主要人物事典 たけもりきたはら さっしゅう 討入当夜最激闘者。行年三十四歳。刃〇武林唯七隆重 ( 竹森喜多八 ) 中小 以上十七名細川家お預け。 五十七歳。刃察周剣信士。 かんそ みんこう はやみとうざえもんみったか 姓。十五両三人扶持。祖は明国杭州武 ・大石主税良金 ( 大罅カ弥 ) 良雄嫡観祖剣信士。 〇早水藤左衛門満堯馬廻。百五十石。 やまぐら はやみ ・菅谷半之丞政利馬廻兼郡代。百石椒郡の人。孟子の孟二寛が長卅藩に びんごみよし 岡山の人。山口氏より赤穂早水家を嗣男。部屋住。仮名手本では色若衆の役 はしのかんざえもん 赤穂開城後備後三次に隠棲。行年四十仕え、後芸藩典医となる。後姓を出身 すいりゅう 弓は星野勘左衛門により伝授を受であるが、事実は背五尺七寸。年より わたなべ 四歳。刃水流剣信士。 地武林に改む。その子渡辺平右衛門の けた達人。辞世に、地水火風空のうちょはひねていたと記録にある。行年十六。 ちばさぶろうべえみっただ じようじゅ ・千馬三郎兵衛光忠馬廻・宗門改。二男に生る。炭部屋で吉良発見の殊勲 より出でし身の、たどらで帰る元の住刃上樹剣信士。 おおのくろうべえ せいしゅん ・好部安兵衛武庸江戸定府馬廻二百百石。大野久郎兵衛と合わす退身を決者。行年三十一一歳。刃性春剣信士。 家へ。行年四十歳。刃破了剣信士。 くらはしでんすけたけゆき えちごしばた あかばわげんぞうしげかたあかがき 心し身仕度中に主家の凶変に遭遇し、 ・倉橋伝助武幸扶持奉行・中小姓。 ・赤埴源蔵重賢赤垣は誤り。馬廻。石。越後新発田の人。本姓中山氏。堀 くらのすけ げんざえもん 二百石。下戸。徳利の別れは俗説。討内源左衛門道場の高弟。元禄七年高田内蔵助の盟下に入る。行年五十一歳。二十石五人扶持。行年三十四歳。刃煆 どう ) 」 れん 錬剣信士。 入前に妹婿の家を訪れ乞いをしたの縣場助太刀に感した壥部弥兵衛の懇望刃道互剣信士。 むらまっきへえひでなお っ おかのきんえもんかねひで に。〇村松喜兵衛秀直江戸詰扶持方奉行・ が転して徳利の別れが作られた。行年により堀部家を嗣ぐ。行年三十四歳。〇岡野金右衛門包秀部屋住。九十良 うんき きんえもんかねずみ こうらゆう 宗門改。二十石五人扶持。行年六十三 刃雲輝剣信士。 父の金右衛門包住は一一百石。復讐の前 三十五歳。刃廣忠剣信士。 ゅうばい なかむらかんすけまさとき おおいしせざえもんのぶきょ ・中村勘助正辰祐筆役。百石。奥州 に病没した父の名を嗣ぐ。大工の娘と歳。刃有梅剣信士。 ・大石瀬左衛門信清馬廻。百五十石。 すぎのじゅうへいじつぎふさ しらかわみたむら ももひき の絵図取りは俗説。雅号放水。行年一一・杉野十平次次房札座横目。八両三 大石一族。遺品の血染めの股引等現存白河三田村氏より出で中村家を嗣ぐ。 たわらばしげんば ろはく かいいっ かんとく 人扶持。夜泣きそばや俵星玄蕃は俗説。 行年四十八歳。刃露白剣信士。 十四歳。刃回逸剣信士。 す。行年一一十七歳。刃寛徳剣信士。 かいがやざえもんとものぶ きむらおかえもんさだゆき 一まきへえみつのぶ 行年二十八歳。刃可仁剣信士。 ・木村岡右衛門貞行馬廻・国絵図奉〇貝賀弥左衛門友信中小姓兼蔵奉行。 ・間喜兵衛光延馬廻・勝手方吟味役・ かったしんざえもんたけたか 行。百五十石。陽明学者。行年四十六十両二石三人扶持。吉田忠左衛門の実〇勝田新左衛門武堯中小姓・札座横 百石余。大石家とは遠縁に当る。嫡子 じようしゅう つうふ しんろく じゅうじろう 弟。京の義商綿屋善右衛門がよく援助目。十五石三人扶持。常州雨引の人。 歳。刃通普剣信士。 十次郎、二男新六共に忠義に殉してい しゅうと る。辞世として、草枕結ぶかり寝の夢・不破数右衛門正種元馬廻、浜辺奉をしている。