するまでに八十五編もの作品を書いた。そのうち、牛のことを書いていない作品はたった三 編というすごい子どもだった。 牛とぼく 一、牛がよろこんでいます。いつもやったら、おがそないふりませんけれど、このごろ ち ふっています。牛がつよい牛もよわい牛もあります。かおのながぼそい牛もあります。 戦牛も、すききらいあります。いまこうている、二十七まん円の牛がすきです。 幼 二、ふけのぎようさんわいてくる牛が、ちちがよくでるので、そんな牛かわなあきませ の ん。こんな牛、きたないやと、しろとやったらそないいうが、くろとがみたら、こんな ん 牛いいのです。 三、牛をだすといぬと牛としこり ( けんかし ) ました。牛がけいばみたいに、とんとこと んとこはしりました。いぬがわんわんとしこりました。牛もぼくがいてなかったら、か わいそうやなとおもいました。 四、牛のくびにかいなわをつけて、なんぼひつばってもいたいないけれど、ぼくがかい なわをつけてひつばったら、かわがむけるしのどがとまります。ぼくは牛ののどにくら いつくほど牛が大すきや。よそへいっても牛のことばかり思ってほかのことはようおぼ
わたしの出会った子どもたち えません。 五、牛のからだはたいへん大きいし、ぼくのからだはたいへん小さい。牛の足もながい しなにしても牛にはかたれません。ぼくは牛にかとと思ってもかたれません。 六、牛は、つのがおれてもねがいっしょです。よう牛やったらねもそのままです。わぎ ゅうやったらねがさがります。 七、ぼくは、たかはし君とおか君とに、牛のばばとりといって、かまわれ ( からかわれ ) ました。 「牛のばばとりわるいか。」とぼくはいいました。家にかえって、またばばとりをはじ めました。牛でも、うつくしくしてあったら、牛もここらよさそうやと思いました。き たないにしている家が、牛もちちがでりません。 卑俗な価値観とけんめいにたたかうことで、沢君は優しさというものを自分のものにして いる。しかし、そのことの意味をぼくがほんとうに理解するのはずっと後のことであった℃ そのとき、ぼくが沢君の文章にひかれたのは、牛に対する執着を、己れの文学に対する執 着と同一に見ていたからだろう。ぼくは沢君の文章から本質的なことを何一つ学んでいなか ったといえる。 次の沢君の美しい文章も、そのときぼくの中を素通りしていったのに違いない。
きのう、そうじをすると、くそばっかしですくられませんので、いたでとりました。 あれですくったら、おちるさかい、手ですくってとりました。くそをつかんだ手をあら うと、たいへんうつくしくなります。 ぼくが、牛のしたにさわると、にゆるにゆるです。牛のしたと、ぼくのしたと、ヘ んばりつけると、にゆるにゆるで、ここらわるそうだった。 牛がびようきになった。かずまさくんとこの牛より、まだえらいびようきになった。 ぼくが牛ごやにはいって、牛の足をわらでこすっちゃったら、なみだが心の中でないて います。 今にして思う。 「きりん」は宝の山だった。 この子どもたちの作品を、自分の生活と切り離したところで見るのではなく、共に生き、 共に学び合う人間が生きることの根源の問題としてとらえていたならば後年、ぼく自身、人 を傷つけ、踏みつける側にあるいは立たずにすんだかも知れなかった。 学ぶということは変わることである。この「きりん」の幼い戦士たちの生きざまに衝撃を 受け、自らも打たれておきながら、ぼくはこの子どもたちから学ぼうとしていなかった。そ のことが自分の人生を決定的に誤った方向に転がしていく原因になる。
つぶや 老婆は荒縄を腰に巻いていた。何かたえずぶつぶつ呟いていた。 一見して尋常でないことがわかる。 ぼくは老婆を避けるようにしてそこをすり抜けた。老婆はぼくに目もくれず、目の色とは 逆にひどく達者な足どりですたすたと歩いていってしまった。 いき ぼくはちょっと溜め息をつく。しかし、すぐ老婆のことは忘れてしまっていた。 朝早く石垣市を出たのに平野に着いたのは、もう夜のとばりがおりるころだった。たった ち た 一軒ある民宿にとめてもらったのだが、夕飯もそこそこに、ぼくは泥のように眠りこけてし まった。 っ よく朝、牛の鳴き声で目がさめた。小鳥の鳴き声と牛の鳴き声がいっしょになると、ひど 会 出くのんびりした気分になるものだ。 ぼくは朝の散歩に出かけた。 わ かたんかたん、とんとんとんという単調な音がきこえてくる。窓から中年の女性の姿が見 えた。 「機織りですか。おばさんー と、声をかけると 「宮古上布だね」 という。
