差別 - みる会図書館


検索対象: わたしの出会った子どもたち
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1. わたしの出会った子どもたち

沖縄の空 119 刺されて死ぬるのならそれもいい。 そう思ったとき、ぼくのからだからカが抜けた。 誠実に生き抜き、傷つきポロポロになった兄を、狂暴な生きものか何かのように思ってい る。これが差別なのだ。 ぼくにはこんなふうにしてしか自分の差別性というものがわからなかったのだ。 学校をやめた理由を説明する為に、ぼくは自分の差別事件を持ち出したわけではない。こ の事件によって少しでも差別の本質に近づいていたならば、むしろ、学校はやめていなかっ ただろうと田 5 う。 ぼくはそのとき混屯としていた。 混沌の中で教師をつづけることはできなかったと、そういうより仕方ないだろう。 兄が死に、母が死に、そして、ぼくの胃に二つ穴があいた。 昼休み、海へ出てぼんやりしているとき、不思議な男に出会った。おばあさんがお寺参り をするとき持っていくような手提を左腕に通し、手に空カンを持っている。汚れた飯ごうを 腰にぶらさげて、きよろきよろ、あちこちを探るように見ながら歩いてくるのである。 ときどき腰をかがめて、ひょいひょいと何か拾っている。 何をしているのかなあと思ってよく見ると、ト / さな貝を拾っては、空カンに人れている。 ため

2. わたしの出会った子どもたち

ぼくの背をぶったり、体をぶつつけてきたりして笑い転げるのだった。 すさ そんな心優しい人々の中に、妻まじい人生がかくされていることをぼくは後から知る。 昼休みになると工場を抜け出して、海へいくぼくをみんな心配してくれていたようだった。 告白しておかなくてはならないことがある。一九六二年、ぼくは「新潮」に「笑いの影」 という小説を発表した。 空中学生の非行を扱った短編である。 部落解放同盟から、重大な差別文書であるという抗議を受け、ぼくは呼び出され、大阪の の . 八尾市で糾弾を受けた。 「笑いの影」は非行少年の立場に立って書いたものであり、ぼくの生い立ちや教育実践から 沖して、差別を意図するはずがないと、ぼくは強弁した。同盟の人たちは激怒した。 「笑いの影」の差別性の一つは、少年非行を通して権力の姿を浮き彫りにするという図式を 装いながら、その実やたらと暴力的な行動と、やたらと猟奇的な行動を、卑俗な興味の中で 描こうとした点にあるといえる。 しい いわれもない差別の中に生きている人たちの実態が何一つなく、恣意的にしかも偏見に満 ちて描かれた世界だった。 よみがえ 同盟の人たちの怒りが、今、まざまざと蘇る。今、この原稿を書いていて手が震えてしか 117

3. わたしの出会った子どもたち

たがない。文字が文字にならない。 まことにつらいことを書かねばならないけれど、この糾弾で、ぼくは自分の差別性を理解 したわけではなかった。 はじめはふくれつ面をし、それから途方に暮れたと書けば、そのときの状態を比較的正確 に伝えることになるだろうか 同盟の人たちにとって、救い難い人間にうつったことだろう。 これはたんなる差別事件ではない。人を踏みつけて生きてきたその象徴的な現われの一つ 供 舒である。しかし、そのときにはそれがわからなかった。 っ しかし、ぼくにもいくらかの良心はあったのだろう。 会 の兄を狂わし、今、またこうして糾弾を受ける。自分の生き方が何か決定的に間違っている たという子感はしていた。そして、そのことに深い絶望を覚えていた。 ぼくにも自分に絶望するだけの良心はあった。 前にも書いたことだが、兄が自殺をはかる数日前、ぼくの家に泊まっていったことがある。 あらぬことを口走るだけではなく、発作がおこると何をするかわからないという不安があっ た。兄ョメは刃物を隠し歩いていたくらいである。 兄の横にねていて、自分のからだが固くなっているのがよくわかった。しかし、やつれて 土気色の顔をしてねている兄を見て、ぼくは涙した。涙を止めることができなかった。兄に

