京都 - みる会図書館


検索対象: グラフィック版 太平記
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1. グラフィック版 太平記

くすのきまさしげ 0 楠正成像横山大観筆九州からふたたび 京へ攻め上ってきた尊氏の軍を迎え正成は えいざん 帝に再度叡山にお移りになるよう進言するが とりあげられない異議を奉上することを諦 めた彼は討死を覚悟して前線の兵庫に向う 正成兵庫に咆フ ただよしどの 尊氏卿および直義殿が大軍を率いて上洛するので、官 むね 軍はこれを要害の地で防ぐために兵庫まで退いた旨、義 そ・フじよ、つ 貞殿は早馬の使者を立てて裏に奏上して来た。後醍醐 くすのきはうがんまさしげ 帝はひどく動揺され、楠判官正成をお召しになって、す みやかに兵庫へ下向し、義貞に力を合せて合戦するよう かしこ にお命しになった。これに対して、正成は畏まって自分 の考えを申しあげた。 「尊氏卿はすでに筑紫九カ国の軍勢を率いて上洛される とのことですから、きっとその軍勢は雲霞のように群れ ていることでございましよう。御味方の疲れはてた小勢 じんじよう をもって意気盛んな敵の大軍に対戦し、尋常に合戦した ならば、味方は必す敗れ去ると考えられます。そこで、 ここは新田殿をも京都へ召し返されて、また以前のよう えいざん工 - うこ - フ に叡山へ行幸なさるのかよろしゅうございましよう。こ よど きんき かわち の正成もいったん河内へ帰って近畿一円の軍勢で淀の川 たか、つじきよう はや - フ↓・ ひき ん己 Ⅲ査月 ひょうろ - フ ふさ 尻を塞ぎ、やがて両方から京都を攻めて敵の兵粮の底を つかせたならば、敵勢は次第に疲れて逃げ散る者も出ま しようし、味方は日に日に軍勢か集まって来ることでご ざいましよう。そうなったところで新田殿は叡山から押 し寄せられ、正成は背後をついて攻め上りますならば、 朝敵をただの一戦に滅ばすこともできるかと存します。 新田殿にもきっと同様のお考えがあるにちがいないので すが、道中で一度の合戦もしないのは不甲斐ないと思わ れることを恥として、あえて兵庫で踏み止まって防戦し ておられるのだと思います。合戦というものは、なんと いっても最後の勝利を得ることが大切でございます。と しんりよえんばう くに深慮遠謀あらせられて、朝廷の意を決せられるべき でございます」 そこで諸卿も、たしかに合戦のことは武士に任せるべ ばうもんのさいしレちきょただ きだと評議が傾いたのだが、そのなかで坊門宰相清忠が 重ねて強く自説を主張された。 「正成の申すことも十分理由はあるが、朝敵征伐に下さ ふ力い 106

2. グラフィック版 太平記

将軍筑紫より上洛 つくし たたらはま 多々良浜の合戦ののち、筑紫九国の軍勢のうちではひ とりとして将軍につき従わない者はなかった。しかし、 ふさ 中国地方では敵がいたるところに満ちて道を寒ぎ、東国 勢もみな朝廷に従って、将軍に意を通する者は少なかっ たから、うかつに京都へ攻め上ることはどんなものかと この春の敗北に懲りて軍勢は少しも進撃の気勢があがら なかった。 つくし はんなし せ、、ひっ 尊氏が天下の静謐を願って栃木阿寺に収めた願書 とく そくゆうりつし ところがそこへ、赤松入道の三男である則祐律師と得 ひらいなばのかみひでみつはりま 平因幡守秀光が播磨から駆けつけて、将軍にむかって歯 に衣着せすに言上した。 みまさか びつらゆうびせんはリま 「京都から攻め下った敵軍は備中・備前・播磨・美作に 充ち満ちておりますが、これらはみなそれぞれに目前の ころあい ひょうろう 城を攻めあぐね、気持は倦み兵粮もっきた頃合ですから、 そこへ将軍が大軍勢をもって御上洛なさることさえ耳に 入りましたら、ひとたまりもなく退くものと思われます。 しらはた もしも、このたびの九州御出発が遅れて、白旗の城か敵 に攻め落されましたなら、それ以外の城はもう一日も防 よ、つ力し ぎきれますまい。四カ国の要害がみな敵のものとなって しまってからでは、たとえ何百万騎の軍勢をもってして も御上洛は難しかろうと存します。これこそまさに乾坤 こう、つ いってき 一擲の勝負、楚の項羽が秦を攻めるにあたって使った舟 かま 筏を沈め、釜や甑を焼いて、ひとりも生きては帰るまい と覚悟した戦と同しではありませんか。天下を握るか否 か、ひとえにこのたびの一挙にかかっていると思われま すものを」 将軍もこの意見を聞かれて、 「なるほどこの意見はもっともだと思う。それでは、夜 に日を継いでも上洛を急ごう。ただし、九州をまったく 放っておくのもよくはなかろう」 しように につきじろしろ、つよしなが おおとも と、仁木次郎四郎義長を大将に、大友・小弐の両人を だざいふ 留め置いて、四月二十六日に太宰府を出立された。同月 二十八日順風に乗って船出をされ、五月一日には安芸の いつくしま さんろ、つ 厳島へ船を寄せて、ここで三日間参籠なさった。すると さんほういんそうじようけんしゅん けちがん その三日目の結願の日に、醍醐の三宝院の僧正賢俊が京 いかだ きぬ こしき けんこん ふな 104

