私自身は、縁故疎開のおかげで、爆弾や焼夷弾の下を逃げまどったり、けがをすることも なく、家族に犠牲者を出すこともなくて、ほんとうに幸せでした。でも、自分がおとなにな り、家庭と子供を持って、多少世の中のことも分かるようになってきた最近になって、よう やく戦争の恐怖というものが理解できるようになってきたのです。 戦火のすぐそばにいた私でさえ、真実を知るのにこんなにも時間がかかったということは、 私自身、ほんとうにじれったいし、それも知らすに、これまで安穏としていたと思うと、戦 争の犠牲者にたいして申しわけない気持ちでいつばいですが、いまからでも遅くはない、戦 争のことについてだけは、自分の子供や孫の世代のために、母親として、いうべきことはい おう、と思いを新たにしているわけです。沖縄はじめ各地で、私と同じ世代の女性の多くが、 いま同じ決意で立ち上がっておられるように。 西条八十先生との奇遇 私はなぜ女優の道に入ったのだろうと、ときどき不思議に思うことがあります。あの引っ 込み思案で、人見知りのはげしい私が、女性の職業のなかでも特別目立ちやすい職業を選ぶ ことになったのですから。けれどこの道そろそろ四十二年、こんなに長く続いているところ をみると、まちがった選択でもなかったということになります。 自分自身の判断で道を選んだというよりは、目に見えない不思議な力に引っ張られて、ま
という願いは、思ったよりすっと早く実現しました。また、叔父がロぐせのようにいってい た、「香ちゃんは、女優らしくない女優になればいいんだ」というアドバイスも、自分では そのつもりはなかったのに、世間からは「らしくない女優」のイメージで見られるようにな り、それなりに私の女優としての仕事も軌道に乗っていきました。 名監督の作品に恵まれる これまでに出演した映画のなかで、いちばん印象に残っているのはどれか、とよく聞かれ るのですが、最初の転機となった作品は、成瀬巳喜男監督、水木洋子さん脚本、新東宝製作 の「おかあさん』でした。 小さなクリーニング店を営む一家の生活を、お母さんを中心に描いたホームドラマで、田 て っ 中絹代さんが初めてお母さん役を演じられ、私はその長女の役です。 成瀬監督は、大変穏やかな方で、いつもニコニコしておられますが、それでいて鋭い目を お持ちの方でした。セットのなかはとても静かで、撮影は毎日規則的に進み、のびのびと楽 あんず しく仕事をさせていただきました。その後『稲妻』『杏っ子』などでお世話になりましたが、 優優しさはいつも変わりません。 女 田中絹代さんとは二度目のお付き合いでしたが、仕事にたいする情熱は、女優一年生の私 にとって、驚くばかりでした。とくに感動したのは、貧しさゆえに、次女を親類の養女にす
まえがき 第一章沖縄祈りの旅 第二章私の青春と戦争 第三章女優らしくない女優になって 第四章映画『ひめゆりの塔』との出会い 第五章三十四年目の卒業式 第六章語り部となった奇跡の人たち ひめゆりたちの祈り目次
しると一一 = ロ , つ。 たとえどんなに重要な役柄を演じたとは言え、一つの出演作から、その作品とかかわり 持つ人たちとそのあと十数年以上もの間親しく交流を持つ、という例はそう沢山あるわけ はないだろう。とすれば、このエピソードは女優「香川京子」というよりも、ひとりの人 としての香川さんの魅力を、存分に物語っているといってよい。本書にはそういう香川さ , の人間的な魅力が満ちているのである。 演技派の大女優でありながら、そうした構えは微塵もなく、この種の文にありがちな " 』 てら 取り…や " 衒い , もなく、ひめゆり同窓会の会員たちと同じ視座で、過去に思いをとどめ土 来に思いを馳せる。「文は人なり」とは、言い古されたありきたりの言葉だが、思いを淡 とそして率直に綴った文章はその内容と共に、まさに香川さん自身の人柄をそのまま示し一 いるように思われる。さらに、その文章の与える印象は、控え目だが心暖かく責任感の強」 「上原文」のイメージに重なり、それを見事に演じ切った女優「香川京子」のイメージそ ( ものとなる。 もちろん、香川さんの人柄を現しているのは、飾り気のない文章だけではない。本書の E 巻とも言うべき「上原貴美子婦長」の写真を探し求め、婦長の最期の様子を知るべく手段も つくす、その行為自体にも、それは現れている。 陸軍病院第一外科壕で、女学生たちを支え、「日本のナイチンゲール」とまでたたえら
