くすのきまさしげ 0 楠正成像横山大観筆九州からふたたび 京へ攻め上ってきた尊氏の軍を迎え正成は えいざん 帝に再度叡山にお移りになるよう進言するが とりあげられない異議を奉上することを諦 めた彼は討死を覚悟して前線の兵庫に向う 正成兵庫に咆フ ただよしどの 尊氏卿および直義殿が大軍を率いて上洛するので、官 むね 軍はこれを要害の地で防ぐために兵庫まで退いた旨、義 そ・フじよ、つ 貞殿は早馬の使者を立てて裏に奏上して来た。後醍醐 くすのきはうがんまさしげ 帝はひどく動揺され、楠判官正成をお召しになって、す みやかに兵庫へ下向し、義貞に力を合せて合戦するよう かしこ にお命しになった。これに対して、正成は畏まって自分 の考えを申しあげた。 「尊氏卿はすでに筑紫九カ国の軍勢を率いて上洛される とのことですから、きっとその軍勢は雲霞のように群れ ていることでございましよう。御味方の疲れはてた小勢 じんじよう をもって意気盛んな敵の大軍に対戦し、尋常に合戦した ならば、味方は必す敗れ去ると考えられます。そこで、 ここは新田殿をも京都へ召し返されて、また以前のよう えいざん工 - うこ - フ に叡山へ行幸なさるのかよろしゅうございましよう。こ よど きんき かわち の正成もいったん河内へ帰って近畿一円の軍勢で淀の川 たか、つじきよう はや - フ↓・ ひき ん己 Ⅲ査月 ひょうろ - フ ふさ 尻を塞ぎ、やがて両方から京都を攻めて敵の兵粮の底を つかせたならば、敵勢は次第に疲れて逃げ散る者も出ま しようし、味方は日に日に軍勢か集まって来ることでご ざいましよう。そうなったところで新田殿は叡山から押 し寄せられ、正成は背後をついて攻め上りますならば、 朝敵をただの一戦に滅ばすこともできるかと存します。 新田殿にもきっと同様のお考えがあるにちがいないので すが、道中で一度の合戦もしないのは不甲斐ないと思わ れることを恥として、あえて兵庫で踏み止まって防戦し ておられるのだと思います。合戦というものは、なんと いっても最後の勝利を得ることが大切でございます。と しんりよえんばう くに深慮遠謀あらせられて、朝廷の意を決せられるべき でございます」 そこで諸卿も、たしかに合戦のことは武士に任せるべ ばうもんのさいしレちきょただ きだと評議が傾いたのだが、そのなかで坊門宰相清忠が 重ねて強く自説を主張された。 「正成の申すことも十分理由はあるが、朝敵征伐に下さ ふ力い 106
えいざん 0 「山門より還辜」叡山に籠り戦を続けら きしようし人 ! ようい以 たかうじ れる帝に尊氏は起請文を添えて恭順の意 を表し帝が都へお帰りになることを勧めた にったよしさだ 帝はこれを受けて朝廷軍の総大将新田義貞 にも相談せす御輿を都へ向けようとされる おんこし 0 一 軍は帝の御返答を聞いて、 あざむ 「帝のお智恵は浅いとはいわないか、これなら欺くのは いとも簡単なことだ」 と喜んで、一癖あって味方につきそうな大名のところ へ、縁故を通じ気心を計りつつ、ひそかに回状をやって 味方に誘われた。 かんこう そのあいだに、還幸のことがひそかに決定をみたので、 いまみち 降参する気持のある者は、いち早く今路や西坂本のあた りまで陣を抜け出して還幸のときを待ち受けた。なかで えだひょうぶのしようゆきよしおおたちさまのすけうじあきら も江田兵部少輔行義と大館左馬助氏明は、新田の一族と あんび していつも一方の大将であったのだから、身の安否は新 力いじよう 、」うばう しん 田家興亡の運にかけるべきであったのに、どのような深 慮があってのことか、ふたりともに降参しようと十月九 そうぎら 日の早暁からます叡山の山頂にのばっていた。 義貞殿はこんなこととは夢にも知られす、従う将兵と 対面してなにごともない様子でいらっしやったところへ、 とういんのさえもんのかみさねよきトら 洞院左衛門督実世卿のもとから、 「たったいま、帝は京都へ御還幸になろうというので、 お供の人々をお召しになっていますが、そのことを御存 矢てしよ、つか」 と知らせて来た。