および五島美術館に蔵されている十二世紀の「源氏物語 わざめものこり 絵巻」や大和文華館蔵の「寢覚物絵巻」は、こうした 平安時代物語絵のあり方を如実に伝えるものである。 牛 = = か貴族社会で読まれる一方、もっと広い階層にわ たって、説話が語られ広まっている。仏教説話にしても、 世俗説話にしても、元来は口から耳へ伝えられ、語られ こ・フしさフ ながら次第に流布するロ承文芸であるが、それがいつの 間にか文章に書きとどめられて定着して説話集の形とな ってあらわされた。そして、いわば説話の集大成として 十二世紀の前半には一千余話からなる『今昔物語』が生 まれるのである。 これら説話集にみられるいろいろな話のなかには、絵 巻の好画題になるものも多かった。永観二年 ( 九八四 ) に みたとのためのり、れいい 源為憲か冷泉天皇の若き皇女寧子内親王のために作った さんばうえ 『三宝絵』は、仏・法・僧に関する説話や行事を絵入り で説いた盛蒙・教育書で、現在はその絵を失って詞書だ けが「三宝絵詞」として伝えられているか、そのなかには 力、、そ・フし 十二世紀末の「餓鬼草紙」 ( 京都国立博物館蔵 ) に描かれ ている目連尊者が餓鬼道に堕ちた母を救う話もあって、 こうした仏教説話が早くから絵巻になっていたことか知 畄日 られるのである。 このように、仏教説話絵巻は、その性質上、専ら人々 云 を教化する目的で製作される場合が殆どで、先述の「餓 じごくそ - フし 甲鬼草紙」や、それと一連の作と推測される「地獄草紙」 やまいのそうし 画や、人間の病苦を主題とした「病草紙」などの絵巻は、 ごくらくじさっ ( これら厭うべき世界を人々に示して、極楽浄土への関心 と、往生極楽を願う心をたかめるために制作されたもの 142
もろすけ きの師輔の例とともに掲げられている。しかも、 りあげて、一口にその男を食ってしまったという。 百鬼夜行 そんしようだらに おにひとくち まさに「鬼一口」というわけであるが、『宇治拾それらの説話を通して、いすれも尊勝陀羅尼の功 どく うじしゅう らんばう こんじゃく 『宇治拾遺物語』の説話には、『今昔物語集』や遺物語』の説話では、それはど乱暴な妖怪は、は徳で助かったと伝えられている。ところで、『宇 みなせどの かにあまり出てこない。第百五十九の「水無瀬殿治拾遺物語』第十七は、「修行者百鬼夜行にあふ 『古本説話集』など、先行の作品との間に、あき みなせ らかな伝承の関係をもつものが、かなり多く認め むささびの事」によると、水無瀬の離宮では、か事」と題されているが、それによると、ある修行 者が、津の国のりうせん寺にやどって、ひとりで られるが、そのような伝承の関係をもたないで、 らかさはどの光物が、夜ごとに山から飛んできた。 じゅ ふどう むしろ独自の性格を示すものも、すくなからす含かげかたがそれを射とめたところが、実は年とっ 不動の呪を唱えていた。そうすると、夜中ごろに こう しカめし なって、おそろしげなものどもが集って、「ここ たむささびであったという。そこでは、 ) 、 まれている。それらの独自の説話は、しばしばロ とう・ しようたい いっそう自由な発想を 頭の伝承をふまえながら、 い蚤物も、たやすくうちまかされて、正体をあら に新しい不動尊がすわってござるが、今晩だけ外 わしてしまうのである℃第百六十の「一条棧敷屋 においでなされ」と言いながら、片手で修行者を とることによって、まさに独特の魅力を加えてい れいき ようかい えん 鬼の事」によると、一条の桟敷屋で、ある男が傾 さげて、堂の縁の下にすえた。夜明けになって、 る。霊鬼または妖怪についても、『宇治拾遺物語』 どこかとたすねると、津の国のりうせん寺と思っ に限られるものがいくつか数えられる。第百五十城と寝ていたが、夜中ごろになって、軒ほどの身 しよぎようむじよう てんぐ ひぜんのくに ようぜいいん ようぜいいん のたけで、馬の頭をもった鬼が、「諸行無常」と たのに、肥前国の奥の郡であったという。天狗に 八の「陽成院ばけ物の事」によると、陽成院の御 おおじ おきな 詠しながら、大路を通りかかった。