思い - みる会図書館


検索対象: グラフィック版 万葉集
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1. グラフィック版 万葉集

ム、′イい さいめい 斉明天皇 / 山の端にあぢ群騒ぎ行くなれど われはさぶしゑ君にしあらねば むら 群れをなして飛びゆく鴨 山の外輪に消えて行くあじ鴨の群鳥。それが どよみをなして行く。それではないが、 くさと歩いていくたくさんの人を見ていても むな わたしの、いは空しいことだ。その中の一人で も、あのお方ではないのだから。 三句目に小休止があって、四句目にはっきリした切れ じよめい 目かある、 -v. 一、 -±句の仕立ての短歌 : よ、前の舒明天皇 ぬかたのおおきみ のもそうであったし、次に出てくる額田王のものにもあ る。この形式からくる声調の魅力を味読してはし、、 じよめ、 まんによ、つ この次については、作者か、舍日 / 予从斉明か、万葉の編 者がすでにわからなかった。まだ作者について動揺のあ る芋代であった。しかし、下の句は、女陸である斉明天 亠さわしいと田 5 、つ 皇の歌とみる方が、 「く人々の中に、わか田 5 う人かいない しようそ・つ 方は、恋愛の焦噪というよりも、古代の歌においては、 実は、亡き人への思墓として歌われている、一つの類型 もくせん 今目前にどやどやと行く である。この「君」 人々の中に、 ることはないのである。そ、つとわかって いなから、なお追い求めるという思いを歌って悲しみを 表わしているというよりは、まだこの歌などは、すぐ近 ばんか くに、そういうことを歌うものたという可。の類型か 働きかけている、とみるべきだろ、つ。しかしこの歌など じよじよう から、徐々に、類型を脱して、個人的な抒Ⅲに達しよう おもむき とする趣が見られると思う。 さわぐというのは、聴覚に訴えるだけでなく、目に訴 えるどさくさした動きであって、群皀 2 の「さわぎ行く 様をきっかけにして、群衆の動きに転したの

2. グラフィック版 万葉集

まがわ ふらゆう 多摩川 ( 東京・府中市 ) 高い山から谷底見れば、おまん可愛いや、布さらす。 なすび となり、ついに「瓜や茄子の花盛り」にまで行ってしまう。 しなかをかそ、つかそ、つでないか いなをかもは、 ) 肯定否定に迷う類型表現である。 むさし あ亠 , ・ま - フわ」 東歌・武蔵国歌 ( 巻 + 四・三 = 一七三 ) 晒す調布さらさらに 何ぞこの子の ここだかなし、さ 多摩川で晒している、手織りの布を、くり返 しくり返し晒す、それではないが、考えても 考えても、なんで、この娘が、こんなにひど くかわいいたろ、つ むさし 武蔵の国の歌である証拠に「多摩川」が登場している。 うたまくら 後の考えだと、歌枕とか、歌名所とかいうことになるの あずまうた だが、東歌などだとそのもう一つ前で、風魂をその歌に 保有させる必要から、その国の大事な地名が詠みこまれ たのだ。 との道、具 この子は、あの子でも、その子でもしし 体的な一人の娘のことを言っているのではないので、大 おもむき 勢で歌いあげているような趣を感しさせられる歌だ。 かにも、明るく、こだわりかなく、亦 5 とい、つよ、つな、固 人的な、つきつめた思いなどではないところが、民謡の よさである。 てづくり ・↓・カ。わ 65

3. グラフィック版 万葉集

作者不詳 ( 巻十六・三八〇四 ) かくのみにありけるものを猪名川の おき 澳を探めて吾が思へりける ばが別様に働くのである。男の帰りを待ち望んで、まさ これは、歌物語の中の歌である。 おおやけ に死の床にいる、という事純旧を消してしま、つと、逆に、 昔、男がおった。その男は、公の命令をうけて、新婚 女の薄情を限んでいる歌になってしまう。「猪名川」とい の妻をおいて、出かけて行ってしまった。やっと男が戻 カんさ、」 せつつ か出てくるのは、こ 今の神崎川上法 って来たとき、女はすでに病いの床にあった。涙を流し う摂津のⅡ せつつ て詠んだ男の歌が、これである。 の歌が、摂津の国の歌だったことを示している。 まくら 女の歌の方も、わたしの恋の思いが効を奏して、男が 女は枕からやっと頭を持ちあげて、 あわゆき やって来た、というだけのものだか、背景がついてくる ぬばたまの黒髪ぬれて沫雪の降るにや来ます 二八〇五 ) と、焦れに焦れていた効果によって、やっと男に逢えた ここだ亦ふれば ( 巻ー ハつは′、 AJ い、つ 切実な思いの表白になってくる。 と歌った。 巻十六には、「昔者有壮士」という書き出しの詞書を持 こ、つい、つ、勿五ロの中にはいっていると、そ、つい、つ事・住旧 力な、つよ、つに、 った歌が集められている。訳せば「昔男ありけり」であ 歌というものは解釈出来るのである。 しかし、そ、つい、つ説明からはすしてしま、つと、同じこと ゐながは こんな状態でいたのだったのだなあ。そうと は知らすに、猪名川、その川の深みではない が、深く田 5 いを寄せて、わたしは田 5 っていた ことだった。 初し 要 : フ