行年五十四歳。刃電石剣舅大竹重兵衛は俗説。行年二十四歳。 刃量霞剣信士。 行百石。藩規にそむく行いがあり浪人信士。 さめて、常世にかへる春のあけばの。 まえばらいすけむねふさ おおたかげんごただかっ ・前原伊助宗房扶持方奉行・中小姓。 〇大高源五忠雄 ( 大鷲文吾 ) 膳番元 中。内蔵助に泣訴して義盟に加わる。 行年六十九歳。刃泉如剣信士。 方・腰物方・金奉行。二十石五人扶持。十石三人扶持。吉良家裏門前に小店を ほてん 俳人としても一家をなす程の名人。雅構え偵察する。行年四十歳。刃補天剣 号子葉。笹売りは俗説。山田宗編に茶信士。 はぎまきへえ はぎましんろくみつかぜ の湯の弟子として近づき吉良茶会を察・間新六光風部屋住。間喜兵衛二男。 つきじ 知。辞世梅で呑む茶屋もあるべし死出切腹した遺骸を親族中堂貰い受け築地 の山。行年三十二歳。刃無一剣信士。本願寺へ葬る。行年二十四歳。刃模唯 以上十名久松家お預け。 剣信士。 おのでらこうえもんひでとみ よしださわえもんかねさだ 〇吉田沢右衛門兼貞部屋住。忠左衛〇小野寺幸右衛門秀富部屋住。大高 おのでらじゅうない 門嫡子。佩刀の一一代関孫六を振って討源五実弟。小野寺十内養子。行年二十 ぜんし ふうさっ 入った。行年二十九歳。刃当攤剣信士。八歳。刃風颯剣信士。俳号漸之。 おかじまやそえもんつねしげ 以上十名毛利家お預け。 〇岡嶋八十右衛門常樹札座勘定奉行。 ませまごくろうまさとき はらそうえもん ・間瀬孫九郎正辰部屋住。久太夫嫡 一一十石五人扶持。実は原惣右衛門弟。 報恩談忠僕直助は俗説。赤穂開城の藩男。行年一一十三歳。刃太及剣信士。 博じゅうじろうみつおき やざまじゅうたろう 札交換を無事完遂した。行年三十八歳。〇間十次郎光興 ( 矢間十太郎 ) 喜兵 え やり しゅうふつ 衛嫡男。部屋住。炭部屋の吉良一番鎗 刃袖払剣信士。 なかやま はらそうえもん 原惣右衛門 おうしゅう の おおわしぶんご たけばやしただしちたかしげ たきゅう くだゅう おおたか たん 153
いかん 以串剣信士。妻丹は夫の四十九日忌を法の伝授を果したのは有名な挿話。行 終えて自殺した。 年三十五歳。刃肭空剣信士。 ほりべやヘえあきざわ とみのもりすけえもんまさよりうーまわリ 〇堀部弥兵衛金丸元江戸留守居。三〇富森助右衛門正因馬廻兼使番。一一 あさの 百石。退役して隠居料二十石。浅野家百石。江戸詰めであったので主家瓦解 ゅうひっ かわさきひらま 譜代の家臣で、無筆を祐筆と偽って仕後川崎平間に家を建てたが、これが内 たかだのばば やす 官した話は作り話。高田馬場の勇者安蔵助江戸下りの際の役に立っている。 兵衛を娘のほりに迎え、主君切腹後は 討入りには母から貰った肌着を鎖かた さきがけ し引揚げの途次吉 内蔵助を手こすらせた復讐急進派の魁。びらの上に着て戦、 だらゆうざえもん 党内随一の高齢者。行年七十七歳。刃田忠左衛門と共に選ばれて仙石邸自訴。 毛知剣信士。 俳句をよくし雅号春帆。行年三十四歳。 ものがしらそば ゅうそう いそ力いじゅうろうざえもんまさひさ ・礒貝十郎左衛門正久物頭並側用人刃勇相剣信士。 こしよう らかまっかんろくゆきしげ 百五十石。京都教学院の稚児小姓だっ〇近松勘六行重馬廻。二百五十石。 ・」うしゅう たが、父の知友堀部弥兵衛の推挙で勤江州中主比留田の人。討入前に妻を離 へ早打ち第一陣。内蔵助の作戦参謀格。仕した。討入りには吉良家家来にロウ 別し、その夜は吉良家臣山吉新八と戦 おおのくろうべえ 赤穂城内で大喝大野九郎兵衛を走らすソクを出させて間毎に点して戦闘に利い池に落ちる。行年三十四歳。刃露 しゅう当ゅう 〇表門隊・裏門隊 事は有名。