主要人物事典 ・楠正成碑呼硼な領の地保。後につくが、の中興で退位し出家す ・足利氏下蠣風の住人。源氏の名・た良親王後醐天皇の第一一 かさぎ じみよういんとう 家。北条氏の命をうけ京都守護にむか子。覚寺統と持明院統が皇位をまわ醍醐帝が笠置で夢の示現を受け、配下る。尊氏は反乱を正当化するために、 光厳帝の一亠を得、後醍醐帝方を攻撃、 りもちしていたために皇太子となれすに加えた。山岳ゲリラ戦の名人で、 うが寝返って後醍醐帝につき、逆に京、 ・一・フみト - う 六波羅探を攻め滅す。の叫興で出家して天台座主となった。倒幕の志条軍、足利軍をなやませた。赤城、光厳帝の弟光明天皇を立てて、北朝の ちはやじよう は功臣の随一とされ、かえって反目をカ弓く { 虫、武芸兵法を学び、幕府に死罪千劔破城などの攻防戦における奇略が天子とした。戦にまきこまれた悲運の ? よとかわ なかせだい かう。中前代の乱を平定し、鎌倉に入を宣告されるが吉野にのがれ、父帝の有名。兵庫の湊川で戦死。後世、南朝天皇。 ・一ド ) ↓・たかのり ・児嶋高徳太平記の生んだ有名人。 配流後も抗戦を続け、反幕勢力を集合無二の忠臣として喧伝される。 り征夷捌軍を称して反乱を起すが敗 ふなのフん 後醍醐帝が隠岐に流される時、奪回を れて九州に落ちる。その後再起して京する。父帝が船上山に帰着してもこれ てん ; っせんをよしつ十るたふれ こう′一ん 企て果せす、桜樹に「天莫空勾践。時 に入り、光厳天皇を擁し、室町幕府を ーをい′、 : ーもめらず 非無范螽」と記し、帝をはげました。 その後、終始南朝にくみし、帝の没後、 - ったよしはる 新田義治を大将に備前での挙兵をはか るが失敗、信濃にのがれる。系図等に 不明の点の多い謎の人物。 ごうだ ・後醍醐天皇後字多天皇の第二子。 ひのすけとも 天皇親政の世にもどすため、日野資朝、 ・行楠正皮の嫡子で、桜弗の宿日野おらと鎌倉幕府を倒す計画をた じゅそ ちょうぶく と合体せす、独自に倒幕の軍を進め、 での父子の別れが有名。正成なきあとてるが、露見。さらに関東調伏の呪詛 幕府瓦解後、征夷大将軍に任しられるの南朝側の近畿方面軍を指揮し、活躍をしたことが発覚するにおよび、幕府 ・ろのもろなお ・足利直義尊氏の弟。尊氏とともに が、私兵をたくわえ横暴な行動が多かしたが、四条畷の戦で、高師直の軍との追手を受け、、 しったん笠置に逃れて なかせんだい あーしかカたカ・フし くすの、ーさしげ みうごう 熱を討ち、中前代の乱後、尊氏に反った。足利尊氏討伐を計画し、父帝の接し、戦死する。正成・正行父子は、楠正成等を糾合し防戦するが敗れて、 なかせんだい - ろのもろなお デきりん おおとうの鼇・ 乱をそそのかす。後に、高師直等の専逆鱗にふれ鎌倉に幽閉され、中前代の鎌倉武士と異なった地侍出身であり 隠岐に流される。しかし大塔宮を中心 横を憤り、これを倒さんとはかるが失乱に足利直義の刺客に殺された。 戦乱に乗して、歴史の表面に出てきたとする反幕勢力の活動に乗して隠岐を ふなのフえ なわながとし 敗、尊氏と不和になる。一戦に破れ鎌倉・菊池光肥後菊池郡を本拠とする。新しいタイプの武士。 脱出、船上山に名和長年の勢力を背景 あー」かカ いくさ上 に幽閉されている間に死亡。尊氏に毒九州における南朝の司令官。 に立てこもり反幕勢力を結集し、足利 殺されたともいう。策謀にたけた知識手で、一時は九州の大部分を攻略する。 / 尊氏が京を、新田義貞が鎌倉を落すと ”うそ 人肌の人で、兄尊氏とは対照的である。 思いきった作戦をとる豪胆な将軍であ 光厳天皇を退け重祚する。それより宿 ・恥冶判高貞佐々木の一族。後醴った。 願の天皇親政を行うが失敗、足利尊氏 あきい・え きたエた洋ちかふさおうーゅフ 醐帝に従い信任も厚かったが、竹下の・北親房奥州の国司北畠顕家の子 戦いで寧氏側に寝返った。高師直が入で、後お天皇の後見として、後醴醐 浴後の彼の妻をのぞき見して横恋慕の帝なきあとの、南朝の枢要を司る。後 ほうらく じゅんごう ざんげん に准后 ( 皇后等に准しる待遇 ) となる。 うえ、讒言によって高貞を放逐するが ぞうけい 奥方は逃げる途中で自害し、高貞自身文武両道にすぐれ、伊勢神道にも造詣 こうごん か深かった。 ・光厳天皇大覚寺統の後醍醐帝の皇 もその知らせを聞いて割腹自殺する。 南朝の正統を説いた著書『神皇正統位継承者である撥の帝。後醍醐 この悲劇は有名で、歌舞伎の仮名手本 、・・フりつ ちゅうしんぐら 帝配流の時、北条部時に擁立され帝位 忠臣蔵にもとられている。 一三ロ』は名高し あしかがただよし かなではん 二を : だ、 こうごん - ったよしさた 164