4. わたしの出会った子どもたち

言っておりました。 花子は酒をひとりで飲みながら、ときどき私には、わけのわからないことばで泣きながら、 写真にほおずりをして居りました。私も花子のはなしをきき、男泣きに泣きながら、そのひ とばん、ずっと花子と飲みあかしました。 無残きわまりない「生」と、あまりにも美しい人間の触れ合いが、日本と日本人の罪をえ ぐり出す。 ち うめ この手記を読み通すのに、ぼくはいくら呻いたことだろう。 刑務所時代、被差別部落出身の巡査が一部の同僚に「豚の皮」と陰口をたたかれて差別 っされたことに抗議をして、氏が非常ベルを押すという話がある。 出所長と e 氏の直談判の結果、陰口をたたいた連中は、他の交番にまわされるのだが、陰ロ をたたかれた当の巡査はその事実を知らない。「警部や部長たちに一筆とらせて、寒い交 わ 番に転勤させて、は本当に悪い奴だーと、くりかえして氏を叱るのである。 出所の日、その人のいい巡査は 「 e 。どこにいても人にいやがられるようなことはするなよ」といい 「私の勤務時間に非常ベルが押されはしまいかと、毎日心配してきたがきようからは安心」 といって、氏の肩をポンとたたいたというのだ。 e 氏はその >- 巡査の最後の言葉を想い出してひとりで笑うときがあると述懐している。

5. わたしの出会った子どもたち

氏の左手小指は中途で切断されているが、これは彼がデッチ上げに怒り、自ら指をたた こんせき すさ ききって刑事に投げつけたという妻まじい事件の痕跡であった。 このような体験を通しながら、彼は沖縄のおかれている位置と、受けている差別を肌で感 じとっていくのだが、、、 ほくの受けた衝撃は、そのあまりにも過酷な人生の事実に触れたから というのではなく、その過酷な「生」をくぐりながら、氏が驚くほどの優しさを持ちつづ けてきたという点にあった。 彼はタワージャックを実行に移すとき、チョコレートを三十枚買いこんで持参している。 不特定多数の人間を人質にとる場合、その中に子どもがいて、その子どもに恐怖を与えるこ っとは、まことに申訳がないという配慮からである。 ( 実際には子どもはいなかった。朝鮮人 出がいた。朝鮮人は同じ差別を受けてきた人間であるということで、彼はただちに解放してい る ) わ 氏の手記を読みながら、いくたびかぼくが胸を熱くしたのはむごい「生」を強いられ、 仮借ない抵抗をつづけながら、同じ苦しみを持つ人間に対して、限りない思いやりを持続し ていることだった。 氏は戦争中、山野をさまよっているとき、人里離れてかくれるように住んでいるハンセ ン病患者のおじさんと仲良しになる。同じ釜のめしも食っている。立ち寄った四人の親子が、 彳がハンセン病だとわかると逃げるように去っていったことを非難すると、そうじゃない、 130 かま

6. わたしの出会った子どもたち

「せんせなれぼくおかわりってくれですか」 としか書けない子だった。 かれ、笹尾進は小学五年生だった。 かれの頭はラクダの背のように、大きくくびれている。人を見るとき、白い眼で見る。見 られたものは、いっしゅん、たじろぐというぐあいだった。 「せんせなれぼくおかわりってくれですか、という文章は、かれに対する教師たちの差別の ち 具体的な姿であった。 ぼくはかれと手紙帳の交換をはじめた。 。用務員が校門をあけるのを待ちかねるようにして、そのノートをぼくのところ ( 持ってく 出るのだった。 ぼくは毎日、始業の一時間前に、教室にはいるのだが、かれはいつも一番だった。 わ 「よおう、早いな」 とぼくがいうと、かれは照れたように体をくねらせて笑った。 ミミズのような文字が不規則に並 かれの書いてくる文章の意味は、ほとんどわからない。 んでいるだけである。 かれがタ飯のことを書いてきているのに、ぼくはお天気のことを書いて、ノートを返して いる・ーーそんなことだったのだろう。

