れを書かせた。 足利騎櫺尊氏・左馬頭直義以下一族の者、みすか らの武威を誇り朝憲をないがしろにするゆえ、ここ いん せいばっ に征伐するものである。この者どもはたとえ隠遁し ほった、 て法となるといえども、けっして刑罰をゆるめて はならない よくよくその居どころを探して、日な ちゅうばっ らすして誅罰すべきである。このことに戦功ある者 には、格別の恩賞を与えられるであろう。されば勅 命はかくのごとく、このことを書状をもって明らか にする次第である。 うちゅうべんみつもり 右中弁光守 建武二年十一月三日 たけだ 武田一族のもとへ おがさわら 小笠原一族のもとへ 同じ内容で宛名をかえ、十余通書いて差し出したので、 左馬頭直義はこれを持って急ぎ建長寺へおもむき、将軍 に対面して涙をおさえて訴えられた。 こう とが 「当足利家が帝のお咎めを蒙むるにつけては、義貞がお すす 勧めしてただちに新田を討手に下されたような次第で、 とんせい わが一門の者はたとえ遁世し降参した者でも、探し出し て誅せよと決められたということです。帝のお考え向き のが もまた同しようで、とても遁れようもありません。これ は先日、矢矧・手越の合戦で討死した敵兵の肌守りの袋 に入れてあった勅書のたぐい、 どうぞこれを御覧くださ こうなったうえは、とても免れぬ当家のお咎めであ りますから、御出家の件はお考え直しになって、まさに 浮沈のきわにある足利一族をお救いください」 将軍もこの勅書を御覧になって、偽せ書状とは田 5 いも けんむ やはぎ ちょうけん まぬ 寄られす、 日 ( カカ 「なるはど、これではわが一門の浮沈はこの一寺こ、 っているわけだ。ではいたし方ない。尊氏もそなた方と めんばく ともに弓矢とる身の面目を第一にして、義貞と死をとも にーしト 6 、つ」 にしきひたたれ と、即座に袈裟を脱がれて、錦の直垂を召された。こ もとどリ いっそくぎ うして、そのころ鎌倉中の軍兵が一束切りといって髻の もとゆい 短い髪型をしたのは、本結を切った将軍の髪型を紛らせ るためのことであ 0 た。この結果、さき一伊きを案して官 軍へ降参しようとした大名どもも、右に左に逃げ去ろう とした軍勢もにわかに気を取り直して馳せ参したから、 一日もたたぬうちに将軍尊氏の軍勢は三十万騎になった。 十ニ月十ニ日、箱根・竹下の合戦 てんリゅうがわ ・義貞軍に利あらす。十四日天龍川まで退却。 おわり とうリゅう ・やがて尾張国に陣たて直して逗留。 この間、四国中国・山陰北陸道など諸国の朝敵 ( 将軍方 ) はうき 次々に蜂起。京都に危機迫る。 ・京の朝廷よりの要請により義貞帰洛。 おおわたり 建武三年正月七日、大渡・山崎等の合戦 ・官軍 ( 義貞方 ) 敗退。 えいざん ・帝は叡山へ都落ち。 じゅらく ・将軍 ( 尊氏 ) の入洛。 東坂本の仮の皇居に入られた帝のもとには叡山の三千大 おうしゅう きたばたけあきいえ 衆が馳参り、ややあって奥州から北畠顕家勢も坂本に到 着した。 一方、京からは将軍方細川勢が三井寺へ向って陣をかま えた。 正月十四日、三井寺の合戦 しのづかはたわたり ・官軍に栗生・篠塚・畑・亘理の剛勇なる奮戦があって 勝利。 ・三井寺炎上。 しゅ くリゅう み でら ふんせん め
第一一部合戦 0 化粧坂後醍醐帝に味方する新田義貞の大 軍勢は津波のように鎌倉へ押し寄せた 化粧坂は鎌倉の入口・通路として最も重要な 戦略地点のひとつで両軍とも猛将を配置し て一歩もゆすらす激突また激突をくり返した 鎌倉の合戦 にったよしさた さて、新田義貞が数度にわたる合戦に勝をおさめられ たと伝わると、関東八カ国の武士どもは雲霞のように群 とうりっ せきと れ集まって彼に従った。関戸に一日逗留して、軍勢の到 きちょう 着するのを記帳されると、総勢は六十万七千余騎となっ た。