しかも、この さらわれ、神かくしにあって、遠い国に連れてゆ 所では、みすばらしい翁があらわれて、「浦島が子 かれたという話は、後の世までひろく伝えられて の弟」と名のり、「昔からこの所に住んでいるの鬼が、格子をおしあけて、顔をさしいれながら、 また「よくよ′ 「よくも御覧になったな」といい いるが、それにしても、『字治拾遺物語』の説話 で、ここに社をつくってまつってほしい」と願い 御覧になるがよい」といって、そのまま立ちさっ は、まことにおおらかなあしわいをもっている。 出た。番の男がその場で聞きいれなかったので、 たのは、百鬼夜行ではないかと記されている。お本文の中に、「百鬼夜行」と記されていなくても、 「にくい男の言いようだ」と、三度も上の方に蹴 そろしい鬼と いいながら、むしろューモラスにさ 「百人ばかり」というだけで、それとわかったもの え感しられる。 であろう。なお、第三の「鬼に瘻とらるること」 百鬼夜行というのは、さまざまな妖怪が、夜中 は、昔話のこぶとり爺さんにあたるが、 おおかがみ に通行するというものであった。 「大鏡』巻三に 大かた目一つあるものあり、ロなきものなど、 ふじわらのもろすけ よると、藤原師輔があはのの辻で百鬼夜行にあい 大かたいかにも言ふべきにあらぬものども、百 ごうだんしよう ふじわらのたかふじすざくもん 『江談抄』巻三によると、藤原高藤も朱雀門の前で 人ばかりひしめき集りて 百鬼夜行にあったと伝えられる。『今昔物語集』 などとあって、やはり百鬼夜行のさまについて語 ふじわらのつねゆき 巻十四・第四十二によると、藤原常行が夜あるきの られている。 びふくもんいん うちに、美福門院の前で鬼どもの通るのに出あっ うちぎきしゅう たという。『打聞集』第二十三や『古本説話集』 「をこ」の技芸 第五十一にも、ほば同じ説話がとられているが それらの鬼の形については、手三つ、足一つ、目 さまざまな説話の中で、多くの人々の好みにか 一つ、目三つなどと伝えられている。さらに、「宝 なったものとして、珍しい世間話とともに、おか ぶっしゅう つねき みつゆき 物集』巻三でも、常行でなく光行という者が、神しげな笑話をあげることができる。「今昔物語集』 せんえん はん - うつ ~ りせぞく 」 . 〔、要、い地泉苑の前で百鬼夜行に出あったということが、さ巻二十八は、「本朝付世俗」という見出しをもっ こぶ 157
のぎつね 比叡山のある僧が、前世は野干であった的彼岸性とをそれぞれ示すものであろう。 ほか、二巻、四巻、八巻本等がある。成 はつけどうてんじよう が、この山の法華堂の天井の上に住んで かように「今昔物語』は仏教説話と民立及び編者は不明であるが、序文に字治 ほけ・よう びようどう 常に法華経を聞いていた為に、人の身と 間説話とが混交しており、前者が過半を大納言と称された源隆風が、宇治の平等 いんなんせんばう 生まれて、僧となり、終日法華経を誦する 占めるが、今日の興味から云えば、仏教院南泉房で、往来の人を、上下を問わす 身となった。 ( 巻十四比叡山西塔僧春命、 を離れた本朝世俗の部がもっともおもし呼びあつめ、昔物語をさせてききながら、 読誦法花知前生語第廿二 ) などという、 ろく、現実に即して人間性を赤裸々に叙きくに従って大きな草子に書きとどめた。 輪廻転生談のある一方、法華経を書写し述したものが多い。当代の社会、風俗のこれが世にいう「宇治大納言物語』であ ていた僧侶が、浄い水をもって経を書く生きた見取図になっているのは、主としる。それに更に書き加え、大納言物語に 絵墨に加えていたそのほとりの女の一人にてこの分野である。また次の時代をさしもれたものを拾いあつめたもので、「字治 いん、・′、 撲「忽ちに愛欲の心を成し〕淫欲がさかんまねく予見的意味をもつのもこの分野でにのこれるをひろふとつけたるにや」と、 ある。 安に起り、うすくまって女の背にとりつい 題名の由来を説いている。これは成立に て、衣をかかげて欲情を遂げたが、「女 この物語はかように文学史上に卓越し関する一つの伝説とも見るべきものであ 人 撲のロより泡を噛み出し」て僧も女も共に た意義をもったにもかかわらす、何分にるが、「字治拾遺物語』が、「字治大納 さんいっ の死んでしまった。これを思うに淫慾がさも巻帙が広大であり、今日も尚誤脱のま言物語』 ( 現在は散佚 ) と、何等かの関 る 時かんで胸をこがす様でも、経を書く間は ま残されている巻々があって、一般に流係があることは考えてよいであろう。な 朝 安思い止まるべきで、女もまたその間は承布せず、刊本も少なく、学者として注目お成立年時には諸説があるが、十二世紀 引すべきではない。