仮名手本忠臣蔵 - みる会図書館


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1. グラフィック版 仮名手本忠臣蔵

「仮名手本忠臣蔵画巻」は、北馬五十 ■函表・ 川国芳筆 : ・神奈川県立博物館蔵忠臣蔵義士本 高師直と桃井若狭之助忠臣蔵銘々傳六歳の作品で、巻約二十二メートル 仮名手本忠臣蔵歌川国貞筆 : 望の図橋本貞秀筆・ 4- . L.n . . . 0 ルである。この画 下巻約二十一メート 4- 4- 7 ー・ 7 ー ・国会図書館蔵菅原伝授手習鑑版 三代豊国筆高橋誠一郎氏蔵 巻は『近世道具移動史』によると波多忠臣蔵歌川豊国筆 : ・函裏ー 本歌川国芳筆 : 野五郎氏の旧蔵で、氏没後大正十四年定九郎勝川春好筆 : 一カ茶屋京都 ・内山美樹子氏蔵浄瑠璃本 ( 丸本 ) ■表紙裏見返し・ 東京美術倶楽部で入札されて某家の所不倶戴天図久保田米遷筆・ ・池田文庫蔵菅原伝授手習鑑歌川 ・大石神社蔵大石良雄木像山崎朝 浄瑠璃本 ( 丸本 ) 仮名手本忠臣蔵蔵となった。以後五十年間消息を絶っ ていたが、昭和五十年一月千葉県内で国貞 ( 三代豊国 ) 筆 : 内山美樹子氏蔵 雲作 : 再発見されたものである。 仮名手本忠臣蔵歌川国芳筆 : ■片かんのんロ絵・ : 四季花鳥図屏風可笑筆 : 8 8 軍扇・〔木配・がん灯 : ・ 裏表忠臣蔵一勇斎国芳筆神奈川県この画巻の特長は、全十一段の「仮仮名手本忠臣蔵三代豊国筆 : 名手本忠臣蔵」を一段につき十コマ位菅原伝授手習鑑三代豊国筆・ ・岩屋寺蔵浅野内匠頭肖像 : 立博物館蔵 茶金 : の割で筋書どおりに忠実に絵画化され、妹背山婦女庭訓三代豊国筆 人物の多くは後姿で、軽夬なタッチで妺背山婦女庭訓歌川国貞筆・ 吉田忠左衛門・富森助右衛門・原惣右 ■安藤広重■ 描かれていることである ・鈴木重三氏蔵見立妹背山三代豊衛門・武林唯七木像・ ・忠臣蔵高橋誠一郎氏蔵・ 戸 0 . ( 0 国筆 : ・花岳寺蔵大石良雄・主税木像 : ・国立劇場蔵舞台装置図難波良 = 一義士出立の図伝恵光筆 : 江戸の生まれで、十五歳で豊広の門 っこっ 0 . . 義士連名状中村勘助筆 : に入り、はしめは美人画や役者絵を描 8 . 7 ー ていた。 舞台装置図高根宏浩筆・ ・安場保雅氏蔵行厨箱・遊春盃・火 号は一立斎。天保三年 ( 一 菅原伝授手習鑑三代豊国筆 鉢・ 八三二 ) に「東海道五十三次」を板行 妺背山豊原国周筆 : 大石良雄切腹之図垣塚文成筆 : して一躍有名になリ、風景版画家の第一 妹背山絵草紙 : ・富森太郎氏蔵吉良屋敷絵図 : 一人者となった。安政五年二八五八 ) 、 ・早大演劇博物館蔵舞台装置図数・華蔵寺蔵吉良上野介木像 : 六十一歳で没した。 4- . 「 / っ乙 こ・ 0 4- ・戸 0 ・ ( 0 馬英一筆 : ー蹄斎北馬ー ・正福寺蔵暇乞状大石良雄筆 : つ」 . CO 由良之助とお軽三代豊国筆・ ・仮名手本忠臣蔵画巻平瀬雄ニ郎氏■歌川豊国■ 4- . 【 0 ■撮影■ 菅原伝授手習鑑歌川国芳筆 : 蔵 : ・仮名手本忠臣蔵池田文庫蔵 つな . 8 . 絵本妹背山歌川芳虎筆 つ」っつ 00 ・ ( 0 ・つ 0 00 3 ) 浅野喜市 / 市瀬進 / 木下猛 / 関孝 / 日 ・菅原伝授手習鑑国立劇場蔵 旁貞夫 / 松野等 / 森田拾史郎 / ュニ・ 鳥居派と並ぶ浮世絵師を代表する歌竹田出雲・近松半ニ肖像・ 戸 0 . 4- L.n . 8 . . っ 0 . 0 (. 0 7 ー・ 1 ー 1 ー 1 ー 8 ・・ 0 ・ ) 川派の始祖である。父は江戸の木彫人 ・高橋誠一郎氏蔵忠臣蔵銘々傳三フォトス 8 . 4- 戸 0 . 7 ー . 4 ・ っ 4 0 ・ ) ■編集協力・ 形師で、父の友人の歌川豊舂に学び豊代豊国筆 : 斎藤茂 / 鈴木重三 / 平瀬雄ニ郎 / 福富 江戸の生まれで、幼い時から彩色に国を名のる。号は一陽斎。役者の似顔塩谷判官三代豊国筆 : 太郎 / 泉岳寺 長し、浅草三筋町に住んだ。二十七、 絵を得意として、錦絵や絵本の作品も刃傷と判官切腹三代豊国筆・ ■地図作製ー 目八歳の時に葛飾北斎の門に入「た。馬多く、肉筆画にもすぐれている。文政寺岡平右衛門歌川国明筆・ 蛭問重夫 琴や蘭山などの読本や狂歌本の挿絵も八年 ( 一八二五 ) 、五十六歳で没した。戸無瀬と小浪三代豊国筆 : 版 描き、肉筆画も多く残している。弘化 ■図版監修■ ■その他■ 加古川本蔵三代豊国筆 : 元年 ( 一八四四 ) 、七十四歳で没した。 中村溪男 / 宮次男 ・福富太郎氏蔵誠忠義士 ( 心 ) 傳歌お軽勘平三代豊国筆 : 図 40 3 85 田 69 37 刪 167

