香炉 が、急に亡くなられたとか、後れられた弟君の心中はさ ぞやと思う。私も残念で、心から頼みにしていた人ばか ) がなぜこ、つなのだろ、つ、などと思い乱れるままに、度々 お見舞する。他人事とは思われない弟君の歎きである。 うりんいん 兄君は、然るべき事情から、雲林院にいられた人である。 四十九日が終って一首を贈った。 思ひきや雲の林をうちすてて 空の煙に立たむものとは ( まったく思ってもみないことでございました。雲林の院を うちすて、空の煙となってあの世に旅立っておしまいになろ うとは。まことにはかない人の命でございます。 ) などと詠んだが、わびしさのあまり出家もいとわぬ心 境で、野にでも、山にでも、さまよい出たいとばかり思い 詰めたその頃の私であった。 0 作者の結婚生活に、いちばん気をいためていたらし い母親の死が、作者をどういう心境に追いやっているか。 あの強気の背後にあった母親の存在の大きさを、作者の 衝撃の強さを通して、きの深さや不安の強さを通して、 ーゅうしよう 読者も又充分想像することができる。作者の愁傷をいた わる兼家はさすがに大人で、世間に対して肩身の狭い思 いはさせない弔いの儀式をはしめ、こういう場合に打っ べき手はぬかりなく打って、作者を庇護している感しで ある。 けれども、一見なごやかな親和関係の復活がいつまで かねいえ のものか。兼家の喜怒哀楽が、いつのまにか自分の喜怒 哀楽ともなってきていることを告白せすにはいられなか とレら ・つりん カねいえ った作者は、口先のはげしさにもかかわらす、兼家への カねいえ . うちゃく 理屈抜きの執着を隠せなかったことになるが、その兼家 との愛情生活が、どんなに薄く、又どんなにもつれてい る時でも、作者を慰めたりとりなしたりしてくれていた 母の死は、気味悪いほどの兼家のっとめ方が、例によって 水の上に書かれる文字のようなものとも知る作者には、 ひとしお身にしみて歎かれたことであろう。 母の一周忌 ーうき 一周忌の事は、母がそこで亡くなった、あの山寺で 行なった。田 5 い出は思い出を呼んであとを絶たす、あわ れにも悲しくも胸塞がって、叔母のいる家に帰って喪服 を脱いでもまだ涙をとどめかねていた 姉を見送る それでなくてもなお涙がちなこの頃、兄弟の中ではい ちばん頼みにしていた姉が、夫について遠い任国に下っ たのは、時が時ごけにまことに辛い出来事だったと思う。 出立前のとり込みに餞別を持って姉をたすねたものの、 行く人も私も目さえよう見合わせす、ロにできる言葉も ない。追い打ちをかけられるような悲しみをこらえて、 あカくちば ふたあい 姉は二藍と小袿を、私は薄物の赤朽葉色の小袿を脱ぎか えて別れた。康保二年 ( 九六五 ) の秋のことである。 夫の発病 次の年の三月頃だったと思う。 こちらに見えていたあの方が苦しみ出され、それもだ ふさ せんべっ かねい・ん 102
やしき 0 邸でくつろぎのひとときを過ごす家族たち しルうしん あの方はかねてから父に執 , むのほどをほのめ かされていたらしいあまりにも身分が違う お話なので私はお受けできないと申し上げた 0 おっきの女房たちと楽しげに語る貴族の娘 おお ( 折角ではございますか、仰せられるような者はここには居 りませぬゆえ、お越しはむだと存します。 ) この贈答をはしめとして、度々消息を寄越されたが、 お返しもしないでいるところへ、 おばっかな音なき滝の水なれや 行方も知らぬ瀬をぞたっぬる ( あなたのお気持がまるでつかめないのに、 いつどこでかな おうせ えられるかも知れぬ逢瀬を求めつづける私のおばっかなさを 思ってみても下さい。 ) と言われる。「改めてこちらからご返事申し上げますの っ力い で」、と言って使を帰すと、しきに又、お手紙がくる 7 ( 兼家 ) カねいえ 人知れす今や今やと待つほどに かへり来ぬこそわびしかりけれ ( 兼家 ) ( もういただけるか、もういただいてもいいのではないかと、 人知れすあなたからのご返事を待っているのに、 その気配もないのはわびしいことですよ。 ) それを見かねたのであろう、例の母は、 「これではあまり失礼というものです。きちんとお返事 を差し上げなければ」 と言って、こ、つした、い得のあるしかるべき侍女に代筆 あちらでは、それさえ嬉しそうに、喜ん させられたが、 で、しきりに消息を寄越される たをさ 浜千鳥あとも諸にふみ見ぬは われを越す波うちや消つらむ ( お返事を下さらないところを見ると、私などよりも大切な お方がおいでになるようですね。僻ますにはいられません。 ) じじよ このたびも、侍女の代筆ですませておいた。すると乂 しても消息である 「まめにお手紙を下さるのは、たとえあなたの筆でなく てもありかたいことだと思っています。それにしても、 この返しまで代筆になさるなら、私は本当にあなたをお 恨みしますよ」 などとまじめに書かれた端に、 いづれともわかぬ心は添へたれど こたびはさきに見ぬ人のがり ( 兼家 ) ( たとえ代筆でも、自筆に劣るなどとは思っていないのです。 しかし、今度という今度は、この前、返事を書いて下さらな かったあなたのもとへ、直接差し上げるのだということをわ ひが じじよ ( 兼家 ) かねいえ カわい・ん
せつきよう 説教を聞きに集まる人々お籠りに入った寺 で下衆の生活を見た私はかえって不浄にかか わったような思いをさせられる夜が明ける と人々は支度にとりかかり私には有無を言わ かすがごんげんれいげんき せすに出立させてしまった春日権現霊験記 しすれもわすかながらはっきり書かれている。 か〕ろ、つ はせ ところか 『蜻蛉日記』では、長谷寺への道中のことに 多くの筆数をあて、長年の宿願などと言っているのに、 こも かんじん 肝腎のお籠りについては、具体的なことはほとんど書い これは読みくらべて興味あることだ。 ていない りやく ご利益にあすかるのを専らの目的とする実益のための いなり - も、つ 信仰は、この日記作者の、さきの稲荷詣でに限らす、広 王朝一般の女性の信仰ともいえる一面があって、信 仰の思想的自覚とか、観念としての理解などということ になれば、もっと時代を下らなければならないにしても、 かげろ、つ さんろう 『蜻蛉日記』の長谷寺参籠についていえば、信心のあら われとしての参籠もさることながら、住み馴れている場 所から自分を強制的に連れ出して気分転換をはかったり、 かねいえはんのう 兼家の反応をうかがって、愛のほどの確認をしようと したことは疑えない。男性とは異り、戸外での行動が限 たいぎめいぶん られていた女性にしてみれば、参籠は大義名分のある外 出の名目でもあり、この外出によって精神の流通をよく たの したり、 自然や年中行事の観客となって愉しんだりとい かげろう う事情は、『蜻蛉日記』にも認められる。 いったん予定を立てたら、変更不可能という作者の日 常生活でもないのに、また、二、三日をあらそう参籠で かわいえ もないのに、兼家の関心を知ると、意地になって独りで 迎、たに一打ノ \ から 旅立っところも、早く帰った方がいい かねいえ という兼家に、わざと拗ねて予定を知らせないようにす るところもこの日記作者らしい。仕立ててほしいと一一一口っ て来た着物を、そのまま突き返してしまう女はここにも うなカ 生きていて、帰宅を促されている内心のよろこびは、見 せてなるものかという態度である。 さんろう しかし、参籠は、作者の予定通りには行なわれない。そ れがたとえ周囲の者たちのはからいであったにしても、 やむにやまれぬ自発的行為としての参籠なら、頑なに自 己主張を通すことのできない作者ではないはすである。 ものもう このあたり、のどかな物詣での実態を見せられる思いで ある。 かねいえ 兼家の出迎え そういうわけで、長谷寺にはいましばらくとどまりた いと思ったが、夜が明けると、人々は騒がしく支度にと りかかり、とうとう有無を言わせす、出立させてしまっ かたく 115
