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検索対象: グラフィック版 南総里見八犬伝
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1. グラフィック版 南総里見八犬伝

すずきじゅうべえ 画家である。本名は鈴木重兵衛、葛飾 ように、彼の勢力は二代豊国を圧倒すた。そして「武者絵の国芳」としての 泉■函表■ 北斎の門人であリ 名声は、当時のみならず、今日まで喧 北斎の養子となっ 看客待八大伝の初舞台三代豊国筆るものがあった。はなはだ精力的で、 てん 浮世絵画家の中でもおそらく最多数の伝されており、水滸伝の他には、赤穂て、その娘を妻とした。本所柳川町に 鈴木重三氏蔵 ちゅ・つ・しんぐらようち 製作量を有していよう。本名は角田庄義士を描いた「忠臣蔵夜討」などが名住んでいたので、柳川重信と呼ばれた ・函裏■ いちゅうさい いれずみ という。当時の美人画家としては二流 仮名読八犬伝の袋歌川国芳筆吉田蔵、一雄斎と号した。彼の作品の中で高い。天保期には刺青が大いに流行し、 は美人画が特にもてはやされ、文化文江戸の若者たちは競ってほりこんだが、 であったが、刻板の細密画には長して 幸一氏蔵 よみはん 政・天保期を風靡する勢いを示したが、国芳の画風は、刺青がよく図柄とする おり、読本の挿絵を多く画いた。天保 ■表紙裏見返し■ それは晩年の大作「江戸名所百人美女」武者や竜虎に適しているものであった 三年 ( 一八三三 ) 、四十六歳で没した。 南総里見八大伝原稿曲亭馬琴筆 きさっえん ■溪斎英泉ー に見られるように、その頽廃的な嬌艶から、注文が殺到したと伝えられる。 ■片かんのんロ絵ー び . っ ( . っ 0 しかし、国芳の芸術中最もすぐれて ・八大伝版本の挿絵・ : 8 8 里見八大伝一覧歌川国芳筆国会図美に妙を発揮する画風が、幕末の世相 5 . . いるとされるものは、量は少ないか を反映するものであったからである。 書館蔵 だよしのぶ 本名は池田義信。彼の画材の多くは また役者絵にも巧みであったが、注目風景画である。その「東都名所」、「東 ひぎが ■歌川国貞 ( 三代豊国 ) ー すべきは実に多くの秘戯画を残してい 都富士見三十六景」等は、洋風画の彩遊女芸妓であり、 「今様美女競」、「時 きよってん さば ばきん ・大日本六十餘州之内安房船橋市立ることである。京伝・三馬・馬琴のは色法や遠近法を採り入れ、人物を精細世六佳撰」には、あらゆる種類のそう くさぞうし に描き、これを中、いとして風谷画的な 図書館蔵 : かに、山東京山や島亭焉馬の草双紙に した女曲達が描かれている。こうした よんばうまうらっ ・滝乃川と大塚村国会図書館蔵 : 多く画筆を揮ったが、とりわけ文政十風景画に仕立てあげている。風景画家傾向は、発放埓で、諸所に放浪して ・見立八大伝若林清氏蔵・ : 二年から天保十一二年にかけての柳亭種としても葛飾北や藤広冊に拮抗すは酒色になじみ、あるいは根津で娼家 にせむらさきいなかげんじ : ・驕彦の『偐紫田舎源氏』の挿絵は、たいそる存在である。 ・芳流閣若林清氏蔵 : を営んだとさえいわれる、彼の性格と う好評を博し、彼の創案による「源氏■柳川重信■ ・行徳の入江早大演劇博物館蔵・ 行状に基づいているものかもしれない ・八大伝版本の挿絵 ・・絵」は、幕末の大流行の基を開いた ■ニ代歌川国貞 ( 四代豊国 ) ・ ・大の草紙の表紙 : 元治元年 ( 一八六四 ) 、七十九歳で没 ・・四・・・・囲・大の草紙の内高橋誠一郎氏蔵・ 0 ) . 0 ・入江 ( 小文吾と房八 ) 国会図書館した。 3 . 0 ■歌川国芳・ 蔵・・ っこ . 5 . . 8 3 . ・円塚山早大演劇博物館蔵 : ・対牛楼船橋市立図書館蔵 : 8 8 8 8 8 ・ ) 9 ′ 3 0 ・ 0 ・ 0 ・ 0 ・ ・仮名読八大伝の表紙吉田幸一氏蔵 いさいえいせん ・木工作娘浜路と信乃早大演劇博物 三代豊国の弟子。はしめ三代国政、 八大伝の挿絵に関しては、溪斎英泉 ・鈴森の戦い若林清氏蔵 : 館蔵 : とともに最も多くの労力を注ぎこんだ 後に二代国貞と称し、一寿斎、梅蝶楼 ・八大伝忠勇揃船橋市立図書館 : ・戯作者考補遺・ 寛政の末から文化・文政期を経て、 明治中期の浮世絵終焉に至るまで、浮・里見八大伝若林清氏蔵 : いちゅうさい 世絵界ははとんど歌川派の画家によっ本名は井草孫三郎、一勇斎と号し、初 て占められており、歌川派の浮世絵界代豊風に学んで貞と並び称された。 における勢力は絶大なものであった。 画壇への登場は、国貞より遅れていた くにさだ すいこてん 国貞は、初代豊国の高弟であり、自が、文政十年より水滸伝の勇士たちを す、こてん らは二代豊国と称したが、実は三代で描いた「通俗滸伝豪傑百八人」の揃 あるしかし、このことに、つかかえる い物を出した時より、一躍有名になっ ひこ ぞう ふうび た、は かっー」か 166