3. グラフィック版 太平記

0 花園天皇後醍醐帝の前代の天皇和漢の 学問によく通じ学者としても名高かった後 醍醐帝の謀反グループの立役者であり当代ー ひのすけとも 流の学者でもあった日野資朝を親しく召して き△き五について議論をされることが度々あった ロ問ロロー だい はなぞの に栄え、上に朝廷の威令が輝きを失うことを御心痛にな じようきゅう って、義時を亡ばそうとなさった。そこで承久の乱が起 へいおん 天下は一時も平穏ならす、ついに軍旗が陽をかげら せた さんばかりの勢いで、宇治・勢多で合戦に及んだ。 しかし戦いがまだ一日も終らぬうちに、早くも官軍は おきのくに 敗北してしまったので、御鳥羽院は隠岐国へ配流の身と なられ、北条義時はいよいよ天下の権を掌中にしたので つねとき しゆりのすけときうじ むさしのかみやすとき ある。そののち、武蔵守泰時・修理亮時氏・武蔵守経時・ さだとき さがみのかみときより さまのごんのかみときむね 、、目莫守貞時と続いて七代の 相模守時頼・左馬権頭時字本本 あいだ、政権は武家の手にあったが、彼らの徳あつい施 こんきゅう 政は困窮の民を助け、威光は天下万民に行きわたり、し かもそれにもかかわらす位としては四位以上に上らす、 カえり 兼虚にして仁政をはどこし、つねにみすから省みて、礼 儀を正しく持した。それゆえに、彼らは高い位にあって あふ あやう 少しも危いところがなく、カが十分に満ちてしかも溢れ じんせい 出ることはなかった。 じようきゅう しんのう せつけ 承久の乱以後は、親王や五摂家のなかから、世を治め きりよう 民を安んする器量のある貴族ひとりに鎌倉へ下っていた たいしようぐんあお ぶけいっとう だき、このかたを征夷大将軍と仰いで、武家一統は臣下 の礼をとることとなった。承久三年には、はしめて京都 ろくはら へ北条一族の者一一名を派して、両六波羅と号し、西国の 行政を担当させ、あわせて京都の治安警護にあたらせた。 えいにん たんだい また永仁元年からは、九州に探題をひとり下して、九州 つかさど の政治を司らせ、外敵襲来の備えを固めた。それゆえ、 日本国中北条氏の命令に従わないところとてなく、海外 までもその権勢に従わない者はなかったのである。 あかっき 朝日の輝くとき、暁に残る星はおのすからその光を奪 われるというたとえのとおりで、必すしも武家方が朝廷 かろ を軽んし申しあげたわけではないのだが、荘園では地頭 の力が強くて旧来の領主の力は弱まり、国々では守護の 力いてきしゅうらい ちょうてい

