田 - みる会図書館


検索対象: グラフィック版 万葉集
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1. グラフィック版 万葉集

しようむ 聖武天皇 ( 巻八・一六一五 ) おほの浦のその長浜に寄する波 く君を思ふこのごろ とおとうみこくしゅ この歌は、天皇の「報和」の歌である。遠江の国守の 、らいのおおきみ はつかり 桜井王が、九月になって、初雁がやってくるようになっ たが、その雁も、一向におたよりを届けてこない、わた おおの浦 ( 静岡・磐田市 ) しのことなどはお忘れになってしまったのかしらんと、 ごと 恨み一一一口をかるく一言って寄こしたのである。 ながっき 九月のその初雁の使にも 田 5 ふ、いは聞えこぬかも ( 巻八・一六一四 ) 「田 5 ふ心」というのは、敬語がないが、天皇の王に対す みこころ る御心を一三ロっているのだ。 それに対して天皇が、答の歌を届けたのであって、桜 いのおお 0 井王のいる場所をとり上げて、この歌の上の句を作った。 とおとつみ 「大浦」は、遠江の国の海浜の名であると、特に原文の 編者が注記して、われわれの理解を助けている。その地 名を詠みこんで、それを序歌として、「寛公乎」に転じて さてこの「寛公」の訓み方である。ゆたけき君と訓む か、ゆたけく君と訓むかでかかり方が変る。ゆたけくな らば、をへだてて、田 5 、つにかかる。ゆたけきと訓むと 相手をほめて一言、つことになるが、ゆたけくならば、自分 の言動にかけていうことになる。原文の表記では、その さくらいのおお、み どちらとも、決定のしようはない。 しかし、桜井王が、 忘れられているという恨み言を言って来たのに対して、 その人を「ゆたけき君」と言うとするよりも、天皇らし 、と田 5 くこだわらすにゆたけく思っているとした方かいし とおとらみ 遠江の国の国府の南にあたるおおの浦の、そ の長い海岸に寄せてくる波、それではないか、 おおらかな気持ちで、あなたのことを田 5 って いる。そんないく日かが続いている。 おおきみ 108

2. グラフィック版 万葉集

山七良 ( 巻五・八九九 ) すべもなく苦しくあれば出て奔り さや 去ななと思へど子らに障りぬ 老年に到って長くわすらい、そして子どもたちを思っ 長歌一首に六首の短歌のついたもの。 ての歌、という、 おくら てんびよう 天平五年 ( 七三一一 l) 六月の作で、憶良七十四歳。希望が みやこ かなっ . て、京に上って来たのが前の年のことだ。そして この歌を作ってから、そう長くは生きてはいなかったよ 、つ」」田じ、つ おくら 意良は、理くつつばいのと、貧しさを訴えすぎるとこ ろが、はなにつくけれども、しかし、中国大陸の先進国 の文枷にも触れ、知的な感覚は、磨かれていた人だ。だ はんしゆっ から、この歌、およびこの一群のものも、感激が奔出す るというのではないところに、そのよさがある。中には、 言田 富む人の家の子どもの着る身無み きぬわた 也・昻らはも ( 巻五・九〇〇 ) 腐し捨つらむ糸辛 などは、金持ち物持ちの家の子どもらが、着るまでに手 が回らなくて、くさらして捨ててしまうという純や綿、 それが欲しいな、というのである。これなど、もの欲し そうだけれども、あまり宣しく言わすに、軽く受け取れ ば、結構おもしろいと思う。だから、「すべもなく」な おくら かた′、る ども、固苦しく受け取らないで、憶良の理智がこう言わ せているので、言っていることは、さして気むすかしく 言っているわけではないと、受け取ればいいのだと思う。 さすがに、自由自在に言っているわけだ。 ど、つしよ、つもなく辛い田 5 いに立たされたので、 しゆっぱん いっそ思い切ってわが家を捨てて、出奔して しまおうと田 5 ったのだが、子どもらにかかす らわって、だめになってしまったことだ。 きぬ

