しんだりしました。青春のよき時代をともにした、なっかしい思い出がいつばいで、「あの ころはよくあんなに時間があったわね」と話し合うことがあります。 忘れられないのは、私が初めてセリフをもらったときのことです。役は、あるキャ。ハレー のクローク係の女の子で、帰る客に預かっていた帽子を渡しながら、「ありがとうございま した」と、ただ一言いうだけのものでした。でもその一言のセリフをいうために何度練習し たことでしよう。そのときの緊張とうれしさは、何十年もまえのことなのに、いまだに忘れ られません。自分の衣裳やリポンの色まで覚えています。 この映画は、シベリアに抑留されていた日本兵の復員をテーマにした・『帰国 ( ダモイ ) 』 という作品で、主演は池部良さん、相手役がキャパレーの歌手の山口淑子さんでした。その ころは、戦後まだ日が浅く、戦争の傷跡が生々しいころだったので、こうした戦争や戦後の て 不幸を取り上げた映画が多かったのです。 この「たった一言」の映画出演のおかげで、翌年の春、私は島耕二監督の『窓から飛び出 おおひなた せ』という作品に抜擢されて、デビューを果たすことができました。大日方伝さん、轟タ起 子さん、小林桂樹さんとの共演でした。私の芸名も、それまでに「香川京子」ときまってい 優ました。 きようこ 女 この芸名の由来、というほど大げさなものでもないのですが、私の本名は、香子といって、 かすみ 母の香寿美の香の字をとってつけられたので、それを使って姓を「香川」、名は本名の音読
みをそのままにして「京子」と書き替えたのです。 叔父や家族と相談して、この名前がきまりました。 『窓から飛び出せ』に続いて『君と行くアメリカ航路』『東京のヒロイン』とつぎつぎによ し役をいただくようになり、仕事は急ににしくなっていきました。『東京のヒロイン』はバ ハレエのおけいこに レエの好きな都会の女学生の役で、「白鳥の湖」を演じる場面があり、 も通いました。これで、バレリーナになりたかった昔の夢をちょっぴり満たした気がしたも のです。 そのころは、映画会社それぞれに専属のスターがいて、会社がその人に合った企画を考え て、宣伝してくれるという、女優にとっては、ありがたい時代でした。それなのに、デビュ ーしたばかりの私は、出演する作品を一方的に会社からきめられるのがとても嫌で、一日も 早く、自分で納得できる作品を選んで出演できるようになりたい、と考えるようになってい ( した。 この気持ちは四十年以上たったいまでもまったく変わっていませんし、その点では自分の 頑固さにときどき呆れてしまうことがあります。 新東宝に入社して三年目の一九五二 ( 昭和二十七 ) 年、それまでにかれこれ十数本の映画 丿ーになりました。 に出ていましたが、私は、新東宝を退社してフー 叔父が、私のマネジャーをしてくれるようになったこともあって、「フリ ーになりたい」
長谷川一夫さんが茂兵衛、私がおさん、私にとって人妻役はこれが初めてでした。京都が 舞台ですが、京都弁も初めて、長い裾を引いた衣裳を着るのも初めて、なにもかも初めてづ くしなので、溝ロ監督も困られたのでしよう。私の母親役で出演されていた浪花千栄子さん を指南役につけてくださり、つきっきりで話し方から歩き方まで指導していただきました。 親身に教えてくださった浪花さん、そして未熟な私のために何度も繰り返されるテストを 何もいわずに付き合ってくださった長谷川一夫さんのおかげで、どうやら乗り切れましたが、 この大先輩二人だけでなく、監督さんも故人となられたことは本当に残念です。 溝ロ監督という方は、演技についてはすべて俳優にやらせて、ご自分では何もいってくだ / ンチン さらない、「は、、ではやってみてください」とおっしやるだけです。ご自分は、、 グをかぶって、白手袋をはめて、椅子にデンと座ったままです。私のほうは、手も足も出な いありさまで、浪花さんを頼みの綱にして、ただ無我夢中の毎日でした 監督さんによると、その役の気持ちになりきっていれば、自然に動けるはすだとおっしゃ るのですが、たしかにそれは芝居の基本で、私は、その基本を、これらの巨匠と呼ばれる名 監督の方々の厳しいご指導によって、いちばん大切なときに仕込んでいただいたという気が します。 ーサル このあと一九五七年、黒澤明監督の『どん底』に出演がきまり、扮装テスト、リハ が始まりました。ゴーリキーの原作を翻案したもので、まるで掃きだめのような長屋で暮ら