4. グラフィック版 太平記

に取りついて、涙を流しつつ訴えた。 ふうせつ いたしましたが、義貞が 「御還幸の風説はかすかに耳に 知らぬと申しておりますので、風聞の誤りかと思ってお りましたところ、なんとその儀式がはやほんとうに行な われています。そもそも義貞にいかなる罪があって、多 あくぎやくひどう ふんこっさいしん 年粉骨砕身の忠功をお見捨てになり、悪逆非道の尊氏に げんこう お心を移されたのでしようか。過ぎにし元弘の初年、義 ちよくめい おそ 貞は不肖ながら畏れ多くも勅名を受けて関東の大敵を数 日のうちに滅ばし、西海にあった帝のお心を三年のあい だお休め申しあげましたが、その功はおそらく上古の忠 臣にも比類なく、 近年の忠義の士もみな一歩を譲るとこ ろけん ろでありましよう。尊氏の謀叛が露顕してからは、敵の えらせん 北国へ落ちて行く新田義貞再起をはかる義貞軍は越前 ( 福井県 ) へ向う むほん 第農颶ー第人 なび 大軍を討ち靡かしてその大将を虜とし、逆にまた、万 きなん 死に一生を得る危難に逢うことを数えあげるときりがな いほどでした。それゆえ、義を重んして命を落す一族の 者百三十二人、忠節に殉して死屍を曝す部下は八千余人 にのばっております。にもかかわらす、このたびの京都 における数カ度の合戦に、朝敵の威勢が盛んで官軍が次 第に敗れ行きますのは、これはまったく戦いの失敗によ るものではありません。もつばら帝の聖徳に欠けるとこ ろがあるからであって、そのため、味方に参する軍勢が 少ないからではありませんか。なんと申しあげても、新 せきねん 田家積年の忠義を捨てられて、京都へお帰りになるので ございましたら、是非とも義貞をはしめ当家の一族五十 余人を御前に召し出され、かの忠臣伍子胥が罰せられた ようにその首を刎ね、あるいはかの比干が刑せられたよ うに胸を切りさいて頂きたい」 怒りに燃えた顔に涙を流して、道理を立てて語る貞満 の言葉に、帝も過ちを後悔なさる御様子になり、お側の 人々もみなその道理に打たれ、忠義の心に感服して、首 うなだれて居並んでおられた。 かけつけた義貞に、帝は、一時尊氏と和睹のやむなきにい いちのみや 【たるが、義貞は北国越前に落ちて時期を待てといわれ、一宮 なかっかさきようつねながしんのう ・中務卿直良親王に天子の位を譲って、義貞に預けられる。 いちのみやなか 十月十日、帝は叡山から西へ向って還幸。皇太子・一宮中 つかさきようのーみのう よしさだよしあき よしすけよしはる 務卿親王を奉して、新田義貞・義顕父子、弟義助・義治父子 ら七千余騎は北国へ落ち行くことになった。 かざんいんゅうへい したが 都に帰られた帝はそのまま花山院に幽閉され、随って降参 きんこ した人々はあるいは禁固されて斬られ、あるいは役を解かれ 職務を停止される憂き目にあったのであった。 やがて、帝は決意される。 じゅん かんこう さら ひかん 118