2. グラフィック版 仮名手本忠臣蔵

仮名手本忠臣蔵戸板康二。 仮名手本忠臣蔵 おカ 大序・鶴ケ岡 やかた 一一段目・桃井館 あしかがやかた 一一一段目・足利館 えんややかた 四段目・塩谷館 力、↓、さき、力いトこ - フ 五段目・山崎街道 いちべ , ハ段目・市兵衛内 ぎおんいちりき 七段目・祗園一カ みちゅき 八段目・道行 やましなかんきょ 九段目・山科閑居 あまがわや 十段目・天河屋 - フ↓りいり , 十一段目・討入・ カ なてほんちゅうしんぐら 〈ロ絵〉裏表忠臣蔵・一勇斎国芳筆誠忠義士傅【大星由良之助・一勇斎国芳筆忠臣蔵夜討・広重筆菅原伝授手習 鑑・寺子屋・国貞筆見立妹背山・三代豊国筆 目次 つる ももの - ん , フ + り 106

3. グラフィック版 仮名手本忠臣蔵

仮名手本忠臣蔵 菅原伝授手習鑑 妹背山婦女庭訓

4. グラフィック版 仮名手本忠臣蔵

あうああらめのく 挑斗狹之肋 仮名手本忠臣蔵 グラフィック版

5. グラフィック版 仮名手本忠臣蔵

仮名手本忠臣蔵 日本の古典 13 グラみック版 世界文化社

6. グラフィック版 仮名手本忠臣蔵

0 つ 0 つ 0000 、 す宿都ミ増置直羲道 : 、・ 弌ーど 彡、 かなでほんらゆうしんぐら 仮名手本忠臣蔵 裏表忠臣蔵錦絵ー勇斎国芳筆 ー云 は・イ、 いらゆうさいくによし