4. グラフィック版 万葉集

うとへのうしまろ 有 ~ 度部牛琳阜ロ ( 巻二十・四三 = 一七 ) みづとりの発ちの急ぎに父母に ものは 物一言ず来にて今ぞくやしき あいさっ 発ちの急ぎ、が原因で、別れの挨拶を十分にかわすこ とが出来なかった、というのだが、出がけに「ものを一言 わず」に来てしまったというのは、類例が多い。前に挙 ひとまろ げた人麻呂の「たまぎぬの」の歌もそうだったが、 水鳥のたたむ装ひに妹のらに もの一一口はず来にて思ひかねつも ( を十四・三五二八 ) ひとまろ あずまうた があり、また人麻呂のとはとんど同じ形のものが東歌に もう一首ある。これだけあると、どうも、今風にこれを とってゆっくり話も出来ないで、とい、つことではなさそ 、つな風がする。「もの一一一口ひ」をする、とい、つことになると、 せいれい 旅立ちにあたって、家の精霊などに対して、言いかけを 弓を持っ防人 する儀礼のようなことがあったのではないかと思われる。 たびじ それが完全に遂行されないと、旅路の平安を得られない のではなかったか。そういう生活饋習の堆積から、その 言い方が転用されて、親しい者に対して、十分別離の悲 しみをかわしきれなかった、という内容が引き出されて 来たもののように田 5 う さ、、 - ・わり 防人は、父母を歌うことが多いのだが、これは、防人 として召集された壮丁には、年の若い者が多くて、おの ずから、愛人への思いよりも、父母への思慕を歌うこと か、多かったのではないかと思う。ものはずけにて、は 方言というより、そう聴き取ったのであろ、つ。 出発する時の用意のために時間がなくて、父 や母に、ものを言うことなくやって来てしま って、今になってみるとそれがじれったい。 そ - フてし 120

5. グラフィック版 万葉集

1 第第ド「 -,-C のひめのおおきさき 磐姫皇后 ( 巻二・八八 ) あさがすみ 秋の田の穂の上に霧らふ朝霞 何方の方にわが恋ひやまむ しず 自分の恋の田 5 いは、苦しくて、鎮まることなく続いて A 」、つい、つ いる。なんとか、結着をつけてしまいたい。。 しかし、く、いにし 向へなりと消散させてしまいたい。 しレ唸フりレみ みついていて消えそうにないそういう焦慮の思いか いわのひめ 磐姫皇后陵 ( 奈良・歌姫町 ) あらためて反省されたのは、秋の、すっかりみのった稲 あさすみ の上に、ばうっと立ちこめている朝霞を目にしていた AJ 医に、 この霞は、やがて日がのばれば、どちらへとも なく消えていってしま、つのだ、と田 5 ったのがきっかけで ある。 : よんぎ いわのひめのおおきさき こ云えられたところでは、 磐姫皇后は、印本紀、古事記 : イ しっと 非常に嫉妬深い方である。ねたみ妻という。日本の女性 れってん の、ねたみ妻の列伝を作るとすれば、古代の、すせり姫 いて、第二に位置する女性である。その女性の、背 きみ の君、仁徳天皇への思慕の思いをのべた歌が、巻二の巻 頭に四首並んでいる。 君が行き日長くなりぬ山尋ね 迎へか行かむ待ちにか待たむ 予定の日が過ぎても帰って来られない背の君に対して、 しよう , て - フ 待っ身の焦燥である。 ただ、このように短歌の形式がきちんと確立したのは、 いわのひめのおお すっと後のことで、少なくともこの通りの歌を、磐姫皇 后が創作したとは考えられない また「山尋ね」という ゅうり れいこん じゅじゅっ のは、身体を遊離した霊魂を、迎えとる呪術だといわれ 年釈に立っと、 ているそういう角 「秋の田の」の歌も、 しようよ - フ 今のわれわれが単純に恋の歌として、賞揚してもいられ ない歌である。 秋のみのりの穂の上にばうっと立っている朝 の霞。霞は消えていく方があるけれども、ど っちの方へ、わたしの鷦れ心がやむだろうか。