7. わたしの出会った子どもたち

裸にされるということが、子どもにとっては決して苦しい、いやな経験ではないと 思いますね。 やはり一つの解放があり、一種のカタルシスーーー浄化というものがあるのではないか という気がします。借りものの知識では通用しないんだということを思い知らされると いうこと。そのことに自分が納得するということ。それによって子どもは解放され、浄 化されるのだと思います。それが授業の中の子どもをあんなに美しい姿にするのではな いかと思いますね。 大切なことにふれておかなくてはならない。 い ぼくが授業をさせていただいた六年一二組に、体に障害を持つひとりの子どもがいた。机の 前にすわっているときにはよくわからなかったのだが、ものをいったとき、かなりの言語障 わ 変害をともなっていたので、それとわかった。 授業中、かれはひじようによく手をあげた。あまり熱心に手をあげるので指名する。立っ てしゃべる。かれはけんめいにしゃべる。思うようにしゃべれない。額から汗が吹く。けん めいにしゃべる。顔が真赤だ。 ずいぶん長い時間がかかる。 これが障害児差別だなあと思いながら、つい 「考えがまとまってから発表するかな」 223

8. わたしの出会った子どもたち

このときの笹尾進の心のうちはどのようなものだったろう。 ( やつばりお前もか ) そういう気持だったろう。 かれを担任したかっての教師たちのように、ぼくがはじめから無理解な人間として、かれ の前に出現していたならば、かれは反抗することによって、魂に深い傷を負うことだけはさ けられたかも知れない。 ち かれが白眼をむくのは、かれの意志である。差別者に対するかれの反抗なのだ。 かれに対して、闇討ちというもっとも卑劣なことを、ぼくはしたのだ。心をひらかせてお ついて、後から切りつける : : : 教師がそういうことをしたのだ。 出ぼくの発言は教師として不用意な発言などというものではない。 これがぼくの本質であり、正体なのだ。 わ さすがにぼくはしよう然とする。かれに謝る。次の日も謝る。次の日も、次の日も : 十日あまり謝りつづけ、ようやく、かれはぼくを許してくれた。それはかれの優しさであ ろう。 少しの空白はあったけれど、かれは毎日毎日、文章を書いた。そして、秋に次のような文 章が生まれる。それは一編の詩だった。

9. わたしの出会った子どもたち

「先生。頭や」 ぼくは、ほっとする。 この教師は子どもに救けられたと、ぼくは思う。見て、聞いて、感じたことを、一度頭を 通す。すると、くわしい文章が生まれるーーそう子どもがいっているのに、おどろくべきこ とに、その教師はその子どもの発言を無視したのだった。 その教師の手もとに頭の絵がなかったのだ。子どもはだれかに何事かを訴えるように目を うろうろさせ今にも泣き出しそうな顔をした。 ぼくはいたたまれない思いだった。 い 教師の創意なき貧しい授業が、ほんとうに勉強したがっている子どもを、勉強ぎらいに させている。 え 教林先生の言葉である。 自立的な子どもがこうして傷つけられていく。 自らっくり出す差別ーー・ぼくはふと、「ほねくん、きみはぼくの足があるとおもって、の びてくれるんだねーと書いたたかはし・さとるや、「せんせなれぼくおかわりってくれです か」と書いていた笹尾進を思った。 ぼくにこの教師を責める資格はない。 教育というものは、日常の中のほんの小さな営みの中にもある。 たす

10. わたしの出会った子どもたち

そしてそのとき、教師は生き生きしていた。、ほくは寒気がした。この人たちは人間の悲し みというものをどう考えているのだろう。長い人生の中で絶望というものを一度も味わっオ ことがないのだろうか。 そう思いながら、ぼくはつらい気持になった。そういう教師の冷たさを、ぼくもまた持っ て教師をつづけていたのだから : 自らのつくり出す差別ーーーと林先生はいう。こんにちの教師の持つもっとも虚弱な部分だ ろう。 ある教職員組合の研究集会での出来事である。 当然のことながら、「子どもを傷つける選別教育に反対しよう」とか「落ちこぼれをなく す教育をめざして」などというスローガンがかかげられている。 その集会にまねかれたぼくは、ある教師の授業に参加させてもらっていた。 授業は「くわしくかく」という課題を持った作文の授業だった。 授業者は風呂敷包みを持って教室にはいってきた。 「この中に何がはいっているかな。先生のすることをよく見ててね」 教師が教室にはいるところからはじまって、中の物を取り出し ( 中の物はヘアー・スプレ ーだった ) 前にいる子どもに、それをふりかけるというしぐさを見せ、それを文章にすると いうことらしかった。