化をはかっているように見える。与えるよりも求める度 合の強さにおいて、この作者には、世間知らすの少女の ような一面があるが、あるいはわざと訪ねる口実をつく かねい・ん ったのかも知れない兼家の頼みを無下にしりぞけている ところなど、そのいし 一例であろう。「歎きつつ : と詠んだ頃の作者が、かえりみられない夜の淋しさを淋 1 派手な行列をたてて通り過ぎる牛車 こ - フじっ しさとして訴えていた頃の作者が思い返される。 仕立物を突き返されて、定めし不愉快だったのであろ う。はっきり来てはしいと言われれば、こちらも訪ねや おとさた すいのに、という消息があったのは、二十日余り音沙汰 なく過ぎてのちである。 穂に出でていはしやさらにおはよその なびく尾花にまかせても見む ( わざわざそう申し上げようという気持はございません。お願 いしなければおいでいただけないようなお方をどうして頼み にできましよう。あなた様のなさりようを、ただ見守ること にいたします。 ) はなすす、、 穂に出でばまづなびきなむ花薄 こちてふ風の吹かむまにまに ( 兼家 ) なび ( ひとこと来てほしいとそちらが言いさえすれば、東風に靡 く尾花のように、すぐに訪ねて行く私なのに。 ) おうせ 、冫息かあり、たまの逢瀬があり、また疎み合うくり返 かわ しの間に詠み交した歌の いくつかを書きつけてみる。 百草に乱れて見ゆる花の色は ただ白露のおくにゃあるらむ ( 私に対する心の隔てが、あなたをそのように思い乱れさせ ているのですよ。そんなに構えないでやさしくうちとけてさ え下されば、そんなに悩むことはないはすだと思いますが。 ) みのあきを思ひ乱るる花の上の 露の心は言へばさらなり ( もう飽きられてしまった女の不甲斐なさに、明け暮れ思い わすらっている私の心のうちなど、おわかりいただけるはす ( 兼家 ) かねいえ かねいえ
宇治川で魚をとる漁師たち長い問果たした はっせもう いと思い続けていた初瀬詣でにたっことにな った見るものすべてがめずらしくことごと に風情を感じる道中であるあの方は使の者 に手紙をもたせてよこした石山寺縁起絵巻 いましよう、夢には通い路があって、かえって夢の中のほう が人に逢えるとはよく聞くことでございますが、、つつつはも とより、私はその夢の中でさえ、お逢いもできないでおりま 川と見てゆかぬ心をながむれば じようがんてん いとどゅゅしくいひや果つべき ( 貞観殿 ) Ⅱに隔てられて対岸の人のもとへも行けないように、近くの あなたにお逢いもできす歎いている私なのに、二人の間を、 「こと絶ゆる」などと、そんなゅゅしいお返しをなさっていし のでしようか。 ) 渡らねばをちかた人になれる身を ふちせ 心ばかりは淵瀬やはわく ( 御方さまは、夢の中でその川をお渡りにならないので、私は おちかたびと ふちせ 遠方人になっていますけれど、心ばかりはどんな淵瀬にも隔 てられることなく、お側に参っております。 ) じようがんでん ■貞観殿登子との作者の贈答には、作者だけに歎かれ 責められたり、また、期待されたりしている兼家と は違った彼の一面が浮かび上がってくるところが面白い めの 恐らく、作者がこの贈答を日記に残したのは、今更、乳 母かそこにいてやらなくても、という、思いかけないユ ーモアが残したかったのではなく、それは照れであると じらよう ともに自尊心の裏返しにされた自嘲のポーズでもあって、 じようがんでん むらかみ それ以上に、貞観殿の御方という、村上帝在世中は同性 こ、つきゅう のそねみをかうほどに後宮で時めいた女性との対等な交 誼をそれとなく誇りたかったのであろう。 兼家の妹でもあるこの登子は、亡き重明親王の妃で、親 むらかみ 王没後、これも后の宮安子薨後の村上帝のもとに入内、 らよう 寵を得たというか、さきのように読んではしめて、「こと 絶ゆるうつつや何ぞなかなかに : 」と詠んだ作者に、 くちょう しか 叱るような口調で川と見てゆかぬ心をながむれば・ とたしなめすにはいられなかった登子との贈答の残され た意味もっかめるように思う。 贈答は、時姫の場合に典型的であったように、作者が かねいえ 兼家の真意をつかみかね、乂、兼家に飽きたりす、欲求 かいふく 不満で平静を乱されている時の、自己恢復のための有力 な手段の一つで、わすかにそうした領域で優越感を示し 、他人に求められている自分を確認したりしてひそ かに自らを慰めているところかいかにもこの日記作旧ら かねいえ かねいえ かねいえ じゅだい 110