ちわをあおいだら、手を下ろして」というふうにいわれたのを覚えています。 笠智衆さんの父親、東山千栄子さんの母親がすばらしく、それに私にとっての大きな喜び は、憧れの原節子さんが私の義理の姉の役で出演されたことでした。戦争で亡くなった次男 の嫁であるこの姉は、実の息子や娘よりも温かく両親をもてなします。 尾道のロケーションでも、原さんと隣り合わせの部屋に泊まり、いろいろお話をうかがえ るのがただうれしく、どきどきしていました。少しの気取りもなく、明るくて、いつもニコ ニコしておられた美しい笑顔が忘れられません。 一昨年、テレビの仕事で、このときのロケーションのあとをたどって、三十七年ぶりに尾 道を訪れ、同じ宿の同じ部屋に泊まりましたが、周囲のたたすまいはほとんど変わらす、静 かな瀬戸内海を眺めていると、監督さんや原さんはじめ皆さんとご一緒に、夕食を囲んで話 の花を咲かせたことなど、思い出は尽きませんでした。 その翌年の一九五四年は、私にとって、それまでにない試練の年になりました。近松門左 衛門原作の「おさん茂兵衛」の物語 (r 大経師昔暦しを新しい解釈で描いた、溝ロ健二監督 の『近松物語』に出演しました。お金のために結婚させられた若いおさんが、ふとした誤解 から手代の茂兵衛と不義のうわさを立てられ、二人で家を出ますが、いっか二人の愛は真実 のものとなり、逃避行の末、捕らえられて刑場に引き立てられても、二人を引き離すことは です。 できないというストーリー
台本を見て飛びつく 映画界に入って三年目の一九五二年、まだ二十歳を過ぎたばかりの私は、以前からの願い がかなってフリーになったこともあって、出演する作品の幅も広がってきました。 東映の『嵐の中の母』という、戦犯の問題を取り上げた作品で、水谷八重子さん、沼田曜 一ざんとご一緒させていただき、同じ年、東映東京の『黎明八月十五日』という、終戦前夜 の政界や軍部の動きを描いた関川秀雄監督の作品にも出演、戦争の実体験に乏しかった私が、 ドラマの世界では戦争のいろいろな場面を「追体験」するようになりました。 田中絹代さんとの『おかあさん』の撮影で多忙だった五月のある日、マネジャーの叔父か ら、「こんな話があるんだけど」といって、新しい映画出演の話が持ち込まれました。 その作品は、やはり東映東京の製作で、監督は『青い山脈』『また逢う日まで』など多く の名作を世に送り出し、当時の女優さんたちが一度は出演させてほしいと望んでいた今井正 第四章映画『ひめゆりの塔』との出会い
てしまうのです。 けれども、弱気にばかりなってもいられす、あたえられた役を私なりに精いつばい演じて 「やつばり、この人にやってもらってよかった」といってもらえるようにならなければ、 自分にいいきかせたり、ムチ打ったりして、その役に飛び込むということの連続だったよ , っ な気がします。 『ひめゆりの塔』に出演がきまったときは、まさにその心境で、撮影開始に向けて準備が准 められるにつれ、私の緊張は高まるばかりでした。 撮影に先だって渡された台本を一読したとき、私は、ストーリーの息づまるような迫力に 圧倒されて、「ああ、こんなにひどいことがあったの。なぜ、こんなに若い人たちが、苦ー まなければならなかったのだろう、かわいそうに」と、いままで知らなかった戦争の現実 出 と見せつけられた思いで、いても立ってもいられないような衝動を覚えました。 塔沖縄という日本の一角で、そのときの私とそう年もちがわない、学業なかばの女学生た が、戦争末期に軍の看護婦として動員され、激しい地上戦に巻き込まれて、米軍の攻撃にき ゅ め らされながら、島の南端に追い詰められて多くの犠牲者を出す、という話は、単なるドラマ ひ 画ではなく、その七年前に実際にあったことですから、感動や怒りを覚えないとしたら、その 映 ほ , つがおかしい《、らいでした。 映画『ひめゆりの塔』のあらすじを、ここに紹介しておきましよう。