実をいうと、この授業には、ある放送局のテレビカメラがはいっていた。子どもたちはだ れひとり、それに気をとられる者がなかった。 確実に子どもたちの中に何事かがおこっていた。目の光でそれがわかるのだった。子ども たちはひじように美しい顔になっていった。 つぎにぼくは二つの新しい教材を用意した。 一つは『はせがわくんきらいや』長谷川集平作である。 子どもには残酷すぎるとか、子どもにわかるだろうかといわれた絵本である。いま一つは 「牛の足をわらでこすっちゃったら、なみだが心の中でないています」と書いた沢正彦君の い 「牛とぼく」だった。 子どもたちは何の抵抗もなくこの絵本とつづり方に共感し、熱中した。 わ 変借りものの知識を捨てた子どもたちの発言には深いものがあった。 「長谷川くん、からだ弱いから大事にしてあげてね」という先生を、口さきだけのやさしさ と評した子どもがいた。 「やさしくされた者が得をするのではなく、やさしくした者が得をする」と発言した子ども に、なぜそう思うかとたずねると、「やさしくした人間は変わっている」とこたえた。いっ のまにか都会の子にありがちなこましやくれた理屈つぼいものの言い方が消えている。 ちよくせつ 簡潔で直截な答え方に変わってきているのだ。 221
そこに乗っかって、安易にそれを書くのは作家の堕落であるというのであった。 二十数年前に語られた言葉であるが、今日的な意味を失っていない。 今にして思う。坂本さんはそういいながら、ぼくに、ぼくの作品の中に流れている虚弱な さと ごうまん 体質を、傲慢な思い上がりを、それとなく諭していたのだ。 だからこそ、文学談義に深人りせず、ぼくに子どもたちのすぐれた詩やつづり方を読むこ とをすすめたのだ。 ち た ぼくはこの、むねのあくまが、きっと、ぼくのよいこころのはいっとるきんこのふたをし めているけんいけんのですーー盗みをはたらいた自分とひたすら向き合う幼い魂や、牛の足 つをわらでこすっちゃったら、なみだが心の中でないていますーー・八十二編もの牛の詩やつづ 出り方を書きつづけた少年の心を、なぜ、ぼくに見つめさせようとしたのか。 坂本さんは、ぼくに人間の優しさの意味を考えさせようとしたのに違いない。子どもから わ 学ぶという世界があることを悟らせようとしたのに違いない。 そのことの意味が、二十数年もたってからようやくわかりかけてくる。なんという不肖で あることか ぼくの書いた『兎の眼』が、坂本遼さんの『きようも生きて』に、よく似ているとある人 にいわれたことがある。 ぼくは、あっと田 5 った。 184
『たんぼほ。』の詩人 177 ひばり 空いつばいになく雲雀の声を じっと聞いているやろで 里の方で牛がないたら じっと余韻に耳をかたむけているやろで 大きい美しい 春がまわってくるたんびに おかんの年がよるのが 目に見えるようでかなしい おかんがみたい 小宮山量平氏はこれらの詩にふれて、「『たんぼぼ』の先駆性を評価し、この作品を起点と して『たんぼぽ』から『きりん』へと歩んだ詩人の魂の軌跡にトルストイの今も新しい苦悩 し 9 の肖像を偲ぶことは、不当でありましようか」といっている。 ぼくが児童文学を書くようになったそのもっとも大きなところに坂本遼さんがあるーーそ