2. グラフィック版 南総里見八犬伝

れたが、 その折旅からもどってきた村長の下男額蔵とい うものが、主のを諍「たとか。も「とも五僵一一は手傷 を負うたが、辛うじて逃げのびて訴え出たため、額蔵は めしと ごうもんせめ 新陣代に召捕られ、日夜休みなく拷問の責苦をうけてい ゆくえ たんさく るし、信乃の行方も探索中であることを教えてくれた。 きつろく ひがみしゃへ、 事はそのとおりで、殺された宮六の弟簸上社は、五 ひきろく 僵二と組んで、「村長蟇六夫婦はいうまでもなく、 を殺し、五倍二に傷を負わせたのは、村長の下男額蔵で、 いぬづかしの ちくてん ゆくえふめい 大塚信乃もこの一味だが信乃は逐電して目下行方不明。 また蟇の娘沢路を盗み出して、その追手四人を山 ざんさっ で惨殺したのも讎乃・蔵らのしわざ」と滞在中の おおっか おおいしひょうえのじよう 大塚城主大石兵衛尉に上申、額蔵死刑の許可をえたので あった。 刑場は村はずれの飃。三十余名に警備された ひがみしゃへい かめざさ 中で、簸上社平は、額蔵 ( 亀篠が信乃を暗殺させるために渡し た ) から没収した櫺一字を脇差に、軍木五催二とともに 鸙をりゅうりゅうとしごいて、左右から額蔵の脇腹を さしつらぬ はさき 刺貫こうと、穂先を引いて、ヤッと声をかけて繰り出す いなむら つるおと よりも早く、稲村の蔭から弦音とともにかぶら矢が飛び しゃへい 来たって、五倍二、社平の肩先に中。二人ともキャッ いなむら と叫んで竹槍をすてて倒れた。と、東西両方の稲村の下 、ぬづかしの いぬかいげんよち から現れ出たのは二人の武士、塚信乃と大飼現穴。竹 ぞうひょフ 槍をしごいて雑兵を突き伏せる。つづいて後より「卸ト ぶんごやすより 文吾順ここにあり」と白く肥えた大男が突入。信乃は さしつらね 逃げようとする五僵一一を背中からぐさと刺貫く。「伯母 の仇、思い攵たカ」と 珮応も襷平を斃して、その両刀 ぶんど を分捕り、手早く信乃によって縄を解かれた額蔵に渡す。 じんだい かろ カ第、一て・フ きゅうろく 宮六 カ / 、そ - フ しの