寺を穢し経を信しなした人もまた少なかった。それには文体末から、十三世紀初頭にかけての間であ ・ - ん・一う せん 、ったために、罪を蒙ったのである、 ( 同、 が、和漢混交文の先駆をなしながら、異ろうとは、ほば諸研究家の一致した見解 俗を観察し、公衆の思想を察する諸記録 を書きとどめていることと同様、或はそ丹治比経師、不信写法花死語第廿六 ) と様な表記法、異風の文字使用等の特殊条である。 デんばう ~ ・うじゅ れ以上に、重要な意義を有することであの不謹慎な行為が早速に現報を得た話が件から、難読であることが、一般の享受 「宇治拾遺』は「今は昔」という書き出 を拒んだのである。それを近づきやすくしは共通するが、「今昔』とちがい漢語 る。藤岡のように「歴史的価値もまた多ある。 ~ - うもん かように経文 ( ことに「法華経」 ) の超したのは、「日本古典文学大系」 ( 岩波交りの比較的平易な仮名文で、内容も口 しとせす」とは、この意味において到底 けしん 云えないのである。 自然的な力、それに化身の仏 ( とりわけ書店 ) の『今昔物語集』が出て、適切な誦性が豊かで読みやすい。それに笑いや れいげん 観音、巻十六は観音の霊験談で満たされ訓法を定め、厳正な語注をはどこして以おかしみを主とし、鬼のこぶとり、藁し やくなん こしおれ十ャめ 数多い仏教説話 べ長者、腰折雀のような多くの民話をも る ) による、また地蔵の信仰による厄難後というべきである。この書は「今昔』 しゅじ・っさいど 採集しているところから、広く流布し、 一方、この物語の過半を占める仏教説の解除や衆生の済度 ( 巻十八は地蔵の霊の研究史上、劃期的なものとなったが、 もちろん おんみよう なお多くの問題を残して居り、今後の解民衆にも親しまれた。勿論多くの先行の 話には、平安朝末期の流行思想たる陰陽験譚に富む ) 等の仏教の現世利益を主と あみだ すくレ・つ しゆりんね 説話集に原拠をもっ話も多く、とりわけ 道の思想、宿曜道あるいは六趣輪廻の運した説話が多い。そのほかには阿弥陀の明に待っところが多い てんべんち 「今昔物語』とは八十余話を共通してい 命観などに浸され、天変地異に対する恐導きにより、死後極楽浄土に行く話が、 さいやく 宇治拾遺物語 る。しかし教訓や啓蒙の意識はうすく、 怖、災厄の前におそれおののいて、神仏巻十五の往生説話に極めて多くあって、 「判海攝違物語」は総計一九七の説話が興味本位に説話をあつめたという趣きが の加護にたよる一面があらわである。そ十世紀末からさかんになった阿弥陀信仰 くどく はけきよう つよい。今日伝承関係のわかっていない の中でも法華経の功徳を説くことの多い ( 浄土宗 ) の影響をも示している。以上分類されすに雑然とおさめられて居り、 の両者は仏教の現世的距性と、浄土教十五巻の版本 ( 万治一一年ー一六五九 ) ののは、一九七話の中五十余話で、それら のは、天台宗の流行によるものであろう。 すみ きんしん あわ かんちっ かっき たくえっ わら 164
説話集における庶民の心大島建彦 説話の魅力 こんじゃく 『今昔物語集』などの説話の魅力としてあげられ るのは、何よりもなまなましい現実の人生につい て伝えられたことである。今日の常識によると、 実際にありそうもないことでも、当時の説話集で は、実際にあったはすのこととして掲げられてい せつわ る。たとえば、『今昔物語集』巻二十六・第十九に は、東の方に下った者が、ある人の家に泊って、 つぎのような珍しいことにあったと伝えられる。 すなわち、たまたまその夜ふけに、その家の娘が、 男の子をうんだのであるが、何やらおそろしそう じがい ( 欠字一 な者が、「年は八歳、ロは自害」といいながら、 室の中から出てゆくのを見かけた。それから九年 かか 目に、同し人の家に泊って、その子のことをたし かめると、あの夜のことばのとおりで、八歳のあ る日に、高い木から落ちて、頭に鎌を立てて、そ の場で死んでしまったという。そこで、 ごふ 人の命は皆前世の業によりて、産るる時に定め 置きつることにてありけるを、人の愚にして知 らすして、今始めたることのやうに思ひ歎くな と結ばれている。そのように、うまれ子の運命を 聞きしって、そのとおりの結末を見とどけるとい うのは、現行の昔話の型としても知られており、 うぶがみ 「運定め話」「産神問答」などと呼ばれている。