「彼女は、ある者には言葉をかけ、他の多くの者たちには黙ってうなすきながら、ほほえみ を投げかけていった。それだけでもわれわれは通り過ぎて行く彼女の影にくちづげをし、そ れから満足して再び枕に頭を埋めるのであった」 しかし、一年半あまりの看護活動による過労がもとで彼女は病いに倒れ、ふたたび健康を とりもどすことができす、九十歳までの長い後半生は、ほとんど病床に臥していました。戦 場での看護という仕事が、どんなに過酷なものであるかを、この事実が示しているといえま ー ) よ , つ。 そうした病身でありながら、ナイチンゲールは、政府やヴィクトリア女王夫妻を動かして、 陸軍病院や医療施設の改革をとげさせ、看護婦学校を創設して、看護の近代化に不滅の業績 を残したのですから、その精神力の強さは驚くべきものです。 レ 冲縄戦にも花のような人が 世界の人びとから看護婦の象徴と仰がれるナイチンゲールのような従軍看護婦が、その後 イ ナに起きた戦争でも存在したのではないか、と私は思うのです。 第二次大戦では、日赤看護婦だけで三万人以上の人々が中国大陸や東南アジア各地の戦場 で働いていたといわれています。このほか数は不明ですが、陸海軍が直接各地で募集した看 護婦や、ひめゆり学徒隊のような臨時の看護婦も相当な数にのばりました。
戦闘員や従軍看護婦や軍の手伝いなどで戦争に参加させられました。 男子生徒は、学校ごとに組織された「鉄血勤皇隊」に動員されましたが、二千人余りのう ち約千人が戦死しました。女子生徒は、ひめゆり、白梅、ずゐせん、積徳など、学校別の看 護隊に動員された約五百九十人のうち、過半数の三百三十人以上が戦死しました。 ( 『慰霊の 塔』大田昌秀著による ) いずれも、十三、四歳から十九歳までの、いまでいえば、中・高校生たちです。 このほかに防衛隊といって、十七歳から四十五歳までの民間男性のグループがありました。 この防衛召集は、実際には十三歳から六十歳ぐらいまでの、病人にたいしてさえ行われたと いわれます。そして、二万二千人から二万五千人の防衛隊員のうち、過半数の一万三千人が 戦死したといわれるので、若い人たちの犠牲者の数はさらにふくらむでしよう。 沖縄戦での戦没者数は、日本側約十九万人のうち、軍人、軍属が九万四千人、戦闘に参加 した住民が五万五千人、一般住民が約三万九千人余りという数字 ( 沖縄県生活福祉部援護課 の調べ ) があります。これにたいして米軍側は一万二千五百人といわれます。 戦死者は、日米合わせて二十万人を超え、このほかにそれ以上の数の負傷者がいるわけで す。軍人、軍属といっても、日米双方とも大半は二十歳前後、せいぜい二十代半ばの若者だ ったにちがいありません。 病院壕のなかで苦しみながら死んでいく兵隊のほとんどは、最後に「お母さん」と呼んで
その人たちの苦労もナイチンゲールのそれに、けっして劣るものではなかったでしよう。 いえ、もっと悲惨なものではなかったかと想像されます。というのは、十九世紀のころにく らべたら、武器は比較にならないほど進歩していましたし、戦争の規模も激しさも全然ケタ がちがいます。 それに、日本軍の従軍看護婦は、敗戦した軍と運命をともにして、日赤看護婦だけで戦没 者一〇八五柱という数字があげられています。悲運の従軍看護婦さんのなかには、きっとナ イチンゲールに優るとも劣らない、すばらしい女生もいたのではないでしようか。 武器を持たす、傷病兵の苦痛を救うために献身して、戦火の犠牲になった看護婦さん。じ つは、私のそんな想像を裏付けてくれる、看護婦の典型のような女性が、沖縄戦でもたしか に存在していたことがわかりました。 ちょうどナイチンゲールのように、彼女も戦場の傷病兵たちから母か姉のように慕われて いました。彼女は、暗い病院壕のなかで「ランプを持った天使」のように思われていました。 彼女が巡回してくると、兵隊たちは拍手と歓声で迎えたそうです。 同僚の看護婦たちも、ひめゆり学徒隊の人たちも、彼女の優しさと強さ、すばらしさにつ いて、いまでも口をそろえて、賛美しています。彼女は、兵士や女学生や同僚たちの敬愛を あつめた「あこがれの的」だったのです。そういう花のような女性が、あの地獄そのままの 戦場にほんとうにいたのです。
