よしさだ あしかカ , かくしつ 0 「新田・足利の確執」新田義貞と足利尊 ニを競い勢力 氏は群臣の中でも戦功の一 はく新新 も伯仲していたが領地の配分から仲が悪く なった両者の問は日々険悪となりある日 らゆうーーっ じようそうぶん 互いに相手の誅罰を願う上奏文を差し出した さがみのじろうときゅき あしかがさいしようたかうじ工う 足利宰相尊氏卿は相模次郎時行を討ち亡ばして東国は まもなく平静になったので、帝とのお約束があるうえは 何の不都合があろうかと、 いまだ仰せ書も下されないの ごういんあしかカせいい しようぐん に強引に足利征夷将軍と名のった。 らよっきょ 関東八カ国の支配権については勅許のあったことだと いうので、このたびの箱根・相模川の合戦に忠功あった 者どもに恩賞を行なわれた。このさ い、かって新田の一 族が拝領していた所領をことごとく領主なき土地という ことにして、それを土地を持たぬ少禄の士に割りふって 、》 0 イ彡ィッ - ン彡 / しまった。義貞殿はこのことを聞いて心中おだやかなら えちご す思われたので、そのかわりに自分の領国である越後・ こうずけするが 上野・駿河・播磨などで足利一族の支配する荘園を押収 して、それを自分の家来たちに分け与えられた。このこ とによって新田と足利のなかは悪くなって、諸国におけ る確執は止むときがなかった。 そもそも、この争いの根元をたどってみると、過ぎに し元弘の初年に義貞が鎌倉を攻め亡ばし、その功は誰よ りすぐれていたから東国の武士は当然みな自分の下風に 立つものと思っておられたところ、四歳になられた尊氏 せんじゅおうどの 卿の次男・千寿王殿が、合戦の終った六月三日に、下野 おおくらやっ 国から立ちもどって大蔵の谷にお入りになった。 ゅう尸、う・ 一方、尊氏卿が都で他にぬきんでた優遇をうけておら れるということが伝わり、これにしたがえば自分のこと も容易に帝のお耳に達し、恩賞に浴することもできると 思った関東八カ国の兵どもは、心がわりして大半が千寿 王殿の側についてしまった。しかも争いの理由はそれば かりではなく、かって義貞が鶴岡八幡宮の拝殿で敵の首 を実検し、その池で太刀や長刀を洗ったとき、最後に神 殿を打ち破って重宝類を引き出して御覧になると、なか ふたつひきりよう に錦の袋に入った二引両の紋の旗があった。義貞殿は、 えき ごさんねん はちまんたろうよしいえどの 「これは先祖の八幡太郎義家殿が、後三年の役のとき、 はうのう 神仏への祈願の書を添えて奉納された御旗である。とく に尊重すべき重宝ではあるけれど、中黒の紋の旗ではな いから新田の家の役には立たない」 と、おっしやったので、それを足利方の人々が聞きっ けて、その旗をお渡しくださるよう願い出た。ところが しもつけの
お当 心中ひそかにそう決意されたのであったが、そのこと に人々はまったく気つかなかった。相模入道高時は、こ くどうさえもんのじよう んな成行きに思いも及ばす、工藤左衛門尉を使者として、 がてん 「御上洛を延ばされるとは合点がゆかぬ」 むほん と一日に二度も催促された。足利殿はすでに謀叛の決 心を心深く堅めておられたから、かえって異議など申し 述べす、 「日ならすして上洛いたします」 と返答して、ただちに夜を日についで出発の準備を進 められた。 ところがその様子から、御一族や家来衆はもとより、 おさな きんだち 女性や幼い君達までひとり残らす上洛されるようだと噂 ながさきにゆうどうえんき きゅうきょ が伝わったので、長崎入道円喜はこれを怪しんで、急遽、 相模入道のもとに駆けつけた。 「これはまことのことでございましよ、つか、足利殿は北 かた の方や君達まで残らすお連れになって、御上洛なさると しいます。