生存者 - みる会図書館


検索対象: ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ
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1. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

148 これが最後か』と思い、私たちは声をかける元気もありませんでした。ひと月まえには地獄 で仏というか、優しくしていただいて、すっと気にしていましたのに : 。十九日の朝七時 ごろでしたか。それからまもなく集中攻撃が始まりました」 山城の高いところへ行き着けば、その先は絶壁と海です。目の前には海面が見えないはど 米軍の艦船がひしめいていました。もう逃げ場はどこにもなかったのです。 と , っ 4 は しかし、そのあと上原婦長は、一緒に登っていった軍医や同僚の看護婦とともに、。 ったのか、米軍の集中攻撃の弾丸で戦死したのか、それども軍医や看護婦が携帯していたと いわれる青酸カリで自決したのか、それは長い間のなぞでした。かっての看護婦の同僚もひ めゆり同窓会の生存者も、上原婦長の最期を正確には知らないままになっていたのです。 たった一人の証一一 = ロ者 山城の丘へ上原婦長と一緒に登っていった軍医や看護婦たちの四、五人のグループは、み んな行方不明なり、一人も生きては戻らなかった、そのために上原婦長の最期の様子は永 遠になそだろう、とだれにも思われていました。あの修羅場のことですから、それも仕方の ないことでしよう。生存者すら、自分の命を守るのに精一杯だったのです。 ところが、妹の上原ハル子さんのお話によって、上原婦長の最期を知るたった一人の生存 者が、いまも健在であることがわかりました。それは、南風原の病院壕にいたころから、ず

2. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

いた、とひめゆり学徒隊の生存者たちは証言していますが、彼らはまだそれほど若かった ( です。 傷痕は五十年たっても消えない 終戦から数えて今年はもう四十七年目です。ところが、戦争の被害と傷の痛みは、まだ々 くの人たちのからだと心のなかに、生き続けているのです。 このことは、沖縄の現実がいちばんよく物語っています。一例として、最近起きた一つ ( ェビソードをご紹介しましよう。 あさと 安里淑子 ( 旧姓池原 ) さんは、本書第七章に登場していただいた、ひめゆりの生き残り ループの一人で、学校の先生や校長を四十年余り務めたのち、定年退職されて、現在は物立 きたなかぐすく 問屋の仕事をされるご主人と、長男一家の六人で、那覇の北三十キロほどにある北中城 4 で暮らしておられます。 め 安里さん自身は、米軍の集中攻撃をかいくぐって奇跡的に助かったものの、三歳年上の「 を盛一さんが、現地召集で沖縄戦に参加したまま、行方不明になってしまったことは、安里 ~ んの実家であみ池原家が、戦後、すっと引きずってきた深い心の傷でした。 若 母親のオトさんは生前、「盛一が負傷したということは聞いている。けれど、戦死した いうことは聞いていない。かならすどこかで生きている。きっといっかは帰ってくる」と、

3. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

142 五月二十五日のことです。軍医や看護婦、ひめゆり学徒たちは、衛生材料などの最小限の荷 物を持って、大雨のなかを砲弾を避けながら、二十キロの道のりを歩いて南部へ移動します。 この人たちの先頭に立って南下していた上原婦長の様子が、いろいろな記録や証言に残っ ています。 このとき、ひめゆり学徒を引率し、戦後、生存者の証言をまとめた本を何冊も出版された 仲宗根政善先生 ( 琉球大学名誉教授、ひめゆり平和祈念資料館館長 ) も、たびたび上原婦長 の活躍ぶりに言及され、彼女を最大限に評価しておられます。 『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』 ( 角川書店、一九八〇年刊 ) には、五月四日、まだ病院 壕にいたとき、直撃弾で、生徒と患者が生き埋めになったのを、上原婦長が助ける場面があ ります。 ( 四一 ~ 四三ページ ) 「診療主任 ( 軍医 ) と上原婦長は四、五名の衛生兵をひきつれてただちに出動。 : : : しばら くして、ばろばろの白衣をまとった兵が一人掘りだされた。土まみれで顔も手足も血がにじ み、全身ぶるぶるふるえている。上原婦長が、この大の男の腕をひっかかえて、三角兵舎へ ひきすっていった。 大地から掘りだした生命を抱きしめ、はなすまいはなすまいとしている婦長のきびしさ。 鬼をひしぐような婦長の本能的強さに私はただばうぜんと見とれていた。糸満生まれの婦長 の体内には、波濤と戦った祖先伝来の血潮が流れているのだろう」

4. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

もちろん、模型で想像するよりも、事実はもっと深刻で、悲惨だったにちがいありません。 ひめゆり生存者のある方が私にこう説明してくださいました。 したた 「形はこのとおりですが、天井から絶えす滴り落ちる水と、そのためにぬかるみになった足 うみ 元、そして傷の膿や排泄物、人いきれが一緒になったあの臭いは、再現することができませ ん」 爆撃や砲撃のすさまじい音や震動も再現できませんし、負傷兵の看護をしながら、自分も いっ傷つくか、いっ死んでしまうか、という恐怖に襲われどおしだった彼女たちの心境を伝 えることも、なおさら不可能でしよう。 展示室の周囲の壁には、ひめゆり学徒隊の犠牲者二百人余りの写真パネルが、戦死状況の 説月を添えて展示されていますが、セーラー服姿でオカッパの遺影の列を見ていると、「な つ一三日 - ぜ、こんなに若い人たちが」と悲しみにもまして強い憤りを覚えずにはいられません。 跡部屋のところどころに中年の女性が立って、見学者からの質問があれば、ていねいに答え ておられます。この方たちこそ、資料館設立の原動力となり、いまも運営や活動を支えてい っ る、ひめゆり学徒隊の生存者を中心とした同窓生です。 「証一一一一口委員」と呼ばれる彼女たちは、自分が身をもって体験した戦争の恐ろしさと愚かしさ かたべ を、戦争を知らない世代に直接語り伝える現代の「語り部」です。 毎日、三人ずつがチームを組んで説明にあたり、各人が第一および第二展示室で三十分、

5. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

東京の周辺にも何人かの学徒隊の生存者がいらっしやるし、お互いに話の通じやすい同世 代の方々なので、私はだんだん自分が同窓生の一人であるかのような気分になり、皆さんも 親しみを持ってくださって、いつのまにか同窓会の準会員としてお仲間に入れていただくこ とに、なりき小した。

6. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

ほど強いとい「つこと、そして、も , つ一つは、 生き残った同窓生たちが亡くなったお友だち 証にたいして、いつも申しわけないという気持 ちを抱いて三十四年間をすっと生きてこられ たたとい , っことでした。 三十三回忌が過ぎて、そういうためらいの 気持ちにようやくふんぎりがついて、これか らは亡き友のためにも積極的に戦争体験につ めいて発一言し、二度と悲劇が起こらないように ・スするのが生存者の使命であると考えられるよ イうになったのではないかと推測します。 沖その一つのきっかけが、卒業式だったので 供はないでしようか。そのせいか皆さんの顔が、 式真思ったより明るくいきいきとして見えて、私 業写 卒 ( まで救われる気がしました。 のた 目れ 象 3 一 . 年さ

7. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

を出て同窓生たちと、南部へ散り散りになって撤退していきます。 ちょうど同じ二十五日ごろ、兄の盛一さんは重傷を負い、数日後戦死をとげたわけです。 首里の周辺の攻防戦は、日本軍が一日に五千人の死傷者を出したといわれるほどの死闘で、 すでに首里城下の地下司令部は二十二日に放棄されて、軍も南部の摩文仁方面に撤退するこ とを決めていました。 勉強好きでおとなしかったお兄さんは、若い命を学業なかばで戦争に奪われてしまって、 どんなに無念だったでしよう。 戦争のない世の中にしたい それにしても、戦争で亡くなった人たちは、私たち生き残った者に向かって何かを伝えた 何かを望みたいと、いつもあの世でもどかしい思いをしているのではないか、という気 がし寺 ( す。 戦死者から生存者へのメッセージ、あるいは祈りは何でしようか。すくなくとも、一つだ をけ、私にとってたしかなことは、《もう、二度と戦争は起こさないでほしい》ということだ いと田います。 これだけは、まちがいありません。なぜなら、ひめゆり同窓生や、その他多くの沖縄の生 存者の証言を聞いても、戦死した人たちは、最後に「こんど生まれるときには戦争のない世

8. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

宮良ルリさん 宮良ルリさんは、資料館のわきにある「ひめゆりの塔」の壕にいて、ガス弾攻撃を受けま 「お母さん ! 先生 ! 苦しいよう ! 助けて、助けて ! 殺して、殺して ! 」この世の地 獄と思われる阿鼻叫喚のなかで意識を失い、三日後に息を吹き返したときには、たくさんの 死体の下に埋まっていました。この壕には、ひめゆり学徒隊五十一人 ( このうち先生は五 人 ) を含め、看護婦や日本兵、民間人など合わせて九十六人が入っていましたが、この攻撃 で八十五人が死亡し、わずか十一人が助かりました。学徒隊の生存者は五十一人のなかの生 す。 「あなたは、なぜ助かったんですか ? 」 証一言委員が、見学者からいちばんよく受ける質問は、「あなたは、なぜ助かったんです か ? 」だそうです。 ほんとうに、彼女たち一人一人が、何度死んでもおかしくないような修羅場を生き延びる ことができた「奇跡の人」なのです。 「なぜ助かったか、私にもわかりません。偶然そうなっただけです」と、彼女たちは答えま みやら

9. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

しても大満足だったはすです。 けれども、そうした物質的な成功よりはるかに大きな意味をもつ情神的な成功を、この作 品はなしとげたと思います。 そのころはまだ戦争の記憶が生々しく、人々はやっと平和な時代に立ち返った喜びをかみ しめながら、戦争の非合理さ、悲惨さを反省していました。それだけに、『ひめゆりの塔」 にたいする感動と共鳴は、大きかったのでしよう。 「ひめゆりの塔』は、沖縄の戦争中の現実について、よく知らなかった、あるいはよく知ら されていなかった本土の人たちに事実を提供した、という意味が最も大きかったと思います この作品は、ドラマというより、セミ・ドキュメンタリーとしての迫力で、観客に感動を あたえました。もちろん、ドラマ的脚色も映画の各所に含まれてはいましたが、当時の撮影 出 の 条件が許すかぎり、事実に忠実であろうとしたことが、その後沖縄のひめゆり学徒隊の生存 塔者の方々の証言をうかがったりすることによって、私にもわかってきました。 沖縄の悲劇は、けっして「ひめゆりの塔」だけではありません。同じ女学生の犠牲者をま ゅ め つる慰霊塔には、「白梅之塔」も「すゐせんの塔」もあります。「積徳高等女学校慰霊之塔」 ひ 画や「梯梧之塔」もあります。それぞれが、ひめゆりと同じ年ごろの女学生たちの受難を語り 映 伝えているのです。

10. ひめゆりたちの祈り―沖縄のメッセージ

もっと早くくればよかった、という自責の思いは、空港に着いて、ひめゆり同窓生の皆さ んに初めてお目にかかり、まるで二十年来の友だちのように温かく迎えられて、戦跡のあち こちを案内していただいている間も、私の胸のどこかにわだかまっていました。 映画『ひめゆりの塔』ができてから、それまでに二十六年の歳月が流れていました。あの 映画は、ロケもセットもすべて東京の周辺でするほかなかった事情は、前章でのべましたが、 それだけに実際の体験者の気持ちにそぐわない面も少なくなかったのではないかと、私はた えず気がかりでした。 けれど、結局、私も出演者の一人にすぎなかったのですし、あれは映画というフィクショ ンの世界のことなのだから、と割り切ることにして、とにかくひめゆり学徒隊の生存者の 方々や、沖縄の皆様に直接お目にかかり、お互いの気持ちを話し合って、これからお付き合 いができたらすばらしい、と考えるようになりました。 そのためには、この沖縄訪問が、私にとって、またとないよい機会になったのです。 このとき私が引き受けた仕事は、ひめゆり学徒隊の皆さんが、三十四年ぶりに卒業証書を 手渡されることになり、その卒業式の場面をのドキュメンタリー番組で放映するので、 リポーターとして出演するというものでした。 はえばる 戦争末期の一九四五 ( 昭和二十 ) 年三月二十九日、米軍の攻撃のなかを南風原陸軍病院の 三角兵舎で、ひめゆり学徒たちの仮の卒業式が行われました。これは、映画「ひめゆりの