後醍醐帝の花押 天地を照らしたので、行く道もはっきり見えてまもなく やまとのくにあのう 夜明け方に大和国賀名生というところへたどり着かれた。 ここは、人里も遠く家々の煙もかすかにしか見えす、 山深く鳥の声さえ稀なところであった。柴をかこって家 やまいも とし、山芋を掘って生き長らえるような土地だから、皇 居にできそうな場所もなく、御食事を調える材料も求め にくかった。これではどうしようもないので、吉野の僧 徒どもを味方につけて帝を寺へ御案内しようと思い、景 ちょうろうよしみずのほうい、 繁はただちに吉野へ向い、吉野の寺の長老吉水法印にこ むね ざおうどう の旨を申し入れたところ、全山の僧徒を蔵王堂に誘い集 めて協議が行なわれた。 てんむてんのうおおとものみこ 「昔、天武天皇が大友皇子に襲われてここに行幸された が、まもなく天下を平らげて治められた。その先例に従 って帝がいま行幸なさるというのなら、僧徒がこれにど うして異議をさしはさむべきであろうか。とりわけ、昨夜 のあのふしぎな光が行幸の道を照らしたということだ。 、」よッり・ ざおうごんげん かってのだい々ち これはまさに当山鎮護の神、蔵王権現と子守・勝手大明 すいこう ばんじ、せいしゅ じんぎ 神が三種の神器を護り、万乗の聖主を御加護なさる瑞光 であったと思われる。このうえはいささかも猶予してい る法はない かつらゆう と一決して若い僧ども三百余人がみな甲胄を身に帯し てお迎えに参上した。 くすのきたてわきまさつら わだじろう まきのじようかんみのわ このはか、楠帯刀正行・和田次郎・真木定観・三輪の きのくに おんじ にえかわ ゅあさ 西阿、紀伊国では恩地、牲河・貴志・湯浅などが三百騎 五百騎とひきも切らすつぎつぎに馳せ参したので、帝は うんか 雲霞のごとき大軍勢を手輿の前後に配されて、まもなく しゅんらい 吉野へ行幸された。春雷がひとたび鳴り響くと、穴ごも おそ りの虫はすべてよみがえるというか、まさにそれにも似 こうしん た心地がして、帝の御運もたちまちに開けて早くも功臣 が現われたと、人々はたがいに喜びあったのであった。 義貞の北国落ちと北陸の合戦 十月といえば早冬の到来をみる北国へ落ち行く一行は、越 ゼんきのめ せっちゅっとうししゃあまた ~ 前木目峠で、雪中凍死者を数多出しつつ輒に着き、金崎城 へ入った。 一時は平安をえて、金崎の海上に、船遊びする時もあった . が、やがて将軍の大勢に城の四方を囲まれてしまうのである。 うりうほうがん・ようだいそまやま 十一月八日、瓜生判官兄弟杣山城に義兵をあげる。 そまやま よせてこうのもろやす 十一月二十三日、杣山城への寄手高師泰軍大敗。 あしかがたかつねこも ぜんこうじ 十一月二十九日、瓜生勢、足利高経の籠る新善光寺城を攻 め落す。 えんげん そまやま 延元二年正月十二日、囲まれている金崎城へ、杣山より援 う 軍を送る。将軍方師泰勢に迎え撃たれ、瓜生兄弟討死。 二月五日、金崎城より義貞・義助ら脱出。杣山へ : 三月六日、金崎落城。 よしあき たかながしんのう 一宮 ( 尊良親王 ) をはじめ義顕ら自害す。 とう尸、、つ・ 春宮は捕えられ、京へ送られる。 いったんは敗れ去った義貞も再び兵を集めて三千余騎にな たかつね 【るという報が京に伝わると、将軍尊氏は高経・家兼兄弟を大 【将に六千余騎を越前の国府へ攻め下らせた。 たいじ 両軍の対峙が続く。 延元三年一一月中旬、義貞勢、越前の国府城を攻め落す。 くろまる あすは 五月二日、黒丸城・足羽城の合戦。 七月二十九日、京へ攻め上れとの勅書により、義助二万余 勢により越前の国府を出立。 義貞は三千余騎で残留。 しかし、この北国勢と八幡に籠る官軍との協力はうまく時 あわす、引返す。 閏七月二日、足羽城・黒丸城を義貞軍攻撃。 藤嶋城 ( 足羽の一城 ) の合戦に大将義貞自ら出陣して流 とうみようじたて れ矢にあたり、燈明寺畷にて自害して果つ。やがて、 その首は京へ送られたのである。 はや いえかね かねがさき 0 えち 121
