京 - みる会図書館


検索対象: グラフィック版 万葉集
26件見つかりました。

1. グラフィック版 万葉集

びよっ おののおゆだぎいのしさつに 作者、小野老は大宰少弐で、旅人が長官だった頃にそ の下にいた人だ。天平九年 ( 十年ともいう ) に没したとい へいじようきトっ たびと うから、想像ではあるが、旅人の帰京と前後して平城京 に戻ったかもしれない。その時の歌だとしたら、この歌、 みやこ っそうよくわかる。しばらく、京を離れて、ひなにい しようむ く年かを過ごし、数年たって戻ったのが、聖武天皇の天 平時代前半のことだとすると、「今盛りなり」はいっそ 、つよくわかると田 5 、つ。「美く ~ 化のこよ、、ゞ。 ( 。カことく」の歎 こちょう しよう 賞も、ひなの生活になじんだ者としては、誇張でもなん でもなかったであろう。 しかし、そうした設定による持ち出しを切り捨ててみ てんびさっ てん さんび 讃美のことば ると、この歌には、作者がいない だけが、人を離れて、ひびいているような感じがある。 たんしよう カ・れ力い つまり、この歎賞が、個人の感既として打ち出されてい 空疎さがある。その点がまた、単純化が行なわれ ているというわけで、賞められもするのだが。 みやこ せんと ならみやこ てんびよっ 平城の京は、天平十年を過ぎると、恭仁の京への遷都 しカ・ら、、 のことが起り、これから信楽の宮 ( 近江 ) の造営、難波 ・物◆つ、」 - フ みやこ の宮への行幸などと続い て、都城が平城の京に安定しな こうけんじゅんにん い状態が続く。そしてさらに、孝謙・淳仁と、不安定か 政情が引き続い あるいは、作者の謳歌したのは、 みやこ ぜっちょう 花のごとき平城の京の盛りの絶頂であったかもしれぬ。 おうみ 101

2. グラフィック版 万葉集

大伴骼人の傔従 ( 巻↓・三八九六 ) 家にても いのち たゆたふ命波の上に 浮きてし居れば おくか 奧処知らずも 自分の家にあっても、静まらないで安らかで ない生命であることよ。そして旅にあって、 海上に浮んでいると、まるつきり、先行きの ことがわからないことだ。 なおとものたびと てんびよっ だざいふ 大伴旅人は、天平二年 ( 七三〇 ) の暮、四年の大宰府 みやこ 生活に別れて、京に向った。そのとき、身近に仕える家 たびと 来たちは、旅人と行を共にせすに、別に海路をとって上 とじ 京した。その途次の歌が十首、巻十七の巻頭に並んでい る。一首は作者がわかっているが、あとはわかっていな その中に、この歌がある。 つか 沖をゆく船 なにわ 十首の配列が、九州から難波への進行につれていると おおさかわん ころからみて、も、つ 、船は大阪湾まで来ているのだが、 すると、九州を発して、かなりの日も経つのだろうが、 この歌の、「家」と「波の上」との対照は、「家」がこの 作者にとって、あとにして来た九州にあるのか、それと やまと も四年ぶりに、今帰り着こうとしている大和にあるのか、 この歌からはわからない。そして、それはわからなくて そこをねらっているわけではないからだ。 」じ この歌は、旅の途次で目にしたものとか、感したこと ちゃっしさフ とい、つよりも、もっと、抽象 . 的に一一一一口っている。ム又波の 上にいることは、現実だが、それも、作歌動機のきっか あんせい けになっているに十・ぎない ふだんから、安静を得にく ふ ( - フ い自分の心は、つまり、魂が浮動し易いからなのだが、 それが、旅中で、しかも波の上でゆられているのだから、 この漠 いっそう不安で、将来のことが一切わからない ゅうしっ ゼん 然とした不安感とそれに伴なう憂愁は、当時、すでに知 識階級が持っていたのだ。 おゅ 」野七 ( 巻三・三二八 ) あをによし みやこ 平城の京は咲く花の こ ) よ、ふかし J く 今さかりなり みやこ ならみやこ わが京、平城の京は、たとえば満開の花のは ではでしく華やかであるごとくに、まさに今、 まっ盛りであることだ。 / 、お の の はいれつ 100