討入り前に母が励ましの自ならしめた。行年二十五歳。刃周求剣 剣信士。 やだ ) 一ろうえもんすけたけ おおばしゆらのすけよし 〇矢田五郎右衛門助武江戸詰。馬廻 〇大石内蔵助良雄 ( 大星由良之助義殺をしたと伝えられている。辞世の和信士。 さくじゅうろう うしおだまたのじようたかのり かわ ・潮田又之丞高教国絵図奉行兼郡奉役。百五十石。三河武士矢田作十郎の 金 ) 家老。譜代。千五百石。想像とは歌。かねてより君と母とに知らせんと、 こうえい 違い痩せた小男であ「たが、兵学はも人より急ぐ死出の山みち。行年五十六行。二百石。内蔵助一族。伯父の太田後裔。討入りに奮戦して刀を折る。行 ほうじん きらこうずけのすけはんじよやしき かしよう とうぐん 加兵衛は吉良上野介本所邸の前住者松年二十九歳。刃法参剣信士。 とより剣は東軍流免許皆伝。絵は可笑歳。刃峰毛剣信士。 ませきゅうだゅうまさあき おくだまごだゅうしげもり の雅号で数多く残っている。主家再興〇間瀬久太夫正明大目付。二百石役平登之助の家臣で、早速吉良邸絵図を〇奧田孫太夫重盛江戸詰武具奉行。 はりのうちげんざえもん やすべえ おのでら の運動に努力をしたが報われす、実に料十石。義士小野寺、中村と一族。内作製した。討入り前に田中道的という百五十石。安兵衛と共に堀内源左衛門 よどう あたうら に剣を学ぶ。仇討急進派の一人。行年 周到な計画で仇討を成功させた。一面蔵助の補佐役。行年六十三歳。刃誉道医者に約束の三味保童円という練薬秘 ふしみ 浮大尽として伏見や島原で遊ぶ風流人剣信十。 かいしやくにんほそかわ かたおかげんごえもんたかふさ でもあった。介錯人細川家臣安場一平。 〇片岡源五右衛門高房内証側用人兼 くうじよう 行年四十五歳。忠誠院刃空浄剣信士。 小姓頭。三百五十石。主君の切腹直前 よしだらゆうざえもんかねすけ ・吉田忠左衛門兼亮足軽頭兼郡奉行。 に断腸の袂別をし、遺骸を泉岳寺へ葬 きゅうせんもとどリ 譜代。二百石役料六十石。兵学家。内る供をして柩前で髻を切って復讐を誓 かんよう 蔵助の領袖。和歌を良くし雅号は白砂。 った。行年三十七歳。刃勘要剣信士。 やり 討入当夜は裏門の副将。鍮印の辞世に名古屋の人。 おのでらじゅうないひでかす 君がため思いぞ積る白雪を、散らすは ・小野寺十内秀和京都留守居役。百 みね きんしっそうわ 今朝の嶺の松風。行年六十三歳。刃仲五十石役料七十石。妻丹との琴瑟相和 こう るいきん 光剣信十。 りは「涙襟集」として今に残ってい はらそうえもんもととき はら′」うえしん やり 〇原惣右衛門元辰 ( 原郷右衛門 ) 足る。雅号里龍。鎗印に付した辞世は、 にんじよう 軽頭。新参。三百石。主君殿中刃傷後忘れめや百に余れる年を経て、仕えし の伝奏屋敷片付けに手腕を示す。赤穂代々の君が情けを。行年六十一歳。刃 赤穂四十七士 おおいしくらのすけよしたか ふだい こおリ らゆう なかむら よしだらゆうざえもん 吉田忠左衛門 せんがくじ おおた とみのもりすけえもん 富森助右衛門 がかい 152
主要人物事典 じようしゅう たけこただしち 武林唯七↑よ 頁也は三州吉良と上州の一部で四千一一進藤が側室にすすめた。内蔵助討入切 うえすぎ 百石。長男は上杉十五万石当主綱憲。腹後、ひ 0 そりと京都で死んだ。 がわ 養子の義周は綱憲の二男。従って孫。 川千本通り上善寺に墓がある。清誉貞 将軍名代で宮中、日光代参等常に高家林法尼と刻してある。 あさのたくみのかみ いしどううまのじよう の模範。浅野内匠頭との間に遺恨を生☆多門伝郎重共 ( 石堂右馬之丞 ) して殿中で被壕翌年十二月本所邸に公儀御目付。