しかし義貞は、 「どうしてそのようなことがあろう。御使の方の聞き違 しでありましよ、つ」 ほりぐらみののかみ と大して心騒ぎされる様子もなかったが、堀ロ美濃守 貞満はこれを聞くやいなや、 こんぎ工う 「江田と大館が、とりわけて用もないのに、今暁叡山中 堂へ参るといって登山したのは怪しいと思われます。こ だいり の貞満がます内裏へ参って、情況を見て参りましよう」 と、部下に持たせておいた鎧を取って肩に投げかけ、 のふみ うわおび 馬上で上帯をしめながら、両の鐙をあおって馬を急がせ られた。 かぶと 皇居が近づくと馬からおり、兜を脱いで下僕に持たせ て四方を見渡すと、還幸のときはもういまにもと見えて、 いカん お供する公卿殿上人は衣冠に威儀を正す者もあり、まだ おんこし ひろえん 武装のままの者もあった。御輿はまだ広縁に寄せてあり とうのべんふじわらののりくに やたのかがみひっ ないしのすけ 新典侍が八咫鏡の櫃を取り出して奉戴し、頭弁藤原範国 ひざまず はうけんまがたま が宝剣と勾玉奉持の役について御簾のまえに跪いていた。 えしやく さたみつ 貞満は左右の方々に軽く会釈して御前に参り、御輿の轅 さだみつ ほ、つさ、 ただ なめえ 117
0 筑後川合戦図九州の地は後年も足利方・ 朝廷方のニ勢力が大きく分立してしのぎをけ すった所尊氏没後も対立は続き南朝の懐 良親王は肥後の菊池軍を率い足利方の小弐軍 と筑後川をはさんで対戦し小弐軍を破った ィ一彦広ま、一三 たんばじ すか二十六騎の小勢でありながら、丹波路さして逃げて 行く二、三万騎の敵を将軍の一行だと思い込み、桂川の 西まで追ったものの、この大軍に逆襲されてひとり残ら す討たれてしまった。これを知って諸方に分れて追撃し ていた軍勢も、 「いたすらに深追いするな」 ということになり、みな都の町なかへひき返してきた。 このようにして日もすでに暮れたので、楠判官正成が総 大将義貞殿の前に進み出て、 「今日の合戦では思いがけす八方の敵勢を追い退けたと はいえ、討ちとった敵の数はそれほどではありません。 将軍が逃げのびたさきもわからすに、味方がわすかの軍 勢で町なかにいすわっているならば、やがて兵どもは財 宝に心をうばわれて、どのように命してもひとつにまと めることはできなくなるにちかいありません。そ、つなっ てしまえばまえのようにふたたび敵に取って返されて、 今度は必すや手のほどこしようかなくなるものと思われ ます。敵に少しでもきっかけを与えるならば、あとあと のムロ戦はしにくいことになりましよ、つ。ムフ日はこのまま にひき返されて、一日ゆっくり馬の足を休め、明後日に も押し寄せてもうひと勝負激しく戦うならば、必す敵を 十里二十里の外までも追い払うことができるにちがいあ りません」 といったので、大将もまことにもっともな意見だと、 ただちに全軍をあげて西坂本へ引きあげられた。 たんばじ 将軍尊氏はこのたびも丹波路へ退こうと、すでに寺戸 のあたりまで落ちのびておられたが、都の敵はひとり残 102
くすの ! ーさつら 0 若き楠正行兵庫へ向う正成は十一歳の嫡 子正行に「父が死んでも朝廷への忠義を忘れ るな」といい残して桜井の宿で正行と別れた 後に成人した正行は朝廷軍に加わり討死する べんのないし 図は秘かに恋心を寄せた弁内侍に会う正行 た人 堂 〔意 楠正行像わすかニ十ニ歳で若い命を散らした れた官軍がいまだ合戦もしないうちに、帝が都を遁れて えいざんよっこう 一年のうちに二度も叡山へ行幸なさることは、一方では 帝位を軽んすることにもなり、また一方では官軍が進む ひき つくしぜい べき道を失うことにもなる。たとい尊氏が筑紫勢を率い て上洛するといっても、その勢いはまさか、去年あの関 東八カ国を平定して上って来たときの勢威にまさるもの ではあるまい。