どうも様子が屋しいように思われます。いま ′」じせい のような御時世には、御一門のもっとも親しい方にさえ 御用心くださいますように。まして足利殿は、源氏一門 の貴族として、天下の政権を失われてから年久しくなり ますゆえ、あるいはそれをとり戻そうと思い立たれるこ ともありましよう。異国においてもわが国においても、 しよ、」、つ はおう 世のなかが乱れたときには、覇王は諸侯を集めて犠を殺 すす ぎやくしん ちか し、その血を啜りあって逆心のないことを盟ったもので きしようもん す。いまの世では起請文がこれにあたり、あるいは子供 を人質に出して、野心の疑いを晴すのがしきたりになっ しみずのかじゃしようぐんよりともどの ています。木曾殿はその御子息、清水冠者を将軍頼朝殿 のもとへさし出されましたが、このような例を思うにつ けても、何としても足利殿の御子息と北の方とを鎌倉に お止めになって、一枚の起請文をお書かせになるべきだ と存します」 これを聞いて相模入道もなるほどもっともと思われた のだろう、早速使者を立てて、 「東国はいまだ平和で、何の御心配もないように存しま す。幼い御子息は、すべて鎌倉に残して置かれますよう すいぎよ まじわ に。また、北条・足利両家は一身同体で、水魚の交りを あかはしそうしゅう しんせき 結んでおり、さらに赤橋相州の御縁によって親戚として のつながりも深まりました。かれこれ考えれば、何も不 審があるわけではありませんが、人々の疑念を晴すため きようしゆく もあり、恐縮ながら一枚の起請文をお残しくだされば、 公私にわたってよかろうと存します」 足利殿は胸中不快がますますつのったけれども、怒り しん 、けにえ
てごしかわら 足利方の敗軍はこれに力を得て、手越河原に陣を整えた。 同十二月五日、新田義貞は知・坂で降伏した軍勢 を合せて八万余騎をひきい、手越河原に臨んで敵の軍陣 を見渡されると、新手が加わったと見えて思ったよりも 大軍勢であった。しかし、 「たとえ何百万騎の軍勢が加わったとしても、なかばは 気力喪失した敗軍の兵が混っていて、これが後陣から退 却するなら、敵は態勢を立て直すことはできまいオオ ちに攻めかけてみよ」 わきゃうえんのすけよしすけ ちばのすけ ということになって、脇屋右衛門佐義助・千葉介・字 つのみや 都宮らが六千余騎で手越河原へ押し寄せ、東へ西へ攻め 渡って、午前十一時ごろから午後六時過ぎまで、十七度 主月 ゞ气 さきさカ・ にわたって攻防戦をくりひろげた。夜に入って両陣とも 架りび へだ 人馬を休ませ、河を隔てて篝火をたいていたが、月は雲 に隠れて夜もすでに更けたころ、義貞軍のなかから屈指 ゃぶかげ の射手をすぐって藪陰から敵陣近く忍ばせ、敵の後陣に 控えていた軍勢のなかへ雨あられと矢を射こんだ。数万 の敵勢はあわてふためいて後陣からつぎつぎ退却をはし めたので、新手の兵や命惜しまぬ勇士どもは、 「これは何たることだ、もどれもどれ」 といいながらも、逃げのびて行く軍勢に巻きこまれて 鎌倉まで退却した。 新田義貞はたび重なる合戦に勝利を得て、伊豆の国府 ゅづる に到着されたが、敗退する敵のなかから弓弦を巻き胄を 脱いで降伏して出る者は数知れぬありさまであった。字 と營 ) うみのにゆうどう 都宮遠江入道は、もともと字都宮の本家が官軍方であっ たから、その縁によって義貞側に馳せ参した。また、佐 さどのはうがん 々木佐渡判官入道は敵と斬り結んで何カ所も傷を受け、 その弟の五郎左衛門は手越河原で討たれたので、世のな かもこれまでと思ったか、降参して義貞軍の前陣をうけ たまわっていたが、 のちの箱根の合戦のときにはふたた び足利将軍方へ加わったのであった。 官軍がこのときもし追い足を止めすに追撃していたな ら、敵は鎌倉においても防ぎきれなかったであろうのに、 いまや何もせすとも東国の者は味方に参するであろうと とうせんどう さらに東山道から下ってくるからめ手の軍をも待 とうりゅう とうということになって、伊豆の国府に逗留してしまっ たことは、これが天運とはいいながらいかにも不運なこ とであった。 くっし
