って、浄化する必要を持つのだろう。定型を持た ない自由詩などでは考えられないほどの痛切な必 要性がそこにあるはすである。 第二には、古代における言葉とこと、言葉とも の、言葉とこころの密接なつながりによる力であ まんによ・つ る。たとえば万葉の中で「いきどおる」といい 「恋う」というのは、現代のわ ちゅうしさっ れわれの言葉のような抽象的要素ばかりに拠らな い切実さで言われているはすである。「なげく」 は田 5 わす長い溜め息をつく心の状態であり、 う」はこがれあう異性と、いひとつになろうとして ぎきっしゆく 心引きよせあう状態である。一首に凝縮した古代 の歌の中でこういう言葉が密接に使われている時、 さんぶん われわれは日常の言葉や散文の言葉の上では求め られない内容をそこから汲み取ることができる。 万葉集や古代歌謡から受け取る、しらべに乗った 深い内容の主なものはそういうものである。現代 失せなむ日こそ我が恋ひやまめ などいう歌の単純化せられて美しく強いしらべは、 の歌のしらべの上にもそれをもたらそうとする意 相手の恋人に対して永遠に、いがわりしないことを、 欲が、常に歌人たちを古典の上の短歌に立ち返ら てんべんち せるのである。 天変地異をひきあいにして神かけて誓う言葉とし て繰り返され洗練せられて来た故の整いと強さで 第三には歌の上にこめられた生活にもとづく意 ある。 力の強烈さである。われわれは挽歌を、死者を悲 さらに、われわれがアララギの万葉写実論に影 しむなげきの歌だと考えている。だが、万葉の挽 歌の中には、単なる悲しみの歌ではなくて、死者響せられて、古代における素朴で力強い写生の歌 だと思っている歌の中にも、古代の村の生活にお の肉体から遊離していった魂をふたたび呼びもど いて人々が望ましいと思う状態を現実に出現させよ そうとする祈りの歌と考えられるものがある。 青旗の木旗の上を通ふとは うとしてとなえる、呪術的な系統の歌が幾らもあ 目には見れども直に逢はぬかも る。現代には失せてしまったそういう生活からも わ 4 とのおお、きき たらされる歌の力を正しく見とどけることによっ 天智天皇の御病い篤い時の倭大后の歌なども、そ て、現代の文学としての表現の上に、新しくみす ういう、いの背景を考えなければならぬ歌である。 みすしい情熱の源を獲得し得るはすである。 近世から近代にかけての歌人たちの万葉集の ひさかたの天つみ空に照れる日の かものまぶち 承の仕方は、賀茂真淵をはしめとする国学者達も、 子規にはじまるアララギ系の人達も、主として万 葉集の特質を男性的な力の文芸、「ますらをぶり」 として考える態度であった。しかし実は、万葉集 の中には、「ますらをぶり」の力もあれば、「たを やめぶり」の魅力もあり、更にこれから新しくー き出されて行くはすの、多様な力があるはすであ さ、とうもきち 葉斎藤茂吉からその作品の万葉風でないことについ 万 て批判せられたのに答えた文章の中で、都会人で た あり、かっ短歌の流れを広く見て来た自分は、万 葉の「ますらをぶり」のみならず、「たをやめぶ り」にもそれなりの力を感することを主張してい カ るのは、それから後の両歌人が、その作品の上に 、第ィ既み人切り開〔て行「た独自 0 歌境とひきくら ~ て、深 い興味を感しさせられる問題である。 ( 国学院大学教授 ) てんち ばんか せんれん 161
たかはしのむしまろ 高橋虫麻呂 ( 巻六・九七二 ) いくさ ちょろづ こし」あ - 千万の軍なりとも言挙げせず 取りて来ぬべき男とぞ思ふ さ、カ、ーこ・フ ふじわらのうま力い せつどし 藤原宇合が、西海道の節度使に任ぜられて出発する時 たかはしのむしまろ に、作者が作った送別の長歌の反歌である。高橋虫麻呂 はんか をとこ ゆうもうかかん 勇猛果敢な兵士 幾万人の軍勢であるとしても、その敵をば、 何のいざこざもなしに、それを俘虜にしてく るはすの、立派な男だと信している。 