3. グラフィック版 南総里見八犬伝

ざんどくはしいまま 0 額蔵をて社平等残毒を恣にす額蔵に手 傷を負わされた軍木倍ニはやっとの思い で逃げ暮六夫婦を殺したのは額蔵だと訴えた ー・うろく 額蔵は召捕られ連日の拷問をうけた宮六の 弟笙苹と五倍ニは額蔵死刑の許可をえた 三大士船を神呂の渡につなぐ大塚信乃と大 飼現八と大由示文害が犇河原に着くと平 ひ、ろく に声をかけられたそれによると大塚の蟇六 はまじ ひめーみ 夫妻は浜路との縁談をすすめていた陣代簸上 るて 宮六と軍木宝ニによって斬殺されたという ひろ ( 一一犬士、額蔵を救う ぎさっ・とく さて行徳の町はすれでごろっきどもに襲われて、これ を撃退したものの、四歳の孫心兵を黒雲にさらわ みさっしん あまざきじっいちろうてるふみ れた妙真は草の上に泣き伏していたが、蜑崎十一郎照文 しんべえ かみ・か・、 ゆくえ に「親兵衛は神隠しになって、今はその行方を知るよし けんし もないけれど、けっして心配はいらぬ。かれもまた大士 の一人、伏姫さまのおん子にひとしい これまでも数々 の不思議を見せてきたのも、その証拠ではないか」とは こなやぶんごべえ げまされて気を取り直し、古那屋文五兵衛に後事を託し て、照鬼とともにつつがなく安房に入「た。 一方、塚讎乃、心瓔、心卸小五一の = 一大士は、 ひきろく 海路、豊島の性宮河原に着い 信乃が蟇六にあざむか むらさめまる れ、村雨丸をすりかえられた恨みの場所である。しかし その避りは漁村で籠屋もないから、二十町ばかり西南 に下「た甲寸にゆこうと、一しょに岸に上がると、 一人の老漁夫が水ぎわに立っていて、 「大の村長さんの既御さんではございませぬか。い とあみ か村長さんが投網をしたいからと舟を借りに来られたお あばしさもじろう り、網乾左母二郎というかたとご一しょだったし、村長 かっ さんカ月し冫ちたのを、力し力いしく 担ぎあげなさっ たじやございませんか。その舟主の平と申すのがわし おおっか です。ところで大塚はたいへんでございましたな。あの さわぎをよそに、どこへおいででした」 A 」い、つ 「大のさわぎとは ? 」と信乃がたすねると、大 村村長夫婦は陣代簸お宮、助役軍木五二に惨殺さ ふせひめ ・カ′、って - フ おそ

4. グラフィック版 南総里見八犬伝

要、うすけ 荘助の母 いみあけ そして忌明まで今までの家にいたいという信乃の希望 をいれて、裏の百姓賭肱に身のまわりの世話を見させ、 げなんいくぞう 信乃と同年の下男額蔵をつきそわせた。 まわ ゆだん カくぞうひきろく 信乃ははしめ額蔵を蟇六の廻しものと油断しなかった が、額蔵が火を打ち出し水を汲み、忠実に仕えてくれる のに追々心がなごんできた。いっか初夏になったある日、 しの薈ずい 額蔵にすすめられて、信乃は行水をしようと湯をなみな あか みと汲みいれた大に入った。垢を落とそうとうしろに まわ あざ 廻った額蔵は、信乃の左腕の痣を見ていった。 だんな あざ 「若旦那にもこんな痣がありましたか。わたしにもそっ あざ くりの痣がありますよ、これを見てください」 はだぬ 肩脱ぎになって背中を見せた。なるほど背の中央から 右の肩の骨の下にかけて黒く大きな物の花の形をした あざ 痣がある。 たもと しのぎようずい しかも信乃が行水をおえて、まず着物を振ったら、袂 カ′、 : フ の間から、白玉が一つころげ落ちたのを、額蔵がすばや だん く拾い上げて、つくづくとながめ「ふしぎだなあ。若旦 那はこれをよそから手に入れなさったのか、家から伝わ ったものかどちらです」という。信乃がうやむやに答え ると、額蔵は何度もためいきをついて、 だんな 「若旦那はわたしを疑っておられるのですか。わたしは 何もかくしませぬ。これをごらんなさい」 と肌につけた守り袋から一粒の玉を取り出す。 ての 0 ら 信乃も、いぶかしげに、その玉を掌にうけて見ると、自 ご文字は同じでなく、 分の玉とすこしもちかいかない。たオ 「義」の字がはっきり読みとれた。それで信乃も、腹を きめて、自分の玉の由来をくわしく説明し、父番作の予 ん おおたら、 ばんさく ゆいごん 見と遺言のこともかくさす打明ける。 ひざ 額蔵は思わす膝を進め、感嘆のあまり思わず涙をこほ してから、自分の素性を打明けた。 「世の中に運のわるいのはわたし一人ではないこと、若 だんな 旦那のお話でよくわかりました。わたしは、伊豆の国北 じさっしさフしさっカんいぬかわえじのりとう そうのすけ 条荘の荘官大川衛二則任の一人子で、幼名荘之助と呼 えな ばれました。わたしが生まれたとき、家の老僕が胞衣を しきい 埋めようと閾の下を掘ったとき、この玉を手に入れたの あ・しかカまさー、も です。堀越の御所といわれた足利政知様に仕えていまし かんげん たが、このかたの苛政 にたいして父は何度も諫言いたし たが容れられす、かえって自殺に追いこまれ、妻子は追 放の憂き目にあいました。七つのわたしをかかえた母は、 しんせきえんじゃ まわ 親戚縁者を頼って廻ったが、どこにもおいてもらえず、 あまざきじっ・ろうてるこけ 艙弟にあたる、安房の領主里見氏の家臣蜑崎十郎輝寘と いうものを心あてに倉までいったけれど、今は戦国乱 しもうさ薈・つ・ とゼっ 世、海陸の交通も杜絶、安房への船は出ない。下総の行 徳には、物に渡る船があると、人に教えられ、行徳を 目ざして、このたの郷まできたところ、追剥ぎに旅費 を奪いとられてしまい、その夜は泊るところもない。村 ひきろく 長蟇六どのの家にいって、事情を話して、一夜の宿をた のんだところ、銭なしには貸す場所はないと、追い立て じしやく られました。日は暮れ、雪はふりだし、母は持病の癪を おこして死にました。翌朝、わたしは村長のところに連 れてゆかれたところ、村長さんは『おまえの母親の埋葬 べんしさフ 代などかなりかかった。それを弁償してもらうにはまだ 小さすぎるが、一生奉公したら、払えるかもしれん。一 生、家で働け』といわれて、あの家にとめおかれました。 カ第、お : フ さとみ