れを書かせた。 足利騎櫺尊氏・左馬頭直義以下一族の者、みすか らの武威を誇り朝憲をないがしろにするゆえ、ここ いん せいばっ に征伐するものである。この者どもはたとえ隠遁し ほった、 て法となるといえども、けっして刑罰をゆるめて はならない よくよくその居どころを探して、日な ちゅうばっ らすして誅罰すべきである。このことに戦功ある者 には、格別の恩賞を与えられるであろう。されば勅 命はかくのごとく、このことを書状をもって明らか にする次第である。 うちゅうべんみつもり 右中弁光守 建武二年十一月三日 たけだ 武田一族のもとへ おがさわら 小笠原一族のもとへ 同じ内容で宛名をかえ、十余通書いて差し出したので、 左馬頭直義はこれを持って急ぎ建長寺へおもむき、将軍 に対面して涙をおさえて訴えられた。 こう とが 「当足利家が帝のお咎めを蒙むるにつけては、義貞がお すす 勧めしてただちに新田を討手に下されたような次第で、 とんせい わが一門の者はたとえ遁世し降参した者でも、探し出し て誅せよと決められたということです。帝のお考え向き のが もまた同しようで、とても遁れようもありません。これ は先日、矢矧・手越の合戦で討死した敵兵の肌守りの袋 に入れてあった勅書のたぐい、 どうぞこれを御覧くださ こうなったうえは、とても免れぬ当家のお咎めであ りますから、御出家の件はお考え直しになって、まさに 浮沈のきわにある足利一族をお救いください」 将軍もこの勅書を御覧になって、偽せ書状とは田 5 いも けんむ やはぎ ちょうけん まぬ 寄られす、 日 ( カカ 「なるはど、これではわが一門の浮沈はこの一寺こ、 っているわけだ。ではいたし方ない。尊氏もそなた方と めんばく ともに弓矢とる身の面目を第一にして、義貞と死をとも にーしト 6 、つ」 にしきひたたれ と、即座に袈裟を脱がれて、錦の直垂を召された。こ もとどリ いっそくぎ うして、そのころ鎌倉中の軍兵が一束切りといって髻の もとゆい 短い髪型をしたのは、本結を切った将軍の髪型を紛らせ るためのことであ 0 た。この結果、さき一伊きを案して官 軍へ降参しようとした大名どもも、右に左に逃げ去ろう とした軍勢もにわかに気を取り直して馳せ参したから、 一日もたたぬうちに将軍尊氏の軍勢は三十万騎になった。 十ニ月十ニ日、箱根・竹下の合戦 てんリゅうがわ ・義貞軍に利あらす。十四日天龍川まで退却。 おわり とうリゅう ・やがて尾張国に陣たて直して逗留。 この間、四国中国・山陰北陸道など諸国の朝敵 ( 将軍方 ) はうき 次々に蜂起。京都に危機迫る。 ・京の朝廷よりの要請により義貞帰洛。 おおわたり 建武三年正月七日、大渡・山崎等の合戦 ・官軍 ( 義貞方 ) 敗退。 えいざん ・帝は叡山へ都落ち。 じゅらく ・将軍 ( 尊氏 ) の入洛。 東坂本の仮の皇居に入られた帝のもとには叡山の三千大 おうしゅう きたばたけあきいえ 衆が馳参り、ややあって奥州から北畠顕家勢も坂本に到 着した。 一方、京からは将軍方細川勢が三井寺へ向って陣をかま えた。 正月十四日、三井寺の合戦 しのづかはたわたり ・官軍に栗生・篠塚・畑・亘理の剛勇なる奮戦があって 勝利。 ・三井寺炎上。 しゅ くリゅう み でら ふんせん め