3. グラフィック版 万葉集

おおとものやかもち 大伴家持 ( 巻 + 九・四一四一 ) 春まけてものかなしきにさ夜更けて 羽ぶき鳴く鴫誰が田にか棲む やかもち ていねい 家持は丁寧な日録を残しておいたので、この歌の制作 てんびようしようはう についても興味ひかれる。天平勝宝二年 ( 七五〇 ) 三月 一日のこと、その夕方に桃李の花を眺めて作った歌がま す二首、 し」・フり その 春の苑くれなゐにほふ桃の花 をとめ 下照る道に出で立っ少女 ( 巻十九・四一三九 ) その わが苑の李の花か庭に散る はだれ 残雪のいまだ残りたるかも ( 同・四一四〇 ) 春になって、何となく満たされぬ田 5 いにいる 時に、夜がふけて、羽亠日をたてて鳴いてい 鴫よ。誰の田に居着こうとしているのか しぎ ー小矢部川家持の歌では射水河と呼ばれている ( 富山・言岡付近 ) 132

4. グラフィック版 万葉集

1 第第ド「 -,-C のひめのおおきさき 磐姫皇后 ( 巻二・八八 ) あさがすみ 秋の田の穂の上に霧らふ朝霞 何方の方にわが恋ひやまむ しず 自分の恋の田 5 いは、苦しくて、鎮まることなく続いて A 」、つい、つ いる。なんとか、結着をつけてしまいたい。。 しかし、く、いにし 向へなりと消散させてしまいたい。 しレ唸フりレみ みついていて消えそうにないそういう焦慮の思いか いわのひめ 磐姫皇后陵 ( 奈良・歌姫町 ) あらためて反省されたのは、秋の、すっかりみのった稲 あさすみ の上に、ばうっと立ちこめている朝霞を目にしていた AJ 医に、 この霞は、やがて日がのばれば、どちらへとも なく消えていってしま、つのだ、と田 5 ったのがきっかけで ある。 : よんぎ いわのひめのおおきさき こ云えられたところでは、 磐姫皇后は、印本紀、古事記 : イ しっと 非常に嫉妬深い方である。ねたみ妻という。日本の女性 れってん の、ねたみ妻の列伝を作るとすれば、古代の、すせり姫 いて、第二に位置する女性である。その女性の、背 きみ の君、仁徳天皇への思慕の思いをのべた歌が、巻二の巻 頭に四首並んでいる。 君が行き日長くなりぬ山尋ね 迎へか行かむ待ちにか待たむ 予定の日が過ぎても帰って来られない背の君に対して、 しよう , て - フ 待っ身の焦燥である。 ただ、このように短歌の形式がきちんと確立したのは、 いわのひめのおお すっと後のことで、少なくともこの通りの歌を、磐姫皇 后が創作したとは考えられない また「山尋ね」という ゅうり れいこん じゅじゅっ のは、身体を遊離した霊魂を、迎えとる呪術だといわれ 年釈に立っと、 ているそういう角 「秋の田の」の歌も、 しようよ - フ 今のわれわれが単純に恋の歌として、賞揚してもいられ ない歌である。 秋のみのりの穂の上にばうっと立っている朝 の霞。霞は消えていく方があるけれども、ど っちの方へ、わたしの鷦れ心がやむだろうか。