ここで軍勢を三つの隊に分け、その各隊にふたりの そうすい 大将をつけて全軍の総帥をさせた。 さしようぐん おおたちのじろうむねうじ えだの ますその一隊には、大館二郎宗氏を左将軍とし、江田 うしようぐん さぶろうゆきよし 三郎行義を右将軍として、その勢十万余騎を、極楽寺の さだみつ ほりぐち 切通しへ向かわせた。他の一隊には、堀ロ三郎貞満を上 おおしまさぬきのかみもりゆき 将軍とし、大嶋讃岐守守之を副将軍として、その勢合せ こぶくろざか て十万余騎を巨福呂坂へ向けられた。もう一隊には、新田 、、りこお ほりぐちゃまな いわまつおお 将を従え、堀ロ・山名・岩松・大井田・ 義貞・義助が諸 はねかわ もものい とりやまぬかだ いちのい 桃井・里見・鳥山・額田・一井・羽川以下の一族の者ど もを前後左右に配して、その勢五十万七千余騎をもって、 けはいざか 仮粧坂から攻め寄せられた。 ぶばいがわらせきと 昨日おとといまでは鎌倉中の人々は、分陪河原・関戸 ぜん の合戦で味方が負けたとは聞いても、依然としてたかを くくり敵勢を侮って、必すしもあわてた様子はなかった しろうさこんのたいふ のだが、日 乍日の夕方になって大手の大将・四郎左近太夫 しりぞ にゆうどう 入道が残兵もわすかに山内へ退いて来られたし、からめ おめまのほう かなざわむさしのかみさだまさ しーこうべ 手の大将で下河辺へ向われた金沢武蔵守貞将は、小山判 しもみち ちばのすけ がん 官と千葉介の軍に打ち負けて下道から鎌倉へひき返して 来られたので、これは予想外の重大事だとようやくあわ て始めた。 よしすけ さとみ あなど だ
ごしよも - フ の財宝なりとも、御所望どおりにさしあげよう」 侍従の局は、思いも寄らぬ話に当惑し、独り身でもな い人にどうしてそんな申し出かてきようかと思いなから も、あえてできないなどというと、殺されたり、思いか 鷲町、、 1 き けぬ辛い目にも合うかと恐ろしかったので、 「と、もかく申してみましよ、つ」 といって、ひとま亠 9 は冖師っこ。 オ二日三日はど、こ、つし ようかああいおうか思案していると、つねならぬことに しゅ一 ) - フ 武蔵守のもとからさまざまの酒肴などを送ってよこし、 畄日 「結果のお知らせが遅い」 といってせきたてて来た。侍従はことわろうにもいし ~ ~ 次わけがなくなり、ついにその女房のところ ~ 行 0 て、こ っそりと耳に入れた 「こんなことを申し出ますと私の心柄まで推し量られま しよ、つから、ほんと、つは聞き捨てておくべきでしよ、つか 実はかくかくのことがございますのを、どのよ、つにおと りはからいしたものでしよう。はんの申し訳程度にでも 泣 かの人の心を慰められますなら、お子さまたちのために はさきが頼もしく、また寄るべない私までも身を寄せる ところかできましよう。ひどくたひ重なるようなら、人 目につく恐れもございましようが、わすか一夜のことな や台 ら、こ、つい、つことかあろ、つと誰か田いっきましよ、つか」 あれこれくどくどと申しあげたが、塩冶判官の奥方は、 「田 5 いも寄らぬことです」 と限めしげにおっしやるばかり、それ以上はいい寄る むつ べき言葉もなかった。それでも、恋にこがれた陸奥の野 人の心をあわれと思われることもあろうかと、毎日その こころカら 135
将軍筑紫より上洛 つくし たたらはま 多々良浜の合戦ののち、筑紫九国の軍勢のうちではひ とりとして将軍につき従わない者はなかった。しかし、 ふさ 中国地方では敵がいたるところに満ちて道を寒ぎ、東国 勢もみな朝廷に従って、将軍に意を通する者は少なかっ たから、うかつに京都へ攻め上ることはどんなものかと この春の敗北に懲りて軍勢は少しも進撃の気勢があがら なかった。 つくし はんなし せ、、ひっ 尊氏が天下の静謐を願って栃木阿寺に収めた願書 とく そくゆうりつし ところがそこへ、赤松入道の三男である則祐律師と得 ひらいなばのかみひでみつはりま 平因幡守秀光が播磨から駆けつけて、将軍にむかって歯 に衣着せすに言上した。 