と、母がいった。 「どんなものが出てくるの」 自転車を買ってもらった妹は機嫌よくいった。 フラメンカ・エッグなどという青白いアルコールの炎といっしょに出てくる料理を、兄は 感情のこもらないようすで食べていた。食欲だけは異常で、ガッガッ食べるというぐあいだ っこ。 こうし ら 仔牛の煮込みも、野菜サラダも同じ味みたいだった。そういう食べ方だった。 話のあいづちは打つけれど、とくに感興をしめすということはなかった。 向その店特製のワインにも興味はしめさなかった。ずいぶん酒が好きだったのに、ただ飲む、 の のどに流しこんでいるというだけの感じだった。 それが、ぼくと兄との最後の食事となった。 次の日、兄はぶらっと家を出た。 誰にも行き先をいわなかった。どこを歩いていたのだろう。 はりへこおび 四時ごろ家に帰り、梁に兵児帯をつけ、そして、それに身をまかせた。 兄が自殺をする少し前、兄の直属の上司から、ぼくは呼び出しを受けたことがある。ぼく 毓が学校の教員をしているということから、家の代表のような形で呼び出されたのだった。
わたしの出会った了・どもたち の オどノ、 後吐 風た 冷 ら門 たす 場汗 中 取な た人 かか い ぐ電 板 当胸 の て組 がな 上 に 寝 糸は一 つを 転中 ん 為顔 損た 牛と で 天 洗体 顔が を後 の 冂 の追 ン歩 い を 眺 か事 よ所 め る食 鉄や 風を が 休 ま った 、て る囚 歩た の人 内そ は そ 。た で社 ん な の船 組と き む呼 だ け 仕や でれ だ事 の る う な イイ ( 臭 の で し う よ う に し て と る の よ う だ た 食 嘲 しう昼 あ っ て 食 事 の に す る そ の と き 鏡 の 中 の 汚 れ た 自 分 の 顔 を 見 て 自じ れ つ 、た ら錆こも と が埃り る な に 。黒チ つ : 真 や ま ち た でり ッ チ の ぼ く は 熔 接 棒 の さ棒穹 を 、拾 て く イ士 か ら ら さ れ の っ の と ロ を オこ 、人者かた不 れ い 成だ熔 き で き い も い た の前陰ぼあ広た く の っ S ぐま る電た 風 つ接豸 を 。主 た る 業 種 に し て い た が 人 び と に ひ そ か に 外 部 隊 科 の あ る や ヤ ク 。ザ に り ね た 者 何 か の 理 由 で 保 証 人 の 立 て ら れ な い 人 や 祝 み 書 と き に だ つ い ら る 。写外 を 。社ほ 真工は は は通ろ た門ろ く い 30 こ ん で ち長屑享 セ ば り の 片 を 拾 て く 虫 . よ う な 事 に つ け 。た 小 さ な 記 章 を 見 る か 見 せ な い か で て い く : 本 工 と ら る 身 日月 の よ う も を た の に は る こ と を 許 さ 分別職 証だ場 聿た転 か な馬た い こ せむ船 う 首な下 々 し の 相く言目 検がけ あ っ こ い列外 を の あ 工 と な た 工 た
詩人でもあり児童文学者でもあったソビエトのコルネイ・チュコフスキーは、子どもの魂 のすばらしい特質、つまり楽天主義にふれて次のようにいっている。 「楽天主義は、こどもにとって空気のように必要なものです。一般に、死の観念はこの楽天 主義にはげしい打撃を与えると、思われがちです。しかし、こどもは、こうした嘆きからち ゃんと守られています。こどもの魂の兵器庫には、自分に必要な楽天主義を守るための資材 話が、十分に納められているのです。四歳のおわりごろになって、生きているものにとり、死 のが不可避であることに気づきかけると、こどもはとたんに、自分だけは永遠であると自分自 ん身に言いきかせようとします」 もし、そうだとするなら、次のさとるの文章は、かれの受けた精神の傷の深さと、絶望を 骨しめしているし、チュコフスキーの言葉をそのままなぞっているといえないか。 せんせい。ぼくびよういんにいたころ、ばんになると、しぬのをおもいだして、な きそうになんねん。ぼく、しぬのんだいきらいやから、いつも、とうちゃんに 「しんだら、また、いきかえるのー と、きいてんで。ほんなら、とうちゃんはうるさいから、ほんとのことゆわへん。い きかえる、ゆうだけや。かあちゃんにきいたら 「いきかえらへんで」