5. グラフィック版 万葉集

おおとものやかもち 大伴家持 ( 巻 + 九・四二九二 ) うらうらに照れる春日に雲雀あがり 、心かなしも独り・し田 5 へ、は この歌は、前の二首から、中一日おいて、二月二十五 日の作だ。この歌のあとに、 せいちっ しゅんじっちち 春日遅遅として、創鷓 ( ひばり ) まさに啼く。腹惆 こころ の意、歌にあらすば撥ひがたきのみ。 それで、この歌を作ったというのだが、ここまで一言えば、 つまり歌と同じことを言っていることになり、言わすも おおとものやかもち 大伴 ~ 豕持 ( 巻二十・四四八三 ) 多り一丁く時見る ~ 毋にむく 昔の人し思ほゆるかも ひと ひばり てんびさっしさつほう この歌も制作の時がわかっている。天平勝宝九年 ( 七 てんびようほうじ 五七。八月改元して天平宝字 ) 六月二十三日のことだ。この たちばなのもろえ やかもち・ 年正月六日、家持の。ノ 、トロンというべき橘諸兄がなくなり、 ふじわらのなかまろ つい六月九日には、藤原仲麻呂によって、氏の上等による やかもち・ 集会が禁ぜられるというような、家持の周辺には、公私に わたって、時代の急激な変化を思わせることが起っていた。 自分の父、自分の祖父、そうした人達の時代にはまだ そうした激しい世の中の移り替りはなかった。それを、 詠史的なとらえ方でなく、自分の心の中に深くとりいれ たん , て第、 て、深い歎息とともに独白している。 ひばり うらうらと照っている春の光線の中で、雲雀 があがっていて鳴いている。わたしは何とな く名状しがたい田 5 いにとらえられていること だ。ひとりで、もの田 5 いをしているというと がなの気がするが、歌の解釈についても、もうなにも加 えることがなくなってしま、つ やかもち 家持はこの時、四十歳に達したか達しないかの年齢で ある。家持の経て来た人生の履歴を、あえて解説的に加え ることはないと思うが、この周囲の明るい光景の中での、 やかもちゅうもん ここんどっぽ 知識人家持の憂悶は、文学の上では古今独歩であった。 やか・もち かわ 移り替って行く時を思わせる出来ごとに触れ るごとに、、いに深くしみて、そうした変化の なかった頃の、すぎ去った人達のことが、心 に田 5 い浮べられることだ。 かみ 135

6. グラフィック版 万葉集

かきのもとのひとまろ 柿本人麻阜ロ ( 巻三・二五三 ) なびぬ 印南野も行き過ぎかてに田 5 へれば みなと 心恋しき加古の川口見ゅ きりよ 人麻呂の羇旅八首は、近代の短歌の連作とは異なる。 ひと続きの展開を辿っていく歌の一連ではない。前の歌 は海上を行き、これは陸上である。 いなび 行っても行っても果てもない感じの印南の原野の中の くったく 道である。その屈託した心に、はるかに遠く、加古川の川 ロの、海との境目の、白波の立っているところが見えて来 かきのもとのひとまろ 柿本人麻呂 ( 巻三・二六六 ) あふみ 近江の湖タ波千鳥汝が鳴けば むもしぬに古昔田 5 ほゅ 第信畋す性す・毛た。入ネ一 ひとまろ うみ たまぎぬ たのである。「、い亦 5 しき」は、、いこひしき、、いこほしき。・後 者を近代の歌人達は好んでいる。しかし、意味は的確に はわからない。満たされない思いをそそるとか、やるせな し田いがするとかい、つことらしい。それでも、「、い亦 5 しき 加古のみなと見ゅ」の気分は十分に感じられる。声調か らくる魅力で、歌というものはふしぎなものだと思う。 近江の湖、そこで、夕方、波の上に浮いてい る千鳥。おまえが鳴いている声を聞くと、わ たしは、、いカくたくたになってしま、つほどに、 過ぎ去った時のことが思われる。 昔のことを田 5 うと、いが滅入りこんでしまうという人麻 しじん てんむじとう 呂は、天武・持統の宮廷に仕えた宮廷詞人と想像される。 亜の王朝にと「ては、近江の王朝、もしくは近江の国 のに対しては、怖の心を持「ていたから、人麻呂 たけちのくろひと ふるみやこ や、あとに続く高市黒人らは、大津の宮を旧き京として、 その国魂を慰撫する歌を作らねばならなかった。この歌 の背景には、この作者の持っている知識と、作歌の履歴 が考えられるが、この歌は、そうした実用や儀礼などか じよじよう かひん らは脱け出して、作者の抒情が、忘れがたい佳品を生ん でいる。「タ波千鳥汝が鳴けば」はことに魅力的だ。 卩南、それを行き過ぎにくく思「て、道を 歩いて行った時に、やるせない思いをそそる、 加古川の川口が見えて来たことだ。 おうみ おおっ ひとま