5. グラフィック版 太平記

片に太平記と書いた四隅を小石でおさえてある。 きて座をしめ、講尺こそおこりならぬめ、 うきよおやじかた ・ようほう とみすばらしい姿を示す。浮世親仁形気 ( 享保五 ひねり紙やばら銭が椀様のものと共に右手にある あみ しゆっけ 「太平記の のが、聴講料であろう。出家とこれも浪人らしい編年 ) には、物読みならう子供をめぐり、 笠の男が聞いている。この絵で辻講釈の様をうか講釈さする思案であらうが、一文二文の編笠銭」 とか、「太平記よみの物もらひ」などの語が散見 がうことが出来る。京都にはしかし、夜講釈や辻 講釈より、もっと格の高い太平記読みがいた。翁する。これも太平記流行の一証であろうか。 えいてき 雑俳にも、 草によると、前出の原栄宅 ( 本朝世事談綺に原永楊 げんろく 楠が御目見えをする講釈場 ( 元禄十四年寄太鼓 ) とあると同人か ) ・二代目栄宅・その弟栄治 ( 初名和 とある。ただし太平記読みをもって講談の始めと 平 ) などである。松室松峡の日記によれば「太平己 みたむらえんぎよ 彙講釈師原栄治来」「栄治ノ父ハ栄沢 ( 栄宅 ) 、宝永年する説は、既に三田村鳶魚の否定説がある。私も若 中ニ京都太平記講釈ノ宗匠也、兄 ( 一一代目栄宅 ) 有干別に述べた。講釈の始源を言うなら、もっと早く てんじんえんぎ 倫 リ不才也、栄治前名和平、近来在北野七本松作家、神道では、神道集わけて天神縁起系の如き面白い らゆう′」く さら 益々聴衆聚ル」とある。北野七本松は、京都にお講釈が中世にあり、更にさかのばれば、中国の変 せつばう ける太平記場であったので、栄治は、家、どうや文の影響をうけて、仏教の説法が、中古以来広く行 一三ロ ′」と われて来ていたのである。 平ら常席を営んだ如くである。この原一族は、恐らく の太平記綱目の編者原友軒と一族、乂は師弟などの 戸関係があり、原昌元 ( 青龍軒 ) も亦、同じ圏内にある太平記講釈の末流 5 ろム 2 ? ・ー江 人物ではないか。私の想像があたっているとする えど きようはう と、太平記読みにも、系統があったこととある。 太平記の流行も享保頃までで、江戸時代後半に たいこうき この一方、門付同様の者のあったことを、諸書入ると、講談界には、太閤記・三河後風土記・難 が伝える。浪人が生活方法として、「夜は粮もと波戦記など、太平記より時代の新しい戦記がはば おいえそうどう 、 / 第ためんため太平記の素読」して門々に立った ( 武道伝 をきかせるし、御家騒動やおさばき物の世話種も あだうち えんや 来記 ) とか、仇討の旅の変装に、塩冶判官龍馬進奏多くなり、次第に太平記の影が薄くなってくる。 ( 、の巻一冊懐中した ( 元禄曾我物語 ) とか言うことも講談の種本を著述した神田龍や馬場信意らの著 述目録にも、太平記に関するものは、もう見えな あす、さ おおさか . 、、、、 9 、、、 ' 7 一 , / 、見える。素読で、どれ程 0 金にな「た 0 だろ、「か。 。浅草の太平記場や、北野七本松、大阪では生 よく今も物の本で引かれる人倫訓蒙図彙の図の、 らんる たまけいだい当ようほう やひげ , 賑鬚もそらぬ襤褸の姿は、全くの物もらいの一であ玉境内 ( 享保十五年絵本御伽品鏡 ) などのゆかりの地 あんえい 和る。本当の物乞いもあったのであろう。図彙の説 には、なお席もあり、太平記の座敷講釈 ( 安永六年 町明に、 立身銀野蔓 ) もないではなかったが、古風なものと ほうれき 近世よりはしまれり、太平記よみての物もらひ、 なってしまった。宝暦十一年の心の帯では、芝居 を好む娘に対して、太平記に足をはこぶ旧式な老 ・・ , イ盛あはれむかしは畳の上にもくらしたればこそ、 つづりよみにもすれ、なまなかかくてあれよか爺を登場させてあるが、それがそのまま太平記読 戸 みの当時の運命であったよっである。 ( 関西大学教授 ) し、祇園の凉、糺の森の下などにては、むしろし わん 一三ロ 157

6. グラフィック版 太平記

もんとしゅう 家の臣、それに文武百官・皇族門徒衆・北面の武士ども・ にようばう 稚児・女房たちにいたるまでわれもわれもと集まったか ら、京都の町なかはたちまちにさびれ、人々はまるで嵐 のあとの木の葉のごとく、思い思いに各所へ散って行っ たので、逆に京のはすれの白河などはいっしかにぎわっ て、桜が一時に開いたように盛んになった。 にぎ しかし、もちろんこの賑わいもいつまでも続く夢では いまさらのように驚かされる よい。移り変る世の姿に、 のも道理であった。「そもそも天子は天下をもって家と なす」と古来いわれている。そのうえ六波羅とて都に近 ら′、と、つ あんざいしょ いところだから、洛東・鴨のほとりの行在所のお暮しと はいえ、さはど御心痛になるはどのこともないのだが、 おだ この帝が御即位になってから天下は一向に穏やかではな もろもろ そればかりか諸々の役所もにわかに都の外へ移るよ ていとく うなことになってしまったので、これはひとえに帝徳が ぶんぶ たかうししのむら 「高氏篠村へ到着」反旗をひるがえした高氏篠村へ着く ほくめん 天意にそわぬためだと、帝は罪を御一身に帰せられてこ とのはかのお歎きで、毎日、朝の四時ごろまで御寝所へ げんろう も入られずに、元老や賢臣どもを召されて、専らに中国 ちぎよう たず けんのうせいてんし 古代の賢王・聖天子の治業についてお尋ねになり、 かいりきらんしん さかも屋カ乱神のたたりなどという迷信には耳をおかし にならなかった。 さる ひえ 四月十六日はこの月二度目の申の日であったが、日吉 神社の祭礼もないから諸国の神々も心さびしく過され、 くもっ びわこ はつらっ 伊物となるはすの美魚がいたすらに琵琶制の浪間に撥剌 としていた。 また十七日は中の酉の日であったが、賀茂の祭もない くるまあらそ ので一条大路は静まりかえり、見物衆の車争いとて見ら むな カら , 、らしりカ、 ちりつも れず、祭の馬を飾る銀面にも空しく塵が積り、唐鞍の鞦 の飾りの雲珠もその輝きを失っていた。 「祭礼は豊年で もぜ ) したくにはせす、凶作の年にも節約はしない」とい かいびやく われているものなのに、開闢以来欠けることのなかった ひえ とぜっ 日吉・賀茂両社の祭礼が、このときはしめて杜絶したの しんりよ おそ だから、神慮もいかがかと案じられ、畏れ多いことであ さて、官軍方では五月七日に京都へ寄せて合戦に及ば しのむら やわたやまざき うと決定されたから、篠村・八幡・山崎にあった先鋒は さと うめづ 宵のうちからその陣を進めて、西は梅津・桂の里、南は たけだ かがリび 竹田・伏見に篝火を焚き、山陽・山陰両道の形勢を決め くらま わかさじ こうざんじ たかお 一方、若狭路を越えて、高山寺の軍勢が鞍馬・高雄方 面から押し寄せて来るとも噂され、いまはわすかに東の とうせんどう えいざんそう 東山道だけが無事に開けているのだが、これも叡山の僧 てんい ふしみ とり かつら もつば せんばう