7. グラフィック版 仮名手本忠臣蔵

じようるり こくせんやかっせん ちかまつもんざえもん えるのでなければ意味がないことを確認しておき は、近松門左衛門作の浄瑠璃『国性爺合戦』の己 しようとく 録的大当りにあるといわれる。正徳五年二七一 たけもと 五 ) 、大坂道頓堀の竹本座で初演されたこの浄瑠 きようほう 璃は、享保一一年 ( 一七一七 ) まで足かけ三年のロン 歌舞伎の台本 かぶき グランを打ち、歌舞伎劇場も追随して、次々と『国 かぶき どくじんとう かなではんちゅうしんぐら 歌舞伎の独参湯とよばれる『仮名手本忠臣蔵』 性爺合戦』上演に踏み切った。 すがわらでんじゅてネりいかがみ いもせやまおんなていきん をはじめ、『菅原伝授手習鑑』『妹背山婦女庭訓』 この時から、一七五〇年頃まで、つまり十八世紀 かみがた など、歌舞伎のレバートリ ーの半分以上は、本来前半の上方劇壇は、人形浄瑠璃全盛時代となり、歌 ぎだゅうぶし にんぎようじようるりぶんらく 義太夫節による人形浄瑠璃 ( 文楽 ) の台本として書舞伎は人形浄瑠璃に押されて沈滞し、それほど優争瑠寓本の作者 きおろされたものを、歌舞伎が借用しているにすれた作者も出す、腑甲斐ないといわれながら、人 しようるりぽん かなではんちゅうしんぐら さて『仮名手本忠臣蔵』の浄瑠璃本には、作者 ぎない。しかし近世の大都市において、人形浄瑠 形浄瑠璃の新作をさかんに流用することになった。 なみきせんりゅうそうすけ たけだいずも みよししようらく らようらく として、竹田出雲、三好松洛、並木千柳 ( 宗輔 ) の 璃よりはるかに大規模な興行、多くの俳優、そし 後に歌舞伎が勢力を盛り返し、人形浄瑠璃が凋落 三人が名を連ねている。 忠臣蔵」だけでなく、 て多くの観客を持っていたはすの歌舞伎か、言り する時代が来ても、浄瑠璃から移された数々の名 たけもと ーとし 物の人形芝居の台本などを流用せねばならなかっ 作は、今日まで歌舞伎の重要なレバートリ 一七四五年から四九年までに書かれた竹本座の作 たとは、ど、フい、つことてあろ、つか て残るのである。 品は、はとんどこの三人の合作になるものである。 すが 浄瑠璃が歌舞伎に流れこむきっかけとなったの さて十八世紀前半の人形浄瑠璃界は、興行成績 ところが問題は、「忠臣蔵」や「千本桜」「菅 たてさく たゆう にんぎようつか かいいだけでなく、作者、太夫、人形遣い、それ 原」などを合作するに当って三人の中の誰が立作 ぞれに優れた人物が続出し、質の高い舞台芸術と 者となり、各々どういう風に分担したかが、 い、 して完成されていった。その頂点が、一七四〇年 かでない点にある。だいたいこれらの作品は、全 すがわらでんじゅてなついかがみ 代後半の竹本座における『菅原伝授手習鑑』『義段通して上演するのが原則であるとはいえ、「忠 つわせんばんざくら かなではんらゆうしんぐら 経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』など、日本戯曲史 臣蔵」ならたとえば七段目や九段目だけを、「菅 てらこや 上の最高傑作の出現である。 原」なら「寺子屋」だけを一幕物として上演する ことも可能であり、とくに歌舞伎では「忠臣蔵」 この十八世紀前半における人形浄瑠璃の目を見 刊 張らせるばかりの隆盛ぶりは、どこに原因がある 以外の作品が全段通しで上演されることは近年き 年 のだろうか わめて稀である。つまり一段一段がある程度独立 ん延 した戯曲としての構成をとっているので、各段を ここで詳しく述べる余裕はないが、この現象の しカかよい 誰が執筆したかを考えないわけには、、 背景には、町人文化が栄え、解放的気分のあった げんろく たとえば「忠臣蔵」の場合、六段目と九段 元禄期が終り、享保の改革を中心とする封建体制 あ 目とは、まったく対照的な思想に裏付けられて、 巻き返しの時代が訪れたことが挙げられている。 異なるテーマを持っている。六段目も九段目も、 すなわち、こういう厳格な時代に観客の心を擱み 三人で適当に相談してまとめたのだろう、では片 得たのは、歌舞伎の享楽的雰囲気ではなく、むし 本 付かないのである。 ろ人形浄瑠璃の持つ、華やかななかにも一種きび い争 日本戯曲史上の最高傑作の幾つかが、いまだに しいタッチであったといわれている。 5 つか 一三ロ まれ 竹田出雲の肖像 せ ん ん 5 157