7. グラフィック版 万葉集

大伴坂上郎女 ( 巻四・六六一 あ , つつく 恋ひ恋ひて逢へる時だに愛しき 一 = ロつくしてよ長くと田 5 はば つくし、、つつくし、、つるはし、以たよ、つなことばか あって、原文の「愛寸」はどうとも訓めるようだ。 げんゼん ・悲など くしは厳然としていることを一言うが、なお、慈 の字もあてていることばであり、うつくしは、相手に対 してごく親しい情愛を一一一口い うるはしは、自然の情景や ネ的な立派さの、整ったことを一一一口う、といった相違が おおとものさかのへのいらつめ 大伴坂上郎女 ( 巻四・六八八 ) 青山を横切る雲のいちじろく ゑ われ 吾と咲まして人に知らゆな おおとものさかのへのいらつめ 思い慕う女 この人は、奈良時代を代表する、女流のインテリゲン チャであるために、情と理とのからみ合いが、乱れるこ となく ハランスをとっている歌が多いのだが、この歌 などになると、しなやかさが出て来ている。「長くと思 女の方からする訴えに、それがある。伝 説の女、民謡の女から、現実の女そのものの声が聞かれ るようになったわけである。 さかのへのおといらつめ この作者の二番目の娘、坂上二嬢は、その名の歌を万 さいろく 葉にのこしていないのだが、 この歌は、巻四に採録され た六首の中の一首で、その六首は、母が娘に代って詠ん おおとものするがまろ で、娘の相手、大伴駿河麻呂に贈ったものらしい。庇護 「、つつくしき 者としての母の役目でもあったと思うが、 一一一口つくしてよ」というところなどは、とても若い娘など には一一一一口えないはずで、代作であることはすぐにわかって しまっただろう。もちろん編集者はそれを承知で、原作 者の名に戻したものと思う。 ある。 焦れに焦れていて、やっと逢った時、その時 だけでも、せめていとしいことばのありたけ を言いつくして聞かせて下さい。二人の間が しになるならば 長く続くよ、つにとお田 5 、 青々とした山を、横切っていく白雲、それが まっ はっきりと見られる、それではないが、 きりと人目につくよ、つに、田 5 い山山し←夭いなど なさって、他人に知られたりなさいますな。 まん 104