貴美子さんの写真がほしいと思って探しておりましたところ、西銘節子さんが三枚の写真 を探し出して送ってくださいました。一枚は、愛生病院の庭で、ご父君の院長先生を中心に、 ほかの看護婦さんやお手伝いの人たちと一緒に撮影されたものです。若々しく、元気そうな 貴美子さんは、一人だけ中央に座っています。貴美子さんの何かのお祝いか、記念の写真か と思われますが、はっきりしません。 西銘さんの記憶では、昭和十四、五年ごろのものではないか、とのことです。とすれば二 十歳か二十一歳のころ、まだ初々しさが残っています。 和服で一人の写真は、それより少しあとのものかもしれません。看護婦姿の貴美子さんよ り、やや落ち着いた女らしさが感じられます。もう一枚、和服で五人がそろった記念写真が ありますが、これも愛生病院の同僚の看護婦さんたちと同じ顔ぶれでした。 この二枚は昭和十六、七年ごろのものかと想像されますが、写真には日付けも説明もない ゲ ので、推測の域を出ません。いずれにしても、彼女が愛生病院から陸軍病院の従軍看護婦に 尹参加するまでの二、三年のあいだに撮影された、貴重な写真であることはまちがいありませ イ の 本 十代で妹の母代わりに 糸満の少女時代から那覇の看護婦時代へと、貴美子さんの成長の過程をたどるうちに、彼
0. 「看護婦さん、ウジが、耳のなかで : : : あば れる。と、とってくれ、看護婦さん」 「今いきますから : : : ちょっと待っててくだ 恵さいね」 津精神異常をきたし、暴れて手におえない負 傷兵も続出します。 英手術中、患者をおさえる手に血潮を浴びて、 岡上原文が気を失いかけ、軍医から、「これく らいで貧血起こして、看護婦といえるか ! 」 左とどなられるシーンもありました。 前病院壕のなかの看護作業や食料運び、死体 ン処理などで疲れきった彼女たちのなかからも、 つぎつぎに犠牲者や負傷者が出るようになり ます。 の生徒たちは二人一組で行動していましたが、 ゅ上原文とコンビの嘉浦春子 ( 楠侑子さん ) は、 の歌と踊りが得意で、井戸に顔を洗、こ、
144 南端の山城丘陵に登っていった人のなかに上原婦長の姿がありました。そのときの様子を 仲宗根政善先生はこう書かれています。 「幾人かの看護婦、生徒たちは山城の坂を登っていた。 ・ : 坂を登りつめ、掘割のところで 上原婦長といっしょこよっこ。、、、 しオオカしつも親しげに会釈していた婦長も、今日はロもきかすに うなだれていた。婦長は発熱して、疲労の極に達し、自分の身体さえ支えかね、国吉看護婦 の肩にもたれて、あえぎながら坂を登っていた。いつも看護婦、生徒たちの先頭に立って、 きびきびと指揮していたころのおもかげもなく、翼の折れた小鳥のように、、かにもものう さそうに見えた」 ( 前掲書、一九六 ~ 一九七ページ ) そして、この温厚な学者の、最大限ともいえる上原婦長への賛辞とねぎらいの言葉が続く のです。この文章は、上原婦長という人物とその働きが、異常な状態のなかで、いかにすば らしく輝いていたかの証言です。 「沖縄の女性で戦争中、上原婦長ほど勇敢に自分の職責をはたした者はなかったろう。いや、 日本の女性の中でもきわめてまれであったろう。婦長は、まったく心身のあらゆる力を看護 につかいはたしてたおれた。この婦長ほど悲壮な任務を負わされ、悲惨な環境に追い込まれ た者はほかになかったであろう。 ・ : 第一外科は、まったく婦長の指揮で活動しているかの感があった。つぎつぎとたおれ る看護婦の補充、割り当て、全体の統制、死体の埋葬、診療から食事のせわなどのいっさい
148 これが最後か』と思い、私たちは声をかける元気もありませんでした。ひと月まえには地獄 で仏というか、優しくしていただいて、すっと気にしていましたのに : 。十九日の朝七時 ごろでしたか。それからまもなく集中攻撃が始まりました」 山城の高いところへ行き着けば、その先は絶壁と海です。目の前には海面が見えないはど 米軍の艦船がひしめいていました。もう逃げ場はどこにもなかったのです。 と , っ 4 は しかし、そのあと上原婦長は、一緒に登っていった軍医や同僚の看護婦とともに、。 ったのか、米軍の集中攻撃の弾丸で戦死したのか、それども軍医や看護婦が携帯していたと いわれる青酸カリで自決したのか、それは長い間のなぞでした。かっての看護婦の同僚もひ めゆり同窓会の生存者も、上原婦長の最期を正確には知らないままになっていたのです。 たった一人の証一一 = ロ者 山城の丘へ上原婦長と一緒に登っていった軍医や看護婦たちの四、五人のグループは、み んな行方不明なり、一人も生きては戻らなかった、そのために上原婦長の最期の様子は永 遠になそだろう、とだれにも思われていました。あの修羅場のことですから、それも仕方の ないことでしよう。生存者すら、自分の命を守るのに精一杯だったのです。 ところが、妹の上原ハル子さんのお話によって、上原婦長の最期を知るたった一人の生存 者が、いまも健在であることがわかりました。それは、南風原の病院壕にいたころから、ず