ひたちふにん は伝はわからないが、地方官として常陸に赴任したこと - ) / 、しゅ ふじわらのうま力い があって、その時の国守が藤原宇合であったらしい。そ ういう関係を、この送別のはなむけの歌にみることかで きる ただし、歌は、一気に言ったところに、カはあるが、 ーうしよく 第一句から第四句までが、結局「男」にかかる修飾句とし て処理されており、そのためには、少し長すぎるように 田 5 、つ 言挙げせす、などという語句は、当時としては、すで にクラシックであったろ、つか、いわば、一軍の将として 要、 - フちょ・つ せんじんのぞ 戦陣に臨む人に向っての歌だから、荘重に作ろうとして、 そのために古語を用いたわけだ。 ことあげせす、というのは、特に何も大仰なことをし ないで、とかいうように使われていて、今は「いざこざ なしに」と訳しておいたが、 おそらく、奈良朝時代では、 そういうくらいに考えられていたろう しゅせい ことあげす、というのは、相手の種姓を明かして、精 霊を圧伏すること。ところが日本は、えらい神が来てそ れをしてくれるので、人間は、「ことあげせす」というこ むしまろ とだった。意味はもう忘れられていたろうが、虫麻呂が、 あらたまった気分で、こういう古語の効果を信じて使っ たのだ。 あつぶく おおぎよう ふりよ 110
古代から人々に安らぎを与え た清流吉野川 ( 奈良・吉野町 ) とねりのみこ 舎人皇子 ( 巻二 ますらを 健男や 片恋せむと歎けども 醜の健男 よほ亦 5 ひにけり - 立派な男でいて、それで片思いなどするとい ・ - め、き うことがあるものか、と評づいているのだ が、ええこのいくしなしめが、やつばりだめ だ。まだこのように隹れている ますらお 健男安田靫彦画 ますらをは、ます ( 健康 ) ら ( 体言語尾 ) を ( 男 ) で、 立派な男のこと。釈迦のことをそう言っている例があ 自分で自分のことを激励するつもりで「ますらを」と 言って胸を張ってみるのだが、女の気持ちがわからない じちょう で、すぐその元気な心がしばんでしまうのを、自嘲的に 「しこのますらを」と言ったのだ。気分が単純化されて な力な力しし いて、一本気な情熱が出ているどころは、 てんむ 次だ。作者は天武の皇子。 ゅげのみこ 弓削皇子 ( 巻二 ゅづるは 恋ふる鳥かも弓弦葉の みゐ 御井の上より 巨↓さ度り - 一丁 / 、 ゆずるは その昔の世に、焦れる鳥かしらん。この楪の しみず 神聖な清水のあたりをば、鴎いて通って行く ぎよ・つ・ : フ よしの 持統天皇の吉野の行幸について行った皇子が、多分、 天皇に代って作って、この歌を、行幸について来なかっ はととぎす た、額田王の贈った歌で、この「鳥」は時鳥であること ぬかたのおおきみ は、額田王に返歌で知れる。 ゆずるは しみず 時鳥が、楪のもとの、神聖な清水のある場所を鴎いて ぬかたのおおきみ 通ったのをば、おや、都に残して来た額田王の魂が肉体 をあこがれ出て、あとを慕って来たのではないか、と感 したのである。古風でいながら、豊かな感情がある。 はととぎす ドしレ」 - フ しやか
松に対して、お前はどの位、齢を重ねたかと言いかけ る言い方が、一つの類型になって、日本文学の上に長く 伝わっている。 すみのえ わが見ても久しくなりぬ住江の こ、、ん 岸の姫松いく代経ぬらむ ( 古今集 ) 松という植物は、「待っ」という語が語源だと言われる しんれい ・りしろ ほど、神霊の依代 ( よりつく場所 ) としての意義が注目さ おか みやこ れている。この歌は詞書によって、活道の岡 ( 恭にの京 えんいん ひともとのまつのもと きんーう の近佛 ) の「一株松下」に集まって宴飲した時のものだ とある。その一つ松の齢の長いことを取り上げていうの しゅひん えん力い は、同時に、その宴会の主賓の長命をことほぎ、その家 おおとものやか いちはらのおおきみ いやさか の弥栄を祈ることになる。