楽天主義 - みる会図書館


検索対象: わたしの出会った子どもたち
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1. わたしの出会った子どもたち

詩人でもあり児童文学者でもあったソビエトのコルネイ・チュコフスキーは、子どもの魂 のすばらしい特質、つまり楽天主義にふれて次のようにいっている。 「楽天主義は、こどもにとって空気のように必要なものです。一般に、死の観念はこの楽天 主義にはげしい打撃を与えると、思われがちです。しかし、こどもは、こうした嘆きからち ゃんと守られています。こどもの魂の兵器庫には、自分に必要な楽天主義を守るための資材 話が、十分に納められているのです。四歳のおわりごろになって、生きているものにとり、死 のが不可避であることに気づきかけると、こどもはとたんに、自分だけは永遠であると自分自 ん身に言いきかせようとします」 もし、そうだとするなら、次のさとるの文章は、かれの受けた精神の傷の深さと、絶望を 骨しめしているし、チュコフスキーの言葉をそのままなぞっているといえないか。 せんせい。ぼくびよういんにいたころ、ばんになると、しぬのをおもいだして、な きそうになんねん。ぼく、しぬのんだいきらいやから、いつも、とうちゃんに 「しんだら、また、いきかえるのー と、きいてんで。ほんなら、とうちゃんはうるさいから、ほんとのことゆわへん。い きかえる、ゆうだけや。かあちゃんにきいたら 「いきかえらへんで」

2. わたしの出会った子どもたち

といった。とうちゃんがいうたといったら、かあちゃんは 「うそゃ。さとぼうがうるさいから、じゃまくさいから、いきかえるんやとうそっいと うねんや」といった。 ほんなら、ぼく、たいいんしても、いつもばんになると、なきそうにならんならん。 わすれようとおもても、わすれられへん。せんせい、わすれさせてえな。 車地獄がかれの楽天主義にくもりを与えたことは確かだろう。しかし、かれから楽天主義 ち を奪い取ったか。 代さとるは一週間ほど学校にきて、それから、ときどき学校を休むようになり、あるときを っ境にばったり学校にこなくなった。 出ぼくは、かれが学校ぎらいになった原因をいろいろさぐってみた。家を訪ねたり、手紙の やりとりをして、かれの心をひらこうとしてみたり、ふつう、教師のやりそうなことはみん わ なやってみた。 友だちがいじめたというわけでもない。担任のぼくがきらいというわけでもないらしかっ べんきようは好きだというのである。じゃ、どうして学校にこないのとたずねると、と たんに口を貝のように閉ざしてしまうのであった。 親が親の顔をし、教師が教師の顔をして理詰めで攻めてくるーーそういう世界がさとるは いやだったのだろう。そういう世界に孤独を感じていたのだろう。

3. わたしの出会った子どもたち

かれの孤独とぼくの孤独がダブったときに、はじめて人間的な、対等とでもいうべき共感 を持っことができたのではないか。かれのかなしみを、いくらかでも、ぼくのかなしみとし たときに、かれは心を開いてくれた。そして、「あべこべの国」のような作品が生まれ、ぼ くの心の中に豊かな人間としてのさとるという小さな巨人像がしつかりと宿った。 そういう関係こそが、共に学びあい共に伸びていく人間の関係ではないか。 そうだとするなら、おかまのタッちゃんに代表される底辺の人たちゃ、としぼんの仲間た ち ちであった底辺労働者の優しさに、甘えるだけ甘えてきたぼくは、もっとも醜い人間だった と今にしていわなければならないことがくやしい。かれらの極楽とんぼぶりや、かれらの楽 天主義を、無知のなせるわざとどこかで考えて、ひそかに軽蔑してきたぼくは完全な人間失 会 格者であった。 の ほんとうに人間を愛することのできる人は、本来、楽天主義者であると、今、ぼくは思う。 わ そして、楽天主義者こそが、ほんとうの批判精神の持主であるとも思う。 象徴的な話をしてみる。 ぼくは教師になってしばらくしてから、あの、ぼくにとってはあこがれの「きりん」にか かわって、少しばかりの手伝いをするようになっていた。 部数を伸ばすために、放課後、学校を抜け出して神戸市内の小学校をまわったりしていた けいべっ

