生存者 - みる会図書館


検索対象: ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ
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1. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

100 確保するのが目的だったといわれています。軍民に多くの犠牲者を出した隊長自身は、最後 に降伏して、助かっているのです。 日本で唯一の地上戦に巻き込まれた沖縄の人たちは、米軍の攻撃に痛めつけられただけで なく、守ってくれるはすの日本軍からも一部でひどい目に遭わされた、ということは否定で きません。敵も味方も見境がなくなって、人間が人間でなくなるーーこれが戦争のいちばん 布いところではないでしようか。 神奈川県リ , 崎市にお住まいの吉田浩子さんは、ひめゆり学徒隊の生存者の一人で、「三十 四年目の卒業式」でお会いしてから十数年来のお付き合いですが、戦争末期、心臟脚気が悪 化して動けなくなり、解散命令のあとも重傷の級友たちと壕に取り残された人です。 吉田さんがいた三つの鍾乳洞の岩窟から成るその自然壕には、最初兵隊や住民も入れて八 十人ほどがいましたが、第一の岩窟が米軍の火焔放射器の攻撃に遭ったあと脱出したり、重 傷患者が次々に死んだりして、二十人ほどに減り、第二の岩窟に移っていました。二つの岩 窟の間には、人がしやがんでようやく抜けられる程度の小さいくぐり穴がありました。 ある日、第一の岩で人の気配がし、懐中電灯の明かりがくぐり穴をかすめました。血が 凍る思いで息をひそめていると、やがて足音は遠ざかり、第二の岩窟は気づかれすにすんだ ようでした。 ほっとしたとき、子供が突然かん高い声で泣いたのです。四、五歳の男の子でした。そば

2. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

″地獄で仏〃の優しさに泣く よなはももこ 同じくひめゆり学徒の生存者、与那覇百子さん ( 前掲、第七章 ) は、上原婦長の優しい一 面を忘れることができない一人です。 与那覇さんは、南風原の陸軍病院で、やはり第一外科の十四号壕に配属されていましたが、 五月四日の朝、連絡の紙切れを渡されて、隣の十三号壕へいっている間に、十四号が艦砲射 撃の直撃弾を受けました。与那覇さんが自分の壕にもどってみると、入口が崩れてふさがっ ており、なかにいた二十人ほどの患者も同級生も全滅の状態で、みんなバラバラの死体にな っていたのです。 「頭は吹っ飛ぶ、手も顔もない、胴体だけが壕の壁にくつついている、脳みそや肉のかけら 力しつばい散らかり、なかは血だらけになっていました。 私は、学友のいる壕へ、ただただ歩きました。自分の気持ちを落ち着かせようと思って、 夢中で歩きました。そして、行き着いたところが、上原婦長の壕だったのです。 ゲ 尹婦長さんは、私の報告を聞いたあと、『これが戦争というものよ。人間の命って、紙一重 ナね』といわれました。私は『ああ、これからも何度、こういうことにぶつからなけりやいけ 本ないんだろう、自分もああいうふうに死ぬんだろうか』とただ恐ろしさにふるえていました。 うえち すると、婦長さんは、『上地 ( 旧姓 ) さん、疲れたでしよう。私の寝台に横になっていいの よ。しばらく寝ておきなさい』と休ませてくださいました。

3. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

が薄らいだそうです。本書第十章の「若い命を守るために」にも登場します。 まだんばし 真玉橋良子さん。長嶺藤子さんの一歳下の妹さんで、戦後、早稲田大学を卒業後、アメリ 力に留学し、沖縄出身の青年と学生結婚、現在もカリフォルニアにおられます。娘さんが早 稲田大学に留学しておられました。 天久節さん。教職三年で結婚され、ご主人は公務員のあと製糖会社の役員を務めておられ ます。石垣市婦人会の副会長など、いろいろな公職で活躍される郷土の有力者。家庭でも四 男二女を育て上げられました。 長田ハルさん。教職五年で、同じ教員と結婚され、主婦業に。ご主人は石垣市の琉米文化 会館長や商工会議所の仕事をされ、七年前に他界されました。家裁調停委員。医師の長男は 神奈川県におられ、四男一家と石垣市でお暮らしです。 川平カッさん。石垣市の教員同士の結婚ですが、五十五歳まで勤められ、いまは石垣市で 茶道の先生などをしておられます。一男二女は那覇におられ、小学校四年の孫娘さんが書い た作文「おばあちゃんの戦争体験」が作文コンクールの代表に選ばれたそうです。 与那覇百子さん。首里市で教員生活七年ののち、教員だった同級生の兄と結婚、二男一女 と東京に転居され、現在は埼玉県桶川市で長男一家とお住まいです。ひめゆりの生存者とし て、各地の講演にも活躍され、首都圏での「語り部」になっておられます。

4. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

静かに眠る白梅之塔 「白梅之塔」は、「ひめゆりの塔」ほど広くは知られていません。そこには、お詣りの人の にぎわいも、献花を売る店も、祈念資料館もありません。畑のなかの細い道を車で五、 , ハ分 入ったあたりの木立ちに囲まれて、ひっそりと白い塔が建っています。 塔の右側の石段を降りると、壕の入口があって、そのまま手すりのある階段伝いに下へ降 りていくことができます。突き当たりまでは外の光が届いていますが、その奥はどこまで続 いているのか、右も左も真っ暗で、私は階段の途中に立ち止まってしまいました。亡くなっ た方々の霊がただよっているような、鬼気迫るものを感じたのです。 けれども、一九七九年春に小雨の降るなかをお詣りしたときのあの静けさと、清楚な塔の たたずまいが深く心に残って、テレビドラマ「想思樹の歌』のロケのときにも訪ねました。 五月の明るい陽ざしに映える木々の緑がとても美しかったのを覚えています。 る 昨年十月、白梅学徒隊の生存者のうち、崎山麗子さん、中山キクさんはじめ同窓会でお世 で話彳 殳をされている方々と初めてお会いし、「白梅之塔」を再訪する機会を得ました。 三台の小団体の方がいらしたりし 「一カ月に一回ほどお掃除にくるのですが、タクシー二、 ます。観光ノ レートに入っていないので、『さびしそうに見える』とおっしやってくださる見 人 学者もいるのですが、こういうふうに道からややはすれて静かに眠っているはうが、同級生 のためにはかえっていいのではないか、という考え方もあって、戦後二年目に建てられ、一

5. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

生存者の証言によると、壕を出るとき「お願いだ、連れてってくれ」という重傷患者の悲 痛な叫びを聞いたそうです。毒入りミルクと知って、「何だ、これはー・ 人間のすることか」 と食ってかかる患者もいました。大部分は二十歳そこそこの若い兵隊だったはすです。 この病院壕の跡は、外から見るかぎり、 いまもほとんど原型のまま残されています。遺骨 収集もはかどっているとはいえません。「悲風の丘」という佐藤栄作元首相の筆跡による石 碑の奥は、森が深く、足元が危なくて入っていけない状態です。ただ、その近くの二、三の 壕のなかは、落盤で狭くなった入口から奥をのぞいてみることができます。 黄金森は、恨みと悲しみ、そして憤りを何十とある深い壕のなかにいまもひっそりと閉じ 込めているようで、背筋が寒くなりました。 壕のまえの斜面には暖かい陽射しがふりそそぎ、どこにも見られるのどかな田園風景が広 がっていますが、この野原を女生徒たちが砲弾をくぐりながら重い死体や切断された手足を 運んで埋めたのかと思うと、映画のなかのシーンと重なって、なんともいえない重苦しい気 旅持ちに襲われました。 いまから四十年まえ、この病院壕を再現した映画のセットで、負傷兵を看護するひめゆり 祈 縄学徒を演じた私でしたが、じっさいに病院壕を見て「ああ、こういうところだったのか」と、 沖 初めて実感をもって彼女たちの置かれた状況を理解することができたのです。 はんとうに沖縄の体験、そして戦争の真実を理解することはむすかしい 、と沖縄を訪れる

6. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

8 た上原婦長の写真が一枚も残っていないこと、その最期の様子が全く明らかでないことを知 った香川さんは、手をつくして写真を手に入れ、「アルゼンチン北部の、パラグアイとの国 境に近いトクマン州」に生存する大城静子を探しあて、上原婦長の最期の模様をつきとめる のだ。 上原婦長については、多くの証言や記録でもふれているが、その最期については明らかで はなかった。したがって、香川さんの手でそれが明らかにされたことは、記録の空白を理め る貴重な貢献だと言えるだろう。が、それと同時に、あたかも「ひめゆり学徒隊」の生き残 りの一人にでもなったように、婦長の最期をつきとめようとする香川さんの情熱は、圧倒的 である。そしてそういう所に、また人間的な魅力が発揮されるのだ。 これまで映画『ひめゆりの塔』と「ひめゆり学徒隊」とのかかわりの面から本書の魅力を 記したが、そのこととは別に、女優「香川京子」について飾りのない語り口で自ら語った部 分も、興味深い そこにはさまざまなエピソード、たとえば西条八十との出会いなど興味深い事実が語られ ているが、子供の頃「ヤセ型」で「色が黒く」「ガンジー」と呼ばれていたことや、「人見知 りがはげしく」「引っ込み思案」だったことなど、意外でもあるが一面では奇妙に納得させ られる叙述もある。

7. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

した。だんだん米軍が近づいてくる気配がしたので、私は婦長さんを抱いて、死んだ真似を していました。 けれど、負傷による衰弱と恐ろしさのあまり、私はまた気を失ってしまったようです。 意識をとり戻すと、私は、コザの米軍病院のべッドに横たわっていました。数日後、この 病院で、穴のあいた足に自分の大腿部の筋肉を移植する手術を受けました。 回復後、米軍の軍医のもとで数カ月間働いていると、私の消息を知った父が米軍病院に迎 えにきてくれ、私たちは生存を確かめて、抱き合って喜びました」 山城の丘での上原婦長の最期は、想像以上に壮烈なもので、戦争中ならば「名誉の戦死」 と称えられるような死に方だったといえます。 ことに、自分の妺のように可愛がっていた大城静子さんの上にのしかかるようにして急絶 えていたのは、砲弾から若い人の命を守ろうとした、母親のような献身の気持ちのあらわれ ではなかったでしようか。ほんとうに最後まで愛清の深かった人だったのです。 あのような場面で、しかも自分自身、悴しきっていた状態で、それほど他者への思いや りを尽くすことができた上原婦長の心には、崇高なものさえ感じます。 二十五歳八カ月という、花ざかりの若さでした。まだ何十年もの長い人生があったはすな のに、戦争に断ち切られただけでなく、それまで何カ月もの間、およそ考えうる最悪の惨禍 の、矢面に立って闘わなければならなかったのです。

8. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

んどいないでしよう。過去の悲劇の現場のなかに、現在の生活があるのです。 そういう耐えられない気持ちについても、私は、沖縄の方々とのお付き合いを通じて、 ろいろ教えていただくことができました。けれども、私のったない文章では、知りえたこと の何分の一も表現できなかったことを認めないわけにはいきません。不行届きの点はお許し をいただきたいと存じます。 沖縄の地上戦で、多くの犠牲者を出した当時の学徒隊が、ひめゆりの生徒たちだけでない ことは、本文にも書きましたが、ほかの同窓会のうち白梅同窓会 ( 県立第二高等女学校 ) の 崎山麗子さん、中山キクさん、大城政子さんはじめ皆さんには、貴重なお話をお聞かせ下さ しまして、ほんと , つにありがと , っイ、いました。 第八、九章の上原貴美子婦長さんについては、妹さんの上原ハル子さんのほか、元陸軍病 院看護婦の奥松文子さん、大城文子さん、神山カナさん、照屋とみさん、また看護婦養成所 時代からの友人である金城ツル子さん、そして現在アルゼンチンにお住まいの大城静子さん に大変お世話になりました。また生前の上原貴美子さんの写真を探して、ご提供くださった 西銘節子さんと上原ハル子さんのご親切にも厚くお礼を申し上げます。 お描きになる作品、お人柄、ともに日頃から深く尊敬申し上げている堀文子さんに、この 本の表紙を飾っていただけたら、というのが私の夢でした。画伯は、今秋九月、イタリアで 開催される個展のご準備で大変なお忙しさのなかを、快くご承諾くださり、私の夢をかなえ

9. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

友だちのために身命を賭して働いたのであります。 戦争中、毎日、爆撃に追いまくられて、毎朝目を覚まして自分の脈をとって、今日も生き ていた、と喜びを感じたものでした。そして、ひめゆりの学園は、ひめゆりの塔になってし まいました。痛恨のきわみです。 きようの卒業証書は、ただ単に学業の終了のしるしではなく、あらためて自己を確認し、 新しい生命力を得て、溌剌とした再出発をするための証書として受け取っていただきたいと 思います」 ひめゆりの学園が、戦火に焼かれてなくなってしまったために、これが最後の卒業式であ り、この人たちが最後の卒業生でした。その卒業生を代表して、現在ひめゆり同窓会の常務 理事を務められる本村つるさんが、答辞をのべられました。 「沖縄師範女子部卒業生九十人を代表して、感謝の言葉を申し上げます。いまを去る三十四 年前の三月二十九日、二本のローソクがかすかに三角兵舎内を照らすなかで、まったく異例 ともいうべき卒業式が行われました。艦砲射撃の弾が遠く近く炸裂し、ローソクの火が揺れ ていました。 あのとき、私たちは、ただお国のためにと、誇らしく傷病兵の看護に全力を尽くすのみで した。あのような状況のなかで、奇しくも生き延びて、今日、この日を迎えた私たちは、あ の卒業の日の顔ぶれが、いま皆この席にそろっていたら、と代わりにご列席いただきました

10. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

さん、脚本は『また逢う日まで』ほか多くの名作のある水木洋子さん、プロデューサーはマ キノ光雄さんという顔ぶれとのことでした。 若くて美しい女の先生に津島恵子さん、そして関千恵子さんのほかに俳優座の若手の女優 さん方が女学生役で大勢出演されるなかで、私には比較的重要な位置を占める女学生をやっ てほしいという話でした。 ムは、「これからは自由に、よい作品を選んで仕事をしたい」という意欲に燃えていたと ころでしたし、また戦争で悲惨な体験をした沖縄の女学生がテーマだという説明に強い共感 を覚えて、飛びつくように、「ぜひ出演できるようにお願いして」と、叔父に答えました。 これが、私にとって、代表作の一つとなるだけでなく、沖縄との個人的なかかわりが生ま れる原点となった、生涯忘れることのできない大切な作品、『ひめゆりの塔』です。 新しい作品に臨むときは、いつもそうですが、よい役をあたえられたことを喜ぶというよ り、むしろ大きな不安が入り交じったふしぎな緊張感を覚えるものです。 駆け出しのころだけでなく、その後の長い女優生活で、私は、優れた監督のよい作品に何 度も出演するチャンスに恵まれ、大変幸せだったと感謝していますが、振り返ってみると、 準備期間中はいつも不安と重苦しさでいつばいでした。 私を選んでくださった監督さんはじめスタッフの方々、そして出来上がった作品をみてく ださるファンの方々の期待を裏切ってはいけないと、その責任感におしつぶされそうになっ