りながら、それからは一度も振り返らなかった。 台所では源がみんなに冷やかされて赤い顔をしていたが、おまさはもう見えなくな ったと蓑吉が言うと、こそこそと消えてしまった。 私も蓑吉もおまさを見たのはそれが最後だ。宿下りしたおまさは雪女郎に攫われた のではなく、狐に憑かれたそうだ。 鱈を引きずりながら酒に酔った人のように大声で唄を唄い、日暮れに自分の家へ戻 るとひとあばれした。それからは訳のわからぬことばかり口走って騒ぐかと思うと黙 りこくって、さめざめと泣く。おまさの家の者達は驚いて巫女を呼ぶと、巫女は、こ れは狐の仕業だといい 、その狐は主人の家のお稲荷さんが使っている狐だと言ったそ うだ。源がおまさの家へ行かぬ中に、おまさの家から、どうかお稲荷さんを浄めてた もれと、人が来た。 母は驚いて神棚を見上げた。うちの神棚にはお稲荷さんがまつってある。このお稲 荷さんは、もとは野原にまつられてあったのだが、よく通りかかる人達に仇をすると いう評判が立ってみんなが気味悪がり、うちのお祖父さんが引きとって屋敷内でおま さら 214
綱引き つりをするようになった。そのお祖父さんが死んでからは誰もおまつりする人がなく 放って置いたからまたそろ悪さをするようになり、今度は母が家の中でおまつりする ようになったという いわくつきのお稲荷さんだ。 困ったお稲荷さんだと母は苦笑いしながら、何かあったかもしれないと、ばあやに 神棚をあらためさせた。 神棚にはカビのはえた御飯が十幾つも上がっていた。 御飯は毎朝炊きたて、お櫃に移すと真っ先に神棚へ上げなければならない。御飯炊 きのおまさはそれを怠ったばかりか、お稲荷さんに御飯を上げる器をこわして知らん 振りをしていた。 たかっき 高坏の代わりに普段使いの茶のみ茶碗に御飯を山盛りにして上げ、それを下げよう ともせず、また別の茶碗に盛り上げ、時には一度にごっそり洗ったのかもしれない。 神棚の隅の方にあった十幾つかは埃りとカビでかちかちになっていた。 お稲荷さんは五穀豊穣を祈願する田の神様だから御飯を粗末にしたらお怒りにな る。 ひっ 215
ばあやは特別に背が低いので、おまさに任せつきりでそんなこととは少しも知らず 、。しュ / 「まんつ、あきれたおなごだなア ばあやは眼を吊り上げて、罰が当ったんだ、巫女の言うとおりだと蒼ざめた。 狐はお稲荷さんのお使いである。 「罰はみんなにも当たるんだよ。歳の暮れには神棚の掃除をしなかったのか」 と母は怒った。おまさは自分でやると言ったそうだ。 ばあやは面目なげに、手の届くとこだけやったのだろうか、あの精っこきがと腹を 立て、お前はなぜ手伝わなかったと源も母に叱られた。さっそく神棚は浄められ、新 みき しいお神酒を上げ、家中大騒動をした。ばあやは源を呼んで、 「あんな狐憑きなんそ嫁に貰うなよ。おなごの顔のいいのは景色がいいのと同じで、 いいのが一生の得だと思えよ。いまにばば : 見馴れればなんただこともねえ。中味の しい嫁探してやるんて。源よ。眼 = さませ。お前が化かされる前に狐が憑いたのは、 お稲荷さんのお助けだべもの。ばばはこの眼でしつかり確かめてある。あれは男を化 カ 216
「さあ、睦夫あんさま、美絵子さんを連れて来た。白状したんせ。腹が痛いくらいで 死んだら損だべ工。あんさまは美絵子さんになにか遺言でもするのしか」 「なもだ」 「したら用はなんだしか 睦ちゃんはしょげている。唇も心持ち紫だ。 「なしたって、睦ちゃん ものもら 私の赤くふくれ上がった右の眼の麦粒腫はかゆくて仕方がなかった。 少しして睦ちゃんが言った。 「美絵子ちゃん、オレ、弱虫ではない。弱虫でもムツの子でもねえ。腹痛くとも我慢 しているのだよ」 ぼろっと涙がこ・ほれた。 「睦ちゃん、あんた今日木から落ちだでしよ」 「うん、木へ登ったのがわかると母さんに叱られる。叱られてもいいんたどもさア、 オレ弱虫って言われるの、大嫌いだ。したから我慢しているのだ。死ぬほど痛くても
仲間日記 待合室へ入って待っていると、加乃ちゃんが戻って来てちょっとちょっとと私を手 招きした。 睦ちゃんが呼んでいるという。腹痛のところへ私が行っても仕方ないと思ったが、 ちょっと奥まで来て睦ちゃんの腹痛の原因を訊いてくれというのだ。 「先生は ? 」 「先生も奥さんもさじ投げているところだし 「なして ? 「まずまずあんさまには呆れた。先生を掴えて、これほどおれの腹が痛むのに、お父 さんは医者のくせしてわからないのがって、怒鳴ってはウンウン唸っているのだし」 「盲腸だとお腹切るのしか 「盲腸ではねどし、何たべたか白状しねえために困るのだ」 それでは、私が睦ちゃんに何をたべたかと、お医者さんのように訊くのだろうか。 ものもらいをつくる子は食いしん坊の卑しん坊だと言われたが、死ぬほど腹痛をお こしている子もいるので、私は安堵した。 あき つかま