3. グラフィック版 万葉集

あ叫 京をさ応 のか翦 手る り鄙 忘五。 ら年一 博多湾の入日大和を遠く離れた筑紫で歌人たちは都恋しい真情を歌いあげた ( 福岡 ) つくし 忘れるつもりはなかったが、いつの間にか卦しみて しまった、と言って、五年の地方生活の長きを訴えて、 早くなんとかしてくださいと、哀願しているのだ。 おくら ちくゼん てんびよっ 天平二年十二月六日、憶良は七十一歳であった。筑前 の国守となってくだったのが神亀一二年の六十七歳の時の ことだから、「五年住まいつつ」も、決して誇張ではな そこで、右の歌を始めとして、短歌三首、「敢えて きんじよう 私懐をのぶる歌」を作って、「謹上」している。つまり、 早く京官に転勤させてくれ、という哀願である。 おくら ひんきゅう 億良は、貧窮問答を作ったり、とかく生活の苦しさを ちくゼん 訴えたりしているか、とにもかくにも、筑前の国守であ ひせん ちくぜんのかみ しかし、筑前守は、その る。決して卑賤の身ではない。 だざいのそっ 上に大宰帥かいるわけで、特に人に対しては、日頃の 交遊からいって、甘えもあったかもしれぬ。おそらく、 だいなごん たびと てんびさっ 天平二年十二月に、大納言になって帰京する旅人に、託 した形のものではなかったかと思う。次の二首は、 かくのみや息づきをらむあらたまの 来経ゆく年の限り知らすて みたま 吾が主の御魂賜ひて春さらば ならみやこ 平城の京に召上げたまはね 三首目になると、まる まだしも第一、第二首はいい。 ほかい・びし」 で、乞食者のとなえごとのような、卑さがある。 京を遠く離れた卦に、五年もの間、住み住 みして、わたしは、いつの間にか、都風の生 活ぶりを、忘れてしまいました。 じんき あいカん あいカん 96

4. グラフィック版 万葉集

こけちのくろひと 市黒人 ( 巻一・ いにしへの人に吾あれやささなみの ふるみやこ 故き京を見れば悲しき ちんせい この歌の「いにしへの人に吾あれや」というところに、 鎮静しない霊魂への関心は、天武天皇とその王朝にとっ ひとまろ ては、忘れ得なかったであろうから、その王朝に仕える 知識人らしい深い反省がでている点は、人麻呂よりも新 かん力い しじん ひふん ひとまろ くろひと 宮廷詞人としての人麻呂・黒人に、こういう歌があるこ しいと思われる。旧都に対する感懐が、詠史的な、悲置 ぎれいカ とは当然だ。ただ、そ、つい、つネ。。 慷既というような歌し孑 ( ) 日勿ナる方・回に行かないで、じっと、 儀し歌の、類型的な表現で くろひと はなく、自分一人の内省を経て来ているところが、黒人 思いを心にためるような表出になって来ている。この歌 の次にもう一首。 の歌を価値高くしている。 ささなみの国っ御神のうらさびて 中世の歌謡「様」 ふるみやこ あさぢ 故き京を来て見れば浅茅が原とぞなりにける。 荒れたる都見れば悲しも ( 巻一・三三 ) ひとまろ あふみ この二首の前に、人麻呂の「近江の荒都を過ぐる時」 月の光はくまなくて、秋風のみぞ身にはしむ。 ふるみやこ あふみ の歌 ( 長歌一、短歌一 l) があり、続いて黒人の「近江の旧 というのがある。この「故き京」は、黒人の歌った近江 てんち の都ではないが、都が移って行ったあとは、詩人の心を 都を感傷して作る歌」と題する、右の二首がある。天智 れいこん 刺激したらしい 天皇とその王朝の霊魂への怖、および、旧都の土地の く言田 京 っ聿 みかみ くろひと 昔の時代の人でわたしがあるからか。この近 うみ 非しくてたまらな 江のさびれた都をみると、 くなってくることよ。 てんむ くろひと おうみ

5. グラフィック版 万葉集

大伴橘人 ( 巻八・一六一一一九 ) のほどろほどろに年り頻けば みやこ 平城の京し思ほゆるかも だざいふ この歌、分類は冬だ。南の九州大宰府だから、冬の中 だが、春めいた大ぶりの雪が降ったのだ。ほどろほどろ は、まだらに降り敷いた、とい、つより、降り方がまばら だんぞく いくらか断続して降り続いているのだ。降り敷くで なく、降り頻くととった。 まんによっしやっ 万葉集における雪は、きっちりと冬の風物とはきめき 。繋のに まどお ばたんゆき 牡丹雪が、い くらか間遠にばたりほたりと、 降り続いている時に、ひょっこりと、いに、平 みやこ 城の京のことが思い出されたことよ。 れない。春と冬との分類が、雪に関してはあいまいなの だ。それは、雪に対する民俗的な信仰から、稲の花のシ ンポルのよ、つに、 雪を見たことから来ている。富士山の 雪が注目されるのも、美しいと感するより先に、その積 もり方、消え方、雪消えの状態などが、ます問題になっ たのだ。 みかど つくし ー美宰爵都楼址遠の朝廷と呼ばれ筑紫文壇の中心となった ( 福岡・夫町 ) 90