あしカ功ーどのじようらく げんけ たかうじ つ「足利殿上洛」足利高氏は源家の名門の 出ながら世の趨勢から幕府に組していたが りんじ 秘かに期する処あって幕府追討の帝の綸旨 を賜わるべく画策していたその一方何気 ない顔で北条高時の館におもむくのだった かくさく きではありません。ともかくも相模入道の申されるまま にその不審を晴らし、御上洛なさってのちに、大事の御 計略をめぐらされるがよかろ、つと存します」 なっとく この筋の通った言葉に足利殿も納得して、御子息千寿 おうどの そうしゅう 王殿と奥方である赤橋相州の妹を鎌倉へ止め置かれ、一 きしようもん 枚の起請文を書いて相模入道のところへ送られた。相模 入道はこれによって不審も晴れ、大いに喜んで、高氏を 自邸に招いていろいろとほめそやし、 はち 「あなたの御先祖から代々伝わる白旗がある。これは八 まんたろうよしいえどの かとくそうぞく 幡太郎義家殿から、代々の家督に相続されて大切にされ こよりともきよう じゅうはう こうしつ ぜん てきた重宝でありましたが、故頼朝卿の後室、二位の褝 尼が受け伝えて、当北条家に現在まで所持して来たもの です。類まれな重宝とは申しながら、他家にとっては何 せん の役にも立ちますまい。そこで、この旗をこのたびの餞 ぞく ごせい 別に差しあげます。これをかかげて一刻も早く賊を御征 べっ 0 ふしん 0 じようらく ミ心ョ ) 一 0 0 せんじゅ 京都へ到着の翌日、足利高氏は密使を仰耆お山の後醍 つか ついとう りんじ 醐帝のもとへ遣わし、お喜び一入の帝から朝敵追討の綸旨を・ ~ いただいていた。そんなこととは夢にも知らす、幕府軍は来 やわたやまざき ~ たるべき八幡・山崎攻撃戦の作戦会議にこの高氏を加えてい ~ たのである。 げんこう 元弘三年四月二十七日は八幡・山崎の合戦、正面の激突は 火花を散らして結局は官軍の優勢が伝えられる中、背後にま かつらがわほとり ばうかん ・わるべき高氏勢は桂川の畔に酒盛りをして傍観していた。 や 【がて正面の合戦で大将討死の報が伝わると、高氏はいざとば おいのやま しのむら ~ かり大江山 ( 老ノ坂 ) を越え篠村へ急がれたのであった。 たかうじしのむら 高氏臂に到着 足利殿は篠村に陣を張って、近国から軍勢を召集され くげのやさぶろうときしげ たところ、この国の住人で久下弥三郎時重という者が、 ひき 二百五十騎を率いてまっさきに馳せ参した。その旗の紋 や笠印にはみな「一番」という文字が書かれていたので、 こうのうえもんの 足利殿はこれを御覧になって不思議に思われ、高右衛門 ばっ 伐ノ \ ださるト小、つに」 ふくろ そういって錦の袋に入れたまま、入道手すからこれを 高氏に贈り、そのほかにも、乗り替えのためにと飼馬に くら しろがねかざ しろぶくりんよろい りよう 銀飾りの鞍をおいて十頭、白幅輪の鎧十領、黄金作りの たら ふり ひきでもの 太刀ひと振を添えて引出物とされた。 うえすぎにつき ほそかわ いまカわ 足利殿御兄弟、それに吉良・上杉・仁木・細川・今河・ あらかわ 荒河以下の御一族三十二人、そのほか名家の人々四十三 ひき げんこう 人、合せて率いる三千余騎は、元弘三年三月二十七日に 鎌倉を発進、高氏殿は本隊大将と定められて、名越尾張 守高家に三日先行して、四月十六日に京都へお着きにな かさじるし そ ひとしお は こがねづく
