せた 徒かなお野心を抱いているところであり、まもなく勢多 あじろ を寒いでしまうことだろう。あたかも籠のなかの鳥、網代 ろくはら のが すき の魚のように、遁れ出る隙もなかったから、六波羅の軍 勢は表面勇み立っ様子でも、内心は驚きあわてていた。 うんなんばんり えんせい かって唐朝が雲南へ万里の遠征をくわだてたとき「各 そうてい 戸に三人の壮丁あれば、そのひとりを抽きとって兵に加 ちはや えた」といわれている。まして千劔破はどの小城ひとっ ろくよら を攻め落すために、六波羅は諸国の軍勢の底をはたいて さし向けられたのだったが、その城が未だ落ちないうち に禍がはや身内から起って、正義の御旗がたちまちに京 都の西郊に近づい のが これを防ぎ止めようとするには軍勢が少なく、 逃れて 身を救おうとすると道はすべて塞がれていた。ああ、ま えもってこうなることがわかっていたら、京中の軍勢を これはど外へさし向けなかったものをと、両六波羅をは ふさ ふさ か ) 」 たカ・うししレ ) しら じめ一同後悔したがあとの祭であった。 かねがね六波羅において評議されていたことは、 こお、つ 「今度は諸方の敵が呼応して、大勢で攻め寄せて来るか へいたんち ら、平坦地での合戦ばかりではとても叶うまい。城塞を築 いてときどき馬の足も休め、武士の意気も立て直して、敵 か近ついたらそのたびに駆け出して戦うのがよかろう」 やかた かも というわけで、六波羅の館をなかに囲んで、鴨の河原 に面して七、八町にわたり堀を深く掘って川水を引き入 かん ぶてい こんめいち れたので、あたかも漢の武帝が掘らせた昆明池の春の水 に、夕日が沈んで広々と波立っているさまを思わせた。 やぐら 残りの三方には芝築地を高々と築いて櫓を立て並べ、 さかも、 とつけっしんこう 逆茂木を幾重にも引きまわしたので、唐代、突厥の侵攻 えんしゅう じゅこうじよう を防ぐために築かれた塩州の受降城もかくやと思わせて 大げさであった。 しっさ ) いまさらこんな城を構えるのは、何やら策 があるように見えて、けっして深い智恵を示すものでは なかった。 けんかくざん 「剣閣山はけわしいとはいえそれに頼る者は失敗する。 ほぞ 根を深くし蔕を固くすることにはならないからである。 たの どうていこ 洞庭湖は深いといってもそれを恃む者は敗北する。人を おさ 愛し国を治めているわけではないからである」といわれ あんき ているとかし ) ますでに天下は二分して、国家の安危が ひょうろう この一戦にかかっているのだから、兵粮を捨て舟を沈め 背水の覚で謀りごとをめぐらすべきなのに、今日から こも もう逃げ足になって、わすかばかりの小城に立て籠ろう ぶリやく と、さきの心配ばかりしている武略のほどは情けないも のであった。 いくえ たよ かこ じようさい
われもわれもと上差を一本すっ献上したので、矢は社壇 つか を埋みつくして、塚のように積みあげられた。 やがて夜が明けると、前陣は早くも進発して後陣を待 おいのやま っ力い っていた。 大将が大江山の峠を越えられたとき、ひと番 やまばと の山鳩が飛び来たって軍勢の白旗のうえを舞った。 はちまんだいばさっ 「これは八幡大菩薩が飛翔して御加護を給わる験である。 この鳩が飛び行く方向に従って進め」 と命ぜられたから、先頭の旗手が馬を早めてそのあと じんぎ を追って行くと、鳩は静かに飛んで大内裏の旧跡、神祇 し ~ 引 ひしよう だいだいり しるし たカ・うし おうち かんらよう 官庁のまえの樗の木に止まった。 