この市原王ともう一首大伴家 持の歌と二首が記録されているが、この歌で祝福した相 しようむ あさ加のみこ 手は、聖武天皇の皇子の、安積皇子だったらしい。皇子 だったとすれば、祝福のかいもなく、この時から、ひと 月足らすの中に、なくなられている。 そ - フそん しきのみこ いちはらのおおきみ 市原王は、志貴皇子の曾孫とする説と、関係なしとす あきの きのおとめ る説とがある。父は、紀女郎の歌の説明に登場した安貴 王である。 力い、、ゆう 松風の音は、日本人の回旧、回顧の情をそそる。それ いく。松の生命が長い は長く日本の詩歌の主題になって ということから、長い歴史を見聞きしてきた、というこ とになり、次に、松風の音の語りかける昔語りに、日本 人は耳を傾けてきた。 もち・ おおきみ ・フち わづか あさかのみ 安積皇子の墓 ( 京都・和束町 ) 129
あまはのこおりかみつよつはせつかい・ ~ のとり 天羽郡上丁丈部鳥 ( 巻一一 + ・四三五一 l) うまら うれ 道の辺の荊の末に延ほ豆の 力、ら 絡まる君をれか行かむ ・一し」りづ力い するカ この歌の前に挙げた二首は、駿河の国の部領使が二十 やかもちせつれつ 首上進し、家持が拙劣歌十首を捨て、十首を記録したも のの中から抜いた。 さ公む あまは かずさ この「道の辺の」の歌は、上総の国の歌であって、十 九首中十三首を記録したものの中から採った。多くを挙 かずさ げられないので、他は省略したが、上総の歌群はとりわ かひん け佳品が目につく。 わぎもこ 家風は日に日に吹けど吾妹子が 家一言持ちて来る人もなし ( 巻二十・四三五三 ) たちごもの発ちの騒ぎにあひ見てし 妹が心は忘れせぬかも ( 同・四三五四 ) よそにのみ見てやわたらも難波潟 くもゐ 雲居に見ゆる島ならなくに ( 同・四三五五 ) み : つかん などが、すらりと並んでいて壮観である。 じよか 中で、ここにあげた「道の辺の」は、上の句の序歌が、 いかにも地方の生活を思わせてくれるところが捨てがた 、。「ははまめ」は中央式に言えば「延ふ豆」であり、「は かる」は「別る」である さき、ーもり 防人の歌は、防人に召されて東国からはるばる九州へ ゆく、という点では、皆境遇が同じであり、巻二十に採 録されたものが、はとんどすべて、ある年の召集の集団 に属した人々の歌であったから、歌の基調に多種多様性 しかし東国の生活 が乏しくなっているのは致し方ない 詩の一端をうかがわせるもので、やはり集中の一偉観で ある。 道のほとりの茨の先に延いまつわっていると ころの豆、それではないか、まといつく彼の 女をば、別れて行かねばならないか かみ 122
東歌・未町国我 ( 巻 + 四・ = 一四 = 一九 ) すずがねのはゆまのつつみ井の たナて 水を賜へな妹が直手よ 未勘国の歌とあるのは、どこの国の歌かわからない歌 のこと。巻十四の二百三十首の短歌の中、百四十首まで が未勘国の歌である。 圭月らかな、令こ ) 長、 イオしノ力、こんこんと湧き出る泉のほと りには、その水を管理している、清浄な女性がいた、と いうのも、人々の空想であった。そういう「民謡の女」 みかんこくのうた あ亠 , ↓ - - フわに 東歌・未勘国歌 ( 巻 + 四・三四五九 ) こトひ いねっ かかる吾が手を今宵もか 稲搗け、は とのわくご 殿の若子が取りてなげかむ みかんこく みかんこく みんよう 楯を搗く乙女 これも、空想を楽しんでいる歌で、歌いつつ、聞きっ つ、皆、同感したに違いない 殿の若子と一一一口えば、ものものしいが、お邸の若様で、 女はその邸の主人に仕えて、労働をしている身分の者だ。 だから、当時のとりきめで、正式の結婚などは、若様と は許されていないのだ。それを承知で、夜になると、二 人は悲しい逢う瀬を、せめてもの楽しみとしている。初 めから、遂げられない、辛い恋なのである。 もし、ほんとうの恋だったら、こんなふうに、大びら ( : ーし力ない恋であるはすだ。 歌いあげるわナこよ、 しゆっぱっ が、いつまでも、民謡の上に出没している。