あそう 私の母は、茨城県麻生という、霞ヶ浦の東岸にある町の旅館に生まれました。二男四女の 次女で、きようだいはみな大柄でした。ことに四姉妹はそれぞれに陽気で個性的な、明治生 まれとしては″翔んでる〃タイプだったようです。 母と三つちがいの末の叔母などは背も高く、当時としてはめすらしく洋装の似合う人で、 ペレエ帽をかぶり、さっそうと歩く姿は、大正から昭和の初めごろにもてはやされた「モ ガ」 ( モダンガール ) の典型かと思われたはどです。 この叔母は、女子美術専門学校で絵画の勉強をしたあと、築地小劇場の衣裳係としてしば らく働いていましたが、映画界にいた永島一朗と結婚しました。 叔父となった永島は、三十年以上も私の個人マネジャーを務めてくれましたし、叔母は私 がロケで京都に長期間滞在するときには付き人として、なにくれとなく面倒をみてくれて、 この二人がいなかったら、私もこんなに長い間、女優の仕事を続けることはできなかったと、 いまでも感謝しています。叔父は、十年はどまえに他界しましたが、叔母は八十歳を過ぎて なお健在です。 かすみ 母の名は、霞ヶ浦にちなんで「香寿美」といいました。姉妹のなかでは割合和風のところ があって、長唄や三味線の心得もありましたが、東京の女学校に通っていたころは、浅草オ ペラに熱をあげて、暇さえあれば通いつめていたようです。女学校を卒業後、歌手を目ざし て、音楽学校を受験しましたが、不合格となり、夢破れて家庭の主婦に落ち着きました。
第三章女優らしくない女優になって 楽しかった戦後の学園生活 一九四五年八月十五日の終戦の日は、疎開先で迎えました。その日は松の根油掘りの疲れ で発熱し、家で寝ていると、正午にラジオで天皇の玉音放送があり、戦争に負けたらしいこ とが、うすうす私にもわかりました。 「ああ、これで空襲の心配もなくなった。助かってよかった」 というのが、そのあとの実感でした。大きな爆撃は経験しなかったものの、土浦の海軍航 空隊の基地に近かったため、基地を攻撃する米軍艦載機の通り道になっていたらしく、とき どき住民も機銃掃射の被害を受けて、近くで女学生が死んだという話も聞いていました。 幸いなことに、私の家族は親子五人、みんな無事で、池袋の家も戦災を免れることができ ました。私が、疎開先でのんきに通学していたちょうど同じころに、冲縄はじめ各地で、同 じ年ごろの子供たちをふくめて、何百万という人が被災し、傷ついたり、命を失ったりして
201 解説 また、コーラスで舞台にたっ際「最前列に並ぶのはきらいで、二列目くらいがいちばん ~ ほうふつ 心でき」たなどという人柄を彷佛さぜる釵述、映画界にくわしい叔父の反対を押しきって , 優になるという芯の強さを示すエピソードなど、女優香川京子の魅力を知るさまざまなエ ~ ソードもさりげなく語られている。 これらは、多くの香川京子ファンにとって見逃せないところだろうと思うが、その眼で「 れば、映画「ひめゆりの塔』との出合いから、「ひめゆり同窓会」の人たちとの交流など 本書に述べられたすべてが、女優「香川京子」の魅力を、その人柄を通して語っていると ) 読めるのであり、今井正、成瀬己喜男、小津安二郎、溝ロ健二、黒澤明という名監督に起 されて数多くの名作の主役を演じ、「監督荒らし」と呼ばれたことの秘密が、ようやく判 ( てくるように思われる。そうして読後、「やつばり」と充分に納得できる思いになるにち いないのである。 ( おかもと・けいとく琉球大学教授 )