・国立国会図書館蔵太平記大全挿絵・久留米図書館蔵筑後川合戦絵巻 : ・■花押の意味と効能■ これは「かお、つ」と読み 家でなければ着用せぬものであり、像 年 長 4 " . 5 署名と印章とをまぜた書き 主が明確でないとはいえ、尊氏に匹敵 ・等持院像足利尊氏木像・ 和 名 する名家であることは間違いないであ 7 . 2 . 9 . 3 . 卩 . 判のようなもので、その書 7 ー 8 8 9 ・大山祇神社蔵色々威腹巻・兜・大 そうみよう ろう。出陣影としては最も古く、また 体は草名という崩し字を、 袖・喉輪付 行 正 さらに、書いた人の個性や 最もすぐれた作品である。 鉄黒漆塗廿四問四方白星兜・ : ・その他■ 筆癖を加えて符号のように 鉄黒漆塗卅ニ間筋兜 王 し、自筆の判を印と同様の ・藪本荘五郎氏蔵大塔宮護良親王出 親 赤銅造太刀銘宗延 : 良 護 意味を置いたものである。 陣図 : 金銅牡丹文兵庫鎖太刀 ・吉水神社蔵後醍醐天皇玉座の問 ・金剛寺蔵楠一族使用と伝えられるそのため、他人には絶対真似ができな い筆行きと癖があり、その形も複雑な 腹巻 : ものが多い 後醍醐帝の笙・ : 金剛寺摩尼院蔵楠軍の軍旗 : 公的、私的な書類にこれを用いたの 護良親王の茶椀 : ・大宮阿蘇神社懐良親王の軍扇 : ・Ⅲ は、偽筆を防ぐ手段であると共に、簡 村上義光の刀の鍔 : ・菊池神社蔵菊池の三本槍 : 便な私印の代用であった。まことに独 後村上天皇の和歌 : 宮内庁蔵蒙古襲来絵詞 : 創的であり、はなはだ頭脳的な考案で ・観心寺蔵楠正成像小堀鞆音筆 : ・楠軍功記 : 太平記写本・書き出し・ : ある。 神皇正統記 : この歴史はかなり古く、平安前期以 絵本御伽品鏡太平記読みの図 : ・文化庁蔵男衾三郎絵詞 : 楠正行像小堀鞆音筆・ 降の書状にも見られ、今日残る花押を ・変化の図稚児今参り : ・長福寺蔵花園天皇像 : ・中村幸彦氏蔵菊池軍功記 : 総括すると、大体、公家風、武家風の ・西本願寺蔵和歌の宴慕帰絵詞 : ・東京国立博物館蔵護良親王の直垂菊池武重像 二つの区別が立てられる。後醍醐帝、 : 凾・日枝神社蔵年貢の納入 : ・ ・細見家蔵琵琶・琴・笙の合奏文名和長年像・ ・ : 田・暉峻康隆氏蔵人倫訓蒙図彖太平護良親王のもの、足利尊氏、新田義貞 のものとを比較すれば、歴史的事実や 正草紙 : 洛中洛外図 : 記読みの図 ・湊川神社蔵帝の御夢 : 活躍を裏づけることができるばかりか : ・金龍寺蔵新田義貞木像 : : ・鹿苑寺蔵足利義満像 : その傾向がわかるであろう。個性によ 楠正成像前田青邨筆 ・鑁阿寺蔵足利尊氏木像 : って異なる点もあるが、よく見つめれ 千劒破城合戦の図 : : 足利尊氏願文 : ・撮影・ ・篠 ( 村 ) 八幡宮蔵足利尊氏願書 : 市瀬進 / 木下猛 / 木本義一 / 関孝 / 成ば、共に法名や俗名からの書き崩しか 楠軍の旗印 : 瀬友康 / 松野等 / 歴史写真研究所 / 世ら発しているようである。たとえば、 楠正成像横山大観筆 : 後醍醐天皇は御名寧治を、護良親王は 湊川大合戦の図 : ・ ・前田育徳会出陣の将兵祭礼草子界文化フォト / ダンディ・フォト そんうん またたみう 法号尊雲を、足利尊氏は幼名又太郎、 : ■編集協力・ 楠一族の腹巻 稲垣史生 / 内田保廣 / 大塚巧芸社 / 集新田義貞も幼名小太郎をそれぞれ書き 鉢割の刀 ・光明寺蔵結城宗広像・ 崩し、全部の文字を一字に込めて、そ 英社 ・如意輪寺蔵後醍醐帝の笠置落ち ・四天王寺蔵後醍醐帝御手印 0 0 -4 ・ の花押としていると思われる。また一 目植中直斉筆 = : 飴・逸翁美術館蔵足引絵巻 : ■地図作製・ 方、名和長年のそれのように、純然た 後醍醐帝木像 : : ・清涼寺蔵融通念仏縁起 : 蛭間重夫 版 る記号のような花押も見られる。 ( 本 弁内侍と楠正行 : ・石山寺蔵石山寺縁起絵巻 : : ■図版監修■ 文中の小カット 〃花押〃を参照 ) 楠正行像田能村直人筆・ ・勝楽寺蔵佐々木道誉像・ : 四中村溪男 / 宮次男 たろう 167