6. グラフィック版 万葉集

仲のい - め亠 , ↓ - - フ 4 」 みかんこくのうた 東歌・未勘国歌 ( 巻 + 四・三四九四 ) 子持山若かへるてのもみづまて わ 寝もと吾は思ふ汝はあどか思ふ ぐんま 子持山という山は、今も群馬県にある。伊香保温泉から あずま 二吾妻川の峡谷をへだてて真正面に見える。上野の国 では有名な山なのだが、もしそれだとすればこの歌は上野 あずまうた の国の歌だということになる。東歌が編纂された当時、こ の山の場所がわからなかった、ということになるのだろう。 この歌では、民謡式に、この山の名について、興味を 持っているようだ。 もみづというのはもみぢの動詞で、あかくなること。 - 一・フよ・フ もみは赤い色 だ。だから、秋になって、かえでが紅葉す る、ということを一言っているわけではなくて、夜があけ て、あたりが明るくなることを言っているのだ、ととる あずまうた みかん一てのうた 東歌・未勘国歌 ( 巻 + 四・ = 一五六五 ) 彼の子らと寝ずやなりなむはだずすき うらぬの山に月片寄るも おレ子 男に、何かさしさわりがあって、女のもとを訪れるこ とが出来す、一夜を明かしてしまった、というのではな くて、女のもとを訪れながら、家の中へ入れて貰えすに、 外に立っているうちに、夜が明けかけて来てしまったの だ。相手の女性に、入れて貰えずに、外にいて、夜をゝ カ へんさん - な こ - フずけ くにぬしのみこと 明かしてしまった、というのは、大国主命以来、いろご のみの男が、絶えす経験してきたところで、これも、共 感を呼んだことだと田 5 う。 - フ・らの ちいさがた 浦野の山というのは、長野県小県郡のその名の山が有 みかんこく 名だというが、そこだとすれば、未勘国の歌ではなく \ べきだろう。かえでの若葉が、夏を過ぎて、秋になって、 紅葉するまで寝ていたい、 し力に何でも、 誇張しすぎると思われるからである。 ひだちふ ともわ 『常陸風土記』には、歌垣の時に共寝した男女が、寝すご して夜が明けてしまって、その場で松になってしまった いちばんい」り という伝説がある。女のもとを訪れた男は、一番鶏が鳴 くとともに、 , のもとを去らねばならなかった。そ、つい う男女の妻どいの生活の常識を踏まえて、その上で、明 るくなるまで寝ていよう、お前はどうだいと言いかけて いるのだから、これも多くの人々の、同感をそそったに 理いないと田 5 、つ あの娘と、今夜も寝ないで明かさなければな らないのかも、つ、、つらのの山には、月かか たよってしまったことだ。 子持山よ。そのかえでの若葉ではないが、あ たりが明るくなるまで、寝ていたいとわたし は田 5 、つことだ。お則はど、つ思、つかし 0 おお

7. グラフィック版 万葉集

おおとものすくなまろ 大伴宿奈麻呂 ( 巻四・五三二 ) カオ うちひさす宮に行く子をま愛しみ 留むれば苦し遣ればすべなし おおとものすくなまろ やすまろ 作者大伴宿奈麻呂は、前に掲げた系図にある、安麻呂 まんによっしゅ、フ の子、旅人の弟であるが、歌は万葉集に二首しかない かひん その一首の佳品である。 宮に行く子、というのは、よく歌われるのだが、的確 にはわか、らない 宮廷に仕え、初めて宮人として出仕す るというのか、単に、宮殿に向って行く子に広い野中で 出逢ったというのか、この歌ではよくわからない しかし、惟馬木などを見ると、 そて ! ノ \ かけ・、れど ) 沢田川袖資 恭仁の宮人高橋わたす ( 値楽「沢田川」 ) せんがい : 沓買はば線鞋の細底を買へさし履きて つか てキ、か′、 上裳とり着て宮路かよはむ ( 騰楽「貫河」 ) などとあって、宮殿にかよう、宮仕えの女性を歌ってい る。目立ったのかもしれない あるいは「宮に行く子」は、宮廷に出仕することがき 」い、つ まってしまって、今後は、たやすくは逢えない ことか則提にあるとも老ノえられる この歌の下の旬になると、なかなか技巧的な言い方で あって、万葉集もすっと後代への歩みよりをみせてくる。 むさしあぶみ 武蔵鐙さすがにかけて頼むには 問はぬもつらし日国ふも、つるさし 伊勢物語にある。すっと民謡的に軽くなっている。 立派な宮殿をさして行く子のかわゆさに、ひ き留めれば辛い思いがするし、そのまま自由 にさせれば、こちらがやるせない - 宮廷に仕えるおとめ安田靱彦画 102