わ けても、『今昔』の説話に近いのは、わりに幼い ておの のみ はもの あぶはら 年齢で、虻や蜂という虫と、手斧や鑿などの刃物 とによって、思いがけない死を遂げるという型で あろう。それにしても、『今昔物語集』巻二十六 童第十九には、 宿りし人、京に上りて語り伝へたるなりけり と記されている。すなわち、『今昔』の説話その ものは、はるか昔の物語ではなくて、もっと身近 な世間話として掲げられたものである。 『今昔物語集』巻三十一・第三も、同しような系列 じかく に属するものと認められる。それによると、慈覚 ふどうそん たんけいあじゃり だ達大師の弟子で、湛慶阿闍梨という者が、不動尊の いんねん 荷夢のお告げをうけ、前生の因縁によって、某地某女 かま 155
安時代の末、十二世紀の半ばすぎに制作されたと推定さ れるから、説話の普及にともなって、絵画化されたもの と考えられるのである。 みようれん ことばがき さて、上記の説話集や詞書にみるこの明蓮説話は、話 の筋をのべる程度で、この話の舞台となった土地や、場 所、建物などの環境や状態については、具体的にはふれ ていない またさまざまな登場人物についての記述もほ とんど行なっていない しかし、この説話を絵画化する に際しては、当然、これら説話集ではふれていないいろ いろのことからか必要になるのである。そこで、それら をどのように描き表わすか、また筋の発展にいかにこれ らを役立たせるかが、この種の説話絵巻では一番大切な 144
にようばう ようかい 『今昔物語集』の説話を通じて、そのような妖怪 づけられて、アジアからヨーロ のあらわれる所が、都の中にもすくなくなかった ッパにまで知られ ているが、アーチャー と知られる。たとえば、巻二十七・第八によると、 ・テーラー教授の研究によ ぶとくでん ると、もともと日本や中国などでは、道話風の説武徳殿の松原では、ある若い女が、男にあって木 かげさそ 話としておこなわれたもので、歴史上の人物と結蔭に誘われたが、いつのまにか、手足を残して鬼 に食われていた。また、巻二十七・第十七によると、 びつけられていたという。この『今昔』の説話は、 かわらのいん えいしやく 六条の川原院では、栄爵を買う夫とともに、東国 まさに「定められた女房」型に属するもので、む しろ世間話風に伝えられていたといえよう。 から上った妻が、一間に引きいれられて、鬼に吸い 験 かわらのいん ころされてしまったという。この川原院というの みらのく しおがま 権 は、陸奥の塩竈の景をうっしたもので、はしめ左 日 みなもとのとおる 嵬の出現 春 大臣の源融がつくったが、彳 ( 麦こその子孫が字多法 たてまっ 山 多くの人々が説話というものを好んだのは、何皇に奉ったものである。巻二十七・第二によると、 の とおる 針 融の霊が法皇にむかって、「この院は私の家であ よりも珍しいことを求め、またおかしいことを求 獄 りますが、あなたさまかいらっしやると、もった めたためとみられる。そういうわけで、世間話の 地 めいわく いぶん いなくもあり、迷惑でもあります」と訴えたが、 しわゆる奇事異聞に傾いていたといって ほんらようつけたりれい と結ばれると知らされた。そこで、相手の女を殺そ 『今昔物語集』巻二十七には、「本朝付霊法皇がそれにこたえて、「おまえの子孫がこの院 たてまっ れいき を奉ったので、私はここに住んでいるのだ。もの 鬼」という見出しのように、日本の霊鬼に関する うと、その頸をかききって、そのまま逃げ帰った。 とおる ちゅうじんこう きとうめ じじよ の道理をわきまえよ」とさとされたので、融の霊 その後に、忠仁公の祈疇に召されて、その侍女の話が、かなり多く集められている。その巻頭の第 ひんがしのとういん かわらのいん くび はたちまちに消えうせたという。この川原院の屋 一には、三条の東洞院の鬼殿について記されてい 一人と契ったが、その頸の傷あとを見て、自分が る。都移りの前には、その地に大きな松の木が生 異は、『古本説話集』第二十七や『字治拾進物語』 傷つけたものとわかった。そのために、俗人にか たかむこのきんすけ たんけい 第百五十一には、はば同しように伝えられている えていた。ある男が馬に乗って通り、その木蔭で えって、高向公輔と名のったという。