うちの 官軍はこの奇瑞を得て勇み立ち、内野を目指して駆け 進むにしたがって、その道すがら敵兵が五騎十騎と旗を 巻き兜を脱いで降参してきた。足利殿が篠村を出立され う、」ん たときは、軍勢わすかに二万余騎であったのが、右近の 馬場を通過するころには五万余騎になっていた。 ろくはら 京における幕府方の本拠六波羅に対する総攻撃がはじまっ あしかがぜい あかまっぜい ちくさぜい ~ た。北方から足利勢、西方から赤松勢、南方からは千種勢が 押し寄せ、六波羅勢六万余騎はこれを迎え撃った。激戦のう こうごんてい 】ちに六波羅軍は各所に敗色濃く、ついに光厳帝等を奉して関 みち ときます ・東へ逃れる途すがら、六波羅一方の大将北条時益は戦死、近 みのくにばんばしゆく えちごのかみなかとき 【江国番馬の宿までのがれて越後守仲時以下四百余人の北条方 の面々は自害して果てたのであった。 この時光厳帝等は官軍の手に捕えられ、やがて京都へもど されている。 こうずけ りんじ ひそかに綸旨をいただいて本国上野 ( 群馬県 ) に帰り、準備 にったよしさだ を整えていた新田義貞は、幕府軍のために重い税を課せられ たことに怒り、これを機に兵を挙げた。はしめ百五十騎にす " ぎなかったその軍勢も、続々馳せ集る軍勢がっき、やがて二 ~ 十万七千余騎が武蔵野一帯に布陣した。 事の急を知らされた鎌倉でも、早速軍議をひらき体勢をと 夸ゝらださだくに かなざわさだまさ とのえて、金沢貞将を一方の大将に五万余騎、桜田貞国をも しゆったっ う一方の大将にして六万余騎を出立させた。 むさしのくにこてさしばら 両軍の激突は武蔵国小手差原を舞台に起り、入間川 ( 義貞軍 ) 】 と久米川 ( 鎌倉軍 ) に両陣ひかえて合戦は二日に及んだ。義貞 ぶばいがわら しりぞ 勢は優勢に陣を進めて、ついに鎌倉勢は分陪河原まで退いた。 これが小手差原の合戦 : : : やがて日を経て押寄せた義貞勢は 新手を加えた鎌倉勢に今度は分陪河原の合戦で敗れ去るので ある。 たす この時、三浦義勝が義貞を援け、ふたたび分陪河原に押寄 きっ せて鎌倉勢は大敗を喫したのであった。この弱り目に、六波 羅勢を率いた北条仲時が、近江の番馬にて果てるの報も鎌倉・ にを ) を ) いた。 かぶと みうらよしかっ
じようもろなお 尉師直を召されて、 「久下勢の者どもが笠印に一番という字を書いたのは、 もともとの家紋なのか、あるいはまたここへ一番に馳せ 参じたという符なのか」 もろなおかしこ たず と尋ねられたところ、師直は畏まって、 「あれは由緒ある紋でございます。彼の先祖である武蔵 といのしようすぎやま うだいしようみなもとのよりともどの くげのじろうしげみつ 風の久下二郎重光は、右大将源頼朝殿が土肥庄杉山に御 旗あげをなさったとき、一番に馳せ参じましたので、頼 朝殿はこれを大層お喜びになり、『もし自分が天下を取 おんしよう ったなら、一番に因 5 賞を与えよう』と仰せになり、御自 分で一番という文字を書いて与えられましたものを、そ のまま家紋としているのでございます」 しるし ばんなじ 足利家の創建になる阿寺代々の厚い尊崇を受けた ( 栃木・足利市 ) むさしの とお答えしたので、 「それではこの者が最初に参ったことは、わが源氏の家 きちれい の吉例なのだな」 しお と、足利殿のお喜びはひと入であった。 