7. グラフィック版 太平記

こうとうのないし 0 勾当内侍としはしの別れもしかねて西国出 陣をしぶる義貞勾当内侍はもともと後醍醐 帝の寵妃であったある日御所で彼女をかい ま見た義貞は一目で激しい恋に落ちてしまう それを聞いた帝は内侍を義貞にゆすられた らようき 勾当内侍の悲嘆 新田左中将の首か京都に着くと、これこそ朝敵の最た みやこおおじ るもの、武家の仇敵の第一であるとして、都大路を引き ) 」くもん まわして獄門にかけられた。この人はさきの後醍醐帝の ちょうしん 寵臣で、その武功により世に資するところも多かったか おん ら、京都には天下の支柱としてその好意を喜び、その恩 顧を期待する者は幾千万と数知れぬはどあった。そこで とどこお まらかど この日、車馬は路上に滞り、男女の者どもは街角にたた すんで、変りはてた義貞の姿を見るに忍びす泣き悲しむ 声か響き渡った。 こうとうのないし なかでも、義貞の奥方、勾当内侍のお悲しみは、その こ、つと、フのないし きゅうてき すがた 御様子を伝え聞くだに哀れであった。この女性は頭大夫 ふじをのゆきふさ びでん けんらん 藤原行房の娘で、美殿の奥深く絢爛たる帳のかげにあで びばう やかな美貌を育くまれた。十六歳の春のころから内侍に うすぎぬ あで 召されて帝のお側に仕えたが、薄絹にもたえないその艶 姿は、あたかも春風が一片の花びらを吹き残したかと疑 かわも われ、華やかに粧われた顔は、秋の雲間の月が河面の水 を照らすかと思われた。それゆえ多くのお妃たちは帝の ろうこく お渡りのめったにないのを嘆き、漏刻 ( 水時計 ) が一夜に告 げる二十五刻の、その空しい長さを恨むのであった。 けんむ 過ぎにし建武の初年、天下がふたたび乱れようとした だいり とき、新田左中将はつねにお側に召されて内裏の御警固 に当っておられた。ある夜、月が冴え風の冷たく渡るな この勾当内侍は御簾を半ば巻きあげて、琴を弾い こころひ ておられた。中将はその怨むかごとき調べに心魅かれて、 思わす月下の御所の庭をさまよい歩き、何とはなく心誘 われるままに竹垣のあたりに立ち隠れて様子をうかかう と、内侍は見ている者があると気ついてわびしげに弾し る手を止めてしまった。 ありあけ 夜も深く更けて有明の月かくまなくさしこんでいるな かに、内侍は有明の月をつれない人の顔にたとえた古歌 の一節を口すさみ、頼りなげに打ちしおれている。その ふぜい たお はぎつゆ 風情は手折れば散りそうな萩の露、あるいは拾えば消え たまィ る玉篠のあられよりもなおたおやかになまめいていて、 ゆくえ 中将は行方も知らぬ恋の道に迷いこむ心地がして、帰る しげいしゃ 道もさだかならす、まして寝るなど思いもよらす淑景舎 のはとりで夜もすがら立ちつくしていた。 おも・かげ - 明け方、宮中から帰宅しても、ほのかに垣間見た面影 よそお き 3 当 こと とうのたいふ 122