じようもろなお 尉師直を召されて、 「久下勢の者どもが笠印に一番という字を書いたのは、 もともとの家紋なのか、あるいはまたここへ一番に馳せ 参じたという符なのか」 もろなおかしこ たず と尋ねられたところ、師直は畏まって、 「あれは由緒ある紋でございます。彼の先祖である武蔵 といのしようすぎやま うだいしようみなもとのよりともどの くげのじろうしげみつ 風の久下二郎重光は、右大将源頼朝殿が土肥庄杉山に御 旗あげをなさったとき、一番に馳せ参じましたので、頼 朝殿はこれを大層お喜びになり、『もし自分が天下を取 おんしよう ったなら、一番に因 5 賞を与えよう』と仰せになり、御自 分で一番という文字を書いて与えられましたものを、そ のまま家紋としているのでございます」 しるし ばんなじ 足利家の創建になる阿寺代々の厚い尊崇を受けた ( 栃木・足利市 ) むさしの とお答えしたので、 「それではこの者が最初に参ったことは、わが源氏の家 きちれい の吉例なのだな」 しお と、足利殿のお喜びはひと入であった。 こも あだちおぎの こうせんじ もとから高山寺に立て籠っていた足立・荻野・小島・ いんでんほんじようひらじよう わだ しまさら他人 和田・位田・本庄・平庄の者どもだけは、 ) たんば わかさ したて の下風に立っことはできないと、独自に丹波から若狭へ 越えて北陸道から京へ攻めのばろうと企てた。 ながさわ しうちゃまのうちあしだ しかし、それ以外の久下・長沢・志宇知・山内・葦田・ 一は - フかへ おやま よだ 余田・弗・洳釶・小山・波々伯部の勢、そのほか近 国の者どもは、ひとり残らす足利殿のもとに馳せ参した。 篠村の軍勢はほどなく増えに増えて、その数はたちまち 二万三千余騎になってしまった。 ろくはら 六波羅ではこの情報を得て、 あんび 「さては今度の合戦が天下の安否を決定するものとなろ しゅじようじようこう う。もし万が一敗れることがあったら、主上と上皇をお みやこ 連れして関東へ下向し、鎌倉に都を建てて、再度大軍を ぎやくぞくついとう 発し、逆賊を追討すべきである」 と評議が決し、さる三月から北の六波羅に仮の皇居が ぎようこ、つ しつらえてあったところへ、上皇と主上の行幸をお願い かじいのにほんしんのうてんだいざす 申しあげた。梶井二品親王は天台座主であられるから、 たとえ世がどう変っても御身には何の御心配もあるはす きんじようこうごんてい がないのだが、ただ今上光厳帝の御兄弟であられるから、 らようきゅう しばしのあいだ主上のおそば近く皇位の長久をお祈り申 やかた そうと思われたか、この方も同様に六波羅の館へお入り こう ) 」う こうたいごう によいん くぎようてんじようびと そればかりか、皇太后・皇后・女院や公卿殿上人、三
太平記の 一一学一霧物 ? ー解新物 延暦 保、ま 大覚を 持明院・大覚寺天皇家は。、・・ . 篠村八幡宮元弘 3 年い 彳醐天皇 0 大覚寺統 ( 1 朝 識 43 ) 倒幕派に寝返。た篠木 ( 北朝 ) に分立していた に願文と鏑矢を献上物 桜井の宿足利尊氏の上洛 を阻止するため湊川へ出陣 桜り宿 する楠正成が息子正行に 最期の別れを告げる 元弘・年 ( ー 3 3 幕画が発覚し後 四条畷正平 3 年い 3 4 醍醐が一 こに逃れるが 8 ) 楠正行が高師直率いる、 幕府軍の攻撃にあい破れる 足利軍と奮戦するが敗イ物 しじよ ) なわて 四条畷 翌置山 ~ 。 般若 大和 藤井 占市 山 とんだはやし 富田木 葛城山 河内長野 坂城・千劒破城共に 先坂跡、 正成の城で幕府の大軍のェ 撃に奇襲奇略の戦法で广・・ 幕府軍を悩ませた △高野山 金剛蜂 ーんんリや ( じ、、・ ナこん一よ“ 円波 だいかくじ おい ミ田 ををき・ 0 ー 摂津 芦屋 第・延元 - 「年い ~ 3 3 ・ 6 ) ・第 - , 足利の大軍と . 