8. グラフィック版 仮名手本忠臣蔵

のがお軽であり、殿にお供して来たのが 演されたもので、作者は三升屋「一三治、 人形芝居の名作は直ちにかぶきに移してなくても役者はよく覚えている。入りが かんべい きよもとえんじゅだゅう 勘平である。同し家中でもめったに会え清元の筋付け ( 清元延寿太夫作曲 ) もよ上演されるという時で「忠臣蔵」も、そ悪くないのは保証されていたのである。 あら いはくせき ない二人にとってまたとない機会とばか く、今や歌舞伎の「忠臣蔵」には省けな の年の十二月には大坂で歌舞伎化されて新井白石が『折焚く柴の記』の中で「事き おうせ どくじんとう 一幕になりきっている。 お城の辺りで逢瀬を楽しんでいた。 いる。この興行は不入りであったが、翌れ給はんとするに医の来りて独参湯を勧 その僅かの間に殿中では主君が刃傷事件 二年には江戸の三座で競演するはどであむべしといふなり」と書いているように、 「忠臣蔵」の成立 を起していたのであった。勘平が側近く った。「忠臣蔵」に限っていえば、人形独参湯とは気付け薬の名前なのである。 かなてはんちゅ、つしんぐら に居たとて事件が起きなかったわけでは 『仮名手本忠臣蔵』が成立するまでの話芝居に書きおろされ歌舞伎へ移されたこ 歌舞伎の独参湯 ないのだが、勘平は居なかったことに責 にもう一度戻そう。 とになるが、「忠臣蔵」の生まれるまで 任を感し切腹しようとする。それをお軽 近松が竹本座の作者であったのに対し、 を合わせて考えると、歌舞伎と浄瑠璃が歌舞伎の気付け薬ともなった「忠臣蔵」 もろなお が止め逃げのびるのである。師直の懸想 交互に影響し合い、練上げられていった もう一つの人形芝居の劇場豊竹座では、 は一体どのくらい上演されたのであろう げむさしあぶみ きのかいおん 文はこの若い二人の連命にまで響いてい 作者として紀海音が居り、『碁た平記』のである。とくに『鹿毛無佐志鐙』で か。正確な数字は挙げられないが、幕末 おおぎしくない げむさしあぶみ るのである。 と同し宝永七年に『鬼毛無佐志鐙』と現われた大岸宮内の遊女屋の場面などは、 までの上演回数を諸種の年表類で調べて、 「忠臣蔵」の原作には逃げのびようと題する作品を上演している。これは『太 「忠臣蔵」初演の前の年、大坂で上演さ二百八十回 ( その他の義士劇四十八種の おおやかず おぐり するお軽勘平を、師直の家来でお軽に思平記』でなく、 小栗伝説」の世界に持込れた歌舞伎『大矢数四十七本』という義百六十五回を加えると義士劇上演の総数 さぎさかばんない さわむらそうじっみう いを寄せている鷺坂伴内が邪魔をする短んだものであった。この作品は全く同し題士劇における沢村宗十郎の大岸宮内の演は四百四十五回、比較までに浄瑠璃は「忠 い場面があるが、今の歌舞伎は伴内をか名の歌舞伎があり、それを浄瑠璃化した 技を手本にして、「忠臣蔵」七段目の人臣蔵」七十回、その他十七種四十六回計 みちゅき らませて二人の道行を「道行旅路の花聟」もののようである。歌舞伎の台本が伝わ形の演技が出来上ったといわれている。 百十六回 ) と報告したものがある。別人 と題して一幕の舞踊劇に仕立てて見せる。 らないので、浄瑠璃によってみると、第 宝永七年の時期は近松の作品をはしめの報告では昭和三十年までの当り狂言中 てんばう きわもの てんちゅっ この一幕は天保四年 ( 一八三三 ) 三月江一段が殿中での刃傷および切腹、第四段 として際物的な意味もあった。四十七年第一位で二百五十八回という。ちなみに かわらざきざ おおぎしくない おおいしくらのす , よしつわせんばん、 戸河原崎座の「裏表忠臣蔵』において初遊女町での大岸宮内 ( 大石内蔵之肱に当目になると、もはや歴史上の事件である。第二位は『義経千本桜』の二百四回、第 あこうぎし すがわらてんじゅてならいかみ る人物 ) 、第五段討入りの三段が「忠臣幕藩体制が強化され赤穂義士の行為を見三位は『菅原伝授手習鑑』の百四十回で かんじんちょう 蔵」にも見られるような場面で、とくに直すという時代風潮がでてきたとはいつある。歌舞伎十八番中の十八番『勧進帳』 いちりきちやや せ《だいまつもとこうしあう 第四段は「忠臣蔵」の七段目「一カ茶屋ても、あらためて脚色上演し、当りをと は如何であろうか。先代松本幸四郎は るためには、演劇としてすぐれた点がな の場」に影響を及ばしているといえよっ。 『勧進帳』の弁慶を得意とし、生に千 ければならない。歌舞伎では「忠臣蔵」 『碁盤太平記』と『鬼鹿毛無佐志鐙』は 六百回も上演したという。これは二十五 あさの 宝永七年という浅野家再興の時期におけを独参湯と称す。江戸時代は今のように 日興行なら二十五回と計算しての回数で る代表作であった。この二作品を承け継一月二十五日の興行ではなく、当ればロある。右の当り狂言の順位では十二位八 筆 国 ングラン、不入りだと直ぐその芝居を引 いでまた数々の赤穂義士物が書き加えら 十五回とあり「忠臣蔵」の三分の一にも れてい 。そして事件から四十七年目の 込めて別のものとさしかえた。さしかえ及ばなし : 「忠臣蔵」の安定した人気が に時間がかかっては困る。それかといっ 錦寛延元年 ( 一七四八 ) 八月、大坂竹本座 納得できると思う。その人気の出所を各 、平で初演されたのが『仮名手本忠臣蔵』でて稽古なしで出すわけにもいかぬ。こん幕によりながら、幾つか拾ってみよう。 たけだいずも なみきそうすけ なときいつもさしかえ用にされたのが とある。作者は竹田出雲、並木宗輔、三好 歌舞伎が現代劇であるときは、新作を 軽 「忠臣蔵」であった。檮古に時間をかけ お松洛の三人。好評であった。この時期は 上演するのが原則であった。江戸時代に 0 はなむこ かんへ、 かえん みますや みよし おりた 163

