子供たち - みる会図書館


検索対象: ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ
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1. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

172 貴美子さんの夢だったのではないか、と私は思います。 もともと気丈な反面、だれにも優しくて女性的だったといわれる彼女は、助産婦の道をえ らんだことからみても、子供好きの人であったことはまちがいありません。毎日、赤ちゃん をとり上げて、世話をする仕事をしていたのですから、子供が好きで好きでたまらなかった はずです。 「もし結婚したら、子供をたくさんつくりたい」というのは、貴美子さん自身がすっと心の 奥にしまっていた、女らしい夢であり、願いだったのではないでしようか。 たくさんの子供に囲まれて満足そうな母親ーーなんて平和な姿でしよう。女が子供をたく さん産み育てられるような世の中は、平和なときに限られます。 砲弾の嵐のなかで、いまにも命を失いそうなときに、貴美子さんは、「早く平和になって しい」という切実な気持ちをこの言葉で表したのです。たくさんの可愛い子供を育てる楽 しい家庭、砲弾にねらわれる心配もなく、悲惨な流血も死も襲ってこない安全な社会 れこそ貴美子さんの夢でした。 が、その夢は、つぎの瞬間にもろくも消え去ってしまいました。あの若さで、夢は何一つ 果たされないままに。 私は、戦争の最大の罪は、若い人たちの夢を奪ってしまうことだと思います。その人には、 まだ長い将来があるのです。勉強、仕事、家庭、子供、友だち、趣味、楽しみ : : : 無限とさ

2. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

171 第十章若い命を守るために 「子供さんをたくさんつくりたいね」 山城の丘に追いつめられた、陸軍病院第一外科の比嘉軍医と看護婦三人が砲弾を避けて みのなかに潜んだとき、上原貴美子婦長は、そばにいた後輩の大城静子さんにいろいろな , とを聞いたり、話しかけたりしたということです。 自分自身も生死の境にあった静子さんは、上原婦長の言葉をほとんど覚えていません。 れども、たった一言、なぜか心に残っていた言葉があったのです。 「静子さん、もし結婚したら、子供さんをたくさんつくりたいね」 これが、この世に残された上原貴美子さんの最後の言葉でした。 それは、静子さんへの遺言であるだけでなく、最愛の妹ハル子さんへの伝言であったか 7 しれません。 と同時に、結婚してよい家庭を持ち、子供をたくさん育てることが、まだ二十代なかば (

3. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

たびに痛感します。私などは、まだまだほんの一部を、小さな小さな断片を知ったにすぎま せん。私のように、戦争の時代に育った者でさえそうですから、私たちの子供の世代は、な お戦争というものを理解することは困難でしよう。 しかし、戦争の悲惨を二度と繰り返さないためには、ます戦争の真実の姿を知っておかな ければなりません。そのためには、日本で唯一の地上戦の戦場となった沖縄は、広島や長崎 とならんで、貴重な教材を提供してくれています。 沖縄からの帰り、那覇から乗ったジャンボ機は、おみやげの袋をさげた観光客などで満席 でした。昨年二百九十五万人に達した来県者が、今年は三百万人を突破するのは確実でしょ う、とハイヤーの運転手さんが太鼓判を押していました。 ふと気がつくと、搭乗ロの列のまえのほうに、チョゴリを着た韓国女性二人の姿がありま とかしき した。そのまわりに同行する韓国教会女性連合の人たちがいて、ちょうどその日、渡嘉敷島 で開かれた慰霊祭に出席して証言した元従軍慰安婦の一行とわかりました。 同じ便には、沖縄各地でオープン戦をすませたプロ野球の選手たちも乗り合わせて、ほか みやこ の乗客の視線を集めていました。宮古島でオープン戦が催されたのは今年が初めてだそうで す。 沖縄に内在する明と暗、過去と末来が、同乗しているかのような機内の光景でした。

4. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

丘のふもとに散在する農家の一軒を訪ねて、戦跡への道案内をお願いすると、七十歳ぐら いの女性がしぶしぶ承知してくれました。 「あんたたち、本土からきたの ? あんたは沖縄の人 ? ウチらは、本土の人とは話したく ない。戦争中、本土の人たちはひどいことをしたからね。民間の壕から子供までみんな追い 出して、兵隊が入ったんだから。本土の兵隊はだめ。出されたために死んだ子供がいつ。し いるよ。ロではいわれないほど、変な死に方させてるよ」 陽焼けして鋭い目をした彼女は、戦後四十何年たってもおさまらない怒りを私にぶつけま 「それは : 子供を殺したということ ? 」 「ウーン、そうそう。これ、内緒だけどね。泣くから、うるさいから、殺して自分たちが入 ったのよ。死んだ子の親たちがまだ生きてますよ。残酷で、同じ日本人とは思えない。ほん とにたらしいよ」 言には聞いていたけれど、面と向かって事実を突きつけられたのは初めてでした。 「ウチらは、、兵隊さんの炊事をやってあげていたのに、いざとなったら、追い出されて喜屋 武岬の南までいった。あっちもこっちも、みんなひどいことされたよ」 丘の高い場所に着くと、その女性は密林のなかを指して話しました。 「あそこにはまだ白骨がい つばいあるね。こっちは兵隊さんが多いです。このあたりは負傷

5. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

東京大空襲の悲惨さ 私の長年の仕事仲間で、個人的にも親しいお友だちである女優の大鹿次代さんは、この空 襲の生き残りの一人です。最近、テレビの番組でご一緒に旅行したときに、その様子につい て詳しくうかがう機会がありました。 当時、大鹿さんの家族は、両親と子供八人の大世帯で、浅草にお宅があったそうですが、 月学校六年生と三年生の弟さん二人は学童疎 九人目のお産をひかえたお母さんは福島県に、、 ' 開で宮城県に行かれ、ほかのきようだい六人とお父さんが東京に残っておられました。 三月九日の夜は、たまたま六年生の弟さんが中学受験のために疎開先から帰ってこられた というので、子供たちは大喜びで夜までトランプなどをして遊ばれたそうです。お父さんは、 三日まえに向島に別の貸家を見つけて世帯道具の半分を連び、そちらに移っておられました。 「三月十日は陸軍記念日だから、こういう晩は空襲があるかもしれない。向島にきたほうが オし力」と、子供たちだけが浅草にいるのを不安がっておられたお父さんも、「ま 安全じゃよ、ゝ あ、今夜は三月九日だから、今夜のうちなら、大丈夫か」と、思い直されたそうです。 けれど、不幸にもお父さんの最初の予感があたって、米軍爆撃機四の大編隊は九日夜の うちに東京の江東地区目がけて襲いかかってきたのでした。 「時計を見たら、十時半なので『もう寝よう』といって寝たんです。すると、ものの三十分

6. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

えいえる可能性を、戦争はその人の人生が始まったばかりの若本のときに、ねじり取ってし まうのです。 「子供をたくさんつくりたい」 彼女がいまわの際に残して、今日まで伝えてくれたこの一言には、深い、重い意味がこめ られているように感じられて、私はいつまでも忘れることができません。 犠牲になるのは若い人たち 戦争でいちばん大きな犠牲を強いられるのは、いつも若い人たちです。時の権力者や指導 者は、自分たちは安全な場所から、若者たちに「やれ、やれ」と号令をかけて、死地に追い やっている面があるわけです。 戦争に負けても、多くの場合、強い立場にある人たちは、国民を戦争に導いた責任を免れ て、何事もなかったかのように、生き延びるのにたいして、若者や女性や子供、老人など弱 これが世界のどこでもみられる い者は、いつまでも戦争の被害に泣かなければならない 戦争の最も痛ましい現実です。 若い人たちが戦争でどんなに多くの犠牲を払うかは、沖縄戦の結果をみれば、はっきりし ています。 当時、沖縄には旧制中等学校、高等女学校は二十校近くありましたが、生徒のほとんどは

7. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

私自身は、縁故疎開のおかげで、爆弾や焼夷弾の下を逃げまどったり、けがをすることも なく、家族に犠牲者を出すこともなくて、ほんとうに幸せでした。でも、自分がおとなにな り、家庭と子供を持って、多少世の中のことも分かるようになってきた最近になって、よう やく戦争の恐怖というものが理解できるようになってきたのです。 戦火のすぐそばにいた私でさえ、真実を知るのにこんなにも時間がかかったということは、 私自身、ほんとうにじれったいし、それも知らすに、これまで安穏としていたと思うと、戦 争の犠牲者にたいして申しわけない気持ちでいつばいですが、いまからでも遅くはない、戦 争のことについてだけは、自分の子供や孫の世代のために、母親として、いうべきことはい おう、と思いを新たにしているわけです。沖縄はじめ各地で、私と同じ世代の女性の多くが、 いま同じ決意で立ち上がっておられるように。 西条八十先生との奇遇 私はなぜ女優の道に入ったのだろうと、ときどき不思議に思うことがあります。あの引っ 込み思案で、人見知りのはげしい私が、女性の職業のなかでも特別目立ちやすい職業を選ぶ ことになったのですから。けれどこの道そろそろ四十二年、こんなに長く続いているところ をみると、まちがった選択でもなかったということになります。 自分自身の判断で道を選んだというよりは、目に見えない不思議な力に引っ張られて、ま

8. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

ることになり、朝、門口に立って、母と長女が見送るシーンの撮影のときのことでした。妹 を見送って、ふと母を振り返ると、田中さんの頬に大粒の涙が流れているのです。 そのとき「ああ、これだけ役の気持ちになりきれるなんて、すばらしい方だなあ」と感動 し、大先輩に一歩でも近づくように勉強しなければ、と思いました。職業意識を持った、と でもいうのでしようか、そういう思い出のある映画です。 『おかあさん』の次にめぐり合ったのが、忘れることのできない一九五三年正月に封切られ た『ひめゆりの塔』ですが、この映画のことは、つぎの章で詳しくのべることにします。 同じ年の夏、小津安一一郎監督の『東京物語』に出演する機会をえました。いまだに国内は もちろん、海外でも非常に高く評価されているこの作品に、私も参加させていただいたこと はとてもうれしく、誇らしい気持ちさえしています。 ・おのみち 広島県の尾道市が舞台ですが、年老いた両親が東京に住んでいる子供たちの家を訪ねてく ると、子供たちにはそれぞれの家庭の事情があり、思うように親の世話をすることができま せん。結局、息子や娘の家をたらい回しにされるという、古くて新しい老人問題を取り上げ て、見事に描いた作品です。 小津監督は、大変厳しい方と聞いていましたが、私がまだ若いというより、幼い感じだっ たせいか、とても優しく指導してくださいました。 危篤に陥った母親を末娘の私が、うちわであおいであげるシーンのとき、監督が「五回う

9. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

う話が仲宗根政善先生を中心に持ち上がりました。皆さんで手分けして新しく見つけた故人 の写真を、写真の残っていない遺族に引き伸ばして渡したのだそうです。 さらに、全国的にも大きな反響を呼んだ一九八〇年の「ひめゆりの乙女たち展」がきっか けとなって、戦争体験を次の世代に語り継ぎ、二度と戦争を起こさせないための恒久的な訴 えの場として「ひめゆり平和祈念資料館」をつくろうという構想へ発展していきました。 それにしても、ひめゆりの同窓生たち、とくに学徒隊の生存者の方たちをそうした気持ち に駆り立てたものま、、 ししったい何だったのか、と私は考えてみました。 戦後三十五年といえば、彼女たちも五十代に入ったところで、子供はそろそろ独立し、時 間的にもゆとりができてきて、自分の人生を振り返り、これからのことを考える時期にきて いたのかもしれません。そのときに「自分が若いころに体験したあんな悲惨な思いは、子供 たちの、そして孫たちの世代には二度とさせたくない、い や、させてはならない」という、 母親としての強い使命感を自覚されたのではないでしようか。 「自分たちがいまやらなければ、戦争体験は風化してしまう。亡くなった同窓生たちの死も 無になってしまう。平和を願う彼女たちの遺志を、自分たち生き残った者があとの世代に語 り継いでいかなければ、だれがやるのだろう」 私の勝手な推測かもしれませんが、そんな気持ちだったのではないでしようか。もし、そ うだとすれば、同じ母親の一人として、また戦争中のひめゆり学徒隊とちょうど同じ年ごろ

10. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

らっていました。好きな童謡の「絵日傘」に自分で振りをつけて踊ったりしていたのは、将 来女優の道に進む素地が、私のなかに芽生えていたのかもしれません。 もう一つ、国語の時間に当てられて、教科書を音読するのが得意でした。これも、その後 朗読の仕事が好きになったことと、どこかでつながっているようです。 学芸会では、よくコーラスに出演していましたが、それも最前列に並ぶのはきらいで、二 列目くらいがいちばん安心できる位置と感じるような子供でした。 空襲と疎開と勤労動員と 私が生まれた一九三一 ( 昭和六 ) 年に満州事変が起こり、小学校に入る前年の一九三七年 に日中戦争が始まって、旧制高女二年生のときまで太平洋戦争が続いたのですから、私の学 校生活は十五年戦争とともにあったわけです。慢性的な物不足、食料不足で、そのうち空襲 の不安におびえる子供時代でした。 争 一九四四 ( 昭和十九 ) 年十二月、空襲が激しくなってきたため、私は茨城県下館にいた伯 母夫妻を頼って、親類の者といっしょに疎開しました。母が妹を連れて麻生に疎開してきた ののは翌年の六月で、そのあと私もそちらに移り、親子三人で終戦後まで過ごしたわけです。 父は、仕事で東京に残っていました。 私のきようだいは、二つ上の兄と八つ年下の妹の二人ですが、兄は終戦の年に海軍兵学校