6. グラフィック版 万葉集

しかし、この歌では、それは意識の底に隠れてしまっ ていて、むしろ、非常に新しい歌だ。「降り頻けば」と 言えば、文法的にはいわゆる確定の条件であって、その ならみやこ 結果として、平城の京が思われるという、原因結果の結 び付きになるか、これはそうではない。歌の表現では因 果関係で結ばれているが、実は関係がない。人間の考え 伴橘人 ( 巻六・九六八 ) ますらを 健男と思 ~ る吾やみづくきの みづき 水城の上に涙のごはむ 、、びと つくし 人の大宰府の長官としての筑紫での瀧在は、神亀四、 五年の頃から、天平一一年一杯、せいぜい三、四年だが、 みやこ 個人的な身辺にも、京における政界の動きにも、あわた てんびよう だいなごん だしいものがあった。そして、天平二年に大納言にな り、十二月に上京、そして翌三年七月には、なくなって ゅ - フこうじよふ みやこ その、京への上京の時に、筑紫の遊行女婦、名は児島 みずき という名の娘が、別れを惜しんで、水城のところまで来 だざいふ てんびよう じんさ 健男のなげき ますらお みずき だざいふばうえ、 たのである。水城は、大宰府防衛のために、水を貯えた 長であ「て、そのの上からは、々宰府が望見された しゅう だざいふ のである。そういう場所でもあり、同時に、大宰府の周 へん 辺の、境界の場所の一つでもあって、別離の宴が開かれ こ対する答であ たのであろう。そこでの、遊行女婦の歌 : って、ふがいないと言って、自分で自分を叱っている形 とろ せきべっ で言って、階別の情を吐露しているのだ。 普通こうしたやりとりは、男からます女に言い、それ に対して、女が男に答えるのだが、このやりとりはそれ が逆になっていて、二首の女の歌に答えた二首の、二首 、、びと 目の歌だ。一首目などは、人の歌は冷静で、ややよそ この歌は、直接答えた よそしく、女の歌に及ばないが、 ますら 形はとらず、独立陸のある歌として、成功している。「健 じちょう 男と思へる吾や」も、慷既調ではなく、しかも、自嘲的 に、その反省を歌っているのだ。 の動きは、决して理詰めに進行していくばかりではない。 無関係な飛もある。そこがおもしろい たたかひは上海に起り居たりけり ほうせんかあカ 鳳仙花紅く散りゐたりけり こびと さ、と - フ - もきち 斎藤茂吉、大正二年の作。人は一千年以上も前に試 みている。 立派な男だと田 5 っているところのわたししゃ みずき あないか。それが、なんで、水城の上で、別 れの涙を拭かねばならんのだ。 べつり しカ

7. グラフィック版 万葉集

やかもりそ - フもん 巻十五の後半は、普通「宅守相聞」と言われる六十三 や・かもり おとめ 首から成る歌群であって、娘子と宅守との歌を、数首す っ交互に配列してある。その第一首目がこれである。 なかとみのあそみやかもり 中臣朝臣宅守は、娘子との結婚問題が罪に問われて、 えちゼん 越前の国へ流された。そういう境遇におかれた二人の門 - まんによう にかわされた歌であることは、万葉の目録の方にだけ見 えるが、その外のことは、あまり明らかではない。男は みやこ 流され、後の「大赦」にも許されず、女は京に留めら れていた。そのくらいのことしかわからないし、二人の 歌はほかにも見られぬ。 、 - フし」・フ この歌は、いわば贈答の形をとった、叙事的内容の組 そ・フかっ 歌形式の短歌群の、総括的なプロローグだが、叙事詩的 価値を十分に示している。「山路越えむ」というのは、平 けんなん えちぜん みやこ 城の京から越前への道にひかえている険難を思っている。 あらち おうみ えちぜん ことに越前へは、近江の国境に愛発山 ( 有乳山 ) があっ た。この歌の次には、 君が行く道の長路を繰りたたね 焼きほろばさむ天の火もがも がある。情熱の表現のどちらをとるかで分れるところだ ちん が、「焼きほろばさむ天の火」と言う情熱を、心の底に沈 せん 潜させて、「心に持ちて安けくもなし」と表出した方が、 一段と歌としては秀れている。 おとめ ながて あめ あめ 117