5. グラフィック版 南総里見八犬伝

くぞう いれづかしの ひきろく 大塚信乃と額蔵信乃は暮六に養育されるこ とになりつきそいに額蔵がなった額蔵は あざ 行水をする信乃の腕に痣を見つけ自分の痣 を見せながら素性を打ち明けたやがて額蔵 いかわそうすけ は大川荘助と名のりニ人は義兄弟となった 一を・も亦 しかし十歳の春に、今は乱世、実力をもって身を立て家 を興さなくては男子にあらず、と志を立て、夜中にひとり まう 剣術柔術などをけいこしてきました。が、それは佛輩に あまう だんな も秘密だから、みんなわたしを阿房と、 しいます。若旦那 とは前からお近づきになりたいとねがっていたけれど、 あざ 用心深くて本心を明かされなかった。が今日は痣と白玉 とろ の仲立ちで、腹の内を吐露しあうことができてしあわせ です」 二人は兄弟の誓いをかわした。額蔵の方が七か月早く 生まれたので、兄となり、信乃は弟ということになった。 ついでに額蔵は、白玉に彫られた「義」の字にちなんで、 いぬカわそうすけよしし」 - フ 大川荘助義任と名のることにした。そして信乃と名刀村 けんえん 雨とを守るためには、二人は生まれつき性があわず大猿 の間柄と見せる方がよいとい、フことにきまった。 ぎようずい さめ あいだがら むら 助の遺言 忌が明けると、信乃は伯母夫婦の屋敷に引取られて、 げんぶく 十一歳というのに元服して、万事男にもどった。 は↓ - じ 「おまえが二十歳になったら、浜路をめあわして、二代 いんきょ ひだヴうちわ 目の村長、われらは背戸に隠居して左団扇で暮らすが待 かめざさ ちどおしいぞえ」と亀篠は甘い調子でいうのだった。「保 路や、信乃はそなたと従兄妹どうし、今日からうちの子 になったぞえ。大きくなったらそなたの夫。二人とも背 丈を引伸ばして、はやく夫婦にして見たい。 仲よくおし 額蔵をひそかに呼んで、信乃の秘密をさぐるよ、フに一一一一口 いつけたうえ、信乃の世話係にした。 こうしてまずまず平和のうちに数年が流れ去って、信 い・ぶ はまじ 乃は十八で五尺八、九寸もある偉丈夫、浜路は二つ年下 ひな の十六の春を迎え、鄙には稀な美少女になった。村人た ちは、村長夫婦に会うごとに、「早く夫婦にしてやりな さいそく よ」と催促するのがふつうだった。 ー、し - まごおりし、し・ま げゆさえもんのドつのぶ そのころ、豊島郡豊島村の領主豊島勘解由左衛門尉信 ねりまへいざえもんますもり ・一う・ず . け 盛は、その弟練馬平左衛門倍盛とともに、越後・上野を ながおかげはる ゃあうち物つぎやっ かん 征服した長尾景春と気脈を通したが、山内・扇谷の両管 おおたびっちゅっのけもちすけ 領はこれを探知、先手をとって太田備中介持資らを大将 し」し・ま ー、 - し - ま - ねり とし、一千余騎をもって豊島村を急襲させた。豊島・練 馬の一族三百余騎はよく戦ったが、全滅の憂き目を見た。 ひき 大塚村でも何となく人心が落ちつかぬのを口実に、蟇 めざさ 六・亀篠は、これでは今年は婚礼もむすかしい。来年世 おおっか まれ えちご 、 : フド ) っ