浅野矩庭上の切腹に反 しようだしもふさのかみ 浅野家臣の襲撃を受けて絶命。六十一一対した。その為正使の庄田下総守と数 逝。霊性寺殿実山相公大居士。 度衝突をした。 はやのかんべい かやのさんべいしげさね しようだしもふさのかみやすとし やくしじじろうざえ ☆萱野三平重実 ( 早野勘平のモデル ) ☆庄田下総守安利 ( 薬師寺次郎左衛 せっしゅうかやの 忠孝に挾まれ自殺。摂州萱野の人。行 門 ) 浅野内匠頭切腹の検視正使。大目 どうき せんがくじ 年二十八歳。刃道喜剣信士 ( 泉岳寺 ) 。付。併し庭上切腹が公儀の怒に触れて もものいわかさのすけやすちか だてさ当ようのすけむわはる ☆伊達左京亮宗春 ( 桃井若狭助安近 ) すぐお役御免となった。 おのくだゅう おおのくろうべえともふさ よしだ 伊予吉田領主三万石。院使饗応役。元☆大野九郎兵衛知房 ( 斧九太夫 ) 赤 穂藩家老。六百五十石。赤穂城開城以 の殊勲者。行年二十六歳。刃沢蔵剣信年三十八歳。刃利教剣信士。 禄十四年は十九歳の時。 はらそうえもん かおよごぜん あさのこうふじんあぐり みむらじろうざえもんかわっね 士。雅号如柳 ・三村次郎左衛門包常台所役・酒奉☆浅野侯夫人阿久里 ( 顔世御前 ) 勿前に分配金の問題で原惣右衛門と意見 おくださだえもんゆきたか ちかまっかん すぎのじゅうへいじ ・奧田貞右衛門行高部屋住。近松勘行。七石二人扶持。裏門を杉野十平次論芝居の様に吉良上野介には一度も会が衝突し、弟の岡島八十右衛門の面会 ろく しゅうらよう ながはる びんごみよし 六実弟。行年二十六歳。刃湫跳剣信士。と共にかけ矢で打破った。行年三十七う事はない。備後三次の浅野長治二女。強要に逃亡した。 やこうべよ もしらのりかわ ながのり おのさだくろう おおのぐんえもん さん′」 ( 斧定九郎 ) 父の九 十歳で結婚。時に夫君長矩は十七歳で☆大野郡右衛門 〇矢頭右衛門七教兼部屋住。父長助歳。刃珊瑚剣信士。 ようぜいいん ていはっ ろうべえ 教照は勘定方・中小姓。二十石五人扶以上九名水野家お預け。 あった。長矩没後剃髪して瑤泉院と称郎兵衛と一緒に逃亡したが、その時末 てらさかきちえもんのぶゆき かんぶん 持。討入り前に父病没す。行年十八歳。 ・寺坂吉右衛門信行 ( 寺岡平右衛門 ) した。寛文九年没。年四十六歳。 娘を置き忘れたという。末路は父と共 てきしん よしだちゅうざえもん かじかわよそべえよりてる かこがわはんぞう に哀れであった。 刃擲振剣信士。 吉田忠左衛門組足軽小頭。五石一一人扶☆梶川与惣兵衛頼照 ( 加古川本蔵 ) むらまっさんだゅうたかなお せんがくじ こなみ かこがわほんぞう となせ ( カ古川本蔵妻 ・村松三太夫高直部屋住。喜兵衛嫡持。泉岳寺門前で去らす。逃亡者では幕府奥留守居役。桃井若狭助の家老で☆戸名瀬・同娘小浪日 いいなずけ せいげんこう ちから こなみ 男。行年一一十七歳。刃清元 ( 亢 ) 剣信士。ない。討入時三十九歳。没年八十三歳。もなければ、ト / 浪の父親でもない。松と娘 ) 架空の人。主税には許嫁は居な かやのわすけつわしげ 。筋を面白くするための創作人物。 の廊下で浅野内匠頭を抱き止めた人。 ・茅野和助常成横目。五両三人扶持 たじまとよおかきよう おおいしふじんりく さくしゅう 忠臣蔵ゆかりの人々 ☆大石夫人理玖 ( お ) 但馬豊岡京 お陰で加増があったが、周囲からよく 役料五石。作州の人。雅号禿峰。秀句 当ようまう あさのたくみのかみながのり えんやはんがんたかさだ が多い。行年三十七歳。刃饗機剣信士。☆浅野内匠頭長矩 ( 塩冶判官高定 ) 言われなかった気の毒な旗本。享保八極家家老石束源五兵衛娘。