こも あだちおぎの こうせんじ もとから高山寺に立て籠っていた足立・荻野・小島・ いんでんほんじようひらじよう わだ しまさら他人 和田・位田・本庄・平庄の者どもだけは、 ) たんば わかさ したて の下風に立っことはできないと、独自に丹波から若狭へ 越えて北陸道から京へ攻めのばろうと企てた。 ながさわ しうちゃまのうちあしだ しかし、それ以外の久下・長沢・志宇知・山内・葦田・ 一は - フかへ おやま よだ 余田・弗・洳釶・小山・波々伯部の勢、そのほか近 国の者どもは、ひとり残らす足利殿のもとに馳せ参した。 篠村の軍勢はほどなく増えに増えて、その数はたちまち 二万三千余騎になってしまった。 ろくはら 六波羅ではこの情報を得て、 あんび 「さては今度の合戦が天下の安否を決定するものとなろ しゅじようじようこう う。もし万が一敗れることがあったら、主上と上皇をお みやこ 連れして関東へ下向し、鎌倉に都を建てて、再度大軍を ぎやくぞくついとう 発し、逆賊を追討すべきである」 と評議が決し、さる三月から北の六波羅に仮の皇居が ぎようこ、つ しつらえてあったところへ、上皇と主上の行幸をお願い かじいのにほんしんのうてんだいざす 申しあげた。梶井二品親王は天台座主であられるから、 たとえ世がどう変っても御身には何の御心配もあるはす きんじようこうごんてい がないのだが、ただ今上光厳帝の御兄弟であられるから、 らようきゅう しばしのあいだ主上のおそば近く皇位の長久をお祈り申 やかた そうと思われたか、この方も同様に六波羅の館へお入り こう ) 」う こうたいごう によいん くぎようてんじようびと そればかりか、皇太后・皇后・女院や公卿殿上人、三
「落下の雪に踏迷ふ交野の春の桜狩り紅葉の錦を衣て帰る嵐の山の秋の暮・・・・」俊基関東下向の段はこの有名な文章で彩られる もみし カ・たレ ) すす 擁して丐前ます。 こころ すべか わがこっ 知んぬ汝遠く来たる須らく意有るべし、よし吾骨を しようこ、つ へんおさ 瘴江の辺に収めよ ( 朝に一通の諫めを天子に上奏すれば、タベには八千里のか ちょうよ - フ あやま せいじよう なた潮陽に流される。聖上のために過ちを除こうとてしたこ よせい とだから、衰え朽ちた身でどうして余生を惜しもうか。雲は らんかん 秦嶺にたなびいて故郷の家は見えす、雪は藍関の道をふさい 遠くから来てくれたそなたの好意はよ でわが馬は進まない どっけ ばんち くわかった。このうえはどうか毒気のたちこめる蕃地で私の 骨をひろって貰いたい。 かんしよう 韓湘はこの詩を袖に入れて、泣く泣く東と西に別れて 一丁っこ。 それにしても、「痴れ者のまえでは夢を説いてはいけ ない」というのは、まことに真実をいいあてた言葉であ おろもの る。愚か者はとはうもないこしつけの解釈をしないとも かぎらないからである。それと同しことで、この講義を しようれい 聞いていた人々が、昌黎の詩文を不吉だとしてきらった のは愚かなことであった。 ときよりかず かたん この討幕計画に荷担していた土岐頼員は、ある夜の寝物語 ぶぎよう ろくはら いったん にことの一端を妻に語ってしまった。妻は父六波羅の奉行に たじみくになが これを知らせ、六波羅勢は謀って土岐頼貞・多治見国長を攻 めとった。 としもと しゃ この時、資朝・俊基も召取られ鎌倉へ送られた。俊基は赦 くまわか めん ・免されたが、資朝卿は佐渡へ流され、十三歳になる子息阿新 まる 丸は京より父を尋ねてこの島まで渡って行ったのであった。 あだ やまぶし くまわか 結局父資朝は斬られてしまうが、阿新は父の仇を討ち、山伏】 の助けで京へ帰った。 らよう てんだいざすそんうんほっしんのうおおとうのみやもりながしんのう 一方、天台座主尊雲法親王 ( 大塔宮護良親王 ) による関東調 ことも ろくはら えんかんもんかんちゅうえん 伏も事漏れて、圓観・文観・忠圓の三僧が六波羅に召取られ やがて三人の僧の白状によって事はあらわれた。 すけとも じようそう 20