の一九四五年に卒業生を送る歌としてつくられ、いまも同窓生たちに親しまれています。 目に親し想思樹並木行き帰り去り難けれど 夢のごととき年月の行きにけむあとぞくやしき 哀愁をおびたメロディーは、人の心をとらえすにおかない美しい曲で、いまは跡形もなく なった校舎まで続い ている並木の緑や風の音まで心に浮かんでくるような、私の大好きな歌 です。作曲者の東風平先生は、当時まだ若い音楽の先生でしたが、ひめゆりの引率教師の一 人として戦死されました。 ところで、私はその後も、テレビドラマでは、同じひめゆり学徒隊の、亡くなった同級生 の姪にあたる娘を、陰ながら面倒をみているという女性を主人公にした『ひめゆりの詩』と 、う乍ロに出演しました。 また、投降を示す白い布を本の枝に結びつけて壕から出てきた写真で有名な『白旗の少 女』も、当時、七歳だった比嘉富子さんの実話をもとにドラマ化されて、その作品では、私 は壕のなかで、にわか作りの白旗を持たせ、少女を送り出してやる目の見えないおばあさん の役を演じました。 こうしたドラマの仕事もからみ合って、私の沖縄の方々とのお付き合いも広がり、毎年五 月ごろに開かれる「ひめゆり同窓会東京支部」の集まりにも、ときどき出席させていただく よ , つになり、ました。
いんごう す、さまざまな人間が登場します。私の役は、因業な姉夫婦にこき使われている娘で、地味 な汚い着物をまとって働かされています。 黒澤監督は、撮影に入るまえのリ ーサルを大切にされる方で、毎日、出演者が扮装をし て、セットでリ、 ーサルを繰り返しました。そのうち、最初は借り物のようだった衣裳がだ んだん自分の身についてくるのは不思議なほどです。 またスタッフや出演者が長屋の生活をもっと理解できるように、と黒澤監督は、落語界の そこっ 第一人者だった故古今亭志ん生師匠を東宝撮影所に招かれて、司粗忽長屋』の一席を私たち に聞かせてくださいました。撮影所の狭い日本間で、目と鼻の先で名人芸を拝聴できて、大 変参考になっただけでなく、黒澤監督の行き届いた配慮に感動したものです。 その後『悪い奴はどよく眠る』『天国と地獄』「赤ひげ』と、黒澤監督の作品に続けて出演 させていただき、そのつど、多くのことを学びました。 一時期、私は、つぎつぎに巨匠といわれる監督さんの立派な作品に起用していただいて、 「監督荒らし」といわれたこともありますが、私自身は、「この役は私にびったりです。ぜひ、 やらせてください」などと申し出るような勇気も自信もまったく持ち合わせていませんでし た。ただただ、幸運だったと、いまでも感謝しています。
さん、脚本は『また逢う日まで』ほか多くの名作のある水木洋子さん、プロデューサーはマ キノ光雄さんという顔ぶれとのことでした。 若くて美しい女の先生に津島恵子さん、そして関千恵子さんのほかに俳優座の若手の女優 さん方が女学生役で大勢出演されるなかで、私には比較的重要な位置を占める女学生をやっ てほしいという話でした。 ムは、「これからは自由に、よい作品を選んで仕事をしたい」という意欲に燃えていたと ころでしたし、また戦争で悲惨な体験をした沖縄の女学生がテーマだという説明に強い共感 を覚えて、飛びつくように、「ぜひ出演できるようにお願いして」と、叔父に答えました。 これが、私にとって、代表作の一つとなるだけでなく、沖縄との個人的なかかわりが生ま れる原点となった、生涯忘れることのできない大切な作品、『ひめゆりの塔』です。 新しい作品に臨むときは、いつもそうですが、よい役をあたえられたことを喜ぶというよ り、むしろ大きな不安が入り交じったふしぎな緊張感を覚えるものです。 駆け出しのころだけでなく、その後の長い女優生活で、私は、優れた監督のよい作品に何 度も出演するチャンスに恵まれ、大変幸せだったと感謝していますが、振り返ってみると、 準備期間中はいつも不安と重苦しさでいつばいでした。 私を選んでくださった監督さんはじめスタッフの方々、そして出来上がった作品をみてく ださるファンの方々の期待を裏切ってはいけないと、その責任感におしつぶされそうになっ
映画『ひめゆりの塔』に出演したときの私 ( 1953 年、東映東京作品 )