この湛慶の ′」うだんしよう しんごんーうだんぎちょうもんーゅう げんぞく が、『江談抄』巻三などには、やや異なる形で掲 雷にうたれて死んだが、そのまま霊となってとど 還俗のことは、『真言宗談義聴聞集』によると、 うだ きようごくのみ だいじ らようしよう げられている。それによると、字多法皇が京極御 まった。都移りの後に、人の家がそのあたりにで 大治四年または長承三年の談義に語られており、 やすんど・ かわらのいん とおる せつきよう 自 5 所とともに、この川原院にいらっしやっこ。虫 説教の材料にも用いられたと知られる。また、『玉きても、その霊はその所を離れないで、今でもた みやすんど・再らようだい ようかい たりをあらわすというのである。もともと妖怪の の霊があらわれて、「御息所を頂戴したい」と申 葉』仁三年三月十四日の条には、内蔵頭長光の ゅうれい しあげたが、法皇が怒って、「そうそうに立ちさ 談話として記されており、世俗の話題としてももは、いわゆる幽霊と違って、どこかきまった所 れ」とおっしやると、その霊は法皇の御腰を抱い にあらわれて、そこを通る人に恐れられるもので てはやされたようである。ところで、うまれたば みやすんど・再 じようぞう 御息所はなかば死んだようであったが、浄蔵 あった。ここでは、そのような妖屋のおこりにつ かりの女と結ばれると聞いて、ただちにその女を ひ ) 」う の加持によって、ようやく生きかえられたという。 殺そうとはかったが、 いて、非業に死んだ者の霊が、その死んだ所から ついにはその女と結ばれた げんじ ゅうがお 離れないで、そこを通る人にたたるのだと伝えら それらの例とくらべると、『源氏物語』のタ顔の ま、『日本昔話名彙』や『日本昔話集成』 ゅうがお にはあげられていないが、新しい昔話の調査によれる。そういうわけで、『今昔物語集』巻二十七帖で、タ顔の女がはかなく死んだのは、かならす ろくじようのみやすんど - み しも六条御息所の生霊のたたりではなくて、むし ると、ほば日本の全国にわたって伝えられており、 などでも、わけのわからない所に近づいてはなら かわらのいんようかい と ろ川原院の妖怪のしわざと考えられるのである。 運定め話の型の一つとして認められる。そのよう ないと、くり返して説かれているのである。 ぎよく じよう 156
《 4 一層ゆたかなものにしているのである。したが 0 て、「信 貴山縁起」の魅力は、だれもが指摘するように、躍動的 な描線によって、刻々に変化する光景や人物の姿態を、 的確にとらえて描く描写カそのものによるところも大き いか、さらに、以上のべたように、 この画面自体がもっ 言りかける力、すなわちその説話力によるところもきわ ーし力ないのである めて大きいことをみのがすわけにま、、 このような画面がもっ説話性は、前記した他の説話絵 こかわてらえんぎ 巻についても指摘することができる。「粉河寺縁起」では、 けしん 長者の娘が難病を癒してもらった観音の化身の童子行者 をしたう姿は、観音の霊験説話のわくをこえて、一種の ん : フし 悲恋説話の趣となって示されている。また、唐使とし きびのまきび しもん て入唐した吉備真備が、唐の役人から色々と試問される きびだいじんにつとう 話を描いた「吉備大臣入唐絵巻」では、登場人物の表情 にユーモアの趣を特にもたせて、詞だけでは表現できな ーんだいな い戯画性と風刺が感しられるのである。さらに「伴大納 ごんえまき おうてんもん とものよしお 言絵巻」では、応天門を焼いて罪せられる伴善男に対す 家 る同情が随所に示され、街の人たちの様子や、善男配流 の護送光景には、この絵巻が制作された平家全盛期の世 相が投影されて、何か現実的な実感すら表出されている。 以上のことから、日本の説話絵巻は、話の内容を書い た詞書と、それを描いた絵が互に相い補って、説話その ものの語り手としての性格をもっところに、その特色と 得本質があるということかできるであろう。しかし、鎌倉 中期以降に制作された絵巻には、詞書に忠実に描きすぎ て、絵自体の説話カか弱まる傾向になり、説話絵巻は変 ( 宮次男・東京国立文化財研究所 ) . 」」。 , 一【島「第 ) 第 ~ 煢質する 0 ある。 148