ネクタイをして、いつも職員室の廊下側の席にきちんと座っていました。髪は三つ編みにし て、すらっとした、きれいなお節さんという印象が残っています。そのころから、私の親戚 だということがわかって、通りかかったときには『貴美子ねえさん』と呼びました。私が高 学年になったころには、もうおられなかったので、お給仕をされたのは、長くても二、三年 じゃなかったかと思います。私とは、歳が八つも離れていたので、親戚の集まりなどでたま に見かけても、あまり話をすることはありませんでした。 私が、貴美子さんと再会して直接話をしたのは、それから十年ほどたってからのことです。 そのとき貴美子さんは、戦場の真っ只中にあって、陸軍野戦病院の外科で働く婦長さん。私 は、師範学校から同じ病院に動員された、ひめゆり学徒隊の一人だったわげです。 まだ初期の看護教育を受けているときのことでした。ちょうど重傷患者が運びこまれてき たところに私も居合わせたのですが、さっそく貴美子さんから、『トミちゃん、実地訓練で , レ す。すぐ手術室にいらっしや、 し』と呼ばれました。 ン チ 初めてみる手術室の光景のすさまじさに、私はたちまち卒倒してしまいました。そのとき イ ナの貴美子さんは、もう給仕の面影はなく、すっかりペテランの看護婦になりきっていまし 日 糸満小学校で、いわばアルバイトの給仕の仕事をしたあと、貴美子さんは、念願どおり那 覇の看護婦養成所に入って、一年間勉強したのち、看護婦の資格をとりました。
115 第八章日本のナイチンゲールーー上原貴美子婦長さん 私は地獄を見た フローレンス・ナイチンゲールといえば、 いまでも看護婦の母のように慕われ、尊敬され ている十九世紀イギリスの女性です。伝記や絵本がわが家にも何冊かありました。 彼女は、もともと裕福な上流階級の生まれでしたが、華やかな社交界の生活にはあきたり す、両親の反対を押し切って、当時は貴婦人にふさわしくないと思われていた看護婦の道に 飛び込んだのでした。 しばらく病院に勤めたり、ロンドンの慈善病院院長として病院の運営に力を注いでいまし たが、一八五三年、三十三歳のときに、ロシアと、イギリス・トルコ・フランスの連合軍と の間でクリミア戦争が起こりました。 この三年間におよぶ戦争は、最もみじめな消耗戦の一つだったといわれますが、ナイチン ゲールは、翌一八五四年秋、イギリスの参戦直後に、修道女を中心とした看護婦の一団を組
124 きんじよう 女の十代の終わりごろのことをよく知っている金城ツル子さんという元看護婦にお会いす おろく ることができました。現在も那覇の近くの小禄に住んでおられて、元気な明るい方ですが、 貴美子さんのことを話されるときには、とてもつらそうでした。 げんじゅん 貴美子さんとツル子さんは、一九三七 ( 昭和十一 l) 年に那覇の元順看護婦養成所を受験 して仲良くパスした同期生です。年齢は貴美子さんが四歳上の十七歳でした。一年間の教育 を受けて卒業後、検定試験を受けて、これもめでたく一緒に看護婦資格をとることができま 「キミさん ( ツル子さんは、貴美子さんのことをそう呼ぶ ) は、私より四つ年上でしたが、 何をさせても上手で、養成所の成績はキミさんが同期で一番でした。先生にほめられるのは キミさんばかり。私なんかは若くて、にぎやかなもんだから、先生によく叱られていました。 検定試験が始まる前の晩に、キミさんともう一人の友だちが、那覇の私の家へ泊まりにき ました。糸満のキミさんの家から試験場の県庁までは遠いので、朝八時の試験開始に間に合 わないといけないから、というわけです。養成所で一番だったキミさんと、二番だったその 友だちは、先生から太鼓判を押されていたんですが、二日間の筆記試験と実地試験の結果、 その友だちは落ちて、キミさんと私が合格しました。試験場からの帰り道に、三人で歩きな がら答案のことをあれこれ話し合ったことをいまでも覚えています」 念願の看護婦の資格は取れたものの、貴美子さんは就職せすに「もう少し勉強したい