内蔵助とは なかの よこかわかんべいむわとしかち はくしゅう ばんしゅうあこう 十歳年下。大柄であったから内蔵助と 〇横川勘平宗利徒士横目・焔硝蔵奉芝居では伯州の城主。実際は播州赤穂年没。七十七歳。墓は中野天徳院。 しみずいちがく さぎさかばんない はノミの夫婦型。討入り前に離別され 行。五両三人扶持。作州の人。熱血漢。五万三千五百石の城主。元禄八年に癒☆清水一学 ( 鷺坂伴内 ) 三州吉良で じようすい とよおか 行年三十七歳。刃常水剣信士。 瘡の大病をやったから多少アバタが残は一学の事を伴内さんと呼ぶ。勿論芝豊岡に帰り、後に三男の代三郎が広島 やまがそこう せんざきやごろう かんィー」よごろうのりやす 浅野家に召抱えになり、広島に移り元 〇神崎与五郎則休 ( 千崎弥五郎 ) 横ろう。山鹿素行に軍学の弟子入りをし居の様な憎まれ者とは違う。幼年より ぶん きらこうずけのすけにんじよう 目。五石五両三人扶持。作州の人。馬た程の尚武の大名。吉良上野介に刃傷吉良家に仕えた家臣。討入り当夜二十文元年に六十八歳で没した。香林院。 あまがわやぎへい しばたむらうようだゅう ☆天河屋義平架空の人。大坂の商人 喰丑五郎勘忍袋は俗説。討入りには表した為に芝田村右京大夫邸で切腹。行五歳で戦死している。 あまのやり れいこういんでんすいもうげんり にもんじゃおかる きようどう 天野屋理 ( 利 ) 兵衛がモデルと言うが、 門隊を嚮導する。半弓を携えての辞世年三十五歳。冷光院殿吹毛玄利大居士。☆ニ文字屋阿軽 ( おかる ) 実在した きらこうずけのすけよしひさ こうのむさしのかみもろなお へいえもん は、梓弓春近ければ小手の上の、花を☆吉良上野介義央 ( 高武蔵守師直 ) 女性。平右衛門の妹ではない。内蔵助天野屋は実在したが赤穂義士とは何の さこんえごんの ほうとう じゅしいのじよう 関係もない。 も雪のふぶきとや見ん。雅号竹平。行高家筆頭。左近衛権少将。従四位上。の放蕩を止めんものと、一族の小山・ あさ たくぞう そう てらおかへいえもん さ ん ら こやま 154
吉良は三河湾にのぞみ、知に古川沿いに開けた 小さな町である。足利義氏が三河守護職となって 吉良姓を名乗って以来、五百年にわたってそのあ たり一帯を支配してきた。吉良の製塩について文 よしひさ いんしつ とみこ 献にあらわれる最初は義央が、愛妻富子の眼疾を 癒すために、七面天女に祈願をかけ、富好新田を 拓き、饗庭塩をつくったときだ。元禄元年のことで ある。饗庭塩は矢作川をさかのばって信州や江戸 おおよまおかざき へ送られ、大、岡崎、足助などには塩の仲買い 問屋までできた。 あこう 一方赤穂においても古くから塩田が開かれてい なお 、 : 4 せし あしかカよし・つじ ! ド ~ 匠 勸内 る。その歴史は奈良朝時代よりみることができる 穂へしのびこみ、製法を盗もうとしたが、役人に あこう あさの 発見され、土牢へ入れられた。ーー赤穂では荒唐 が、とくに積極的に開発されるのは浅野の入部以 後だ。浅野家が領有した時期には、およそ百二十無槽な説として一笑に付されるが、吉良ではこの ような伝説が今でも語りつがれている 七町歩を開いている。そのきっかけをつくったの カくしつ ななお ながのり せとないか 製塩技法をめぐる吉良と赤穂の確執は、経済的 は長矩の祖父長直だ。吉良にくらべると瀬戸内海 の独特な気象に恵まれ、おまけに技術革新もすすな市場争奪にまで発展したのかもしれない じようしゅうかさま あさの もともと浅野家が常州笠間から赤穂へ移された められて、良質の塩をつくり出すことに成功して のも、塩田の開発という幕府の要請があったよう だし、その間の経済的事情は、たしかめる必要が そこで吉良方から塩の精白法を教えてほしいと、 ひらおこじよう 浅野家に懇願したところ、藩外不出ということで あるだろう。赤穂の郷土史家平尾孤城は、仙台の 拒絶された。やむなく吉良方から産業スパイが赤伊家から送られた八人の産業スパイのうち、三 、、わや 142