かっていただきたいと思います。 ) とあったが、これも例のひとの手を借りて、とりつくろ っておいた。こうしてしばらくのあいだは、表向きの消 自 5 の贈答をくり返していた。 天暦八年 ( 九五四 ) のことで ある。 00 0 ・ っ 0 l' 00 00 一 , てんりやく 0 ・ 09 0 00 、 0 うだいしようみちつなのはは 右大将道綱母 ( 新古百人一首手鑑 ) づか 0 作者ならすとも、求婚の手紙に相手の細やかな心遣 いや温かさを見ようとするのは女の自然であろう。気位 の高い作者は、兼家の無神経に耐えられす、黙殺のポー ズであるが、慣習を無視した男の執拗さを、心底からき けんもんおんぞうし らってはいない 権門の御曹司に、そこまで言い寄らせ ている・目分を誇らしく思っている気配がそこはかとなく よろい 漂っている。衣の下の鎧ではないが、このあたり、 世の すがお 中に向けている作者の顔と素顔とが、自身のはからいを 裏切ってあらわれているところが興味深いし、またそれ が言葉の恐さでもある。 かねい・ん 兼家にしたところで、素顔を見せたがらない作者、切 よろ れば人並みに温くも熱くもあるのに、本心を鎧って冷た くとりすましている作者をいち早く見抜いたからこそ、 たかびしゃ あえて高飛車に出たとい、つところかなくはなかったと田 5 う。つけ上がるな、という気持を忍耐強く抑えて、向うこ ぶすいもの しっさ そ、無粋者のポーズをとっていたかもしれない カねいえ この兼家の大きさや、ユーモラスな一面は、のちの 作者の筆が期せすして記しとどめているところでもあっ けんお て、すでにそのことは、作者の嫌悪にもかかわらす、結 婚以前にあらわれていたともいえるだろう。女の自愛か、 女の意図に反して、相手の男性的魅力を後世の読者に伝 えているのは皮肉である。 ・火こよっこ。 その頃の消息から書き出してみよう。 鹿の音も聞えぬ里に住みながら あやしくあはぬ目をも見るかな かねい・え しつよ - フ
しような ) 一んていし 少納言も定子にだけは全面的に傾倒して いるが、それでも宮仕え以前の生活はわ いる。それは二人の主従の間の特殊な人からない。そして、おそらく名声を得た を・、く人ふ ! を、、 ) 「 , 「い , 、あ , ~ 《。ぢ」 , , 、 , 本『蜻蛉日記』の最初のあたりは、兼家そ にようばう 間関係でもあるが、同時に、女房というであろう宮仕え以後の生活も霧にとざさはく↓ ( うー箜、、一り・ , 4 ーか 31 ふお の他の人々との和歌の贈答を並べて簡単 0 っさきしきぶ ん 5 ~ の、・、 ( 一を / ーをーーいーふい朝をそ 存在は全人格的にその奉仕する貴人に所れたような状態である。これは紫式部や ~ 〉ムわ , / ( ー { 」な、ろ、、 , 冲な説明を付けた、家集と通しる性格を見 いすみしきぶ 属したもので、全く心服しているという 和泉式部も同様であるが、女房の始祖と ) ー、、・あーふ , 1 まっ , ケん・み人わせている部分である。もとの材料とな 0 おののこまち っ 5 まを・・ ( , 。、ー , つ、、み、ををドっ午人ー・記 のが女房の当然の姿なのでもあった。 言うべき小野小町などになると、宮廷奉 た手控え ( 広義の日記 ) の存在を推測す グノ ( ラ・く 4 あり ( さ , をん , 、。 6 々も , イ日 せいしようなごん 清少納言の晩年は明らかではない。