あのときですら、およそ合戦の最初から 敵軍敗北にいたるまで、味方は小勢ながら、たびごとに なび これはまったく 大敵を攻め靡かせなかったことはない。 のところ、武士の軍略がすぐれていたからではなく、ひ とえに帝の御運が天命にかなっていたからにはかならな しゅう このたびも合戦の雌雄を帝都の外で決して、敵を一 撃のもとに滅ばすのになんの不都合があるというのか くすのき 卩」、南は兵庫へ下向すべきである」 只亥 - 麥ー これを聞いて正成は、こうまでいわれるうえは、もは や異議をいいたてるまでもないと、五月十六日に都を出 発し、五百余騎の軍勢で兵庫をさして下って行った。 正成はこれが最後の合戦になると思ったので、供をし ′くしまさつら ていた今年十一歳になる嫡子正行を思うところあって桜 井の宿から河内へ返し、別れにあたって教訓していった。 「獅子は子を生んで三日たっと、数千丈の岩壁からこれ を投げ落すが、子には獅子の天性があるから、教えられ らゆうがえ なくても宙返りをして死ぬことはないという。ましてや、 お前はもう十歳を過ぎているのだから、私の一言が耳に 残ったならば、この教訓にそむかないようにせよ。今度 の合戦は天下分け目のものと思われるゆえ、この世でお 前の顔を見るのもこれが最後だと思う。もし正成が討死 じよう のが 109
おき あんざいしよ くろきの 隠岐の後醍醐帝行在所跡建物に生木の丸太をそのままっかった粗末なものであったところから黒木御所と呼ばれた ( 島根・西郷町 ) しまどきまったくあ やがて久米の佐羅山にかかると、 くもま るはすのない雪が雲間の山の遠い峯にみえた。警固の武 たす 士を呼ばれて山の名をお尋ねになると、 ほ、つき 「あれは伯耆の大山と申す山でございます」 みこし と言うので、しばらく御輿を止められて、心のうちに 深く思いをこめて法文をとなえられた。 あかっきっ にわとり ほ - フお′、 あるときは暁告げる鶏の声に起き、茅屋の軒に照る月 あお の光を仰ぎ、あるときは板橋におく霜を躡に踏み砕い みやこしゆったっ て旅の日数を急いだので、都を出立して十三日目には みはのせきみなと 雲の美保関の湊にお着きになった。ここで御船の用意を じゅんぶう 整えて、島へ渡るに順風のときを待たれたのである。 こじまたかのり 児鷓高徳の忠節 びゼんのくに こじまびんごのさぶろうたかのり そのころ、備前国に児嶋備後三郎高徳という者がいた みかどかさぎ 帝が笠置におられたおり、御味方に馳せ参しるべく義兵 くすのきまさ . しげ をあげたが、目的を達するまえに笠置も落城し楠正成も じ力い 自害したと伝わって来たので、やむを得す自重していた。 うつ おきのくに おりから帝が隠岐国へお遷りになると聞いて、裏切る ひょうぎ 心配のない一族の者どもを集めて評議に及び、 じんこ - ざ 「『およそ仁に志す者は、命を惜しんで仁をそこねるよう なことはしない。むしろ身を殺しても仁を行なうことが ある』といわれている。その昔、衛の国王懿公が北方の ばんぞく こうえん 蛮賊に攻め殺されているのを見て、その臣弘演はこれを 見るに忍びす、自分の腹をかき割「て懿公の肝をそのな かに葬り、亡き君王の御恩をその死後に報じて死んだと いう。また、『義を見て為ざるは勇なし』ともいう。 だいせん さらやま は - フ - ・も・代 じちょう 32