そうだ、もう一遍たしかめて来なくては、オレはやつばり夢を見ているのかもしれ ない。八郎は祠さまの前から、また引き返した。月見草の中の男と女はやつばりしつ かりと手を握り合って死んでいた。 ノ郎が織女さんと間違えたのは、女が、きいろいチョゴリを着ていたからで、長い スカトが女の足を隠し、少しもその顔に苦悶をみせず、胸から流れ出る血は大地に 吸わせていた。冷たくなった女の白い頬を夜露がまるで涙のように濡らして、静かに ひっそりと瞼を閉じたままである。 「あっ、この女は花月の妓コだ : : : 」 骨川さんの頬は血にいくぶん汚れていたが、額にかぶさった髪の毛でそれが見えな かったのだ。 八郎は今度こそ要めの原つばへ飛んで戻った。 さあ大変だ、大変だと、心臓が早鐘のように鳴るが、一体どうすればいいのかさっ プばりわからない。 : カむしやらに走っているうちに足は自然に分署の前まで来ていた ネ おど が、どうも分署の巡査はおっかない。やつばり政勝親父だ。親父ウの家へ走った。 あね 115
仲間日記 と、風林堂の看護婦さんは何を置いても決勝点のところで待機しなければならない。 「あんさま、一等だ。一等だ ! 」 と、看護婦さんは、ばったり倒れた睦ちゃんの耳へ大きな声で怒鳴る。すると睦ちゃ は、フび んはむくむく起き出して、校長先生のところへ御褒美を貰いにゆくのだ。 「したら代わりに貰って来い」 と、あんまり苦しい時は、ひっくり返ったままで睦ちゃんは息もたえだえに看護婦の 加乃ちゃんに命令する。 なん・ほ頭がよくても、あれでは町中のもの笑いだと八郎は軽蔑しているが、やつば り睦ちゃんは負けたくないのだろう 。八郎なんかカボチャ頭だよと、睦ちゃんは睦ち ゃんで八郎を。ハ力にするのだ。 頭は空つ。ほでも、相撲などのカ技ともなれば、睦ちゃんがどんなにカんでも八郎の 敵ではない。片や八郎為朝嶽、こなたハッタギ ( キリギリス ) 山だから、取り組まな い中に軽くいなされてしまい、看護婦の加乃ちゃんだって、応援のしようがないの
月見草の中に眠る織女さまは、まるで月見草の精のようだった。 だが牽牛さまはどっかで見た顔だそ。八郎は大胆にも、足音を忍ばせて恋のお星さ ま達へ近寄ったが、お星さま達は草葉のかげで眼をさますふうもない。 よく眠ってい るんだなア、八郎は突っ立ったまま、大きな溜息をついた。 男と女はしつかり手を握り合っていた。八郎は悪いものでも見たように、足音を忍 ばせて引き返そうとして、あっと声を呑んだ。八郎の足許に投げ出されたように猟銃 が落ちていたからだ。 猟銃も天から降って来たのだろうか 「そうだ、あれはお星さまではない。たしかに人間だ。牽牛さまではない。郡役所の 骨川さんだ」 ていへん サア、大変だー 今度こそ八郎の眼ははっきりとさめ、骨川さんが死んでいた。 祠さまへの道を這うようにして登りながら八郎はどうして骨川さんが織女さまと寝 ていたのか、合点がゆかない。 114
なかったのかもしれません。卑怯者と誹られた悲しみは、生涯私の胸から消えないで しよう。どんなに忘れようとしても、年に一度、七夕さんは必ずやって来ますもの ね。牽牛さまと織女さんのことで八郎さんと喧嘩したけど、 八郎さんはあんまり織女 さんがきれいだきれいだとほめそやすので、先生は嫉きもちをやいたんですよ。堪忍 して下さいね。自分がみじめで、私はその人が羨ましかったんですー 八郎に謝まっているのか、お墓に話しかけているのか、竹子先生は独り言でもする ように、語りつづけた。 「愛すれば愛するほど、傷つくような恋をしてはいけないのです。でも傷つくからと いって逃げるのはやつばり卑怯なのですよ。私はやっと気が付いたけれど、でももう 遅いわ。何もかも終わってしまいました」 掌を合わせた竹子先生は、むせび泣きをしていたが、やがて立ち上がって着物の裾 の土をはらうと、どうしていいのかわからない八郎の両肩に手を掛け、お世話になり ました、皆さんによろしくねと言ったという。 「つまり竹子先生も細川さんにホレていたんだなア」 そし うらや 156
というのは、私は今日風林堂先生のところへ行った。 風林堂先生というのは学校の先生ではない。お医者さまで、八郎の日記の中に出て くる金貸しの御隠居のところともちがう。 風林堂先生は町で医院を開業しているが、私達の小学校の校医だから、私達はお医 者さまと言わず先生と呼ぶのだ。 風林堂医院の睦ちゃんも私の仲良しである。本当の名前は睦夫で、風林堂の御隠居 の孫だ。ややこしくなったけれど、風林堂の御隠居は睦ちゃんのお母さんのお父さん になるそうだ。 睦ちゃんは頭がいいから級長である。でもお医者さんの子供にしては体が弱すぎ た。睦ちゃんは何事によらず大変な負けず嫌いで駆けっこだってなんだって一等賞を 貰う。死にものぐるいで走るからだ。だから決勝点までゆくとばったり倒れてしま そんなに夢中にならなくていいと思うが、そこが睦ちゃんのいいところであろう。 運動会の日は必ず倒れることになっているのだ。さあ睦ちゃんの番だと、合図がある むつ