楠軍、との戦・い .- ・ ~ ・・・一・・・げカヤなわ、れ・、 ' ・敗れ・だ正成・ば の弖と一共に、自 . 害す - る .. ~ たかっキ ーネんにやじ やまと 和泉 力、しはら 橿原 吉野延元一年 ( ー 3 3 6 ) 京都に幽閉されていた後醍 醐天皇が潜幸し南朝をたて たが 3 年後崩御される 吉野 , . ・ . 吉野山、 爪後醍醐天皇陵 、、す。ト 効一、ノ
主要人物事典 ・楠正成碑呼硼な領の地保。後につくが、の中興で退位し出家す ・足利氏下蠣風の住人。源氏の名・た良親王後醐天皇の第一一 かさぎ じみよういんとう 家。北条氏の命をうけ京都守護にむか子。覚寺統と持明院統が皇位をまわ醍醐帝が笠置で夢の示現を受け、配下る。尊氏は反乱を正当化するために、 光厳帝の一亠を得、後醍醐帝方を攻撃、 りもちしていたために皇太子となれすに加えた。山岳ゲリラ戦の名人で、 うが寝返って後醍醐帝につき、逆に京、 ・一・フみト - う 六波羅探を攻め滅す。の叫興で出家して天台座主となった。倒幕の志条軍、足利軍をなやませた。赤城、光厳帝の弟光明天皇を立てて、北朝の ちはやじよう は功臣の随一とされ、かえって反目をカ弓く { 虫、武芸兵法を学び、幕府に死罪千劔破城などの攻防戦における奇略が天子とした。戦にまきこまれた悲運の ? よとかわ なかせだい かう。中前代の乱を平定し、鎌倉に入を宣告されるが吉野にのがれ、父帝の有名。兵庫の湊川で戦死。後世、南朝天皇。 ・一ド ) ↓・たかのり ・児嶋高徳太平記の生んだ有名人。 配流後も抗戦を続け、反幕勢力を集合無二の忠臣として喧伝される。 り征夷捌軍を称して反乱を起すが敗 ふなのフん 後醍醐帝が隠岐に流される時、奪回を れて九州に落ちる。その後再起して京する。父帝が船上山に帰着してもこれ てん ; っせんをよしつ十るたふれ こう′一ん 企て果せす、桜樹に「天莫空勾践。時 に入り、光厳天皇を擁し、室町幕府を ーをい′、 : ーもめらず 非無范螽」と記し、帝をはげました。 その後、終始南朝にくみし、帝の没後、 - ったよしはる 新田義治を大将に備前での挙兵をはか るが失敗、信濃にのがれる。系図等に 不明の点の多い謎の人物。 ごうだ ・後醍醐天皇後字多天皇の第二子。 ひのすけとも 天皇親政の世にもどすため、日野資朝、 ・行楠正皮の嫡子で、桜弗の宿日野おらと鎌倉幕府を倒す計画をた じゅそ ちょうぶく と合体せす、独自に倒幕の軍を進め、 での父子の別れが有名。正成なきあとてるが、露見。さらに関東調伏の呪詛 幕府瓦解後、征夷大将軍に任しられるの南朝側の近畿方面軍を指揮し、活躍をしたことが発覚するにおよび、幕府 ・ろのもろなお ・足利直義尊氏の弟。尊氏とともに が、私兵をたくわえ横暴な行動が多かしたが、四条畷の戦で、高師直の軍との追手を受け、、 しったん笠置に逃れて なかせんだい あーしかカたカ・フし くすの、ーさしげ みうごう 熱を討ち、中前代の乱後、尊氏に反った。足利尊氏討伐を計画し、父帝の接し、戦死する。正成・正行父子は、楠正成等を糾合し防戦するが敗れて、 なかせんだい - ろのもろなお デきりん おおとうの鼇・ 乱をそそのかす。後に、高師直等の専逆鱗にふれ鎌倉に幽閉され、中前代の鎌倉武士と異なった地侍出身であり 隠岐に流される。しかし大塔宮を中心 横を憤り、これを倒さんとはかるが失乱に足利直義の刺客に殺された。 戦乱に乗して、歴史の表面に出てきたとする反幕勢力の活動に乗して隠岐を ふなのフえ なわながとし 敗、尊氏と不和になる。