みまさか びつらゆうびせんはリま 「京都から攻め下った敵軍は備中・備前・播磨・美作に 充ち満ちておりますが、これらはみなそれぞれに目前の ころあい ひょうろう 城を攻めあぐね、気持は倦み兵粮もっきた頃合ですから、 そこへ将軍が大軍勢をもって御上洛なさることさえ耳に 入りましたら、ひとたまりもなく退くものと思われます。 しらはた もしも、このたびの九州御出発が遅れて、白旗の城か敵 に攻め落されましたなら、それ以外の城はもう一日も防 よ、つ力し ぎきれますまい。四カ国の要害がみな敵のものとなって しまってからでは、たとえ何百万騎の軍勢をもってして も御上洛は難しかろうと存します。これこそまさに乾坤 こう、つ いってき 一擲の勝負、楚の項羽が秦を攻めるにあたって使った舟 かま 筏を沈め、釜や甑を焼いて、ひとりも生きては帰るまい と覚悟した戦と同しではありませんか。天下を握るか否 か、ひとえにこのたびの一挙にかかっていると思われま すものを」 将軍もこの意見を聞かれて、 「なるほどこの意見はもっともだと思う。それでは、夜 に日を継いでも上洛を急ごう。ただし、九州をまったく 放っておくのもよくはなかろう」 しように につきじろしろ、つよしなが おおとも と、仁木次郎四郎義長を大将に、大友・小弐の両人を だざいふ 留め置いて、四月二十六日に太宰府を出立された。同月 二十八日順風に乗って船出をされ、五月一日には安芸の いつくしま さんろ、つ 厳島へ船を寄せて、ここで三日間参籠なさった。すると さんほういんそうじようけんしゅん けちがん その三日目の結願の日に、醍醐の三宝院の僧正賢俊が京 いかだ きぬ こしき けんこん ふな 104
はうしようたかとき 北条高時の自害によって九代続いた北条氏 の鎌倉幕府は終りをつげた後醍醐帝は都に お帰りになり 念願の天皇親政を強力に推進 されるが ( 建武の中興 ) 恩賞の配分の不手際 もからんで前途はなお予断を許さなかった の世にあ 0 て悲しむ者が、遠〔国は〔ざ知らす、鎌倉中朝廷による政ムロ を調べると、その数六千余人もあった。 げんこう 後醍醐帝が皇位にお帰りになったのち、正慶という年 ああ、今日という日よ、、 ーし力なる日なのか。元弘三年五 こ、つ ) 」ん かいげん ′く日」、レし 号は廃帝光厳天皇が改元されたものだというのでこれを 月二十一日という日、平家一 尸条九代の繁栄は一時 す げんこう 棄て、もとの年号・元弘にもどされることになった。そ に滅亡し、源氏は長年の胸の思いを一時に晴らすことが できたのであった。 の元弘三年の夏ごろ、天下の諸事が一時に評議決定され、 ろくはら ちくさただあきあしかがたかうじあかまっえんしん 賞罰や法令などことごとく朝廷一統の政事に整えられた 京都に入った千種忠顕・足利高氏・赤松円心から、六波羅 ふなのうえ 】滅亡の報が船上山の後醍醐帝のもとにとどいた。帝みすから かんこう ので、万民はあたかも霜を払う春の日に照らされるよう いかずら の決断によって、五月二十三日還幸の列が出立した。 にその統治に従い、都人はさながら刃をふんで雷を頭上 帝の列が兵庫まで来たとき、赤松円心父子が馳せ参り、ま た関東から鎌倉滅亡の報をもった新田の急使も到着した。楠 に戴くように法を恐れた。 まさ . しげ - びしやもんどう おおとうのみや 【正成勢もお迎えに参り、帝のお喜びはひとしお、一方九州地 ながと ときなお 同し年の六月三日、大塔宮が志貴山の毘沙門堂におら 方も鎮まり、長門の北条時直も降参して、天下は後醍醐帝の れることか知れわたり、近畿一円の軍勢はいうに及ばす、 】下に静まりをみせつつあった。 京中や遠国の兵まで、われさきにと馳せ参したから、や がてその軍勢は天下の大半を占めるかと思われるはど大 勢になった。 