上野瞭 ち 『わたしの出会った子どもたち』は、『兎の眼』『太陽の子』の作者の自己形成史である。別 の言い方をすれば、その作品がよって成り立っ発想の基底を明らかにしようとしたものであ つる 会 出いうまでもなく『兎の眼』は、一九七四年に理論社から出版された。それからほぼ十年、 この作品はさまざまな意味において、現代児童文学の一頁を飾る問題作としての評価を定着 わ させた。 教師と子ども、あるいは大人と対で向き合う子どもを描いた作品が、『兎の眼』以前にな かったわけではない。児童文学の世界でも、成人文学の領域でも、そうした作品は常に書き 続けられてきた。それにもかかわらず『兎の眼』が、そうした作品群を引きはなして独自の 評価を受けた理由は、作者の人間への熱い思いが、文学としての約束事を十分に果した上で、 みごとに形象化されたことによる。文学としての約束事とは、まず何よりも「おもしろさ」 244 解説 ーー虚飾の崩壊を起点として
自分の人生が、子どもたちの優しさに支えられてあったのなら、その道すじを書いておか なくてはならないと思うようになっていた。 それが、せめてもの子どもたちに対する恩返しではないか。 ぼくは十年以上も何も書いていなかった。・ ほくにとって文学とは反吐のように振り向きた くもないものであった。 しかし、ぼくはペンをとる。 『兎の眼』がそうして生まれた。 人 巨それでやめるつもりだった。文学に野心を持っことは、もうこりごりだった。 なしかし、『兎の眼』だけでは、兄の笑顔を見ることはできない。 『兎の眼』を書いたことによって、絶望から絶望の袋小路にはいるのではなく、絶望から希 望へ向かう道があるのではないかと、ふと思った。 そのとき、ぼくは兄の死を書きたいと思った。 しかし、それはあまりにも二律背反である。 死で終わる文学を、しかも、児童文学の中で書くことがいったい可能なのか。 大きな壁のように思える。 いく日も、その大きな壁をぼくは見つづける。 試練ならば乗り切ってみたいと思うようになる。 169
逆境の中をけんめいに生きる子ども、『きようも生きて』の山根二郎は、『兎の眼』の臼井 鉄三だ。『兎の眼』の小谷先生は、『きようも生きて』の小久保先生ではないか。 二郎は雀の研究をし、鉄三はハエの研究をしている。『きようも生きて』の主題となった 聖書の言葉「人は苦しみによって苦しみから救われる」は、『兎の眼』にも『太陽の子』に も生きている。 ああ、そうだったのかとぼくは思った。坂本遼がぼくに児童文学を書かせたのだ。ぼくは 合掌した。 人 「きりん」の二一九号と一三〇号は、坂本遼の追悼号である。 2 そこに、「花二ツ人れておきます」という足立巻一さんの文章が掲載されている。坂本遼 んさんの「遺書」にふれながら、坂本遼の思想の本質を見事につく。美しく、そして透明なま でに理性的な文章である。 まったく、遼さんはのんきな人でした。でも、その「のんきーはふつういわれる 「のんき」とはちがいます。どんな物事にものぼせあがらず、自分をつつましく、ここ ろにある一定のへだたりをおいて物事を静かに見、考え、行動する態度といったらいい でしようか 最初の詩集『たんぼぼ』には、草野心平さんが序を書いていますが、そのなかにつぎ のようなコトヾ。、 ノ力あります。 185
解 245 を生みだすことである。それには、確かな人物と状況の設定、物語の構成、葛藤の迫真性が 不可欠である。作者は、塵芥処理所の少年と新任の女教師を軸に、そうした約束事の条件を みたしつつ、「現代の教育現場」がかかえている問題を浮きぼりにし、それを一教育現場の 問題にとどめず、教室の外、われわれ大人全体の問題として形を与えたのである。そうする ことが、同時に、作者の理念の提示であることを証明してみせたのである。 親子関係、教師と生徒の問題、それらを含めて、今日、大人と子どもの問題は深刻だとい われている。いわれているだけではなく、現にわたしたちはそうした状況の中で生きている。 他人事ではない。『兎の眼』の扱っている問題もまた「深刻」なそうした現実である。しか し、この作品は、読者を絶望のまま突き放さない。