8. グラフィック版 太平記

げんろく なるものに、元禄十年刊の諸芸目利咄巻の二に、 = 蔀の太平記講釈 「浪花に梅龍江戸の青龍軒はまさり劣らぬ能弁に この情勢は、太平記を武士の間に留めてはおか して聞く人感ぜしむ」と言う一条があると言う ( 花 まちこうしやく なかった。街頭へ出て、いわゆる町講釈・辻講釈 散る里 ) 。赤松青龍軒に対する、この人物も太平記 えど として、庶民の間へ進出して行く。江戸で太平記 読みであったろうが、この書のことは、外に全く ちかまっ の町講釈の始めは、我衣その他江戸の考証家の説 聞く処がないのである。もしその通りなら、近松の げんろく と - みきようとおかざき しようとく を綜合すれば、元禄頃の名和清左衛門である。こ 大経師昔暦 ( 正徳五年 ) に、処は京都岡崎村になって の人、京都の人。恐らくは訴訟事であろう、大願 いるが、赤松梅龍なる太平記読みを点出したのは、 あって、江戸へ下ったが、思い通りにならす江戸 この人を写したものと思われる。モデル問題はと あさくさ かたわら ちかまっ に留った。その間、浅草御門の傍で理尽鈔を講じ もかくとして、この処の近松の描写は、当時の太 た。そこを後々、太平記場と称したのは、清左衛 平記読みの実態を伝えるものとして、是非に掲げ 門の子孫が代々近所の家主となって、其処で太平 ておきたい。 みたむらえんぎよ 記読みを続けたからである。三田村鳶魚の江戸の 京ぢかき、岡崎村にぶげんしゃの、下やしきを 実話によると、その近所に講釈の席が出来て、明治 ば両隣中にはさまるしょげ鳥の、牢人の巣のと さ力い まで残っていたそうである。乂はば同じ頃、堺町 りぶきゃね、見るかげほそき釣あんどう太平記 はらしようげん あかまっせいりゅうけん に芝居を構えて、赤松清龍軒なる人物が、原昌元 講尺、赤松梅龍としるせしは : : : 講尺はつれば ほんらようせじだんき と名乗って、軍談をやったとは本朝世事談綺の伝 聞手の老若出家ましりに立帰る、なんと聞事な ほうれき えであった ( 名和・赤松同人説もある ) 。赤松姓から 講尺五銭 ( 宝暦の下手談義聴聞集は六文に上ってい して、これ乂太平記読みに相違ない る ) づつにはやすい物、あの梅龍ももう七十でも ただし名和や赤松より以前から、江戸には太平 有ふが、一 りくっ有顔付、ア、よい弁舌、楠湊 きんびらじようるりばん 記読みは既にあった。かの金平浄瑠璃本の作者と 川合戦おもしろいどう中、仕方で講尺やられた ぞうほえどばなしげんろく して有名な岡清兵衛につき、増補江戸咄 ( 元禄七年 所、本の和田の新発意を見る様な、いかひ兵で げんべいじようすい 刊 ) に、彼の死を報じて、彼が、太平記・源平盛衰 ござったの、いづれも明晩 / \ と、ちり / \ に ずまかがみ じゅきよう 記・東鑑をそらで覚えており、儒教歌道も一通り実際知って書いたこと間違ない。乂大阪では同し こそ別れけれ てんま さいかく さすがちかまっ ちゅうこけじようせつ こレ玉れば、 く西鶴の作品によれば、甫水なる人物が、天満の 流石に近松、この単文中に、夜講釈のさま、聴講料 は知っていたと述べているが、中古戯場説ー どうとんばりげんろく ぜっこうし から仕方咄 ( ゼスチャー入の話し方 ) まで、皆紹介し 「江戸舌耕士の祖とも云ふべし、一生太平記楠が軍天神 ( 天和元年難波の只は伊勢の白粉 ) や道頓堀 ( 元禄 こうだんぜっこう しこう 元年武家義理物語 ) で、色々の芝居見世物にまじっ のみ談ぜし」と言う講談舌耕の徒だったのである。 てある。ついでに京都の様子にうつると、支考の俳 はらえいたく え望じま さかい しじようがわら ちかまつもんざえもん て、太平記を読んでおり、道久も上手の名があっ 文「涼みの賦」は、四条河原のタ涼みを述べて「太平 西で近松門左衛門も、堺の夷島で、講談の原栄宅 うきょぞうし じようきよう と - 再 つれづれぐさ はうえい たらしい ( 貞享三年好色一代女 ) 。浮世草子は一種の と組んで、徒然草を読んでいる処から見て、事実 記には、浪人をた、すましむ」とあり、宝永四年の昼 さいかくにつばんえいたい かくう これは架空の人物だが、西鶴の日本永代風俗小説で、これらは事実と思ってよい。少々お夜用心記には、北野七本松の太平記読みの図をか けいせいつれざみせんはうえい おおさかしんまち すじかいばし かんじん かんだ ぐらじようきよう くれるが、傾城連三味線 ( 宝永二年 ) には大阪新町 かげている。野天に床几を連らねて、手品などの見 蔵 ( 貞享五年 ) では、神田の筋違橋で、太平記の勧進 そうはっ の廓の西口にも、太平記読みが出ていたと言う。私 読み ( 聴講料をとって読むこと ) をやる男が登場する。 世物に並んだ一床几に、紙衣姿惣髪の浪人とおば せきねまさなおぐんだんらくごげんりゅう さいかく の長い疑問であるが、「関根正直の軍談落語源流」 しき男が、本を開いて座し語っている。左の方に紙 西鶴のことで、江戸の人通りの多い処での風景を てんな なにわ おおさか ところ かみこ ぜひ 156