一戦に破れ鎌倉・菊池光肥後菊池郡を本拠とする。新しいタイプの武士。 脱出、船上山に名和長年の勢力を背景 あー」かカ いくさ上 に幽閉されている間に死亡。尊氏に毒九州における南朝の司令官。 に立てこもり反幕勢力を結集し、足利 殺されたともいう。策謀にたけた知識手で、一時は九州の大部分を攻略する。 / 尊氏が京を、新田義貞が鎌倉を落すと ”うそ 人肌の人で、兄尊氏とは対照的である。 思いきった作戦をとる豪胆な将軍であ 光厳天皇を退け重祚する。それより宿 ・恥冶判高貞佐々木の一族。後醴った。 願の天皇親政を行うが失敗、足利尊氏 あきい・え きたエた洋ちかふさおうーゅフ 醐帝に従い信任も厚かったが、竹下の・北親房奥州の国司北畠顕家の子 戦いで寧氏側に寝返った。高師直が入で、後お天皇の後見として、後醴醐 浴後の彼の妻をのぞき見して横恋慕の帝なきあとの、南朝の枢要を司る。後 ほうらく じゅんごう ざんげん に准后 ( 皇后等に准しる待遇 ) となる。 うえ、讒言によって高貞を放逐するが ぞうけい 奥方は逃げる途中で自害し、高貞自身文武両道にすぐれ、伊勢神道にも造詣 こうごん か深かった。 ・光厳天皇大覚寺統の後醍醐帝の皇 もその知らせを聞いて割腹自殺する。 南朝の正統を説いた著書『神皇正統位継承者である撥の帝。後醍醐 この悲劇は有名で、歌舞伎の仮名手本 、・・フりつ ちゅうしんぐら 帝配流の時、北条部時に擁立され帝位 忠臣蔵にもとられている。 一三ロ』は名高し あしかがただよし かなではん 二を : だ、 こうごん - ったよしさた 164
までのこうじふじふさ 万里小路藤房像後醍醐帝の最もお傍近くに侍した万里小路家付近公卿の屋敷のみやびなありさま しんこく 晋国は亡んだという。 考えてみれば、このたび戦乱が一時に鎮まって、一度 ごだいご は廃された後醍醐帝がふたたび皇位に即かれたことは、 こごただ大塔宮の武功によるものであるから、たとえ小 いまし さな過失はあったとしても、それは誡めたうえでお許し しりト・ おん になるべきだったのに、思慮もなく敵の手に渡され、遠 流の刑に処せられたこどは、朝廷がふたたび勢力を失っ て武家が盛んになる前兆ではなかろうかと人々は話し合 はたせるかな大塔宮が刑死されてのち、天下はたちま めんどりあかっき ちにみな足利将軍の手に落ちてしまった。牝鶏が暁を告 げ、女が勢力をふるうのは一家が滅びる前兆であるとは、 古の賢人の言葉だが、まことにもっともと思いあたるこ とであった。 ふじふさ までのこうじ 後醍醐帝の政治に対して、近臣万里小路中納言藤房はあれ ・これ心をこめた御意見を申し上げ諫められたが、帝が用いら とんせい ・れるところとはならなかった。やがて藤房卿は遁世して宮中 ~ から去って行かれた。 なごや ぎようぶのしようときおき また一方では、北条氏の遺族たち、刑部少輔時興や名越太 ときゅき むほん ときかわさがみ 】郎時兼・相模次郎時行が次々に謀叛を企てた。特に、五万余 騎の軍勢をもって信濃から鎌倉へ攻めのばった時行の勢はさ さまのかみただよし 】かんで、鎌倉の執権足利左馬頭直義も落ちのびざるをえぬほ どだった。 さいしよう うって 京都から急ぎ討手として足利宰相高氏がさし向けられるこ 【とになったのである。この時、高氏はわが武功をほこり、征 いたいしようぐん ・夷大将軍の位と関東八カ国の支配権をのぞんだ。帝は深いお いみなたかはる 考えもなく、関東八カ国の支配権と、その上御自分の諱尊治 たかうじ たかうじ の一字を賜わり、高氏は以後尊氏と名のることになる。東海 道を下る尊氏勢は連戦連勝し、鎌倉・北国の北条勢はことご とく亡んでいった。尊氏の武運はひらけ、天下はまたしても 武家の世になったのであった。