芥川龍之介と今昔物語長野嘗一 あくたがわりうのすけ 芥川龍之介大正十四年三十三歳頃田端の自宅で 説話集への興味 あくたがわりゅうのすけ こんじゃく うじしゅう 芥川龍之介が『今昔物語』や『宇治拾物語』 おうらようもの から取材して、多くの「王朝物」を書いたことは、 今日では周知の事がらである。 『今昔』から取材した作品として、『青年と死』 らしようもん いもがゆ らゆうとう おうじよう 『羅生門』『鼻』『芋粥』『運』『偸盗』『往生絵巻』 なら、 ~ ャへヤをま ま咄 「好色』『藪の中』「六の宮の姫君』の十編があ どうそ じごくへん り、「宇治拾遺』から「道祖問答』『地獄変』「龍』 の三編がある。 しゅんかん もりとお このほか、軍記物語から『裟と盛遠』『俊寛』 すさのおのみこと の二編、『古事記』から『素戔嗚尊』一編、『今 おおかみらよもんじゅう 昔』『大鏡』「著聞集』などから部分的な材料を得て、 じゃしゅうもん ( 未完 ) 独自の構想を企てた作として、『邪宗門』 ゃぶ 一編がある。軍記物語や『古事記』「大鏡』などは、 説話集ではないが、中に多くの説話をふくんでお り、その部分に芥川が着眼して取材したことは紛 れもない。 してみると、彼が「王朝物」を創作するにあた って、取材源として着目したのは、そのほとんど すべてが説話集、もしくは他の諸古典の説話的部 げんじ 分であるといってよい。なせ、『源氏物語』『枕 のそうし かげろう 草子』『蜻蛉日記』など、王朝文学の正統派と目 せられる古典には目もくれす、それまで傍系の如 くに言われてきた説話集に着目したのか。同しく 「王朝物」もしくは王朝風な作品を書いた作家の中 たにざきじゅんいちろう でも、谷崎潤一郎が『源氏物語』や『栄華物語』 ほりたつお を中心とし、堀辰雄か日記を中心とするに対して、 いちじる これは著しい対照をなしている。「源氏の谷崎」 「日記の堀」「説話の芥川」とでもいわなければな るまい これには二つの理由が考えられる。 それを指摘する前に、芥川がどのように説話集 を利用して新たなる創作を企てたか、取材の方法 を確かめておきたい。 六の宮の姫君 芥川の「王朝物」の中で、傑作として評価の高 いもカゅ じごくへんやぶ いのは、『芋粥』『地獄変』『藪の中』『六の宮の姫君』 えいが 150
に整理されて居らす、積極的な意図や統 小さな儀式用の矢であった。海賊どもが は多くは民衆のロがたりによる世間話やあけたところ、腰に鮭を二つはさんでい た。そこで「あったあった」と引出すと、一ある理想にもとづかす、その時々の興それを見て、これは「普通の矢でなく、 民話であろう。その中には階級意識を越 しんせん この大童子が見て、「もったいないこと味に従って、つぎつぎに書き加えて行っ神箭だ」といって、舟をこぎ返して逃げ えた庶民の、人間性一般に対する自由な てしまったとい、つ。 をする。こんな風にまご、 ーオカにしてさがしたもののようである 見方、考え方が散見している。 そうしてさまざまの説話をうけとめ、 たとえば巻一・第十五「大童子鮭ぬすたら、どんな女御・更だって、腰に一、 これは非常な大難にあたって悠長な、 みたる事」をとって見よう。越後から鮭を二尾の ( 裂けた部分Ⅱ女陰 ) のないこそれを叙述する態度は、貴族的、都市的それだけにユーモアのある話である。『今 とはない」と云ったので、立ちどまってであって、農村や地方のことを語っても、 馬に負わせて、京都に入って来たところ、 昔物語』に出る武士達の行動が、いくさ 頭のはげた大童子が、ひしめいた馬に走見ていた人達が、一度にわっと笑ったと庶民的感覚を必すしもそのあるがままに に臨んで対手方を皆殺しにし、「身ヲ不 はそく り添って、鮭を二つひきぬいて、ふとこ 把捉し得す、いく分とも都雅な色に染め思妻子ヲ不」思」 ( 巻二五・第一一 ) を理 うんばん この話は、盗みを発見された男の、てかえている。そのために「今昔物語』の 想としているのと相反する。それが戦記 ろに入れてしまった。そこで鮭を運搬し て来た男が、この大童子の首をとらえて、れかくしのこしつけだが、他の説話集なような「生まなましさ」「野性の美しさ」物語への道をひらいているに対し、『宇 なゼ ら、さしすめ「興言利ロ」の部に分類さを表現し得ない点がある。たとえば 治拾遺』の方は、武芸を一種の芸として 「お前は何故鮭を盗むのだ」というと、 ふしゃう ちんべん 巻十五・第四に「の府生海賊射かへ の観点から見て、「名人伝の領域にとど 大童子はそんなことはしないと陳弁し、れそうな云い分が、いかにも興味深い まっている」 ( 花田清輝 ) 観のあるのは、 「お前こそ盗んだ」といい張ったので、女御、更衣という帝に親しく仕えるやんす事」という説話がある。