9. グラフィック版 太平記

あしカ功ーどのじようらく げんけ たかうじ つ「足利殿上洛」足利高氏は源家の名門の 出ながら世の趨勢から幕府に組していたが りんじ 秘かに期する処あって幕府追討の帝の綸旨 を賜わるべく画策していたその一方何気 ない顔で北条高時の館におもむくのだった かくさく きではありません。ともかくも相模入道の申されるまま にその不審を晴らし、御上洛なさってのちに、大事の御 計略をめぐらされるがよかろ、つと存します」 なっとく この筋の通った言葉に足利殿も納得して、御子息千寿 おうどの そうしゅう 王殿と奥方である赤橋相州の妹を鎌倉へ止め置かれ、一 きしようもん 枚の起請文を書いて相模入道のところへ送られた。相模 入道はこれによって不審も晴れ、大いに喜んで、高氏を 自邸に招いていろいろとほめそやし、 はち 「あなたの御先祖から代々伝わる白旗がある。これは八 まんたろうよしいえどの かとくそうぞく 幡太郎義家殿から、代々の家督に相続されて大切にされ こよりともきよう じゅうはう こうしつ ぜん てきた重宝でありましたが、故頼朝卿の後室、二位の褝 尼が受け伝えて、当北条家に現在まで所持して来たもの です。類まれな重宝とは申しながら、他家にとっては何 せん の役にも立ちますまい。そこで、この旗をこのたびの餞 ぞく ごせい 別に差しあげます。これをかかげて一刻も早く賊を御征 べっ 0 ふしん 0 じようらく ミ心ョ ) 一 0 0 せんじゅ 京都へ到着の翌日、足利高氏は密使を仰耆お山の後醍 つか ついとう りんじ 醐帝のもとへ遣わし、お喜び一入の帝から朝敵追討の綸旨を・ ~ いただいていた。そんなこととは夢にも知らす、幕府軍は来 やわたやまざき ~ たるべき八幡・山崎攻撃戦の作戦会議にこの高氏を加えてい ~ たのである。 げんこう 元弘三年四月二十七日は八幡・山崎の合戦、正面の激突は 火花を散らして結局は官軍の優勢が伝えられる中、背後にま かつらがわほとり ばうかん ・わるべき高氏勢は桂川の畔に酒盛りをして傍観していた。 や 【がて正面の合戦で大将討死の報が伝わると、高氏はいざとば おいのやま しのむら ~ かり大江山 ( 老ノ坂 ) を越え篠村へ急がれたのであった。 たかうじしのむら 高氏臂に到着 足利殿は篠村に陣を張って、近国から軍勢を召集され くげのやさぶろうときしげ たところ、この国の住人で久下弥三郎時重という者が、 ひき 二百五十騎を率いてまっさきに馳せ参した。その旗の紋 や笠印にはみな「一番」という文字が書かれていたので、 こうのうえもんの 足利殿はこれを御覧になって不思議に思われ、高右衛門 ばっ 伐ノ \ ださるト小、つに」 ふくろ そういって錦の袋に入れたまま、入道手すからこれを 高氏に贈り、そのほかにも、乗り替えのためにと飼馬に くら しろがねかざ しろぶくりんよろい りよう 銀飾りの鞍をおいて十頭、白幅輪の鎧十領、黄金作りの たら ふり ひきでもの 太刀ひと振を添えて引出物とされた。 うえすぎにつき ほそかわ いまカわ 足利殿御兄弟、それに吉良・上杉・仁木・細川・今河・ あらかわ 荒河以下の御一族三十二人、そのほか名家の人々四十三 ひき げんこう 人、合せて率いる三千余騎は、元弘三年三月二十七日に 鎌倉を発進、高氏殿は本隊大将と定められて、名越尾張 守高家に三日先行して、四月十六日に京都へお着きにな かさじるし そ ひとしお は こがねづく