0 騎馬戦の図戦うたびに義貞軍に破 れ京を追われた尊氏軍はついに兵庫 の港から船で筑紫 ( 九州 ) へ落ちてゆ く一方の義貞は百戦の功に大いに武 がいせん 名を高め京へ凱旋する太平記絵巻 よしさた っくし カけカわ かきだて 楯の懸金をかけて城の垣楯のように一、二町にわたって 立て並べ、そのすきまから矢をさんざんに射かけさせる。 ゅうもうかかん そして敵が退くと勇猛果敢な攻撃勢を五百余騎選りすぐ ばうぎよ って一せいにかからせたので、防禦にまわった上杉・畠 山の勢五万余騎は、楠勢五百余騎にはげしく攻め立てら れて五条河原へ退い 敵はこれだけかと思っていると、今度は奥州の国司北 ばたけあきいえ あわたぐち くるま 畠顕家卿が二万余騎をひきいて粟田口から押し寄せ、車 多々良浜の港筑紫へ渡った尊氏はこの港から上陸した ( 福岡・箱崎 ) きた 大路に火を放った。将軍はこれを見て、 「これはさだめし北畠殿にちがいない。敵のなかでもよ 4 ~ カ・フド ) い相手だ。これは尊氏が身をもって向い合ねばなるまい」 と、みすから五十万騎を率いて四条・五条の河原へ馳 せ向い、追いっ追われつ入れ替り立ち替りして二時間以 上も戦われた。尊氏殿の軍勢は大勢ではあるが、ほんと うに戦う武士は数少なく、まもなく大将自身が戦い疲れ、 あ・きい・え、、一う 顕家卿の方は小勢のこととて入れ替るべき新手もなく、 たちまちに諸士ことごとく疲れてしまった。 に攻めあぐみ、はやる怒りを抑えて馬を休 両軍たがい にったさひょうえのかみよしさた わきゃうえルのすけよし めていたところへ、新田左兵衛督義貞・脇屋右衛門佐義 ほりぐちみののかみさだみつおおたちさまのすけうじら 助・堀ロ美濃守貞満・大館左馬助氏明が三万余騎の軍勢 ほっしようじ そうりんじ を三つに分け、双林寺・将軍塚・法勝寺のまえから丸に うんか 一文字の旗を五十余本押し立てて、二条河原に雲霞のご まいちもんじ とく群れた敵中を横合いから真一文字に駆け抜けて、敵 しやだん の後方を遮断しようと都のなかへ攻めこまれた。敵はこ れを見て、 「それ、例の丸に一文字の旗だぞ」 かもがわ とい、つま、もなノ \ 、 鴨河・白河・京の町なかに雑草のご とく群れていた大勢が、馬を転ばせ、弓矢をかなぐり捨 やま てて四方八方へ逃げ散ったが、さながら秋の木の葉を山 おろし 颪が吹き散らすようなていたらくであった。 よろい 義貞殿は鎧を脱ぎ替え馬を乗り替えて、ただ一騎で敵 中へ駆け入って、尊氏殿を探し出して討ち取ろうとねら われたが、将軍は武運が強く、ついに見つからなかった ので、やむなく配下の勢を諸方へ分けて逃げる敵を追撃 させられた。しかし、そのなかで里見・鳥山の軍勢はわ すけ おおじ あらて 100
「落下の雪に踏迷ふ交野の春の桜狩り紅葉の錦を衣て帰る嵐の山の秋の暮・・・・」俊基関東下向の段はこの有名な文章で彩られる もみし カ・たレ ) すす 擁して丐前ます。 こころ すべか わがこっ 知んぬ汝遠く来たる須らく意有るべし、よし吾骨を しようこ、つ へんおさ 瘴江の辺に収めよ ( 朝に一通の諫めを天子に上奏すれば、タベには八千里のか ちょうよ - フ あやま せいじよう なた潮陽に流される。聖上のために過ちを除こうとてしたこ よせい とだから、衰え朽ちた身でどうして余生を惜しもうか。雲は らんかん 秦嶺にたなびいて故郷の家は見えす、雪は藍関の道をふさい 遠くから来てくれたそなたの好意はよ でわが馬は進まない どっけ ばんち くわかった。このうえはどうか毒気のたちこめる蕃地で私の 骨をひろって貰いたい。 かんしよう 韓湘はこの詩を袖に入れて、泣く泣く東と西に別れて 一丁っこ。 それにしても、「痴れ者のまえでは夢を説いてはいけ ない」というのは、まことに真実をいいあてた言葉であ おろもの る。愚か者はとはうもないこしつけの解釈をしないとも かぎらないからである。それと同しことで、この講義を しようれい 聞いていた人々が、昌黎の詩文を不吉だとしてきらった のは愚かなことであった。 ときよりかず かたん この討幕計画に荷担していた土岐頼員は、ある夜の寝物語 ぶぎよう ろくはら いったん にことの一端を妻に語ってしまった。妻は父六波羅の奉行に たじみくになが これを知らせ、六波羅勢は謀って土岐頼貞・多治見国長を攻 めとった。 