同月十三日には宮の御入洛と決められていたが、何と はなしにそれが予定より遅れ、そのあいだに宮は諸国の と たてつづ 軍勢を召され、楯を綴り鏃を砥がせて合戦の御用意をさ れていると噂が立ったので、敵とされるのが誰の身のう えとはわからぬままに、京中の武士どもの心中ははなは だ穏やかではなかった。 うだいべんのさいしようきょただ そこで後醍醐帝は右大弁宰相清忠を勅使として遣わさ れ、 「天下はすでに静まり いまや武威を収めて善政によっ て皇徳をひろめるときであるのに、なおも武器を整え兵 を集められるのは、いったい何の必要があってか。また、 ぞくたい そうらん 天下騒乱のときには敵難をまぬがれるために一時俗体に 4 0 0 は くすのき 「朝廷による政治」天下は帝の親政に一統されることが万民に示された しぎさん まっリ′」と しようきよう
イ、 33 、、エ材 ~ 、第ー、エ」」、、イま」しノ、イ ~ ノっ この御書面が、もし帝のお耳に達していたなら、お許 でんそう し ? 第月八日 しの御命令もあっただろうが、伝奏の者が諸方の憤りを る 3 うーえ れ ら 恐れて最後まで申しあげなかったので、宮の衷心からの 」し 走廴吶且ト内駿不可キ ) . 感訴えも帝のお心には届かなか 0 た。そのうえ、この二、 物 象 三年来宮につき従って、忠節をつくし恩賞を待っていた 侍法師三十余人が、ひそかに殺害されるに及んではもは 、 ( 町やど、つしよ、つ、もなかった。 あしかがただよし き毅 ついに五月三日、宮を足利直義殿の手に渡されたので、 の にかいどう 帝数百騎の軍勢が道中を警固して鎌倉へお送りし、二階堂 っちろう も の谷に土牢を作ってそのなかへ閉しこめた。宮は南の御 じようろう こ方という上﨟ひとりのほかにはっき添う者もなく、日月 の光も見えない暗い牢のなかで、横なぐりに吹きこむ雨 字 したた た に御袖を濡らし、岩間からの滴りに御枕も乾かぬままに、 し 一年の半分以上も過された御心の内を思いやるこそ悲し カオ 帝は一時のお怒りによって宮を鎌倉へ下されたものの、 これほどまでの処置をせよとはお考えではなかったのに、 直義がつね日ごろの遺恨によってかってに牢にとしこめ た し たことはあきれはてた振舞いであった。このことの背後 し きさんみどの っ には、お后・三位殿の助言があったわけだが、思えば孝 行な子が父に誠実をつくしても、継母がその子を讒って、 あげく国も衰え家も失なうということは昔からその先例 か多いのである。 しんけんこう と 昔、かの国に晋の献公という人があって、その后・斉 きよう らようじ 」宸 姜とのあいだに、申生・重耳・夷吾という一二人の男子が の 帝 あった。子どもたちが一人前になったころ、母の斉姜は ご醐 後病死し、始めはひどく悲しんだ献公も、日とともにその しんせい
お当 心中ひそかにそう決意されたのであったが、そのこと に人々はまったく気つかなかった。相模入道高時は、こ くどうさえもんのじよう んな成行きに思いも及ばす、工藤左衛門尉を使者として、 がてん 「御上洛を延ばされるとは合点がゆかぬ」 むほん と一日に二度も催促された。足利殿はすでに謀叛の決 心を心深く堅めておられたから、かえって異議など申し 述べす、 「日ならすして上洛いたします」 と返答して、ただちに夜を日についで出発の準備を進 められた。 ところがその様子から、御一族や家来衆はもとより、 おさな きんだち 女性や幼い君達までひとり残らす上洛されるようだと噂 ながさきにゆうどうえんき きゅうきょ が伝わったので、長崎入道円喜はこれを怪しんで、急遽、 相模入道のもとに駆けつけた。 「これはまことのことでございましよ、つか、足利殿は北 かた の方や君達まで残らすお連れになって、御上洛なさると しいます。どうも様子が屋しいように思われます。