6. グラフィック版 南総里見八犬伝

と号した。さらに師の没後、三代豊国・細見実氏蔵結城合戦絵巻 : ・八大伝を題材とする合巻・ は『大の草紙』八編に示されている。 よいほん ( 実は四代 ) を名のる。通俗的な画風 『八大伝』は馬琴読本中でも随一の長すなわち「読本を草双紙に直す時は、 で、豊国と名のってからは病気のため ・杖珠院蔵里見義実木像 : : Ⅲ編であり、また随一の人気作であるか階しいところだと知りつつも省き捨て くだり 満足に筆を執れなかった。 ・延命寺蔵里見家系図・ : ら、非常によく読まれたのであるが る條下も多く、あまり関係のない絵糸 ■歌川国員・ 里見義康の書状 : と、、つので 何といっても二十八年に万一つて書き継 も考えなければならない」し LD . ・八花魁国立劇場蔵 : ・菊井堯氏蔵里見九代軍記 : がれたものだけに、原文を全て読みこある。筋書きをわかりやすくし、絵を 国員は三代豊国系の大阪の絵師で、 里見家紋入馬具・植木鉢・幟 : なすのは相当根気のいることであった。 面白くして、合巻の中心読者たる婦女 ごうかん 一珠斎と号し、風景画「浪花百景」 ( 中 そこで、『八大伝』を題材とする合巻子の嗜好に合わせたわけである。文体 判揃物石和版 ) で名を成した。 ・下立松原神社蔵里見義実奉納刀 : その他が著わされ、読みやすくされた も、読本の和漢混交文体でなく、 会話 ■月岡芳年・ のである。ちょうど『源氏物語』の梗を主としたわかりやすい文体となって おもむ , ・芳流閣鈴木重三氏蔵 : いる。謂わば現代の名作劇画化の趣を、 : ・天理図書館蔵近世物之本江戸作者櫨書が多く書かれた事情と似ている。 なのあにつのやっ 明治浮世絵界の第一人者。本名は吉部類 : 既に、天保七年に歌舞伎で『花魁莟八合巻はもっていたのである。参考まで いちゅうさいく : よし 岡米次郎。一勇斎芳の門人となり、 馬琴の書簡 : に以上三部作の概要を記しておく 物』『八大伝評判閣』等が上演され 一魁斎と号した。大蘇芳年とも称する。吾仏の記 : ているが、読本でも「八大伝』の翻案 大の草紙全六十編。作は笠亭仙果。 ためなドーんす・ しちこくしてん 画は三代歌川豊国、二代国貞、二代国 菊池容蔗の画風を慕「たために、歴史・大東急記念文庫蔵原稿料受領証 : ・『七国士伝』 ( 天保四年刊、為永春、 しさっていきんす、 上の人物を描くことを得意とするよう 松亭金水作 ) や、抄録の『英各八大士』綱、国輝と引継がれる。嘉永元年から どていろぶん になり、同時に、従来の歌川派画風に・滝沢家蔵宗伯肖像渡辺崋山筆 : ・ ( 嘉永五年頃刊、全亭魯文作 ) 等が出明治十五年まで刊行。 ごうかん 明治調を導入するようになった。 版されている。合巻も嘉永元年から『大 仮名読八大伝全三十一編。作は二 ・歌川豊斎ー 殺生石後日怪談 : の草紙』『保名識八大伝』が並んで刊代為永春水、曲亭琴重 ( 馬琴の息子宗伯 ・歌舞伎座新狂言若林清氏蔵 : 三国一粒の山画賛曲亭馬琴筆 : 行され、嘉永六年からは『八大伝後日の嫁お路 ) 、仮名垣魯文と引継がれる。 ばいどうまうさ、 ものカ大り 本名は竹内栄久。別号を梅堂豐斎と馬琴愛用の木琴 : 言』も出版されている。嘉永元年の二画は歌川国芳、芳幾と引継がれ、嘉永 称す。三代豊国に入門、師の死後二代路女日記 : 作は『八大伝』を抄録綴して、はば元年から明治元年まで刊行。 ・八大伝原稿・ 悪実に筋を追ったものであり、『後日 八大伝後日譚全七編。作は一一代為 国貞のもとに学んだ。はじめ四代国政、 後に三代国貞と名のり、香朝楼と号し・早大演劇博物館蔵辻番付 : 譚』は文字通り『八大伝』の後日譚で永春水。画は歌川国芳。嘉永六年から こ。俳優の似顔を得意とし、国政を名 ある。読本の合巻化がどう行われたか安政四年まで刊行。 のった明治十、二十年代に多くの作品 ・撮影■ 大の草紙 仮名読八大伝 を画い 市瀬進 / 木下猛 / 小西晴美 / 坂本進 / ・その他・ 関孝 / 松野等 ・八大伝版本の挿絵ニ代柳川重信画■編集協力ー 京都国立博物館 / 柴田光彦 / 滝沢宏行 彖・斎藤忠夫氏蔵八大伝凧藤井繁次 / 東大国文学研究室 / 吉田幸一 / 早稲 田大学図書館 郎筆・ 目 ・地図作製・ ・国立劇場蔵絵番付 : 蛭間重夫 けいせい花八英芳瀧筆・ ・図版監修・ 舞台装置図大木端筆 : : ロ・・・中村溪男 / 宮次男 ′、にカず 八大伝後日譚 はよ 167