としもと しゃ この時、資朝・俊基も召取られ鎌倉へ送られた。俊基は赦 くまわか めん ・免されたが、資朝卿は佐渡へ流され、十三歳になる子息阿新 まる 丸は京より父を尋ねてこの島まで渡って行ったのであった。 あだ やまぶし くまわか 結局父資朝は斬られてしまうが、阿新は父の仇を討ち、山伏】 の助けで京へ帰った。 らよう てんだいざすそんうんほっしんのうおおとうのみやもりながしんのう 一方、天台座主尊雲法親王 ( 大塔宮護良親王 ) による関東調 ことも ろくはら えんかんもんかんちゅうえん 伏も事漏れて、圓観・文観・忠圓の三僧が六波羅に召取られ やがて三人の僧の白状によって事はあらわれた。 すけとも じようそう 20
せた 徒かなお野心を抱いているところであり、まもなく勢多 あじろ を寒いでしまうことだろう。あたかも籠のなかの鳥、網代 ろくはら のが すき の魚のように、遁れ出る隙もなかったから、六波羅の軍 勢は表面勇み立っ様子でも、内心は驚きあわてていた。 うんなんばんり えんせい かって唐朝が雲南へ万里の遠征をくわだてたとき「各 そうてい 戸に三人の壮丁あれば、そのひとりを抽きとって兵に加 ちはや えた」といわれている。まして千劔破はどの小城ひとっ ろくよら を攻め落すために、六波羅は諸国の軍勢の底をはたいて さし向けられたのだったが、その城が未だ落ちないうち に禍がはや身内から起って、正義の御旗がたちまちに京 都の西郊に近づい のが これを防ぎ止めようとするには軍勢が少なく、 逃れて 身を救おうとすると道はすべて塞がれていた。ああ、ま えもってこうなることがわかっていたら、京中の軍勢を これはど外へさし向けなかったものをと、両六波羅をは ふさ ふさ か ) 」 たカ・うししレ ) しら じめ一同後悔したがあとの祭であった。 かねがね六波羅において評議されていたことは、 こお、つ 「今度は諸方の敵が呼応して、大勢で攻め寄せて来るか へいたんち ら、平坦地での合戦ばかりではとても叶うまい。城塞を築 いてときどき馬の足も休め、武士の意気も立て直して、敵 か近ついたらそのたびに駆け出して戦うのがよかろう」 やかた かも というわけで、六波羅の館をなかに囲んで、鴨の河原 に面して七、八町にわたり堀を深く掘って川水を引き入 かん ぶてい こんめいち れたので、あたかも漢の武帝が掘らせた昆明池の春の水 に、夕日が沈んで広々と波立っているさまを思わせた。 やぐら 残りの三方には芝築地を高々と築いて櫓を立て並べ、 さかも、 とつけっしんこう 逆茂木を幾重にも引きまわしたので、唐代、突厥の侵攻 えんしゅう じゅこうじよう を防ぐために築かれた塩州の受降城もかくやと思わせて 大げさであった。 しっさ ) いまさらこんな城を構えるのは、何やら策 があるように見えて、けっして深い智恵を示すものでは なかった。 けんかくざん 「剣閣山はけわしいとはいえそれに頼る者は失敗する。 ほぞ 根を深くし蔕を固くすることにはならないからである。 たの どうていこ 洞庭湖は深いといってもそれを恃む者は敗北する。人を おさ 愛し国を治めているわけではないからである」といわれ あんき ているとかし ) ますでに天下は二分して、国家の安危が ひょうろう この一戦にかかっているのだから、兵粮を捨て舟を沈め 背水の覚で謀りごとをめぐらすべきなのに、今日から こも もう逃げ足になって、わすかばかりの小城に立て籠ろう ぶリやく と、さきの心配ばかりしている武略のほどは情けないも のであった。 いくえ たよ かこ じようさい
もとどり だんばっ 0 武将像髻を切った断髪姿でまなじりを決 あしかがたかうじ して出陣するこの武将は足利尊氏であると みかど いわれる帝のおとがめを受けて本結を切り いったんは寺に入った尊氏も家門と武士階 級の利益を守るため帝と闘うことを決心する もとい 建武三年正月二十七日の合戦 三井寺の合戦に敵を破った新田勢は、その勢に乗って 京へ敗走する敵を追った。京に入って三条河原をめぐる ぶぜい たぜい 合戦でも、無勢の官軍が巧みな謀りごとをもって多勢の たんばじ 足利勢を攻略し、 いったん将軍側の主勢は丹波路さして 遁れて行った。しかし、足利将軍の御運は強 ノ、日が ~ 暑 かつらがわ れて追手は桂川のあたりからひき返してしまった。 