われもわれもと上差を一本すっ献上したので、矢は社壇 つか を埋みつくして、塚のように積みあげられた。 やがて夜が明けると、前陣は早くも進発して後陣を待 おいのやま っ力い っていた。 大将が大江山の峠を越えられたとき、ひと番 やまばと の山鳩が飛び来たって軍勢の白旗のうえを舞った。 はちまんだいばさっ 「これは八幡大菩薩が飛翔して御加護を給わる験である。 この鳩が飛び行く方向に従って進め」 と命ぜられたから、先頭の旗手が馬を早めてそのあと じんぎ を追って行くと、鳩は静かに飛んで大内裏の旧跡、神祇 し ~ 引 ひしよう だいだいり しるし たカ・うし おうち かんらよう 官庁のまえの樗の木に止まった。 うちの 官軍はこの奇瑞を得て勇み立ち、内野を目指して駆け 進むにしたがって、その道すがら敵兵が五騎十騎と旗を 巻き兜を脱いで降参してきた。足利殿が篠村を出立され う、」ん たときは、軍勢わすかに二万余騎であったのが、右近の 馬場を通過するころには五万余騎になっていた。 ろくはら 京における幕府方の本拠六波羅に対する総攻撃がはじまっ あしかがぜい あかまっぜい ちくさぜい ~ た。北方から足利勢、西方から赤松勢、南方からは千種勢が 押し寄せ、六波羅勢六万余騎はこれを迎え撃った。激戦のう こうごんてい 】ちに六波羅軍は各所に敗色濃く、ついに光厳帝等を奉して関 みち ときます ・東へ逃れる途すがら、六波羅一方の大将北条時益は戦死、近 みのくにばんばしゆく えちごのかみなかとき 【江国番馬の宿までのがれて越後守仲時以下四百余人の北条方 の面々は自害して果てたのであった。 この時光厳帝等は官軍の手に捕えられ、やがて京都へもど されている。 こうずけ りんじ ひそかに綸旨をいただいて本国上野 ( 群馬県 ) に帰り、準備 にったよしさだ を整えていた新田義貞は、幕府軍のために重い税を課せられ たことに怒り、これを機に兵を挙げた。はしめ百五十騎にす " ぎなかったその軍勢も、続々馳せ集る軍勢がっき、やがて二 ~ 十万七千余騎が武蔵野一帯に布陣した。 事の急を知らされた鎌倉でも、早速軍議をひらき体勢をと 夸ゝらださだくに かなざわさだまさ とのえて、金沢貞将を一方の大将に五万余騎、桜田貞国をも しゆったっ う一方の大将にして六万余騎を出立させた。 むさしのくにこてさしばら 両軍の激突は武蔵国小手差原を舞台に起り、入間川 ( 義貞軍 ) 】 と久米川 ( 鎌倉軍 ) に両陣ひかえて合戦は二日に及んだ。義貞 ぶばいがわら しりぞ 勢は優勢に陣を進めて、ついに鎌倉勢は分陪河原まで退いた。 これが小手差原の合戦 : : : やがて日を経て押寄せた義貞勢は 新手を加えた鎌倉勢に今度は分陪河原の合戦で敗れ去るので ある。 たす この時、三浦義勝が義貞を援け、ふたたび分陪河原に押寄 きっ せて鎌倉勢は大敗を喫したのであった。この弱り目に、六波 羅勢を率いた北条仲時が、近江の番馬にて果てるの報も鎌倉・ にを ) を ) いた。 かぶと みうらよしかっ
第一一部合戦 0 化粧坂後醍醐帝に味方する新田義貞の大 軍勢は津波のように鎌倉へ押し寄せた 化粧坂は鎌倉の入口・通路として最も重要な 戦略地点のひとつで両軍とも猛将を配置し て一歩もゆすらす激突また激突をくり返した 鎌倉の合戦 にったよしさた さて、新田義貞が数度にわたる合戦に勝をおさめられ たと伝わると、関東八カ国の武士どもは雲霞のように群 とうりっ せきと れ集まって彼に従った。関戸に一日逗留して、軍勢の到 きちょう 着するのを記帳されると、総勢は六十万七千余騎となっ た。ここで軍勢を三つの隊に分け、その各隊にふたりの そうすい 大将をつけて全軍の総帥をさせた。 さしようぐん おおたちのじろうむねうじ えだの ますその一隊には、大館二郎宗氏を左将軍とし、江田 うしようぐん さぶろうゆきよし 三郎行義を右将軍として、その勢十万余騎を、極楽寺の さだみつ ほりぐち 切通しへ向かわせた。他の一隊には、堀ロ三郎貞満を上 おおしまさぬきのかみもりゆき 将軍とし、大嶋讃岐守守之を副将軍として、その勢合せ こぶくろざか て十万余騎を巨福呂坂へ向けられた。もう一隊には、新田 、、りこお ほりぐちゃまな いわまつおお 将を従え、堀ロ・山名・岩松・大井田・ 義貞・義助が諸 はねかわ もものい とりやまぬかだ いちのい 桃井・里見・鳥山・額田・一井・羽川以下の一族の者ど もを前後左右に配して、その勢五十万七千余騎をもって、 けはいざか 仮粧坂から攻め寄せられた。 