00 かく語られると、正成は弓矢とる身の名誉これに過ぎた しの るはなしと思ったので、何の迷いもなく、すぐに忍んで かさぎ さんじよう までのこうじらゆうなごんふじふさきよう 笠置へ参上した。帝は万里小路中納言藤房卿を通して、 せいばっ 「関東征伐にあたって、事情あってそなたを頼みに勅使 を立てたところ、ときを移さす馳せ参したことは、帝の お喜びもひとかたではない。 さてそこで、天下統一の業 さくりやく を始めるにつけて、どのような策略をとれば、勝利を一 気に決めて天下の泰平をうることができようか。思うと ころを残さす申しあげよ」 かしこ おお と仰せがあった。正成は大いに畏まって、 「鎌倉武士の近ごろの逆無道ぶりは、すでに天道のと がめを受けるほどでございます。その衰え乱れ、弱りは てんらゆう てたのに乗じてこれに天誅を加えるのに、何の困難がご さいましよ、つ。たオ ご天下統一の業が成功するには、武略 ちばう と智謀とのふたつが必要でございます。もしまともに軍 勢をぶつけて戦いましたら、わが六十余州の武士を集め 、トん むさしさがみ て戦っても武蔵相模一一国の勢に打勝っことはむつかしい でしよう。しかしもし策略をめぐらして相争うなら、関 えいり くだ かつらゆう 東方の武力はやみくもに鋭利な刃を摧き、堅い甲胄を打 破るだけの能しかないものです。これは計略にかけやす いということであって、恐れるに足らぬところです。勝 敗は合戦のつねでございますから、一時の勝負を必すし もお気にかけられるにはおよびません。この正成ひとり がまだ生きているとお聞きくださいましたら、帝の御運 は必す最後には開けるものとお考えください」 たの かわち 聞くも頼もしげにこういって、正成は河内へ帰って行 かさぎ ろくはら かすやさぶろうすだじろう 笠置の帝に対して、幕府勢は六波羅の糟谷三郎・隅田次郎 ざえもん とえはた 】左衛門を筆頭に十万余騎がこの城を十重二十重に取り囲んだ。・ あすけしげのり ふんせん 城方には足助重範などの奮戦があって、血で血を洗ううち、 さくらやましろうにゆうどう きょへい かわち・、十の要さしげびんご 【天皇がたに河内の楠正成・備後の桜山四郎入道の挙兵が伝わ はうじようたかとき ・り、これにあわてた北条高時は二十万の大軍を笠置城へ派遣 さき すやま こみやま ・することになった。そんな中で、幕府側の陶山・小見山が先 がけ 【懸して城中に忍び入り火を放つにおよび、ついに城は落ちた。 かさぎ 】これが笠置の合戦である。 ふじふさすえふさ 後醍醐帝は藤房・季房二人のみを随えて笠置を落ちられた とら 、けど ともど - も 】が、やがて捕われ、多くの生捕られた人々共々宇治平等院よ げんこう ~ り京六波羅へ連行された。年立ちかえって元弘二年、これら えんとうおきの 】囚人は次々死罪流刑に定まり、帝は遠島、隠岐島へ移され給 】、つこととなった。 中宮さまの御嘆き おきのくに うつ 三月七日、 いよいよ先帝後醍醐が隠岐国へお遷りにな ゃいんまぎ る噂が流れて来たので、中宮禧子は夜陰に紛れて、六波 ごしょ 羅の御所へお出かけになった。中門に御車を寄せると、