ほそかわきようのりつしぜんじよう 田Ⅱ即律市褝定は三井寺においてその日の敗戦 たんらよ ばんかい の端緒を作ったのを不名誉に思い、名誉挽回の一戦をと きたの かみがも きたしらかわ 策して、三百余騎の小勢をもって北野・上賀茂・北白川 へ迂回し、諸所に火を放ちながら進んで、白河あたりに 分散していた官軍にあたった。ふたたび義貞・義助の官 むね 軍は敗れ去り、坂本を目指して退いた。この旨の使者を 得て、将軍をはじめ山陽・山陰道へ遁れ去った兵どもは、 みなあらためて京都へ帰ってきた。 だいちいんのみやだんじようのいんのみや このようなところに大智院宮と弾正尹宮の軍勢が東坂 いちのみやなかっかさ査まうのしんのう 本へ到着した。彼らは去年の十一月に一宮中務卿親王が とうせん 関東征伐に下向されたとき、からめ手の軍勢として東山 どう 道から鎌倉へ向ったのだが、竹下・箱根の合戦には、打 か しなの 合せが狂ってまに合わなかったものの、甲斐・信濃・上 し 4 つけ - フんか 野・下野の軍勢が馳せ参じたので、雲霞のごとき大軍と たず しオここで情況を尋ねると、 なって鎌倉へは、つこ。 「新田勢は竹下・箱根の合戦に敗れて京へひき返し、尊 おうしゅうこく 氏殿は逃げる敵を追って上洛された。その後、奥州の国 しきたばたけあきいえきよう 司北畠顕家卿が、 重ねて尊氏殿のあとを追って攻め上ら れました」 のが うかい み でら のが こう ということなので、 「それならきっと道中ででも新田勢が踏み止まるなら合 戦が起るにちがいない。鎌倉に留まっている理由はない」 とういんさえんのかみさねよ じみよういんう といって、公卿としては洞院左衛門督実世・持明院右 えんのかみのにゆうどう しなののこくしはりかわのちゅうなごんそののらゆうじようもとたか に」まうしよう 衛門督入道・信濃国司堀河中納言・園中将基隆・一一条少 しようためつぐ ー萋づかすさにゆうどう ちくごのぜんじおおとも 将為次、武士としては嶋津上総入道・同筑後前司・大伴・ こうけっ いしカえ 猿子の一党・落の一族・場・石谷・纐顳・伊・津 なかむらむらかみげんじ にしなたかなし まかべ 子・中村・村上・源氏・仁科・高梨・志賀・真壁たち、 これらを主力として総計二万余騎の軍勢が、正月二十日 の晩方に東坂本へ着いたのであった。官軍はこれにいよ いよ力を得て、翌日にもすぐに京都へ攻め上ろうと相談 えんぎ ができたのだが、縁起の悪い日が続いていたうえ、馬もあ まりに激しく乗ったのでみな疲れきっていっこうに動か す、何やかやで遅れ遅れになって今度の合戦は二十七日 と決定された。 さて、その日になると、人も馬も休めるために宵の内 ・′十のきゅうき えいざん から行動を起し、楠・結城・耆らが三千余騎で叡山の さがりまっ 西坂を駆けおりて下松に陣を取った。顕家卿は三万余騎 やましな の勢を率いて、大津を経て山科に陣を取り、洞院左衛門 せきざん えいざん 督は二万余騎で赤山に陣取った。また、叡山僧徒は一万 りゅうげごえ ししのたに さひょうえのかみ 余騎で龍花越を経て鹿谷に陣を構え、新田左兵衛督兄弟 いまみち きたしらかわ は二万余騎の軍勢を率いて、今道を経て北白川に陣をと った。大手・からめ手の軍勢合せて十万三千余騎、みな 宵のうちから陣を取っていたので、敵に知られまいとわ 架りび ざと篝火は燃やさなかった。 けつき 合戦は明日午前八時と決まっていたのに、血気にはや る若い僧徒どもは武士にさきを越されまいと田 5 ったのか、 し
はうしようたかとき 北条高時の自害によって九代続いた北条氏 の鎌倉幕府は終りをつげた後醍醐帝は都に お帰りになり 念願の天皇親政を強力に推進 されるが ( 建武の中興 ) 恩賞の配分の不手際 もからんで前途はなお予断を許さなかった の世にあ 0 て悲しむ者が、遠〔国は〔ざ知らす、鎌倉中朝廷による政ムロ を調べると、その数六千余人もあった。 げんこう 後醍醐帝が皇位にお帰りになったのち、正慶という年 ああ、今日という日よ、、 ーし力なる日なのか。元弘三年五 こ、つ ) 」ん かいげん ′く日」、レし 号は廃帝光厳天皇が改元されたものだというのでこれを 月二十一日という日、平家一 尸条九代の繁栄は一時 す げんこう 棄て、もとの年号・元弘にもどされることになった。そ に滅亡し、源氏は長年の胸の思いを一時に晴らすことが できたのであった。 