後には、野 ちゃく 道筋の、茶店の茶汲み女にまで、到達している。そうい う女性が、その手で水をすくって、飲ませてくれる、と りゅう、う 大乢 ~ ボにも、そ いうことも楽しい相 5 豕だったに、しオし の戯曲に「手水の縁」というのがある。「手水」というの がそれで、同じような刺激を楽しんだ証拠だと思う。 . てみず 稲を搗くので、ひび、あかぎれで荒れている このわたしの手。それを、今夜もまた、殿の 若さまが手にとって、深く溜息をつくことだ ろ、つよ えきてい しみずわ 官道沿いの駅亭の、清水の湧き出る用水の、 その水を下さい。お前さんが手ですくって、 しかに飲まして下さい つか
万葉集と近代短歌 力すめ : 短歌の原点 いま、この本で御覧になったように、短歌はす でに七世紀のなかば頃から、日本の定型詩として まんにさっーう の小さく堅固な定型を結品させていて、万葉集は 古代人の抒情をその定型にのせて豊かに現代に伝 えていてくれる。われわれにとって、万葉集の歌 はすべてひとしく古代の作品であるけれど、実は おおとものやかもち ひとまろ 万葉集の中においてすら、大伴家持などは人麻呂 の作品に対して明らかに、古典意識を持って対し ていると思われるところがある。それほど、短歌 の歴史は古いのだといえよう。 こきんしフしんこきんーう 万葉集の後も短歌ー よ、古今集・新古今集をはし めとしてそれぞれの時代の特色を示す幾つもの歌 奈集を残しながら、千数百年の脈を保ちつづけて 現代に至っている。おどろくべき命の長さである。 その長い短歌の歴史の上で、万葉集が特に大きな 意味を持つのは、この集が単にすぐれた古代の作 品集であるというだけでなく、その後の時代にお いて、短歌の文学的生命が袞弱したり行きづまっ だは たりした時には、それを打破するために万葉集へ の復原が意識せられ、それによって和歌の革新運 動がみちびき出されてきたという事実によってで ある。中古にも中世にも、そして近代にもそうい う動きがあった。万葉集はそれぞれの時代の短歌 の生命にとって、文字通りよみがえりの泉であっ たわけだ。 明治初期の歌風に一番大きな影響力をもってい かがわかげき え、ふう たのは、可時代後期の歌人の香川景樹の風で けいえん ・一きん あった。桂園派といわれるその流派の歌は、古今 集風な情趣のおもしろさを主とするもので、たと 春日野に若菜をつめば我ながら 昔の人のここちこそすれ 景樹 というように、実際の感動から離れて、知識や趣 好によりかかって作られたものであった。世間で そういう歌が流行している中で、新しい時代の足 びんかん 音を敏感に、いの底に感し取りながら、独りでのび まんによう たちばなあけみ やかに万葉調の歌を作っていた橘曙覧という歌人 かある 岡野弘彦 ひと 158
あロ 朝日。 の朝五日召白み ロロ 句照力る子 はる く佐さ も結涙田だ 実構 の等を や岡第 はと な訳む辺び 実の な群 かは ら理しれ 出由 佐田の丘このあたりの丘で死者の霊を弔う儀式が行なわれた ( 奈良・高取町 ) とむら さだ 結構な、佐田の岡の処に、群がってをりをり して、そうして、わたしどもの泣く涙、それ は、やまる・時もないことだ。 て固定化した、邸賞め、基賞めのことばの、慣用化した しゅうじ 修辞法だからである。宝物の埋蔵伝説では、その塚山を 賞めるのにも、用的に使われている。 くさかべのみこのみこと ひなめしのみこのみこと この歌は、草壁皇子尊 ( 日竝知皇子尊 ) の薨去、葬送の とわり 儀礼の進行につれて、皇子に仕えていた舎人 ( 天皇・ かきのもとの 皇子等に遭第した従者 ) 達の歌う歌の材料として、柿本 ひとまろ 人麻呂がおそらく代作したものと思われる一連の歌の中 ′ ) ・フしト・・つ・ し、・ねりドト・し の一首である。この二十三首は、舎人等が「慟傷して作 る歌」と書いてあるが、伝承した者と、発唱し朗唱した 者と、実際に作った者と、実は区別がなかった。