なかとき 0 北条仲時一門の墓新田義貞の鎌倉攻めに あし力、カーたかうじ ろくはら 呼応するように京都では足利高氏が六波羅を たんだい 攻める高氏に追われた六波羅探題北条仲時 ばんば は近江番馬の宿で進退極まり一族四百三十 余名と自刃して果てた ( 滋賀・番馬蓮華寺 ) て祈られた。 かいびやく あまてっすおおみかみ 「伝え承るに、日本国開闢の主神、伊勢の天照大神は、 ほんちだいにちによら、 しゅじようさいど そうか、 本地は大日如来であられ、衆生済度のため仮の姿を滄 ごだいごてい の竜神として現わされたと聞きます。わが君後醍醐帝は はんぎやく その御子孫でありながら、叛逆の臣のために西海の波間 に流されておられます。義貞はいま臣下の道をまっとう のぞ せんがため、武器をとって敵陣に臨んでおります。その こころざし 志はただに帝の饅化をお助け申し、人々の心を安からし めんとするにあります。願わくは、内海外海の竜神など はちぶしゅう 八部衆よ、私の忠義に免して、潮を万里の沖遠く退け、 うけたまわ たかとき 北条高時の腹切りやぐら北条氏の総帥高時はここで割腹する ( 神奈川・鎌倉 ) 道をわが三軍のために開きたまえ」 まごころこめてこう祈念すると、みすから差しておら こがね れた黄金作りの太刀を抜いて海中へ投しられた。 この願いを竜神がまことにお聞き入れになったのだろ うか、その夜の月の入方に、これまでまったく潮の退く ことなどなかった稲村が崎が急に二十余町にわたって干 上り、砂浜が広々と横たわった。横から矢を射かけよう と構えていた数千の軍船も、引き行く潮に流されてはる かの冲に票い、不田 5 議というにも類のない事態が起った。 義貞はこのさまを御覧になり、 かわ ぜんかん 「一ム、疋聞くに、 前漢の弐師将軍は、城中の水がっきて渇 きに責められたとき、刀を抜いて岩石を突き刺したとこ ろ、うずまく滝かにわかに湧き出したという。また、わ しらぎ じんぐうこう′」う しおひる が朝の神宮皇后は、新羅を攻略なさったとき、自ら塩乾 たま 珠をとって海中に投げられたところ、海水が遠くひいて ついに戦いに勝を収められたという。これまさに和漢の きちれい きずい 吉例と同しであり、古今の奇瑞の再現である。さあ進め、 丘 ( ど 9 も」 おおだち と命じられたので、江田・大館・里見・鳥山・田中・ はねかわ 羽河・山名・桃井の諸将をはじめとして、越後・上野・ むさし さがみ 武蔵・相模の軍勢など六万余騎が一隊となり、稲村が崎 の遠干潟を真一文字に駆け通り、鎌倉の町中へ乱入した。 多くの守兵はこれを見て、後にまわった敵を討とうと すると、まえの寄せ手が背後を襲って攻め入ろうとする。 まえの敵を防ぎ止めようとすると、後にまわった大軍が 退路を塞いで討とうとする。進退ともに途方に暮れ、東 に西に心は迷って敵に向ってまともに戦うこともできな えちご こ - フずけ
あしかカたか、フじじよ、フらく 面の兵には合戦をさせ、あとに陣する者どもは手に手に 足局氏の上洛 くず 鋤鍬を持って山を撼り崩そうと企てた。そして本当に、 うって やぐら 討手を都にさし向 後醍醐帝が船山においでになり、 城正面の櫓は昼夜三日で思ったより楽に掘り崩してしま はやうま ろくはら けられていることが、六波羅からの早馬によってしきり った。人々はこれを見て、最初から合戦をやめて掘れば に関東方に報告された。