の元弘三年の夏ごろ、天下の諸事が一時に評議決定され、 ろくはら ちくさただあきあしかがたかうじあかまっえんしん 賞罰や法令などことごとく朝廷一統の政事に整えられた 京都に入った千種忠顕・足利高氏・赤松円心から、六波羅 ふなのうえ 】滅亡の報が船上山の後醍醐帝のもとにとどいた。帝みすから かんこう ので、万民はあたかも霜を払う春の日に照らされるよう いかずら の決断によって、五月二十三日還幸の列が出立した。 にその統治に従い、都人はさながら刃をふんで雷を頭上 帝の列が兵庫まで来たとき、赤松円心父子が馳せ参り、ま た関東から鎌倉滅亡の報をもった新田の急使も到着した。楠 に戴くように法を恐れた。 まさ . しげ - びしやもんどう おおとうのみや 【正成勢もお迎えに参り、帝のお喜びはひとしお、一方九州地 ながと ときなお 同し年の六月三日、大塔宮が志貴山の毘沙門堂におら 方も鎮まり、長門の北条時直も降参して、天下は後醍醐帝の れることか知れわたり、近畿一円の軍勢はいうに及ばす、 】下に静まりをみせつつあった。 京中や遠国の兵まで、われさきにと馳せ参したから、や がてその軍勢は天下の大半を占めるかと思われるはど大 勢になった。 同月十三日には宮の御入洛と決められていたが、何と はなしにそれが予定より遅れ、そのあいだに宮は諸国の と たてつづ 軍勢を召され、楯を綴り鏃を砥がせて合戦の御用意をさ れていると噂が立ったので、敵とされるのが誰の身のう えとはわからぬままに、京中の武士どもの心中ははなは だ穏やかではなかった。 うだいべんのさいしようきょただ そこで後醍醐帝は右大弁宰相清忠を勅使として遣わさ れ、 「天下はすでに静まり いまや武威を収めて善政によっ て皇徳をひろめるときであるのに、なおも武器を整え兵 を集められるのは、いったい何の必要があってか。また、 ぞくたい そうらん 天下騒乱のときには敵難をまぬがれるために一時俗体に 4 0 0 は くすのき 「朝廷による政治」天下は帝の親政に一統されることが万民に示された しぎさん まっリ′」と しようきよう
てを施すのだから、当然彼らのあいだに不平不満 がつのる。中には公家に威圧をかける武士も少く ひんしゆく みやこびと 『建武年間 = = ロ』 都人たちは、彼らに顰蹙した。 - - ・し、・つ・カわらら ~ ・しょ に収まる「「一条河原落書」の あど にわか 此頃都ニハヤル物 : : : 俄大名、迷者、安堵、恩 賞、虚、本領ハナルル訴訟人、文書入タル細 葛、下克おスル成出者 : : : キッケヌ冠、上ノキ ヌ、持モナラハヌ笏持テ、内裏マジハリ珍シャ なかびぶつ : 為中美物ニアキミチテ、マナ板鳥幗子ュガ メッツ、気色メキタル京侍、タソガレ時ニ成ヌレ ( 歩 ) かづしらず 、ウカレテアリク色好、イクゾバクゾャ数不知 おはかたな : 鉛作ノ大刀、太刀ョリオホキニコシラへテ、 っプら けんむ おます及 弓の稽古をする武士男衾三郎絵詞 さし かしく見えたのである。 前サガリニゾ指ホラス、バサラ扇ノ五ポネ、ヒロ おき じぎむらいなわながとし 仰耆の地侍名和長年は、隠岐の後醍醐帝を守り コシ、ヤセ馬、薄小袖、日銭ノ質ノ古具足、関 おほぐち 東武士ノ籠出仕、下衆上﨟ノキハモナク、大口通したということで功臣とされたが、いざ上京し て見れば、「マナ板烏帽子ュがメッツ」といわれ = キル好、艤、弓モ引エヌ大追物、 かむ るような、奇妙な烏帽子の冠り方をしている。し 落馬矢数ニマサリタリ、誰ヲ師匠トナケレドモ おがさがけ かし、それがかえって当世向きの流行となり、「伯 遍ハヤル小笠懸、事新キ風情ナリ、京鎌倉ヲコ キマゼテ、一座ソロハヌエセ連歌 : ・ : ・譜代非成耆様」とよばれるスタイルとしてひろがったりし ノ差別ナク、自由狼藉ノ世界也 : : : 四夷ヲシヅ 公家の側からすれば、あくまでも『太平記』巻 メシ鎌倉ノ、右大将家ヲキテョリ只品アリシ 十二に「公家一統」というように、武家政治から 武士モミナナメンタラニゾ今ハナル : かまくら 公家政治への転換である。客観的にはそんな事態 という落書は、鎌倉武士の気品も失われ、あさ ではない、むしろ武士たちが思っていたように、 ましく卑・しく見、るよ、つになった、ど、つかと思、つ らようしよう 逆なはすだが皆気づかす、武士を見くだし、彼ら 姿の、上京武士を痛烈に嘲笑している。 