4. わたしの出会った子どもたち

骨くんの話 人間の優しさや、楽天性の通らない社会はどこかに大きな病巣を抱えているものだ。人間 の犯す罪の中でもっとも大きな罪は、人が人の優しさや楽天性を土足で踏みにじるというこ ち とだろう。 子おかまのタッちゃんにしても、を刺し殺したとしぼんにしても底抜けに明るかった。か つれらの優しさがどこから出ているかということが洞察できなかったからぼくは、大きな罪を 出犯したのだ。兄の死もそのことと深くかかわっているように思えて仕方がない。 ぼくが人間の楽天性というもののほんとうの意味を知るきっかけになった骨くんの話はこ わ 骨くんことたかはし・さとるは、他の子どもたちと同じように真新しいランドセルを背負 って、一年二組のぼくのクラスに人学してきた。少しびつこを引いているところを除けば、 他の子どもたちと少しも変わるところはなかった。 血色のよい顔と、男の子にしてはいくらか伏し目がちなところが、ぼくの目をひいた。何 かたずねると恥ずかしそうにはするが、すぐ、はきはきと返答した。

5. わたしの出会った子どもたち

優しさと反抗と 子どもの優しさや楽天性がストレートに通らない社会では、親や教師が子どものかなしみ を共有するということによってのみ、子どもたちの奥深くひめているものを引き出すことが できるのではあるまいか。 抗よく考えてみると、子どもの持っている可能性を最大限に引き出すことができたときは、 とこのような視点に立って、教師が容赦なく子どもと向き合ったときだ。 村井安子の「チューインガム一つ」も、そのようなときに生まれたし、たかはし・さとる の楽天性の再生も、また、これと無縁でない。 わたしの友人の鹿島和夫氏も、同じような体験を持っている。 ぼくは最近、かれのク一フスから生まれてきたある一つの作品を読んで衝撃を受けた。 がっこうからうちへかえったら だれもおれへんねん あたらしいおとうちゃんも

6. わたしの出会った子どもたち

拍手がおこるはずはない。 ついに、さとるはゴールに駆けこんだ。駆けこんでから、伏し目がちに、あの恥ずかしそ うな眼が、ぼくを見て笑った。 あの圧倒的な感動をもたらしたさとるの立ち直りのみなもとは、もともとかれが持ってい た楽天性なのだ。 そうでなければ、あの幼い子どもが死を見つめ、先生わすれさせてえなという暗い文章を 話 の書き、一方で、「あべこべの国ーのような底抜けに明るい文章を書いたということをどう説 ん明したらいいだろう。 子どもたちは、優しさとか楽天性というものを、人間を変えていく力としてとらえている 骨 そういう生き方をしているーーぼくはそう思った。 あきらかに、ぼくとさとるの間には信頼関係があった。あったからこそ、かれは伸び伸び と表現する世界を持ったのだ。 じゃ、ぼくはさとるの何に信頼を置いていたのか さとるに対する信頼とは、あの「あべこべの国」のようなユーモラスな作品を書く子ども が、一方的に暗い世界に落ちていくはずがないという思いではなかったか。かれに同情する だけでは、そういう思いを持っことができただろうか。

7. わたしの出会った子どもたち

157 さな巨人 沖縄から学んだことをひとロでいってしまえば、それは生命に対する畏敬ということでは ないか。 人間の優しさというものは、そこからしか生まれてこないものなのだ。 人 巨楽天性とはいのちを慈しむという精神そのものなのだ。子どもたちはそのことを洞察する なことができるとぼくは気づく。 小宮山量平氏が、子どもを思想家と呼ぶとき、子どもの感受性を、人間の情神のもっとも 高いところにおいているのだとも思う。 ぼくの作品に『いっちゃんはね、おしゃべりがしたいのにね』 ( 理論社刊 ) という絵本があ る。これは、重い知恵おくれのくぼ・ちあきといっしょに暮すことによって学んだ「優しさ は人を変える力」であるというテーマを展開させようと試みた作品である。 いっちゃんは、おしゃべりがしたいんだけど、おしゃべりをしようとすると、むね がどきどきするのです。 せつかく、おしゃべりをしようとおもっているのに、どうしてこんなに、むねがどき いけい