7. グラフィック版 南総里見八犬伝

道節と額蔵 どうせつ 生涯交際せぬ約束で養女にくれてやったと、父上が話し しゆりけん ていたのは、この娘のことだったのかと、手裏剣を打っ て、妺のを「たのだ。そなたの実の父は、去年渺袋 かんれいさだまさ かしんかま′ - さほへ の戦に、比類なき働きをして管領定正の家臣釜戸三宝啜 ・つ・ねん あだうち に訃たれたもうた。 享年六十歳だった。おれは仇討がで きなかったら、伽の手にかかって死ぬ覚吾よ。父上の決 めいどうさく いやまどうせっただとも 名道策をまねて、今後は大山道節忠与と名乗ろう。のう 妹よ。何か言いのこすいまはの願いでもあるか」 この長い打明け話のうちに、十九夜の月が上って、野 火の代りに明るく照らしだした。 は・ドレ 浜路は、ようやく頭をもたげて、いと苦しげに息をつ き、「兄上様でしたか。仇を討っていただき、田いいがけな いご飛抱。しかし会うを別れのいまはの対面、はすかし まく・ら くかなしい限りです。ただ一つの願いは、枕はかわさね ばんさくうし いぬづかしのもワたかぎみ ど、わたしの夫大塚信乃戍孝君が、父番作大人から伝え さもじろう られた名刀村雨丸、左母二郎にすりかえられて、古河で はさぞかし難儀にお会いのこと。わたしの命は階しくご ざいませんが、夫の身が心がかり。どうか兄上様、直ぐ おもむ に古河に赴いて、その宝刀を夫信乃に渡してくだされ。 願うはこの一つのみ、きき入れてくだされ、兄上様」 どうせつ 道節は嘆息し、「夫をおもういまはの願い、聴入れてや くんぶあだうぢ りたいのはやまやまなれど、君父の仇討が先。この名刀 かたきおうぎがやっさだまさ をもって君父の仇扇谷定正に怨みを晴らそうとおもう。 いぬづかしの その後で、そなたの夫大塚信乃とやらにめぐりあえたら、 むらさめまる 村雨丸を返そう。忠孝こそ、男の道じゃ」と答えると、 がっかりしたのか、浜路は胸がふさがって、あっと叫ん で、息絶えた。 なんぎ むらさめまる あだ 心、き はめてば紙め夜り丁ねれう節負 0 待村で氏入浜 なの 額 : い大をまって しをれ中わ々おをちのがかて雨 : 、に背れ路じ道 ; 蔵ん望てい 額り切ばなた発き取に太たつん を宝届後ごれの節茗 じがしにな蔵 り額 ' がり矢してり引刀ちくでと腰刀けでばなは おやあばいおの瘤さ蔵ーら かきのと引呼にをたう るらっ右胸のいが明地い太たえち緒おもきびさゆいか夜がか かくた手に中て丁るにつ刀ちそぎにわもとしずがが風らわ 手ら でばに肩とい ははをうら幾かどめ つのをい チたあの打。再て引とれ重らす、立わ妺てま火かそ 貴様ャつつ瘤返っぴる抜してとぬ。走去けに に定う ンとたをすい荼だとくて わ様の なう組りろがさたまのに の腕チ当も切太たに毘びも 向くち打出うなえ額 : に坑 2 な ャつのり刀ち道 ; の知額 : 手うか ちたとい拒蔵ー埋まへあ よは ンたが破風節燿れ蔵 : がのら額ぞに うす とす んは火びお つ鋭のがぬもゆ腰み蔵 : なみる組 : だ はろ く刃勢。