門部の府生は ごとなき女性をひき合いに出し、それら弓の名手で、夜も弓の練習のため、明る たしかにのんびりしすぎている。やしり それでは両方とも着物をぬいで改めよう く火をもすために、自分の家の屋根板、 のない矢で敵をねらったのは、殺すため ということになった。さて大童子が脱ぐの人々も女性である以上、必す下半身に たる木、こまいなどを皆燃やしてしまい でなく、 芸術的に処理したのであって、 番になって、馬の宰領が、その前をひき一、二尺 ( というのは誇張 ) の裂けた部分 があると、高貴な身分の神秘性を剥し最後には隣りの人の家に間借りをするよそれは武家のものでなく、公家のもので うになった。そのうち弓射の名手だと ) て、生まで対等な人間性をむき出しにし あることはまちかいない 「今昔物語』 のりゆみ たところに、新しい人間観がうかがえる うので賭弓に召し出され、のち相撲を召と「字治拾遺』との対象処理のへだたり であろ、フ。 集する使となって下った。役目を果してはこの一点にもある。 あるいはまた巻一・第六「中納言師時京に上る海路で、海賊どもの船に襲われまたそこに後者が「『今昔物語』の持 い土見レ」とい 法師の玉くき検知の事」や同じく十一「源た。府生は「さわぐな、 つような鮮烈さを持たす、極めてゆるや し秀ぞく のりゆみ って、賭弓の時に着た装束を身につけ、 大納言雅俊一生不犯金打せたること」な かであり、おおらかである」 ( 西尾光一 ) ひじ叮 と云われるゆえんも存するだろう。この どでは、俗聖のばけの皮を引きはがして、 冠をかぶって、きまり通りの仕度をした 柄仏教的な呪縛からとき放った人間のとらので、従者たちは気が違ったのかと驚いことは同時に、同種の説話を半分近く共 た。ところが彼は、肩をぬいで、周囲を有しているにしても「宇治拾遺』が「今 1 戯え方を示していると見ることもできよっ。 やかた 人 見まわし、屋形の上に立って、やがて矢昔」の縮小再生産ではなく、別種のもの 『今昔物語』との相違 ごろになると、「ひきかためて、とろとであることを示唆するのである。 々 こうして軽妙な語り口を通して、このろとはなちて、弓倒して見やれば」この何れにしてもこの二つの作品が、日本 る物語は古雅なユーモアをかもし出しつつ、矢は海賊の首領の左の目に立って、のけの説話文学史上において、平安期及び鎌 踊 ~ れ時にどきりとする現実をもむき出してい ざまに倒した。首領が矢を抜いてみると、倉期を代表する二大作であることは、改 ( 大妻女子大教授 ) めて云う迄もない 浮る。編著の順序は、「今昔物語』のよう戦争に用いるような本格的なものでなく、 おおどうじさけ えちご ムばんのかね 165
説話には先行文献からの再録もあるし 記法は漢字が多く、かたかなを交える。酔って反吐をはきちらすなど、さんざん うな「造り物語」の眼をもって、説話文 かんけい りつ でんぶん な目にあった上、祭の行列の通るのを待 学のような異様の物語を律しようとしたロ誦によって伝聞したもの、また叙述者文章は簡勁で時に生動した描写力を見る。 しりさかさま けんぶん 所に、藤岡批評のような評価が生まれたの直接の見聞による記録もあろう。「今何よりもこの説話文学の特色は、枕草ちながら、「尻を逆様にして」寝てしま ほうえんしゆりん う。 ( 巻一一十八頼光郎等共紫野見物語第 のであろう。それに対して芥川の一文は、 昔物語』の場合には、出典を「法苑珠林』子や源氏物語等のこの時代の代表的古典 せいいき かんおうじりやくれき 作家の自由な目で対象に接した結果とし「大唐西域記』『三宝感応寺略録』『本が、その対象を貴族の社会に限っている二 ) ほっけげんき りようゐき ここには開明された文化的上層階級が、 て、「今昔物語』批評に新しい光明を投朝法華験記』「日本霊異記』などの内外のに反し、先に芥川も説いたように、武 もうら 後れた農村社会を代表する武士に対する したのみでなく、説話文学という一つのの書物に仰、。、 してしる。巻数は全てで三十士、庶民等の全階級を網羅し、典雅な恋 とがみやこびと らようしようべっし 嘲笑、蔑視がある。それには都雅な都人 文学ジャンルに対する再認識をも要請し一巻だが、巻八、一八、二一の三巻を欠愛以外の本能的な性生活、性器に関する、 たのである。 