8. グラフィック版 万葉集

及ばす効果を論することは、自由である。称せられたのではないかという推測がな 者ともわからない。巻十六は家持らしい り立つ。嵯峨天皇が万葉集を書き写した 四巻のできあがりは以上のごとくだか と推測されるが、他の諸巻は恐らく家持四巻は、しかし家持がすべて自身で歌 げんじものいたり ということが源氏物語の中に出て来るの ではないだろう。むしろもっと自然な力を書きとめたものではない。巻十七は、 この特色は、やはり家持の歌を年代順に えっちゃっ おおともの だが、これは「えらびかかせ給へる」と が働いているようで、おのすからに集ま越中における部下、掾 ( 三等官 ) の大伴並べたところにある。これは、いわば歌 ふうばう いけぬし った全奈良朝の歌、といった風貎がある。池主が書き記したもののようだし、巻十日記ふうであり、そのような体裁は、巻はいっているが四巻である。さらに古今 げんまんによう くめのひろなわ 八はこの後をついで久米広縄が書いたと五といえどももっていない。そこに歌と集などは、万葉集に入っている歌は再録 私は最初から原万葉などと、万葉という ひろなわ しいながら万葉の歌をとってい いう表現形式を通して人間の歴史をつづしないと、 ことばを使って来たが、もとより最初の私は考える。広縄は池主の後任の掾官で やか・つ へいあんちょう まんいようーゅう っていこうとする、後の平安朝の女流作る。だからそれらの歌をふくむ巻を万葉 三十首ほどのものが万葉集とよばれたとある。そして巻十九は家持自身のノート は考えられない。万葉集という名称は、 のように思われる。以上の三巻ともだが、家が試みたような文学表現の先駆を見る集からはすすと、数巻の一まとまりとな ことが可能で、これも万葉集の世界に大る。このようなことから考えると、現在 むしろ右の諸巻を中心として寄り集まっ もとより彼らが最終整理者ではなく、 こんとん ならち↓っ のような二十巻の体裁に定着したのは、 た全奈良朝のアンソロジーの、混沌とし きな幅をもたせる結果となっている。 に何人かによって整理されているが、も 意外に新しいことではないかと考えられ とは、彼ら三人の筆によるようである て名状しがたい力に対して、万の葉 ( 詩 そして最後の巻二十は、前半は家持の 以上、万葉集二十巻がどのようななりて来るのである。 歌 ) の集と命名されたものだと思えるの 力いカん こきんーるう やかもち おおはりのいまき である。 古今集が二十巻であるのは、万葉にな たちをもっているかとい、つことを概観し メモがつづくが、後半は大原今城 ( 家持 おおとものいらつめ たびと らったからだとい、つが、むしろ逆のこと の父旅人の妻、大伴郎女が先夫との間にて来たが、問題はまだ解決していない ち 4 、せんしやっ やか 家持万葉 もうけた子か ) が書いたらしい。同じ家ということは、右にも述べたように、多もいえる。古今集以後、勅撰集はおおむ ならちさっ 、一うにん くの巻が奈良朝の終りごろ、光仁朝にでね二十巻である。万葉はそれにならって 万葉集の最後をしめる四巻、巻十七か持のメモがつづくのに十九と二十との切 ら二十までは、一見して知られるように、 れ目ができてしまっているのは、時に左きたろうとは思われるけれども、果して二十巻に決定された、ということも考え やかもち たちばたあもろえ ーうーうけんじさっ・ 題てみなければならないことである。 家持の歌が多い。家持の生涯にそって歌大臣橘諸兄が歌の蒐集献上を諸臣に命しそれ以後に変史がなかったかという問 やかもち 、せき すると、残りの万葉集はどこへい がある。実はこの後の平城天皇のころに た形跡があり、よってそこまでのものが が並べられているごとくで、家持歌集と へいあん やカもち 万葉集は世に出たのではないかという説のだろう。平安初期にできた古今六占 よんでもよいはどのものである。その点家持の手から離れたのではないかと思う。 へいあん 平安も後半期にできた三十六人集の中の また巻二十の最後は上述のように宝字もあるのである。 で右の十六巻とは、はっきりと区別され やかもちしやっ かきのもとー澄うあかひとーう わーかー 0 ・つ 私は、現在の万葉集の各巻が編集され柿本集や赤人集、そして家持集らは、す る。いわば第三部をなしているようであ三年の歌で、家持時に四十二歳、六十八 そざっ いぶん粗雑にいろいろなものを混入して たのは奈良朝のおわりごろであろうと思 歳の薨年まで二十六年間をのこして以後 やか・ 0 ・つ の歌がないのも、家持が因幡に赴任してう。しかし万葉集が現在のような二十巻はいるが、これらの中に存外非万葉の万 へいあん やか・ 0 ・つ に定着したのは、すっと後で平安朝も後葉歌の入っている可能性は大きいと私は 今城と交渉がたえてしまい、家持が帰京 すると今度は今城が離京するという具合半に入ってからではないかという仮説を考えている。 どうやら万葉集は、今目にしている以 もっている。本来万葉集はもっともっと で、後の筆録がかなわなかったことによ っている。最後の歌は新春の祈りの歌で、巻数が多かったのではないかと思う。平上に大きな世界を周辺にもっているよう あん すいやらのみちざね 全体をとじるにふさわしい歌ではあるが、安初期の漢学者、菅原道真は、「数十巻」である。その第二万葉をふくめた万葉の 世界を示唆してくれるのも、万葉のでき これで終ることになったのは、半ば偶然と書き記しているのである。「数十」とい あがりや構成を考えていった結果のこと ( 家のことであった。もとより、残された結果う数は、二十だろうか ひとそろえ ( 成城大学教授 ) 】大 一揃も万葉集とである。 また、逆に数の少ない において最終歌の万葉集という作品集に やかもち やかもち やかーち る 0 こうねん やかもち ふにん やかもち 0 やかもち ていさい せん 165