しかも事態はすでに急を告げて よかったのにと後海し、今度はわれもわれもと掘ったの ひょうぎ さがみにゆうど、ったかとき いるとのことなので、相模入道高時は大いに驚き、評議 だが、周囲一里以上の大きな山のことだから、そう簡単 じようらく のあげくさらに大軍を上洛させて、その半分は京都を警 に全体が掘り崩されようとは見えなかった。 くすのきまさしげ ちはや がんきよう 固し、主たる軍勢は船上山へ攻め寄せよと一決して、名 このように楠正成が千劒破 ( 千早 ) 城で頑強に抵抗、奮戦す はりまあかまっえんしん みやがた とざま こうのぜい ごやおわりのかみ ~ るに応じて、播磨に赤松円心、伊予に河野勢が宮方に旗を上 越尾張守を大将として、外様の大名二十人が召集された。 あしかがじぶのたいふたかうじ 【げ、中国路・四国路をおさえてしまった。 おきの ごだいご そのなかにあって足利治部大輔高氏は、おりから病気 この情況をうけて、隠岐島にあられた後醍醐帝は脱出をは おんともろくじよっのしさっしさっちくさただあき で起居もまだ楽ではなかったのに、再び上洛軍の数に加 ~ かられた。御供は六条少将 ( 千種 ) 忠顕ただ一人、身をやっし ′」う ついせき なわのみなと しゆったっさいみ夕、 商人船で追跡をのがれ名和湊にお着きになった。この地の豪 えられて出立の催促がくりかえし届いた。足利殿はこれ みかどむか ぞくなわながとし ~ 族名和長年は意を決して帝を迎え、お山 ( 島根県 ) に砦を築 に対して、心中ひそかに置りを感して、 いて立て籠った。 おきのほうがん 「自分は父の喪に服してまだ三月にもならす、悲しみの 追って攻め寄せた隠岐判官の勢は、名和勢に打負けて散々 ~ の体であった。やがて諸国の軍勢が船上山に馳せ集る。 涙もいまだ乾かないところだ。それに病いに侵されて身 せいとう かいふ′、 の恢復もおばっかないというのに、征討の役務などを命 しられて召し出されるのは腹立たしいことだ。とき移り きせん こと変って貴賤もその位が入れかわったとはいえ、かの しんせき はうじようしろうときまさ 高時は北条四郎時政の子孫にすぎす、臣籍にくだってす るいだい でに久しいときがたっている。自分は源氏累代の一族で こうぞく この道理を あり、皇族からもまだ遠くは離れていない わきまえていれば、ひとたびは君臣の関係についても考 えるべきであるのに、これほどまでに命令が出されるの おろ は、ひとえにこの身が愚かなるがゆえである。どう考え ても、このうえ重ねて上洛の催促をされるようなら、一 家をあげて京へのばり、後醍醐帝の御味方に参して六波 、」うばう 羅を攻め落し、わが家の興亡を決しなければなるまい」 すきくわ いらびきりよう 新田義貞像丸に一文字の一引両が新田家の旗印 ふんせん にったよしさた みやこ
と驚き入った様子で、頭を地にすり手をつかね、畳か へいふく らさがって平伏した。 まるたづく - うえ それから兵衛は、急いで丸太造りの御所を造営してそ せきしょ こに大塔宮をお守りし、四方の山々に関所を設け、路を ふさ くすし塞いで用心を厳重にした。しかし、これではまだ たけはらはちろうにゆうどう 武家滅亡の大計はむつかしいと、叔父の竹原八郎入道に ことの次第を話したところ、竹原入道はすぐに戸野に同 やかた 意して味方になった。自分の館へ大塔宮をお迎えし、な らびなく忠義の様子を見せたので、宮も御安心になって、 ここに半年ばかり御滞在になった。 ごはいりよ そのあいだに人に見知られまいとの御配慮から、僧体 から世俗の姿にお返りになり、竹原八郎入道の息女を御 ′」ちょうあい しんじよめ 寝所へ召されてことのほかの御寵愛だった。