深刻な問題を深刻なまま描きだすのでは なく、その中にあって精一ばい問題に向き合うことが、じつは人間の生きる喜びにつながる ことを納得する形で描きだしていく。作者は、深刻や絶望を目ざしていない。深刻であれば あるほど、また、絶望的状況であればあるほど、この生存の価値を、人間の希望を手探りで 求め続ける。人間と状況を「笑い」のうちに見すえようとする。 読者の「感動」は、登場人物たちに与えられたその「反深刻性」「反絶望性ーから生まれ る。それは登場人物たちへの感動であると共に、そうしたキャラクターを造型した作者への 感動でもある。作者の人間観・在り方への感動につながる。 『兎の眼』だけがそうだというのではない。『太陽の子』 ( 一九七八年・理論社 ) も『ひとりぼ じんかい かっとう
『兎の眼』や『太陽の子』が幾百万の人たちに読み継がれているという事実は、一個人の栄 こうう 誉とかなにやらの問題ではなく、そこに悩める人たちが集い合い一筋の光芒を求めて、絶望 あかし から希望へ向けて生きようとしている何よりの証ではないだろうか。 この記録は、ぼくが子どもを生かしたという記録ではない。子どもによってぼくが生かせ られたという記録である。 そうであるのに、なぜ、さんの魂をうったのであろう。なぜ、さんが隠しておきたい 事実まで、ぼくに話したのであろう。 私信を公表することの許しを求めたとき、さんはその返事に、びつくりして考えこんで しまったと書いてきた。 しかし、さいごにお役に立つのならこれ以上のことはない、どうかお使いくださいと書い てくれた。そうして、ぼくが送ったこの連載の第一回の切り抜きを、何度も何度も持ち歩い て、くりかえして読んでいるとあった。 灰谷先生の出会った人達いま幸せでしようか。先生の人生を変えさせたタっちゃん、ヨ リエさん、オバサンは幸せでしようか。 さんはそう書く。 さんの中に、〈わたしの出会った子どもたち〉が生きている。 さんによって、ぼくの苦脳が生かせられている。消えてしまったと思われる事実が、
そこに乗っかって、安易にそれを書くのは作家の堕落であるというのであった。 二十数年前に語られた言葉であるが、今日的な意味を失っていない。 今にして思う。坂本さんはそういいながら、ぼくに、ぼくの作品の中に流れている虚弱な さと ごうまん 体質を、傲慢な思い上がりを、それとなく諭していたのだ。 だからこそ、文学談義に深人りせず、ぼくに子どもたちのすぐれた詩やつづり方を読むこ とをすすめたのだ。 ち た ぼくはこの、むねのあくまが、きっと、ぼくのよいこころのはいっとるきんこのふたをし めているけんいけんのですーー盗みをはたらいた自分とひたすら向き合う幼い魂や、牛の足 つをわらでこすっちゃったら、なみだが心の中でないていますーー・八十二編もの牛の詩やつづ 出り方を書きつづけた少年の心を、なぜ、ぼくに見つめさせようとしたのか。 坂本さんは、ぼくに人間の優しさの意味を考えさせようとしたのに違いない。子どもから わ 学ぶという世界があることを悟らせようとしたのに違いない。 そのことの意味が、二十数年もたってからようやくわかりかけてくる。なんという不肖で あることか ぼくの書いた『兎の眼』が、坂本遼さんの『きようも生きて』に、よく似ているとある人 にいわれたことがある。 ぼくは、あっと田 5 った。 184
解 249 灰谷健次郎は衝撃を受ける。 きようじん 「人生というものの奈落を知りそこからはい上がろうとする強靱な魂の前に、ぼくはぼく自 身を恥じた。自分という人間のあらゆる虚構をひんめくられる思いだった。 / タッちゃんー とぼくは叫んだ。 / タッちゃんはどういう人間やったんや . 作者はここで一種の自己解体を経験する。虚構の崩壊という言葉で語られているのは、裏 がえしていえば、虚飾をすてた人間認識である。軽視していたはずのオカマのタッちゃんの 中に「神がいた」かのような発見の衝撃である。その出会い、その関わり方、その存在を、 はんすう 作者は改めて反芻する。観念や知識ではなく、それを「人のやさしさ」として体得する。 こんなふうに書けば、一人の人間の魂の転機をきわめて安易に整理している感じがしない でもない。