8. グラフィック版 万葉集

中暉尾円池 ロ 行村峻崎地田 淳真 之一康秀文 介郎隆樹子郎 げりつじよいようぶ 鳥毛立女屏風 ( 部分 ) 正倉院宝物

9. グラフィック版 万葉集

仲のい - め亠 , ↓ - - フ 4 」 みかんこくのうた 東歌・未勘国歌 ( 巻 + 四・三四九四 ) 子持山若かへるてのもみづまて わ 寝もと吾は思ふ汝はあどか思ふ ぐんま 子持山という山は、今も群馬県にある。伊香保温泉から あずま 二吾妻川の峡谷をへだてて真正面に見える。上野の国 では有名な山なのだが、もしそれだとすればこの歌は上野 あずまうた の国の歌だということになる。東歌が編纂された当時、こ の山の場所がわからなかった、ということになるのだろう。 この歌では、民謡式に、この山の名について、興味を 持っているようだ。 もみづというのはもみぢの動詞で、あかくなること。 - 一・フよ・フ もみは赤い色 だ。だから、秋になって、かえでが紅葉す る、ということを一言っているわけではなくて、夜があけ て、あたりが明るくなることを言っているのだ、ととる あずまうた みかん一てのうた 東歌・未勘国歌 ( 巻 + 四・ = 一五六五 ) 彼の子らと寝ずやなりなむはだずすき うらぬの山に月片寄るも おレ子 男に、何かさしさわりがあって、女のもとを訪れるこ とが出来す、一夜を明かしてしまった、というのではな くて、女のもとを訪れながら、家の中へ入れて貰えすに、 外に立っているうちに、夜が明けかけて来てしまったの だ。相手の女性に、入れて貰えずに、外にいて、夜をゝ カ へんさん - な こ - フずけ くにぬしのみこと 明かしてしまった、というのは、大国主命以来、いろご のみの男が、絶えす経験してきたところで、これも、共 感を呼んだことだと田 5 う。 - フ・らの ちいさがた 浦野の山というのは、長野県小県郡のその名の山が有 みかんこく 名だというが、そこだとすれば、未勘国の歌ではなく \ べきだろう。かえでの若葉が、夏を過ぎて、秋になって、 紅葉するまで寝ていたい、 し力に何でも、 誇張しすぎると思われるからである。 ひだちふ ともわ 『常陸風土記』には、歌垣の時に共寝した男女が、寝すご して夜が明けてしまって、その場で松になってしまった いちばんい」り という伝説がある。女のもとを訪れた男は、一番鶏が鳴 くとともに、 , のもとを去らねばならなかった。そ、つい う男女の妻どいの生活の常識を踏まえて、その上で、明 るくなるまで寝ていよう、お前はどうだいと言いかけて いるのだから、これも多くの人々の、同感をそそったに 理いないと田 5 、つ あの娘と、今夜も寝ないで明かさなければな らないのかも、つ、、つらのの山には、月かか たよってしまったことだ。 子持山よ。そのかえでの若葉ではないが、あ たりが明るくなるまで、寝ていたいとわたし は田 5 、つことだ。お則はど、つ思、つかし 0 おお

10. グラフィック版 万葉集

作者不詳 ( 巻十六・三八〇四 ) かくのみにありけるものを猪名川の おき 澳を探めて吾が思へりける ばが別様に働くのである。男の帰りを待ち望んで、まさ これは、歌物語の中の歌である。 おおやけ に死の床にいる、という事純旧を消してしま、つと、逆に、 昔、男がおった。その男は、公の命令をうけて、新婚 女の薄情を限んでいる歌になってしまう。「猪名川」とい の妻をおいて、出かけて行ってしまった。やっと男が戻 カんさ、」 せつつ か出てくるのは、こ 今の神崎川上法 って来たとき、女はすでに病いの床にあった。涙を流し う摂津のⅡ せつつ て詠んだ男の歌が、これである。 の歌が、摂津の国の歌だったことを示している。 まくら 女の歌の方も、わたしの恋の思いが効を奏して、男が 女は枕からやっと頭を持ちあげて、 あわゆき やって来た、というだけのものだか、背景がついてくる ぬばたまの黒髪ぬれて沫雪の降るにや来ます 二八〇五 ) と、焦れに焦れていた効果によって、やっと男に逢えた ここだ亦ふれば ( 巻ー ハつは′、 AJ い、つ 切実な思いの表白になってくる。 と歌った。 巻十六には、「昔者有壮士」という書き出しの詞書を持 こ、つい、つ、勿五ロの中にはいっていると、そ、つい、つ事・住旧 力な、つよ、つに、 った歌が集められている。訳せば「昔男ありけり」であ 歌というものは解釈出来るのである。 しかし、そ、つい、つ説明からはすしてしま、つと、同じこと ゐながは こんな状態でいたのだったのだなあ。そうと は知らすに、猪名川、その川の深みではない が、深く田 5 いを寄せて、わたしは田 5 っていた ことだった。 初し 要 : フ