と踊っている。そして、私と眼と眼が い えしやく なっか 君合ったとき、笑顔で懐しそうに会釈してくれた。 やがて、バンドの交代があって、ダンスは休憩。 彼女の姿は消えたが、次の演奏が始まるときには、ふたたび現れ、。ハートナ ーの男と話しながらも、ときどき視線をこちらへ。 演奏とともに、ダンスが再開された。私は思い切って、彼女に近寄り、「二 人で踊りませんか」と。 1 トナーの男から離れ、私の腕の中 彼女もそれを待っていたかのように、

7. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

“言葉を選びながらも、声ははずんでいた。 秘書課なので、電話は直接、彼女に通じる。私にとっては、まさに「天の配 剤」、世界が一気に明るくなった。 こうして、私たちは、誰かに気付かれることも、また気がねすることもなく、 かデートを重ねるようになった。 い い 君ある日、母と街を歩いていると、すれ違った若い女性が、頬を染めて会釈す そ「あのひとからも、縁談が来てるのよ」 「うーんー そんな会話から、母は私の心中に気づいて、 「おまえ、きっと好きな娘さんが居るんでしよう」 迫られて、私は、容子のことを白状した。 る。

8. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

あくたがわ 「一、二枚分、書き足せば、芥川賞まちがい無し ! 」 原稿を読み返して、私は編集長の指摘にうなずき、手薄と指摘された部分に、 「なるほど」と感心しながら、二枚ほど書き加えた。 ところが、それから間もない新聞発表での、芥川賞候補作品リストに、私の か作品は無かった。 い 呼びつけて筆を人れさせ、太鼓判まで捺してくれたのに、選考対象からも外 い 君されてしまった。 たまりかねて、私は文藝春秋社へ電話したが、編集長は、私が話すのを遮 そって言った。 「城山さん、今はもう大江・開高の時代だよ、大江・開高のーー」 相変わらずの高らかな声であり、返す一一一口葉もないままに電話は切れた。 つぶ 多くのマスコミが「大江・開高の時代」で塗り潰される形となって、私に限 らず新人作家への眼配りが薄れるというか、冷たくなった。「もう新人は不要ー

9. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

の な私がただ甘かったというのでは無い。 君それから始まる日々は、妖精にとって決して甘いものではない。 その埋め合わせというか、前払いとしての旅行でもあった。 じゅうたん 戦中の度重なる米軍の絨緞爆撃のため、ほぼ全市が焦土に近くなった名古屋 の住宅事情は、結婚した昭和二十九年になっても、なお最悪の状態。このため、 二人は名古屋栄町の私の実家に住むことに。 彼女は、「筆で生きたい」という教員に嫁いだ心算だが、住むのは、「インテ 妬リア」っまり室内装飾業を営む私の実家の二階の一室。新郎である私は、岡崎

10. そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)

そうしたニュースをまともに受けとめているといった様子の彼女。 私は車〒ばあきれ、半・ばとまどいながら、 「どうして、そんなことまで心配するんだ」 「だって、あなた、飛行機とか、空を飛ぶことが好きだから。きっと、亡くな った後も、空から私を見ていて、『あっ、また銀座か』なんて : の い な ジョークというより、本気で心配している。 い 君私は噴き出しそうなのをこらえ、 「よし、よし、しないよ。第一、あんなの目が廻りそうで、かなわないな」 そ「ああ、よかった」 容子は胸に手をやって言ってから、つけ加えた。 「大丈夫。監視されなくとも、決して無駄な買物はしませんから」 こんな会話をする中年夫婦が居るものだろうか。私は苦笑して、やはりうな ずくばかり。