人間はそんなふうに筋道立った転換期を迎えるものではない。灰谷健次郎の場合 もまた、それが一つの人間認識の契機であるとしても、それは始まりであって終りではない。 『わたしの出会った子どもたち』には、そこに始まる魂の遍歴が、わたしたち自身を問いっ める形で書きこまれている。ただいえることは、その自己体験が、それにからまる罪意識の 自覚が、灰谷健次郎の「やさしさ」を生んでいるという ' ことである。 この一冊の本を、『兎の眼』や『太陽の子』の舞台裏を描いたものとして読むこともでき るだろう。それはそれで間違いないのだが、その舞台裏を書かずにはおれなかった作者の思 いのほうが、もっと大切である。
をじぶんの痛みとし、他人の喜びをわが喜びとする」というふうに説明し納得することも、 すべての人に可能である。理解し説明できるそれと、灰谷健次郎がその言葉を使う心情とは、 じつは同一ではない。知識としての「やさしさ」と、心情にある思いのそれは、言葉にして は同一だろうが、そこには無限の距離が伏在している。もちろん、その距離は、埋めがたい 断層ではなく、人がそれを目ざし、そう生きようとする時、同一化する可能性を常にひらい たものである。人は生まれながらにして「やさしき存在」ではない。それは、自己の在り方 の可能性として、気づかれずにあるものといえるだろう。 灰谷健次郎は、それを掘りおこし、みずからの生きる姿勢の中心にすえたのである。『兎 の眼』や『太陽の子』の物語のぬくもりは、そこから生まれたものである。「やさしさ」と 作者が呼ぶものを、それでは、灰谷健次郎はどのようにしてじぶんの内なる世界にはぐくん 解でいったのだろう。 『わたしの出会った子どもたち』を、作者の自己形成史であり発想の基底を示したものと冒 頭に記したが、繰りかえされる「やさしさ」は、じつはそれらと深く関わっている。 この一冊の本の中で常に焦点をしぼられるのは、人との出会いに対応した作者の心情であ る。もうすこし掘りさげていえば「罪意識」だといってもいい。 言葉どおり心やさしいオカマのタッちゃんが登場する。年中性病を患っている社外工のと しぼんが登場する。また、作者が睡眠薬中毒にかかっていた時、作者の恋人役を引き受けた 247 カカ
わたしの出会った子どもたち灰谷健次郎 灰谷健次郎 わたしの 出会った 子どもたち ル 子どもの隣リよリ " 。燕の駅 朗読Ⅱ擅ふみ 新ン健付・灰谷健次郎 = 。。 の 現代の子供たちの孤独と不安をやさしさと深い 谷 愛情をもって描いた短編集『子どもの隣り』の " 力い灰 中の一編。難病と闘う少女の感動的な話 私が子どもたちを教えたのではない。 逆に、子どもたちひとりひとりが、 私に、本当のやさしさと人生を生き 。『兎の る意味とを教えてくれた 眼』『太陽の子』の著者が、教師と しての体験の中で接した幼い個性の 豊かさ、雑誌「きりん」を通して知 った子どもの詩の力強さ、そして、 自らの少年時代、青年時代に出会っ たさまざまな人たちの心の美しさを 定価 360 円 ( 本体 350 円 ) つづる感動の記録。 9 7841 01 3 31 01 0 灰谷健次郎の作品 わたしの出会った子どもたち の 太 陽 子 の 海になみだはいらない ろくべえまってろよ 島で 子どもの隣り とんばがえりで日がくれて 我利馬の船出 灰谷健次郎の保育園日記 場の少年 優しさとしての教育 1 91 01 9 3 0 0 ろ 6 0 5 一 1 カセット一分 I S B N 4 ー 1 0 ー 1 5 5 1 0 1 ー 4 C 01 9 5 P 5 6 0 E カバー香月泰男 は 8 新潮文庫 1 新潮文庫 新潮社版 ー印刷錦明印刷
わたしの出会った子どもたち 兎は運河を渡っていた 誠実に渡っていた およばないとしりながら渡っていた 渡らなくてはならない宿命を感じて 兎は運河を渡っていた 坂道を登りきったところで あにはいったものだ 登りきれない坂もあるというのに なんとか登れたなあ 兎は孤独をかみしめていた くらすぎる水だと思っていた 手がかされるべきだと ちらっと田ったが 逃げている己れの後ろめたさに