かまくら ごけにん おお 鎌倉武士の主流は、御家人だったが、彼らも大を従えるという態度でいい気になっている。「太 ばんやく 番役などを負うて上京していたあいだ、都人から平記』は公家への同情を基調に据えた史観をもっ てする現代史の本だから、 野暮ったさを軽蔑されていたものだ。 日来武威ニ誇リテ本所ヲ蔑如ニセシ権門高家ノ したに、もかよっ その間、多少京風に馴染み、ぜ ) あえびす 武士共、シカ諸庭 ( 公卿の邸宅 ) ノ奉公人ト成 た。だがそれにしても、やはり東夷と見下げられ しりえ テ、或ハ軽軒香車ノ後ニ走リ、或ハ青侍格勤ノ るのか一般だった。 ひざまず 前ニ跪ク、世ノ盛衰時ノ転変、歎クニ不叶習イ このたびの動乱では、そうした御家人層以下の、 ろうじゅう のぶせり ハ知リ乍ラ、今ノ如ニテ公家一統之天下ナラ もっと泥くさい地方武士が、一族、郎従以下野伏 くすのきまさ じようじゅ 諸国ノ地頭御家人ハ皆奴婢雑人ノ如クナル たちを動員しての大活躍で、事を成就した。楠正 かわち 成のような、新興の、河内方面での流通経済に一 たいとう と、武門の立場の下落を見ている。これは公家、 役買って動きまわりつつ擡頭した「悪党」などは、 京都人が都大路に住む武士にたいする蔑視にも通 それでも畿内を舞台にしたものだから、さほどで きがい した見方である。 はなかったにせよ、他の多くは畿外から初めて都 けっしょ 五十余箇国ノ守護・国司・国々ノ闕所大庄ヲバ に姿を現わしたような武士だった。 こつけい 悉ク公家被官ノ人々拝領シ : ・ : ( 「太平記」巻十二 ) 都人から見れば滑稽にも映ることを、いろいろ という行賞に公家社会は得意になっていたし、 としたに違いない。彼らが郷里での風をそのまま ろくはら とくに公家の出で、しかも軍勢をひきいて六波羅 保持していればまだしも、武力に秀でた結果、都 ふんせん ちくさただあき に出たばか りに、なましつか公家社会、官人のあ 攻撃に奮戦したような千種忠顕は、「大国三箇国、 きしゆすうはい 闕所数十箇所拝領セラレ」たところから奢りに奢 いだにましって動き、日本人的な貴種崇拝の権威 どうじよう 4 しわ 、輩下の官人、武士三百人余も堂上交りをする 主義から公家風をとりこんだりしたので、一層お あまねく きない い「「 ( 骨 ) ごろ かく′一 149
武士たちは南庭の左右に立ち並んで、剣を抜いて四方を 鎮めることになっていた。 くすのきか ゅうきしちろうざえもんらかみつ 四方の門の警固としては、結城七郎左衛門親光・楠河 わらのかみまさしげ なわほうきのかみながとし えんやほうがんたかさだ 内守正成・塩冶判官高貞・名和伯耆守長年があたり、 みつつのすけたかつぐ らばのおおすけさだたね 庭の陣には、右に三浦介高継、左に千葉大介貞胤を召さ れた。この両人は事前にはこの役目に随うことを承知し そいたのだが、そのときになって千葉は三浦の相手にな ることを嫌い、三浦は千葉の右に立っことを怒ってとも てんま しわざ に出仕しなかったので、天魔の仕業か大切な行事に手違 いを生してしまった。のちになって考え合わせるに、 れは天下が長くは無事に治まるまいという兆候であった。 こうけん しかしながらこの修法の効験であったのか、ともかく - 、 0 、 ) 去 : イ言ソ てはず 飯盛の城は正成の軍に攻め落され、立烏帷子の城は土棹・ しように とくのう つくし おおとも 日寸能に攻め破られ、筑紫は大友・小弐に敗れて、朝敵の 首が京都に運ばれたので、ひとまとめにして都大路を引 ) 」くもん きまわし、そのまま獄門にかけこ。 東国・西国はすでに平定されたので、筑紫からは小弐・ 大友・菊池・松浦の軍勢が大船七百余艘に分乗して上洛 にったさまのすけ ひ」ちごのすけ してきた。新田左馬助と弟の兵庫助は七千余騎をひきい て上洛された。このはか諸国の武士どもはひとり残らす 京に上り集まったから、兵どもは京白河に充ち満ちて、 都の賑わいはつね日ごろの百倍にもみえた。 おんしよう 諸軍に対する恩賞はしばらく遅れたものの、とりあえ す大功あった人々を選りすぐって与えようというわけで、 むさし あしかがじぶのたいふたかうじ ひたち し - も・フ・ 0 足利治部大輔高氏に武蔵・常陸・下総の三カ国、弟の左 まのかみなたよし とおとうのくに にったさまのすけよしさだこうすけ 馬頭直義に遠江国、新田左馬助義貞に上野・播磨の両国、 くすのき よしあき えち′」の ひょうぶのしようよしすけするがの 子息の義顕には越後国、弟の兵部少輔義助に駿河国、楠 かわら なわほうきのかみたとし はうがんまさー洋 - せつつ 判官正成に摂津・河内の両国、名和伯耆守長年に因幡・ 伯耆の両国をそれぞれ与えた。 