いま ′」じせい のような御時世には、御一門のもっとも親しい方にさえ 御用心くださいますように。まして足利殿は、源氏一門 の貴族として、天下の政権を失われてから年久しくなり ますゆえ、あるいはそれをとり戻そうと思い立たれるこ ともありましよう。異国においてもわが国においても、 しよ、」、つ はおう 世のなかが乱れたときには、覇王は諸侯を集めて犠を殺 すす ぎやくしん ちか し、その血を啜りあって逆心のないことを盟ったもので きしようもん す。いまの世では起請文がこれにあたり、あるいは子供 を人質に出して、野心の疑いを晴すのがしきたりになっ しみずのかじゃしようぐんよりともどの ています。木曾殿はその御子息、清水冠者を将軍頼朝殿 のもとへさし出されましたが、このような例を思うにつ けても、何としても足利殿の御子息と北の方とを鎌倉に お止めになって、一枚の起請文をお書かせになるべきだ と存します」 これを聞いて相模入道もなるほどもっともと思われた のだろう、早速使者を立てて、 「東国はいまだ平和で、何の御心配もないように存しま す。幼い御子息は、すべて鎌倉に残して置かれますよう すいぎよ まじわ に。また、北条・足利両家は一身同体で、水魚の交りを あかはしそうしゅう しんせき 結んでおり、さらに赤橋相州の御縁によって親戚として のつながりも深まりました。かれこれ考えれば、何も不 審があるわけではありませんが、人々の疑念を晴すため きようしゆく もあり、恐縮ながら一枚の起請文をお残しくだされば、 公私にわたってよかろうと存します」 足利殿は胸中不快がますますつのったけれども、怒り しん 、けにえ
太平記の講釈師たち ものカたりそう は、この陣僧が記録したり、編集したものである の上でも、やがて出現した物語僧の中には、太平 太平記読み ゆらい そうりよ ちかながきようきょんめい と言う。由来時宗の僧侶達は多芸である。太平記 記を材料とする者があった。親長卿記の文明七年 ーーー陣僧から物語僧へ がまだ今のように形を整えなかった以前から、彼 ( 一四七五 ) 四月二十四日に見える善法寺の亨清法 えんとく じんそう たいへいき らは自分や同僚の書いた記録を人前で読み語るこ 師、延徳三年 ( 一四九一 ) 五月十六日に見える観音 太平記の成立には、当時の陣僧が関与したとの しやけんにちろく なんばく じゅうぐん ぶんめい とが行われていたかも知れない。太平記以前から、 寺の僧もそうなれば、蔗軒日録の文明十八年 ( 一四 説がある。当時の陣僧とは、南北朝戦乱時の従軍 じしゅう そう 太平記読みが存在していたらしいのである。記録 八六 ) 三月十二日に見える栄老居士なる老人もそ 僧で、時宗に属する者が多い。太平記のある部分 うである。太平記の作者と註記があるので有名な、 とういんきんさだ おう 名匠の聞え有った小島法師円寂 ( 洞院公定日次記応 あん 安七年ー一三七四ー五月三日の匏 ) も、物語僧の一人 であったろうと考えられている ( 冨倉徳次郎「語りも の文芸」ー岩波講座日本文学史中世Ⅱ ) 。この古今稀れ なる日本動乱史・英雄叙事詩・合戦史は、目で売 三 1 ロ まれたのみでなく、その誕生の時からロで読まれ 語られて来たものである。そして「弁説玉ヲ吐キ、 はりわた 言詞花ヲ散ラス、聴衆感歎シテ腸ヲ断ツ」と形容さ れる物語僧の読みロは、既に今日我々教師が教壇 もち で講するような無味乾燥なものでなかったこと勿 ぜっ 論である。そのロ演を再現出来ないのが、この種舌 い。かえって、同し さ耕文芸の宿命とせねばなるま く太平記読みにかかわるが、むつかしい方の文献 彡一 けんぐ は、一種の注釈書の形で、太平記鈔・太平記賢愚 鈔 ( 天文十三年ー一五四四ー成、江州住侶乾三作 ) ・太 太平記音義などとして残り、古活字版の印刷法が流 期布すると、いち早く採用されている。太平記の人 戸 江気察すべきである。この音義や太平記音訓、太平 しようてんぶん 中村幸彦 153