8. グラフィック版 万葉集

誉、一万葉のあけばの 大津京・瓦 「、「飛鳥時代 ( 六一元ー六八六 ) 第一期 へんさん 万葉集に収められている四千五百首余りの歌を、編纂 者が行なった二十巻の巻別とその分類とを一応白紙に戻 して、これをます作者別に集め、それをさらに制作の年 月によって年代順に配列するという、いわゆる「作者別・ かなり多くの人々 年代順」の編集に仕立て直すことは、 こころ によって、すでに試みられている。本書もまたそれに従 その年代を四期に分けることも、およそ今日では普通 せんと の考えであるが、しかし、天皇の交替、遷都、年号の変 更等、人為的、政治的な理由で、作者や作品を分けるの だから、もとより始めから無理があり、境界線のひき方 も細部には多少の違いもあるが、要するに、便宜に従う、 とい、つところかタタ分にある じよめい 第一期は、舒明天皇から天武天皇までをひと区切りと したが、 この歴代は、「後期飛鳥王朝」という。中に孝 まんによ・つしゅ、つ てんむ あすか 12

9. グラフィック版 万葉集

0 愛熟の讚歌 藤原京・瓦 藤原時代 ( 」ハ八七ー七〇七 ) 第二期 もの 第二期は、便宜上、藤原の宮に都した、持統・文武の じとう ド ) しとフ せんきょ 時代とした。持統天皇が藤原の宮に遷居したのは、持統 - まんに」◆フ 八年十二月のことであるが、万葉巻一、巻二に 「藤原 宮御宇天皇代」 ( ふしわらのみやにあめのしたしろすすめらみ ことのよ ) という時代の立て方があって、この時代区分の せんと もんむ 中に、遷都以前の歌、及び文武天皇の御代の歌も載せて じとうもんむ いるので、持統文武の二代 ( 六八七ー七〇七 ) の時期をも って、第二期とした。 きつていぎれい 第一期が、皇族歌人の時代であって、多分に宮廷儀礼 てんしさっ に密着した儀礼歌、伝誦歌の色彩の濃い歌をもって占め られていたのに対して、この時期は、作者の層が、上下 に厚く、また横にも広くひろがってくる ことに、巻七、十、十一・十二、十四、十三・十六に 収められた、作者不詳の歌を、およそこの時期のものと まんによっしフ みることによって、質量ともに、万葉集の中心を形成す ふじわら ふじわら みやこ じとう もんむ 32

10. グラフィック版 万葉集

第い 春の野に霞がい しにカかって、何となく 心がみたされないことだ。この、夕方の光線 の中で、鶯が鳴いていることだ。 わたしのうちの庭の中の、わすかな群竹に 吹く風の音がかすかにして、それを聞きとめ ている、この夕方よ。 やかもち やかもち ある。その古い調べにのせて、家持は、家持だけが感じ ゅうーう ている、近代的な孤独な憂愁を歌っている。 夕方の光線の中での鶯の声と、庭のすみのわすかな竹 の群のかすかに揺れる音と、それを聞きとめている作者 と、その景と情とが、決して趣向といったような道具立 てでなしに、置かれている。 やかもち これは、家持が初めて発見したところで、しかも、こ の境地は日本文学史上、ここで断絶してしまっている。 おおとものやかもち , 大伴 ~ 豕持 ( 巻十九・四二九〇 / 四一一九一 ) かオみ 春の野に霞たなびきうらがなし ゅふかげ このタ光に鶯鳴くも .. む・ら 4 にけ わが宿のいささ群竹吹く風の 音のかそけきこのタかも やか 4 りち・ てんびよっしようほう 家持の日録によると、この二首は、天平勝宝五年 ( 七 五三 ) 二月二十三日のことで、まさに春はたけなわだ。 えっちゅう みやこ やかもち 前々年に、越中の国から平城の京に帰って来ている家持 である。 やかもち この二首、ならびに次の一首と、合せて三首は、家持 の作の中でも特に価値高く言われているものだ。その三 首に通して言えることだが、声調が実にやわらかで、こ きざみな一一一口、 しふりでないところは、むしろクラシックで うぐひす ゅふべ しゅこ - フ むらたけ 竹林 134