負るにあのつる道 ; 伏ふ道 ; 村再し ラをい、た 先よ天けんつつ守たや節茗せ節雨 : び 敵よ 左な、 ロ卩 ラ手ご、黒道 ; がく のてが丸燃残 いてりが 切での血節額 : もは のて、袋、刀背取 をえつ りしよがの蔵ーえ隈抜 : かし格の互ごの後ごり尋取上て 死お をれ結かうさ着の上な合あ、ま闘長角鐺らか返常戻がい 争に ぶとにっ込左がきわ道 ; つし紐曾でをらそのしるる 。受飛とみ腕つ月せ節茗たてがい 0 ヒし う話て は 、オくば た仇会道 ; け散ほのをてがては 曲と合大 ーっつ く討 : 節とっと綿に掠、照 はそる道与勝と者、い塚 : 投 てなみ

8. グラフィック版 南総里見八犬伝

をおし - ンを′ 1 、第 / イ いぬづかしの 村雨を渡してさっさと消えうせろ。おれは大塚信乃の無 いぬカわそ - フすけよしとう 二の親友、大川荘助義任なり」 どうせつ 道節はからからとあざわらい「大望をとげるまでは、 妹にさえ承知しなかった太刀を貴様ごときに渡すものか」 「いや、取らすにおくものか、さっさと渡せ」 どうせつ とつめよれば、道節は隙を見て、火坑の中に飛込む。 ソと立った煙とともに、姿は消えてしまった。 カ′、お、 - フ 額蔵は、あたりをきよろきよろさがしたが何も見えな かとん い。「さては火遁の術で逃げたか。残念だ。それにして どうせつ も道節の傷口から飛出しておれの手に入ったのは何だろ と燃えのこる火の光によせてよく見ると、自分や信乃の 秘蔵する孝・義の玉と、艶も形も寸避わぬが、「忠」 いぬやまどうせつ いぬかわそうすけ 大山道節と大川荘助信乃と別れてきた荘助 は道節が持ち去ろうとしていた譱丸をう ばい返そうとした女をのたのみもきかなかっ た道節が村雨丸をすんなり返すわけがなく かとん 格闘になったが道節は火遁の術で逃げ去った むらさめ 、ぬやまどうせつ の一字のある玉だった。「あの山道節もわれわれの同 おおっか 志にちがいない」とおどろきながら、額蔵は大家にいそ おおっかひきろく じんだいひがみきゅうろく ぬるて 大塚の蟇六の屋敷には、陣代簸上宮六が、仲人の軍木 五倍二と連れ立って、ひそかに婿入りにやってきた、が、 花嫁の浜路は雲隠れして姿を見せす、お詫びのしるしに むらさめまる 差し出した名刀村雨丸をためしてみたら、水気が立つど きっさき ころか、へなへなで柱に当ったら、切尖がまがるような アよ↓ 6 ′、・ら ひきろく きゅうろく 鈍刀。酔いと怒りにまかせて、宮六と五倍二は、蟇六 かめざさ カ′、 : フ 亀篠夫婦をなぶり殺しにした。ちょうどそのとき額蔵が かたきひがみきゅうろく もどってきた。かれは主人の仇、簸上宮六を打ちとり、 五倍二に重傷を与えたけれど、翌日捕えられて陣代役所 に引き立てられていった。 むこ じんだい