おくだまごだゅう 奥田孫太夫 にびき 丸にニ引 「とんでもない。お家を召しあげられた時から、城を枕 に討死しようといったのは、奥方様へのへつらい。その 時あなたが、そんなことをしたらお上に対して朝敵同様 けしからんことだと、そこからついと立ち去った。私ど もはそのあと、固苦しくすわっていたが、考えればすい ぶん、ばかげたことであった。さてそれで、どうしてい いかわからす、お墓に参って切腹と いいながら、お城の 裏門からこそこそ逃げ出した。いまこうして、おもしろ だゅう おかしく楽しめるのも、九太夫殿のおかげ、昔の友情は 決して忘れぬ。だから固いことをいわすにお楽になされ」 しのだ きつね 「なるほど、この九太夫も、昔のことを思えば信太の狐 のように、人をだましていた。そのばけた本心を見せて、 ゆらのすけ 酒でものもうか。さア由良之助殿、久しぶりだ、盃を」「で は頂戴いたそうと、会所で集っている時のように、固苦 しい形をするのかノノノ 、ついで下され、飲むわ」、「飲み さかな なされ、酒をつぐわ。よ ) 、 ーし程よくあがれ、肴をする」 とそこにあり合わせた蛸の肉を箸にはさんで、ずっとさ し出すと、「手を出して足をいただく蛸肴という句はこ のことじゃ。ありがたい」とおしいただいて食べようと する。 その手を九太夫がしっとっかまえて、「これ由良之助 えんやはんがん 殿、明日は主人塩谷判官の御命日、ことにその前夜は逮 夜といって大切というのに、貴公はりつばにその蛸を口 に入れるか」と訊く。 「食べるとも、食べるとも、それとも主人の亡くなられた 殿が蛸になられたという知らせでも届いたか。ええ、くど くどものをおっしやる人だ。貴公やおれが浪人をしたの や さかな はんがん は、判官様が軽率なことをなさったため。だから殿様に は限みはあっても、なまぐさを避けて精進するなどとい う気持は、これつばっちもありはせぬ。御心のこもった 肴おいしく頂く」と別に顔色を変えるでもなく、ロにほ うりこんで味わっている有様を見て、心のねじれた九太 夫も、あきれてロも利けすにいる。 「さて、この肴では飲めたものしゃない。鶏をしめさせ て鍋焼きでもしよう。貴公も奥へ来なさい。女郎たちも 歌え歌え」と立っ足もとは千鳥足に乱れている。テレッ まっしゃ クテレックツッテンテンと浮かれ、「おのれ末社 ( 間 ) ども、酔っ払わせすにおくものか」と騒ぎながら、 ゆらのすけ のまにか由良之助は影を消してしまった。 さぎさかばんない すっと見ていた鷺坂伴内は二階から降りて来ていった。 「九太夫殿何もかもくわしく、すっかり見届けました。 かたきう・ち 主人の命日に精進さえしないような精神で、敵討なぞと もろなお んでもない この通り主人師直に報告、用心しなくても しいと宀女心させ亠ましよ、つ」 「まったく、もう用、いにも及ばぬことだ。おやここに刀 を忘れて行きましたのは、ほんとにまさしく、大ばか者 の証拠しゃ。武士のたしなみの刀がどんなものか見まし よう」とぬいてみて、「いやはや赤いわしのように錆び ておる これではとうとう本心がわかり御安 心でござる。九太夫の家来、迎えの駕籠を」と九太夫が いうと、ヘイと返事をして駕籠が来た。 「さア伴内どのお乗りなさい」「いや、ますあなたが御 老体、どうぞどうぞ」「では御免」と駕籠に入る。 伴内はその外から「いや九太夫殿、聞くところによる にわとリ