ぶばいがわらせきと 昨日おとといまでは鎌倉中の人々は、分陪河原・関戸 ぜん の合戦で味方が負けたとは聞いても、依然としてたかを くくり敵勢を侮って、必すしもあわてた様子はなかった しろうさこんのたいふ のだが、日 乍日の夕方になって大手の大将・四郎左近太夫 しりぞ にゆうどう 入道が残兵もわすかに山内へ退いて来られたし、からめ おめまのほう かなざわむさしのかみさだまさ しーこうべ 手の大将で下河辺へ向われた金沢武蔵守貞将は、小山判 しもみち ちばのすけ がん 官と千葉介の軍に打ち負けて下道から鎌倉へひき返して 来られたので、これは予想外の重大事だとようやくあわ て始めた。 よしすけ さとみ あなど だ
あしかがたかうじ 足利尊氏は元来はその名を高氏といったが 後醍醐帝に味方して幕府軍を破った折そ たかはる の功を多とされた帝から御名前尊治の一字 これ以後の をいただき尊氏と名を変えた 尊氏足利家の隆盛は目をみはるものがあった を押えて顔色にも出さす、 「こちらから改めて御返事いたしましよう」 ひょうぶのたいふただ といって使者は返された。それから、弟の兵部大輔直 義をお呼びになり、 「これはど、つしたものか」 と意見を求められると、直義はしばらく思案してから、 「いま、この一大事を思い立たれたのは、まったく御自 身のためではなく、たた 、天に代って道ならぬ者を討ち、 帝の御ために不義を除こうとなさっているわけです。そ ちか のうえ、偽りの誓いは神もお聞き入れにならないといし きしよう しる 習わされております。たとえ偽って起請の言葉を記され みかど まも ちゅうれつこ・再ぎし ても、神仏はどうして真の忠烈の志をお守りくださらな いことがありましよう。なかんすく、御子息と奧方とを 鎌倉に残しておかれることは、大事のまえの小事にすぎ す、あながち御心を悩まされることではありません。御 ′」ようしよう 子息はまだ御幼少ですから、万一のことが出来したとき には、用心のために家来を少し残しておかれれば、それ がどこへなりと抱いてお隠し申しましよう。また奥方の あかはしどの ことは、お里の兄上の赤橋殿もおいでになることゆえ、ど うしてお気の毒なことなど起りましようか。『大業をな そうとする者は細かい謹しみにわすらわされない』と申 します。これしきの些事のまえにぐすぐすされているべ 云 ばへ しゆったい
にったよしさだ がわ 0 新田義貞が黄金作りの太刀を投じて潮が きわん ひ いなむら 干くことを祈念したという鎌倉稲村が崎の海 あーしか 0 れ ~ カ - ? じ 足利尊氏の花押 た さ かおう ゆいのはま そのうちに、由井浜に面した民家や稲瀬川のあたりに しやりん 火が放たれ、おりから浜風が烈しく吹きつけて、車輪の ような炎が黒煙のなかに飛び散り、十町二十町と離れた ところに燃え移って同時に二十余力所が火を吹いた。猛 火のなかから新田勢が乱入して、度を失う敵をここかし こで射倒し斬り伏せ、あるいは組み討って刺し違え、あ るいは生け捕ってものを奪うなど、さんざんに荒れ狂っ 煙にまかれた女子供が、追い立てられて火のなかとい あ わす堀の底といわす逃げ倒れるありさまは、さながら阿 双方ともに名だたる大カ同士が、一騎討ちの勝負をす かたず るぞ、あれを見よと騒ぎ立てて、敵味方ともども固唾を 呑み冷汗を流して、このさまを見物して控えていた。と かぶと ころがやおら嶋津は馬から飛びおりると兜を脱いで静か に身なりを整え、何をするのだろうと見ていると、恥知ら すにも平然と降参して義貞の軍勢に加わってしまった。 並みいる貴賤の者はみなこれを見て、いままで誉めそや していた言葉を裏返して憎まない者はなかった。 