そこで主の こころざし 入道もますますこの宮に志を寄せ、近くの村の人々も次 第に宮方に帰順して、逆に武家方をさげすむようになっ て行った。 みら よしてる くまののべっとうじよう・ヘんおんしよう ごうみん しかるに、幕府方の熊野別当定遍は恩賞によって郷民の心 とつがわ おおとうのみやもワながしんのう 【を誘い、ついに大塔宮 ( 護良親王 ) は十津川を脱出して吉野山 じようかく ざおうどう 】中に城郭を構えられることとなった。吉野蔵王堂の僧徒三千 したが ・余騎がこれに随ったのである。 かさぎ じようらく かって、笠置の城をめざして上洛して来た北条の大軍三十 たいきよくすのきまさしげ ・万は、到着の前に笠置落城のことを知り、大挙楠正成の立て かわち あかさかじよう じゅうおう きしゅうき 籠る河内の赤坂城へ向ったのであったが、正成縦横の奇襲奇 ではな 】略に散々にいためつけられて出端をくしかれた。しかし、多 しひょうろう ぶせ、 勢に無勢、兵粮攻めには遂にたまらす、正成は自害をよそお って山中へ逃れたのであった。 げんこう 翌元弘二年四月、油断していた河内国へ突然に楠勢が討っ ゅあさぜい 】て出て来た。あわてる幕府方湯浅勢を簡単にうち破り、住吉・ じん ・天王寺のあたりまで進出した正成は、渡辺の橋の南に陣をと ろくはら すだ たかはし いくさぶぎよう った。京の両六波羅からは、隅田・高橋を軍奉行として五千 余騎が向けられたが、またも正成の奇略に大勢が川に追い落 されて、ほうはうの体で京へ逃げ帰る始末、翌日誰がしたか 【六条河原に落書の高札が立った。 渡辺の水いかばかり早ければ 高橋落ちて隅田流るらん そんなうち、近畿から西国へかけて反鎌倉勢の蜂起が続き、 ~ 六波羅からの急報に関東から三十余万騎・その他諸国の軍勢 】あわせて八十万騎が京都に集まった。 元弘三年正月も末、この軍勢を三手に分けて、赤坂・吉野・ 金剛山の三城へ攻め向うことになった。まことに空前絶後の 【大軍事行動であった。 赤坂城では寄せ手に送水の道を塞がれ、命長らえて再び好 機の到来をとついに降参して出たが、初戦の血祭りにと全員 ~ 六条河原で首斬られて果てた。この悲報を聞いた吉野・金剛 山の二城の将兵はますます結束を固めた。 ふんせん 吉野の城では、大塔宮の奮戦があったが、幕府方の寄せ手 きんぶせんじ しゅぎよういわぎくまる にあった吉野金峰山寺の執行岩菊丸の計に守りを破られ、蔵 むらかみよしてる よしたか ふんとう ~ 王堂の広庭に別れの酒宴を儺し、村上義光・義隆父子の奮闘 ・討死などあって、宮は高野山へやっとのこと逃れられたので 】ある。 こも ふさ
武士のくらし 4 匳をー 、ら′、ちゅ・つ 洛中の武士 しようきよう あしかがたかうじ ろくはらたんだい 正慶二年 ( 一三三三 ) 、足利高氏軍が六波羅探題 にったよしさだ ガまくら を、新田義貞軍が鎌倉幕府を滅ばした。ここにお こころざし いて早くから討幕に志を傾け失敗をかさねていた ごだいご かんこう 後醍醐天皇も、ようやく隠岐の配所から還幸入京 した。 こう′」ん げんこう 光厳天皇は廃され、もとの年号の元弘に復した。 げんこう 元弘三年ということになり、翌年には建武と改元 した。 もりながしんのうたかうじ そのとき既に護良親王と高氏との対立、緊張が ごだいご 深刻化し、後醍醐新政の前途の多難が予測されて たいへいき 『太平記』の巻十二は、そのことから語り 始めている。 : しえし - うけ、 えんぎてん・く ともかくも、天皇は延喜天暦の古を憧蔭しての おうせいふつこ 王政復古を目ざす新政を始めた。だが天皇と少数 くぎよう へいあん かえ の公卿連が理想とした平安朝に復れるはすはない。 , 詞現実は、あくまでも各地多勢の地方武士による倒 な人云 、掲幕の成功によって開かれたに過ぎない。 えんぎ 、ユ・つと 古延喜のいわゆる聖代には、京都、宮廷へ足を踏 みいれる武士などいなかった。だが今は違う。歴 みやこおおじ 武史の主役はわれわれとばかり、都大路に地方武士 おう」ごうかつば ろんこうこうしよう か横行闊歩している。彼らそれぞれに、論功行賞 すがされたけれども、その基準はいいかげんなもの。 いなか を」。』。。 , 一。、に ) 。一「。。。』。一【」ト」」》ト。、【一いな公家社会は動揺したまま、田舎武士に応急 0 手当 和歌森太郎 けんむ 148
そもそも高氏卿はこれまで相応に忠功のある人であっ ・ふん て、分を過ぎて不都合があったとも聞いていないのだが、 おんい、とお もりながしんのう なぜ兵部卿護良親王はこれほど深い御憤りをもたれたの み ( もとたず ろくはら かと、その源を尋ねてみると、去年五月に官軍が六波羅 とののほういん を攻略したとき、殿法印の手勢が京中の土蔵などを打ち ろうぜき 破って財宝類を運び去ろうとしたので、この狼藉をとり 鎮めるべく足利殿の手でこれらを召し捕り、二十余人の さら 者を六条河原に首斬って曝したのであった。このとき掲 たかふだ げた高札に、 おおとうのみやさりい彎・し よしなたはいカ 「大塔宮の侍法師・殿法印良忠の配下が、白昼あちこち ちゅうばっ で強盗を働くので、これを誅罰したものである」 とつがわ おおとうのみや 十津川流域大塔宮の城がおかれた天険の地である と書かれてあった。殿法印はこのことを聞いて心穏や かならす、さまざまの讒言を仕組み手段をこらして、兵 いくえ 部卿親王に訴えられた。このようなことが幾重にも積も って宮のお耳に入ったから、宮もお怒りになり、志貴山 においでのときから高氏卿を討とうと思い続けておられ たが、帝のお許しがなかったので致し方なく自制してお られた。しかしその後もなお讒言がやまなかったのだろ ばうぎ う、ついに内々の謀議のうえ諸国へ命して兵を集められ 高氏卿はこのことを聞き及び、ひそかに宮の継母・三 そうもん みのつばね 位局を通して帝に奏聞された。 「兵部卿親王は帝位を奪い奉るために、諸国の兵を集め ておられます。その証拠も明白です」 そして、諸国へ発しられた宮の令旨を奪い取って御覧 に入れたので、帝はひどくお怒りになり、 るざい 「この宮を流罪に処せ」 せいりようでん と、清涼殿の御会宴にかこつけて兵部卿親王をお召し になった。大塔宮はこんなこととは一向に思いも寄らす、 ぜんく 前駆の侍ふたりと家人十余人を召し連れて、ひっそりと ごさんだい ゅうきほうがん なわほうきのかみ 御参内なさったのを、結城判官と名和伯耆守のふたりが あらかじめ君命を受けて待ちかまえ、殿上鈴の間で捕り ばばどの 押えるとそのまま馬場殿に押し籠めた。宮はきびしく蜘 もでさん 蛛手に桟を打った一間のなかで、訪れる者もなくただ涙 にくれて起き伏しされるにつけても、 げんこう 「これはなんというわが身の運命であろう。元弘の始め には武家のために身を隠し、木のしたや岩のはざまに露 と濡れた涙の袖を干すこともできす、やっと京都に帰り しようこ しぎさん