9. グラフィック版 南総里見八犬伝

( ぞう ( ぞう ほうじようびやか 0 法場を脅して三大士額蔵をすくふ額蔵が るてごばいじ ひめーみしやヘい こうしんづか 庚申塚の刑場で簸上社平と軍木五倍ニに処刑 されようとした時ニ人の肩に矢が命中した いかいげんばち 矢を放ったのは犬塚信乃と大飼現八で五倍 ぶん ニと社平を斬ると大田小文吾もつづいてきた 戸田河に四大士ふたたび罨厄を免る三大士 って いくぞう は額蔵を救い戸田川まで逃げたが追手百五 やすべい 六十人に囲まれたそこへ平が舟をこぎよ よばろだまちのしん せ四人を対岸に渡す追手の隊長丁田町進が しやくはち 馬で進むと猫平の子勞三節と尺八が現われた いた ・一うず、けの′、 : しら の・うちあきさだ さて、山内顕定と不和を生じて、突然上野風白弗城に 退いた扇墸夫は、不時に備えるためであ かまどさばへいかずゆき けらいおおたしんろくろうすけとも ろう、ある日、家来巨田薪六郎助友や釜戸三宝平五行等 を連れて狩に出かけた。あまたのに者鹿などの獲物 をになわせて城近くの松並木まで引揚げてきたとき、老 ひざ ろうにん 木の下に編笠を深くかぶってすわった浪人が、膝に太刀 紕Ⅲし、 を推し立てて、「この名刀を知る名将がいない かなⅢしいかな」と唱えるよ、つにひとりごとをいっている。 さだまさ 定正は「何ものか、みすからたずねてみよう。近くへ呼 あみがさ きんじっ べ」と近習を使に立てる。編笠をうしろに投げすてたそ の男は、年は「一十ごろ、色白くひげの剃りあとが青く、 くちびる まゆ 眉はひいで眼は朗かで、鼻は高く、唇は赤い。なかなか の好男子。使に向っていうには、 しもうさのく : ち さいくさむら 「それがしは下総皿千葉の福草村の浪人大出太郎と申す もの、父ははやくなくなり、母は長年前から目が見えず、 親一人子一人ですが、貧乏で薬代にさえことをかき申す。 じゅ、つ・ほ・フ 祖父からの重宝だけれど、この刀を売りたいと二、三あ たってみたけれど、どなたも豆のような眼で、玉石の見 分けのつかぬ猶ばかり。扇殿は世の鹿殿とはちが「 うわさ たかたとい、つ噂をきいて、ここにお帰りを待ち申してい ました」と。 さだまさ おおいてたろう きんじっ 近習に案内されて、定正の前に出た大出太郎が、村雨 丸を抜きはなって打ち振れば、ふしぎふしぎ、切尖から 水気が四方に散乱して、警衛の近臣らの顔に降りそそぐ 潸節、贋定正を斬る あみがさ ほがら せさだまさ おおいてたろう きっさき むらさめ 81

10. グラフィック版 南総里見八犬伝

史実にみる里見氏 : くしんそ・フ 十五世紀から十六世紀の日本は「下剋上」と「親相 剋」に要約される戦国時代であった。 ー - っそ - フ この頃、房総では里見氏が地方小領主から勢力を拡大 ほ - フじトフ まけん おだわら して戦国大名となり、小田原の北条氏と関東の権を争 うほどの実力者にまで成長した。しかし、中世の争乱が とくドわばくふ 製、つし、り おさまると、徳川幕府によって伯耆国 ( 鳥取県 ) に改易 され、のち家系も断絶して、十代百七十年間におよんだ 弓矢の名家もおわりをつげたのである。 さとみ カんし」 - フ 力い・え、、 さとみよしざわ じようじゅいん 里見義実 ( 初代安房里見氏 ) 木像杖珠院蔵 ( 千葉・白浜町 ) 144