9. グラフィック版 万葉集

あき を進め、阿騎の野に到達した。この地はかって皇子の父、 ところ くさかべのみこ くさかべのみこ 草壁皇子もおいでになった処であるが、草辟 ~ 皇子は帝位 かるのみこ に即くことなく亡くなられた。軽皇子は、近き将来に帝 みそ に即くべき人だが、そのためには山における禊ぎと魂 ふりとが行なわれなければならなかった。同時にそれは くさかべのみこ 効果としては草壁皇子の魂しすめでもあった。それが、 狩猟とい、つ形で執行される その長歌は、持統朝の行事として、もっとも重大な神 しじんひとまろ えいしん 暮事を背景にしての、宮廷詞人人麻呂の詠進であって、そ ドレ髪」・つ こよって、展開してい れはさらに短歌 ( 。通説は持統七 き大可 ドレし」 - フ あロ あロ ( 、・ 3 お " 陀 う宇

10. グラフィック版 万葉集

かきのもとのひとまろ 柿本人麻呂 ( 巻四・五〇三 ) 4 に↓ぎ」ぬ 珠衣のさゐさゐしづみ家の嫌に もの言はず来て思ひかねつも 覊旅の人麻呂福岡青嵐画 神聖な着物をかぶってこもっていると、依り 来る魂によって着物が、さやさやとさわだち、 ちんせい 、く。じっと心をひそめて、家 また鎮静してし なる妻にものを言うことなく来てしまって、 今はたえられぬ思いにいることだ。 「たまぎぬのさゐさゐ ロ訳が説明的に長くなったが、 あずまうた しつみ」は難しい。東歌には、ほとんど同形、 ありぎぬのさゑさゑしづみ家の妺に もの言はず来にて思ひ苦しも ひとまろ があり、左注に人麻呂歌集にあることを記している。 珠衣のさゐさゐしづみ、を口訳のようにと「て、 じゅじゅっ の呪術をほどこしている経験から出ているとみて、その 「しづみ」が、転して、自分がしずみいて、そして、と いうように歌の本部にはいっていくとみて、ロ訳をして みたが、 もう一つ、「さゐさゐしづみ」が、「もの言はす」 にかかるともとれる。ものにこもっていて、魂がよりつ いて、しっと沈静した状態にいることから、次へかか ていくとみるわけだ。 その「もの言はす来 ( に ) て」は、類例の多い語句だが、 ~ 早に、いそがしさにとりまぎれて、出発間際にことばを 交わすこともなく、旅に出てしまった、というように、 近代的に訳していいかどうかも問題になる。「もの言ふ」 という一言い方の中に、旅立ちにあたっての、何か信仰的 しかし央 な発唱のよ、つなことがあったのかも知れない い感じの歌だ。 ひとまろ この歌など、後に述べる、人麻呂の人物像に、 ろの暗示を与えるところのある歌である。