8. わたしの出会った子どもたち

子どもは小さな巨人なのだ。 なにか大きなものを蔵している人間としての子ども、自ら伸びていこうとする底知れぬ工 ネルギーを秘めている人間としての子どもーーぼくが子どもをそういうふうに見るようにな った根っこのところに、沖縄がある。 重い人生を背負っている子どもがなぜ楽天的であったのか、苦しい人生を歩んでいる子ど もほど優しさに満ちていたのはなぜなのか。 ち 沖縄のこころというものを知らなければ、そのこたえは永遠にわからなかったのではない 子力とさえ田 5 う。 ちむぐ 生命の畏敬も「肝苦りさ」も、ぼくの中を素通りしていったことだろう。 会 出真の巨人とはなになのか どんな絶望の中にあっても、自分を愛し、ひとを愛することのできる人間をいうのだろう。 わ そのために、たたかうことのできる人間をいうのだろう。 もうひとりの小さな巨人の話をしてみる。 くろだ・まことは学校一の問題児といわれていた。 気に人らないことがあるとダンプの通る道でねそべる。樋を伝って高い所に上がる。それ が給食の時間なら食器を投げつけるというぐあいになる。 「まことがすねたら、げんしばくだんみたいになる。先生におこられて、きゅうしよくたべ 162

9. わたしの出会った子どもたち

っちの動物園』 ( 同年・あかね書房 ) も含めて、灰谷健次郎の作品にはすべてその「絶望への拒 ほえ 否」がある。「苦渋の中での微笑み」がある。冷厳な現実の中において人間の肌のぬくもり を失うまいとする強いまなざしがある。 作者はそれを「やさしさ」と呼ぶ。「やさしさ」という言葉は、灰谷健次郎の繰りかえし 使う言葉である。 たとえば、沖縄放浪の旅の途上で、作者は一人の老婆を探す八十人の島の人に出会う。小 た さな町の人ほとんどすべてが、唯一人の老婆の安否を気づかうその配慮に感動する個所であ つ「驚いているぼくがいびつなのだろう。 / 沖縄の文化が究極には人間の優しさによって支え 出られた文化であり、生命の対等観という調和の世界にあるものだということを、うすうす気 ・ ( 略 ) 」というように。 たがっきはじめていた : わ また、「子どもの優しさや楽天性がストレートに通らない社会では、親や教師が子どもの かなしみを共有するということによってのみ、子どもたちの奥深くひめているものを引き出 すことができるのではあるまいか」というように。 「人間の優しさというのは何だろうと考えることによって、ぼくは蘇生したのかも知れな い」とも灰谷健次郎は書いている。 言葉としての「やさしさ」を理解することは、だれにだってできる。それを「他人の痛み 246 そせい

10. わたしの出会った子どもたち

別離の向こうから ほくのいくらかの稼ぎが家に 1 家から学資を出すなどということは思いもよらなかった。、、 らないというだけで、たちまち当惑するような家の状態だった。 難破船のような家の舵を、ひとりとっていたのは兄だった。 ぼくは後に思ったことがある。いちばんグレたかったのはじつは兄ではなかったろう以 石碑を造る金があれば農具を買うようにと遺言した詩人坂本遼の言葉を、正確に理解で る若者は屈強だろう。 人間の強さというものについての洞察力が、兄とぼくとではまるで違っていた。 兄はほんの小さな組合の仕事をするのに、あらゆる苦しみを苦しまねばならなかった。 職制への抵抗は、まず職制からの誘惑に対してたたかいを開始するというかたちではじ なければならなかったのだ。 小心と誠実さが同居する彼にとって、それは苛酷だったろう。家族というものに対して 守的な考え方しか持っていない兄には、それは二重に苛酷だったはずだ。 ひょりみ 戦闘的な友人から、兄のある行動が日和見主義ではないかと非難されたときなど、兄は どく苦しんでいた。 後に、その友人が組合主義の悪弊に落ちこみ、そのうえ地方議員に立候補するというか