て落ち、およそ六時間ほどのあいだに十六度も戦ったと ころ、その手勢も次第次第に討たれて、残るはわすかに 七十三騎になってしまった。この人数でも敵の囲みを破 って遁れようとすれば遁れられたのであろうか、樽 , ~ , を出発したときから、この世のことはもはやこれまでと 思う気持があったので、一歩も退かす戦ったすえ、つい みなとがわ に精根もっきはてて、湊川の北にあった一群の民家のな かに走りこんだ。 そこで腹を切るために鎧を脱いでわが身を見ると、刀 きず の斬り疵を十一カ所も受けており、このはか七十二人の ら者どももみな三カ所五カ所と疵を受けていない者はなか 日日ロ った。楠の一族十三人、その家来五十余人は、六門門 の客殿に二列に居並んで、声をそろえて念仏を十遍ばか り唱えてから一度に腹を切った。 正成は上座にあって弟の正季に向かい、 「聞けば最後に臨んでの一念によって、来世の生の善悪 が決まるということだ。この世九界のうちにあってお前 の望みは何に生れ変ることか」 と尋ねると、正季はからからと笑って、 「七度生れかわってもやはり同し人間界に生れて、朝敵 を滅ばしたいと思います」 と答えた。正成もまことに嬉しそ、つに、 - も・フー・う 「罪業の深い妄執ではあるが、わたしもまた同し思いだ。 それでは、さあ、同じように生れかわって、この本望を とげることにしよ、つ」 と約束して、兄弟刺し違えて同しところに倒れ伏した。 はしもとはらろうまさかず うさみかわらのかみまさやすじんぐうじのたろべえまさ 橋本八郎正員・字佐美河内守正安・神宮寺太郎兵衛正 くすのきまさしげ カ材 ) ら ざいごう のが きゅう力い 114
一地ョ一 ひのとしもと 旅をする武士謀反の罪で捕らえれた日野俊基は罪人としてはるはる京都から鎌倉へ送られる太平記絵巻 りようとうげきしゅ 幸に供して、嵐山の花の盛りに竜頭鷁首の舟にのり、詩 かかんげんえん 歌管絃の宴に加わったことも、 いまは二度と見ることの ない夜の夢となってしまったと思いにふけられた。 ま′、ず・はら はずえ しまだ おかべ 島田、藤枝と進み、岡部の岡の真葛が原の葉末枯れた なかをよぎり、物悲しいタ暮に宇津の山を越え行くと、 ったかえで 蔦や楓が茂りに茂って道もないありさまであった。その ありわらのなりひら 昔、歌人として知られる在原業平が住家を求めて東国へ くだったとき、 するが ( 駿河なるうつの山べのうつつにも ) 夢にも人に逢はぬなりけり と詠んだのも、さてはこのさびしさであったのかと思 きよみがた いあたるのだった。やがて清見潟を過ぎて行かれると、 こ、、ここ、、こ一昃阜」 都に帰る夢をさえつれなくさます波音に、 さき 流されて、向いはどこかと見ればあの三保が崎、そこか あお たかね おきっ かんばら ら奥津、蒲原と通り過ぎ、富士の高峰をふり仰ぐと、雪 のなかからたちのばる煙がかぎりもなくのばって行く そのさまにわが思いのかぎりなさを比べては、晴れあ うきしま しおひ かすみご がる霞越しに松並を見て浮嶋が原を過ぎて行くと、潮干 あさうみ の浅海に舟が浮かび、田子の浦の田に働く農夫が苦しい 浮世を過ごすように、自分もまた浮世を車のようにめぐ くるまがえ っているのだと思えば、そこはところの名も車返し。竹 おおいそこいそ はこねあしがらやま なんじゅう の下道に難渋の旅をし、箱根足柄山の峠から、大磯小磯 こゆるぎ いそみち を見おろして、袖にも波のしぶく小余綾の磯道。急ぐ旅 ではないけれど、日数も重なって、七月二十六日の夕暮 どきに、鎌倉に着かれたのであった。 なんじようさえもんたかなお その日のうちに、南条左衛門高直が俊基卿の身をお請 すわさえもんあず け取りし、そこからまた諏訪左衛門に預けられることに こう ふじえだ 23