女優にしたら」とすすめられていたことは聞いていました。でも、私は、面白半分にからか っているのだろうと思って、まじめには取り合いませんでした。 むしろ、そのころの私は、戦後初めて見たバレエ「白鳥の湖」に心が奪われ、バレリーナ を夢みて、あちこちの稽古場を見学して歩いていました。けれど、それも年齢的にスタート が遅いということがわかって、あきらめるほかありませんでした。 そのように心はゆれ動いていましたが、ただ美しいもの、芸術的なものにふれたとき、 「この感動を、受ける立場でなく、あたえる立場になれたらどんなにいいだろう」という思 いがだんだんふくらんでいったことは確かでした。 映画界にくわしい叔父に相談したところ、即座に反対されました。 「うまくいけばいいが、一つまちがえば、一生みじめな思いをしなければならない。そうい う例は、山ほどあるからね」 叔父がなんといおうと、私の決心には変わりありませんでした。叔父には申しわけないと 思いながらも、無断で東京新聞のニューフェイス募集に応募しましたが、第一の関門、書類 審査にパスしたのかどうか、その連絡もないまま、卒業式を迎えてしまいそうでした。 考えてみれば、女優という華やかな世界を目ざすというのに、私が送った写真は、卒業ア ルバム用に撮ってもらったお下げ髪の素顔の写真だったのですから、およそ見映えがしませ ん。通らなくても当然だったでしよう。なんとも、こわいもの知らずでした。
本多勝一風呂の入リ方、人名表記な 香川京子戦争体験を持つ、映画「ひめ しやがむ姿勢はカッコ悪いか ? ど日本的生活様式を総点検ひめゆりたちの祈りゆりの塔」主演女優の想い 本多勝一アイヌが不当な扱いを受け 中村喜春知性と江戸っ子気質で人気 江戸「子芸者中村喜春一代記烹編を博した新橋芸者の一代記先住民族アイヌの現在ていないか、現場から報告 中村喜春新橋芸者の心意気をアメリ デニス六ンクス、森田ゆりアメリカ先住民の権利を守 地王か ( る・魂るため闘うデ = スの半生 江戸「子芸者中村喜春一代記編カ人に示した一代記最終巻 砂川しげひさなんたってクラシックは最 ー圭子建築界に異彩を放っガウデ ガウディの生鹿イの全生涯と建築観の変遷かんばれクラシック高 / 楽しさ満載の応援歌 佐藤文隆宇宙の果てからクオークま 宮淑子男中心の社会で見逃されて 庫セク、ンユアル・ハラスメントきた性犯罪の実態を暴く , ・ 宇宙のしくみとエネルギーで、ナゾの世界にご案内 / 中村喜春焼け跡の日本から、自由な 朝 江戸「子芸者中村喜春一代記戦後編天地を求め、アメリカ ~ 出発 藤原英司野性イルカと人間の交流録 ←冊からの使亠名イ・ルカから保護論の原点を考える 藤原新也インド世界を独得の視点か . 印甞区放良ら感性豊かにとらえる〈合本〉 山口玲子芸者・女優・愛人、波瀾に富 女優貞奴んだ川貞奴翻身のドラマ 本多勝一編日本最大の湿原の無残な現 釧路汨証原状を紹介、再生の道を探る
「やつばりだめだったのか。世間はそんなに甘くはないわ」と、あきらめて、べつの就職ロ まの和光です。 を探さなければというので、銀座の服部時計店を受験しました。い こちらが順調に進んでいるころ、東京新聞から「書類審査にパスした」という吉報が届い たのです。 「こうなったら、行けるところまで行ってみよう」と思って、両方のテストを並行して受け ていたところ、両方とも順調にいって、最後の撮影所のカメラ・テストと、和光の最終面接 が同じ日の同じ時間に重なってしまったのです。 と , っし 「運命の分かれ道」という一一 = ロ葉がありますが、このときはまさにそれを感じました。、、 ようか、と迷っている私に、母は「好きなほうを選んだらいし 、じゃないの」と、まったく単 純明央にいうのです。この一言が私にとって何にもまさる強い味方になりました。 服部時計店のほうは、電話でていねいに断り、最後のカメラ・テストに挑戦した結果、東 宝から分かれて独立後二、三年目の「新東宝」に入社がきまりました。 私の映画界入りに反対した叔父は、偶然にもこの会社の宣伝課長だったので、いったん入 社がきまったあとは、長い年月にわたって私を支えてくれました。 大スターたちに教えられて この年の六月、私は女優としての第一歩を踏み出し、撮影所通いを始めました。女優とい