としてそれだけの理由はあった。 く。三部で構成され、第一部天竺 ( 巻露骨な言及がしばしばあることだ。また 一ー五 ) はインドの仏教説話を骨子と本朝の世俗悪行等の部においては、現実かわらす、そのむくつけく、滑稽な姿の よっだ とっさ びん 説話文学の性格 し、仏陀の生涯等をも説く。第一一部の震的な処世の教え、咄嗟の判断、行動の敏下に、「千人の軍の中に馬を走らせて入 らむ事は、常に習ひたる事なれば怖れす」 説話とは、はじめとおわりをもつ、そ旦 ( シナ ) の中、巻六、七は仏教説話、 速等、生活者としての知恵と実行力等な ゅうそう という、逞ましく、雄壮な新時代の精神 れだけで一応まとまった「はなし」であ巻九 5 一〇の二巻は孝養などその他の小 どに対する肯定・讃美が見られる。 せん むね が、はつらっとして動いていること、繊 り、それを集録したものが説話文学であ話にあてる。第三部本朝は巻一一ー二〇 これは優美を旨とし、「もののあはれ」 じゃく 弱なものとは凡そ遠い種類の、野性的な る。したがって、叙述と説得の方法によ に仏法の話、巻一三ー三 一に「世俗」ののイデ工のみではもちきれなくなった、 ナレーター って、記述者がことがらを再現する。そ話を集める。今日残っているもののみで平安末期の過渡期的時代の生民の思想感力強さが生れつつあることを、われわれ のさい場面や心理は、具体的描写よりは、 も一〇〇〇話をこえ、本朝最大の説話集情の志向を表現するものであった。在来は発見せざるを得ないのである。 みなもとのよりのぶあそんたいらのただつわをせむること しようりよっ 巻二十五の「源頼信朝臣、責平忠恒語 単純化された、一般的・抽象的形式を身である。渉猟するところも広く、たとえの物語にない地方的な分野に興味の対象 ひたらのかみよりのぶ を見出し、次の世代の中心となるべき地第九」は、常陸守源頼信が、我が命に従 にまとう。もろもろの人物・事件は、外ば日本六十余州中、名のあがっていない しもふさ ただつね っしまいわみ わない下総の平忠恒を攻めようとて二千 部から観察され、えがかれる。本格的なのは岐、対馬、石見の三国のみである。方豪族たる武士が多くの説話の主となっ ひきぐ 物語文学の中心たるべき、個人の性格描成立については諸説があって明らかでているのもそのあらわれである。変化や騎を引具して攻め向う。源氏の軍の集結 はよ うじだいなごん みなもとのたかくに を描いて、 写、心理分析は、そこでは省かれるのが はない。源隆国の「宇治大納言物語』 ( 今鬼神をはじめ、超自然的な存在をレアル しろ さ 然ばかり白く広き浜に、廿町ばかり なものとし、それに恐怖や尊敬を感して 通常である。その代りに説話を採択し、 は見得ない ) が原拠の一つではないかと まっー・ が程に、朝の事なれば、弓の限り朝日 いるのも、末法思想の横溢している時代 叙述する記述者の視点、関心や興味が、 云われ、また仏教関係が多いところから くちがた なんとほくれい にきらめきて見へけり。 話そのものの内容にアクセントを打つ。南都北嶺の僧が、文献や民間のロ語りを相のあらわれというべきであろう。 とあるあたりは、すでにのちの「平家 しかしなおそこには、貴族の眼をもっ もとにして、説教の材料を集めたものだ ひせん 本ろうと云われる。大体十一一世紀初頭の成て、庶民や武士を卑賤なもの、教養なき物語』等の軍記物の修羅場を思わせ、旺 こつけい もの、あるいはむくつけきもの、滑稽な盛で行動的な人間集団の勢いを表現して 内立であろう。仏、法、僧への尊信を説き、 いる。かように「今昔物語」は次の時代の ものとして見下している傾きがある。源 各説話の結語に教訓を述べることが多い 、・みつろうどう にない手である武家たちの姿をとらえ、 写ことで編者の意図が察知されるのである。の頼光の郎党で、武勇のほまれ高い三名 語 中世戦記文学への道を用意していること 文体にはあきらかな統一がある。各説の勇士が、賀茂の祭の行列を見に、乗っ あや かんはかま 拾話はすべて「今 ( 昔」ではしまり「トナたことのない車に、「賤しの紺の水干袴は、この一節によっても明らかであろう。 これは、この物語が、当時の社会の風 宇ム語リ伝へタルト也」で終っている。表などを着ながら」乗り、三人ながら車に たん さっち っとめて おそ 163