10. グラフィック版 太平記

こうのもろなお 0 足利方の有力な武将高師直は病気療養中で えんやはう とぎ あるお伽の衆のつれづれ話の内に塩冶判 がん 官の奥方の美しさを聞き秘かに心を踊らせた 0 師直からとりもちを命じられた老女が奧方 に会うが奧方は退ける太平記絵巻 ( 上・下 ) こうのもろなおかおう 高師直の花押 もろなお 塩冶判官の讒死 おわりのかみたかつね やがて北国の官軍がしきりに蜂起して、尾張守高経は ′、ろ - まる 黒丸の城を追い落されたと聞えてきたので、京都中はこ とのほかあわてふためき、救援の軍勢を下向させようと 評議決定した。即刻、四方面の大将を決定し、それぞれ の国へ軍勢が増派された。 こうのこうずけのすけもろはる か力のし、 すなわち高上野介師治は大手の大将として加賀・能登・ みや ひき えっちゅう 越中の軍勢を率い、加賀国を経て宮の腰から攻め向かった ときだんじようしさつひつよりとお 土岐弾正少弼頼遠はからめ手の大将として美濃・尾張の あなま 軍勢を率い、穴間・郡上を経て大野郡へ向かった。佐々 三郎宦氏は州の軍勢を率い、木目靏を越えて敦 賀の港から攻め向か 0 た。恥宦部は海路の大将と そろ ひき して、雲・信耆の軍勢を率いて軍船三百艘を揃え、他 の三方からの寄せ手が攻め近づくころあいを計り、津々 おそ りんきおうへん 浦々から上陸して敵の北小後を襲い、陣をてて臨機応変 に戦えと堅い打合せが行なわれた。 ところが陸路を向う三方面の大将はすでに京都を出発 し、それぞれの国の軍勢を召し集められたから、塩冶判 官も自分の領国出雲へ下って、その用意をしようとして いた最中に、思いもかけぬ事態が生じて、高貞はあっと むさしのかみもろなお しうまに武蔵守師直のために討たれてしまった。事件の むつ 背景は何であったかと尋ねてみると、この高貞が長年睦 ましくして来た女房に師直が想いをかけ、そのために理 由らしい理由もなく討たれたのだということであった。 そのころ師直は軽い病気をしており、しばらくは出仕 ; つむ もせすに籠っていたので、恩顧を蒙った家来衆がこれを えんやはうがん ざんし おおて おおの ~ 一おり 0 なぐさ 一しゅ・一 - フ ととの 慰めるために、毎日酒肴を調え、諸芸の上手どもを召し ざきようもよお 集めて芸をつくさせて座興を催していた。あるとき、月 おぎ かたむ も傾き夜も静かに深まって、荻の葉を渡る風が身に浸み カ・、い・つ るような心地のするおりふし、真都と覚都と呼ばれるふ けん・・う たりの検校がつれ平家を謡ったが、それはつぎのような 一節であった。 「近衛危の御とき、紫宸殿のうえに鷸という鳥が飛び げんざんみよりまさちよくめい 来たって夜毎に鳴いたのを、源三位頼政が勅命を奉して 射落したので、上皇はこのうえなくお喜びになって、そ ほうび おんぞ の場で紅の御衣を褒美として肩にかけて与えられた。 『このたびの褒美としては、官位を進め国守に補任して もまだ十分ではない。それにつけて思い出したが、頼政 ふじつほあやめごゼん は藤壺の菖蒲御前に思いをかけて、苦しいもの思いに沈 ほうび んでいると聞いた。今夜の褒美には、この菖蒲御前をあ うわさ た、疋ることにしよ、つ。しかし、頼政は噂に聞くばかりで この女をまだ実際には見ていないようだ。そこでひとつ、 同しような女房たちをあまた並べて、彼がそのまえで選 びわすらうようならば、あやめも知らぬ恋をするかなと 笑ってやろう』 帝はこう仰せになり、後宮の美女三千人のなかから、 しさっぞく 花や月にも見まごう女房たち十二人を選んで同し装束を きんしゃうす させられ、ほのかなそぶりも見せないように、金紗の薄 絹のなかに控えさせられた。それから頼政を瀨韆の確 びさし 廂の間に召され、ひとりの更衣を使として、 あさか 『今夜の特別の恩賞としては、浅香の沼のあやめをくだ されよう。古歌にいうように、あやめ引く手はものうく とも、手すから引いて行って自分の家の妻といたせ』 しんいち 128