ことに かるのみこ この二十三首は、前に挙げた軽皇子の遊猟の折の長、短 ひとま 歌の、短歌の部分の進行展開のごとく、この前に、人麻 くさかべのみこ 呂作の、草壁皇子の葬送儀礼の歌があり、それに続いて 配置してある。しかも二十三首が統一をもって、葬送の 行事の進行につれて並べられている。概括的な、おおま かな悲しみを述べた、というべき、 よろづよ たかひかる吾が日の皇子の万代に 国知らさまし島の宮はも ( 巻二・一七一 ) の歌を第一首として、およその組織をもっている一連で、 そろ つぶの揃った連作である。 どの一首ということのない おちの さだ 佐田は、前に述べた越野の一帯の中にある。皇子の陵 さだ 墓も、今、佐田にある。 力、かっ 55
いきなり「今は吾は」と言い出して来ている。 巧みである。 ゆるさく、というのは、ゆるすという動詞の名詞形で、 ゆるすということ、自由にさせる、放任するということ。 男がほかの女に、いを移していくのを、するすべもなく、 勝手にさせよ、つと田 5 っているのだ。 い , 力に 9 も しかし この恋愛の相手は誰か、もちろんわからない きのおとめ あきのおおきみ 紀女郎は安貴王の妻であったという伝えがあり、その安 うねめ なば もんちゃく やかみのうなめ きのおおきみ 貴王は、因幡の八上〔木女との間に悶着を起し、〔木女が郷 国へ帰されるというような事件を起している。あるいは おおとものやかもち この人かも知れぬ。また、大伴家持との間にも、歌のや りとりがあるが、相手が家持だとは考えられない やかもち おんないく 女楽の人々安田靫彦画 125
さきもりのことりづかい さ、、・もり つか この防人を徴集する役目が防人部領使紫に交要員として遣わされた諸国の防 防人歌さきもりのうた。防人は、中国 ・ ) し」りづかい の書物によった表記で、和語のさきもりで、これには国司が任した。部領使は防人歌が長歌一、短歌八十三首、それに加 さ、、 - もり 人から歌を集め、これを上進した。防人えて「昔年の防人の歌」九首、さらに巻 は、国の尽端を守る人の意味。 ぐ“う ぐ“うぶしさっ てんち 兵部省が管理したので、そこで、兵十三に防人の妻の歌 ( 三三四五 ) がある。こ 天智天皇三年 ( 六六四 ) 、半島の情勢に てん さ、、 - もり おおとものやかもち つくし 部省の役人であった大伴家持との関連がの中で、中心をなすものは、巻二十の天 そなえて、対馬・壱岐・筑紫等に防人と まんにようー - う びようしようほう のろし 烽とを置いたというのが、史書に見える出てくる。すなわち万葉集に記録された平勝宝七年のもので、国は十か国に及ん ・ ) し、りづ力い ぐんばうりト哈フ さきもりのうた - うぶしようおおとものやかもち 始めで、後に制度化され、「軍防令」の中防人歌は、兵部少輔大伴家持の選択、筆でいる。それらの国の部領使から上進さ しようさい 録したものがほとんどである に詳細に規定されている。それによると、 れた歌は、総て百六十六首であったが、 やかもち 万葉集における防人歌は、巻十四に短家持の手によって、半数が「拙劣歌」と 征戦に従事するのではなくて、いわば、 てんびようしさつほう とんてんへい 屯田兵のようなものであ「て、自分のう歌五首、巻一一十に「天平勝宝七年」に筑してかれた。中には、父の歌や妻の歌 などもある。防人歌の成立については、 ちの奴婢や牛馬なども、希望によっては ことりづ力い さきもりのうた 部 ) 頑使を〔通じて、和歌を塞・るとい、つしき つれて行くこともできた。また妻妾をつ たりの中に、服従を誓い、眷顧を願う、古 れて行こうとする者があれば、それも許 実際に された。しかし軍防令の通りに、 来の歌についての信仰が、生き続い たことを考えなければならないであろ、つ。 行なわれたかどうかは別である。 っしま 画き、 4 しり さ、 - もり さき さ - 当、ーわり せつれつ 防人のはにわ さき 123