くだ これを降る人のはしめとして、あるいは長年恩顧を蒙 った家来たち、あるいは家代々御奉公の家臣どもが、主 君を見捨てて降人となり、親を捨てて敵方につき、まこ とに見るに耐えないありさまとなった。思えば源平両氏 が武威をふる、 したかいに天下を争い合うのも今日がか ぎりと思われたことであった。 ぶ たいーやくてん 修羅の一族が帝釈天に罰せられて刃のうえに倒れ伏し、 ごくそっむち あびじごく 阿鼻地獄の罪人が獄卒の笞に追われて鉄湯に沈むという のもかくやと思われ、語るに言葉なく、聞くだに涙を禁 し得ない惨状であった。 さがみにゆうどうやかた よじん そのうち、余燼が四方から吹きかかって相模入道の館 近くに火の手があがったので、入道殿は千余騎を率いて こも かさい やっ 葛西が谷に引き籠り、諸大将の軍勢はこの地の東勝寺に 満ちあふれた。この寺は北条家父祖代々の墳墓の地であ るから、ここで矢を射て敵を防がせ、心静かに自害しょ うという心つもりであった。 ながさきさぶろうざえもんにゆうどうしげん かげゆさえもん なかでも長崎三郎左衛門入道思元と子息勘解由左衛門 ためもと 、、り 2 こお 為基のふたりは、極楽寺の切通しへ出向いて攻め入る敵 こまらぐち を防ぎ止めていたが、敵の鬨の声がもう小町ロのあたり に聞えて、鎌倉殿の館にも火が入ったと見えたので、従 う軍勢七千余騎をそのまま残して、父子ふたりの部下六 百余騎を選りすぐって小町ロへ向った。義貞の軍勢はこ れを見て、なかに囲んで討とうとした。長崎父子はひと カ ぎよりんぜ っところに寄って魚鱗攻めに駆け破り、虎韜の隊形に分 れて追い散らし、七、八度ばかりも激しく攻め合った。 くもで じゅうもんじ 義貞の軍勢は蜘蛛手・十文字に蹴散らされて、若宮小路 へさっと退き、人馬にひと息つがせた 与っやっ そのとき、天狗堂と扇が谷とに合戦が起ったらしく、 さじん 縣躡の砂塵が激しく立つのが見えたので、長崎父子は左 右に分れて駆け向おうとした。息子の勘解由左衛門はこ お こんじよう れが今生の別れと思ったから、名残り惜しげに立ち止っ て、はるかに父の方を見やり、両眼に涙を浮べて行きか とど ねていると、父はきっとにらみつけ、馬を止めて声高ら とき ひき
らすひきあげて行ったと伝わったので、またまた京都へ やわたやまざき せた お帰りになった。このほか、八幡・山崎・宇治・勢多・ くらまじ 嵯峨・仁和寺・鞍馬路さして逃げのびた者どももこれを 聞き、みなわれもわれもと立ち帰って来た。 入京する自分の姿はわれなから恥かしかったが、いま となっても敵勢を数えて較べれば味方の軍勢の百分の一 もない。にもかかわらす毎回このように追い立てられて、 見苦しい負け方ばかりするのはただごとではない。われ えいざん じゅそ われが朝敵であるためか、または叡山で咒詛されている ためかなどと、みすからの作戦のったなさをさしおいて、 一同不思議がっていたのは愚かしい次第であった。 将軍の都落ち・筑紫へ 正月二十九日、官軍の総攻撃 ( 中でも正成縦横の奇略 ) あって、 みなとがわ ・将軍尊氏は丹波曾地へ落ち、二月二日さらに摂津・湊川へ移 二月六日、豊島河原 ( 打出浜 ) の合戦 びゼんこ ここでも敗れた将軍は、大友の勧めにより船路にて備前児 ちくぜんたたら 島へ、やがて筑前多々良浜に到着されたのであった。 この間、西国諸国の武士が義貞に離反して蜂起、特に中国 かっせんたん 路においては、赤松 ( 将軍方 ) と児嶋 ( 官軍 ) の合戦譚がそれぞ ・れ豊かに物語られる。 しように 九州に将軍を迎えて、小弐 ( 将軍方 ) と菊池 ( 官軍 ) が合戦し、 かしいのみや ・大勝した菊池勢はやがて香椎宮にある尊氏勢に押し寄せ多々 ・良浜の合戦となる。 この合戦に、将軍の小勢二百五十騎が菊池の五千余の大軍 を破ったのである。 五月十六、七日、福山合戦。官軍敗北。 五月二十三日 ( ? ) 新田義貞勢兵庫に引き退く。その勢二 万に足らす。 てしま つくし せつつ 103