9. グラフィック版 仮名手本忠臣蔵

一名手本忠臣蔵

10. グラフィック版 仮名手本忠臣蔵

仮名手本忠臣蔵 つるおか 大序鶴ケ岡の場 ( 舞台装置図 ) うまい料理があっても食べてみなければその味はわか らない ( 嘉肴ありといえども食せざればその味わいを知らす ) と中国の古言にもある。国が平和であるために、立派な ちゅうせっしん 武士の忠節心や武勇がみとめられないのはそれと同しだ が、それはまた星が昼は太陽の光のために見えす、夜に なると見えるのに似ている。乱があって非常な時にこそ 武士の真価がはしめて注目される、そういう物語をここ にわかりやすく書きつづってみよう。 大序・鶴ケ岡 つる おか - あ・ーしかカ りやくおう 世は平和の時、ちょうど暦応元年の二月下旬である。 にったよしさた 足利将軍尊氏公は、新田義貞を討ちほろばし、京都に御 たみ 所をかまえ、その徳が世の中にすべて伝わり、民は草が 風になびくように、これに従う御威勢であった。 国に羽をのばす将軍の姿に似た鶴にちなむ名の鶴ケ岡 まち・まんん、 - フ ö< 幡宮の工事が完成し、尊氏公の代理として弟君の足利 さ - うえのかみただよしこう 左兵衛督直義公が鎌倉にお着きになったので、この土地 にいる事の武蔵守師直、これは自分の膝もとに人を ~ ) ・つ↓ん おいて見くだす傲慢な顔つきの人物だが、それに直義公 もものいはりまのかみ わかさのすけやす を御接待する役人として、桃井播磨守の弟で若狭之助安 近、州の城主塩宦部定が、御宮の縣場先という広 場に、正装で並んでお迎えする。 からひっちょうど 直義がいわれるには、「さて師直、この唐櫃 ( 調度衣服 かなではんちゅうしんぐら つるおか 一あ・しかカ