そのほかにも、何人かの公家や武家に二カ国三カ国を あかまつにゆうどうえん お与えになったのに、あれほどの軍功あった赤松入道円 しゅ′」しよく はりまの さよのしよう しん 心には、佐用庄一カ所だけが与えられ、播磨国の守護職 けんむ はまもなく召しあげられてしまった。そんなことで建武 の騒乱に、円心が急に変心して朝敵となったのも、この ときの恨みのためということであった。 そのほかにも、五十余力国の守護・国司の領、国々の はいりよう ? んじん 所や大荘園などをことごとく朝廷の官人たちが拝領し ふうき し」 - フしゅ、 ) - フ たので、誰もかれもかの陶朱公のように富貴を誇り、《甲 地からの収入に衣食に飽く生活を送った。
れを書かせた。 足利騎櫺尊氏・左馬頭直義以下一族の者、みすか らの武威を誇り朝憲をないがしろにするゆえ、ここ いん せいばっ に征伐するものである。この者どもはたとえ隠遁し ほった、 て法となるといえども、けっして刑罰をゆるめて はならない よくよくその居どころを探して、日な ちゅうばっ らすして誅罰すべきである。このことに戦功ある者 には、格別の恩賞を与えられるであろう。されば勅 命はかくのごとく、このことを書状をもって明らか にする次第である。 うちゅうべんみつもり 右中弁光守 建武二年十一月三日 たけだ 武田一族のもとへ おがさわら 小笠原一族のもとへ 同じ内容で宛名をかえ、十余通書いて差し出したので、 左馬頭直義はこれを持って急ぎ建長寺へおもむき、将軍 に対面して涙をおさえて訴えられた。 こう とが 「当足利家が帝のお咎めを蒙むるにつけては、義貞がお すす 勧めしてただちに新田を討手に下されたような次第で、 とんせい わが一門の者はたとえ遁世し降参した者でも、探し出し て誅せよと決められたということです。帝のお考え向き のが もまた同しようで、とても遁れようもありません。これ は先日、矢矧・手越の合戦で討死した敵兵の肌守りの袋 に入れてあった勅書のたぐい、 どうぞこれを御覧くださ こうなったうえは、とても免れぬ当家のお咎めであ りますから、御出家の件はお考え直しになって、まさに 浮沈のきわにある足利一族をお救いください」 将軍もこの勅書を御覧になって、偽せ書状とは田 5 いも けんむ やはぎ ちょうけん まぬ 寄られす、 日 ( カカ 「なるはど、これではわが一門の浮沈はこの一寺こ、 っているわけだ。ではいたし方ない。尊氏もそなた方と めんばく ともに弓矢とる身の面目を第一にして、義貞と死をとも にーしト 6 、つ」 にしきひたたれ と、即座に袈裟を脱がれて、錦の直垂を召された。こ もとどリ いっそくぎ うして、そのころ鎌倉中の軍兵が一束切りといって髻の もとゆい 短い髪型をしたのは、本結を切った将軍の髪型を紛らせ るためのことであ 0 た。この結果、さき一伊きを案して官 軍へ降参しようとした大名どもも、右に左に逃げ去ろう とした軍勢もにわかに気を取り直して馳せ参したから、 一日もたたぬうちに将軍尊氏の軍勢は三十万騎になった。 十ニ月十ニ日、箱根・竹下の合戦 てんリゅうがわ ・義貞軍に利あらす。十四日天龍川まで退却。 おわり とうリゅう ・やがて尾張国に陣たて直して逗留。 この間、四国中国・山陰北陸道など諸国の朝敵 ( 将軍方 ) はうき 次々に蜂起。京都に危機迫る。 ・京の朝廷よりの要請により義貞帰洛。 おおわたり 建武三年正月七日、大渡・山崎等の合戦 ・官軍 ( 義貞方 ) 敗退。 えいざん ・帝は叡山へ都落ち。 じゅらく ・将軍 ( 尊氏 ) の入洛。 東坂本の仮の皇居に入られた帝のもとには叡山の三千大 おうしゅう きたばたけあきいえ 衆が馳参り、ややあって奥州から北畠顕家勢も坂本に到 着した。 一方、京からは将軍方細川勢が三井寺へ向って陣をかま えた。 正月十四日、三井寺の合戦 しのづかはたわたり ・官軍に栗生・篠塚・畑・亘理の剛勇なる奮戦があって 勝利。 ・三井寺炎上。 しゅ くリゅう み でら ふんせん め