女仕の生活以外は、その伝記は全く空白でうを , ス , 、を汽すれ 1 ーイツ亠 ~ ることも可能であろうが、そうしてある せいしようなごん れいらく 房の生涯にはひとつの類型があって、そある。清少納言が晩年に零落して、その 整理ができた後に書き継がれて、中巻・ らようしよう の十のむ干め てんじようびと の一生のうちで宮仕えの時期だけにスポ家の前で嘲笑した殿上人に「駿馬の骨を寧女と呼ぶのは、古代以来の信仰的な習下巻が成立したものと思われる。そして、 ットライトが当たっているということが多買はすやありし〕と言いかけたという逸谷として、女生の名はみだりに人に明かその内容か記録式なものから、次第に愛 せいしようなごん せいしようなごん 清少納言はその家系がはっきりして話がある ( 古事談 ) 。これなどは諸国流すことをしなかったからで、清少納言同情生活の反省へと主題を掘り下げてゆく ろう 浪の話とともに伝説の範囲に属するもの様、今日その本名が伝えられていない。 のである。作者は「人にもあらぬ身の上 であろうが、みすから得意でもあった才伝えによると本朝三美人のひとりと言わまで書き日記して、珍しきさまにもあり 知の要素が死後にもそのイメージを形づれているので、その美貌とオ知によってなむ。」と言い、しかし、「天の下の人の くっているのである。 兼家の求愛を受けることになったのであ品たかきやと問はむためしにもせよかし かねいえ ろう。そして兼家の妻であったことが、 と覚ゆる」と言っている。 響「かげろふ」の世界 はかの女房たちと異なって、伝記を確実身分高い人との結婚がどんなものであ せいしようなごん かげろうにつき にしている。その生年は明らかでないが、 ったか、身をもっての体験を世人に語っ え清少納言に比べると、蜻蛉日記』の らようとく みちつなのはは かねいえ 作者である道綱母は、い くらかその伝記没年は長徳元年 ( 九九五 ) で、兼家が六 てみたいという気持になっているのであ にようばう のに確実性がある。大体、女房には受領階十二歳をもって没した五年の後である。 り公下 かげろう すリよう す受級の娘たちが多かった。受領というのは蜻蛉日記』が書かれたのが、大体天禄道綱母はまた、この日記を「身の上を 三年 ( 九七二 ) から貞元元年 ( 九七六 ) のみする日記」 ( 本文百二十一ペ 、一一を第い一を言聞地方の長官として実際に任地におもむく、 かみすけ だいじよう の国の守・介、あるいは大掾といった階級にのころと推定される。その死に先立っ二と呼んでいる。全く個人的な生活の記録 みちつなのはは 生ある役人の総称で、貴族社会においては十年くらい前、おそらく道綱母が三十代だと言うのであるが、こういう日記を自 地最下級の者として軽んぜられているが、 後半にあった時期であろう。そして、日身で書くことは、本来貴族の姫君のする きんじ にようばう 姿地方においては大きな権力をもち、経済己 言の内容はさらに二十年ばかりを溯ってことではなく、近侍する女房のしごとな てんりやく 一。力を蓄えている者も多か 0 た。そういう天暦八年 ( 九五四 ) 兼家の求婚を受けたのである。『蜻蛉日記』についても、近侍 第滝を第る階級の娘たちが宮廷や大貴族に仕えて文ところから始まる。そのあと断続しつつの女房が書きしるしたものという考えを かげろう てんえん た筆にもたすさわったのである。『蜻蛉日天延二年 ( 九七三 ) に至って終わるので捨てきることはできないが、受領階級出 みちつなの みちつなのはは 計記』の作者は宮仕えの生活はしなかったあるが、日記の主要な内容であり、道綱身の道綱母の場合はおそらく自身それを ともやすもんじようしさっ てが、父倫寧は文章の生出身の受領で、制母の生涯を左右し、その精神生活を支配したのであり、またそのことが自照の文 かねいえ ひろ 出約をゆるめて言えば女房階級のひとりとした兼家との交渉は、この前年作者が広学としての新生面を女房日記にもたらし みちつなのはは ( 慶応大学教授 ) 店言い得る。そしてこの人を道綱母とか倫幡中川の家に移ったことによって絶えてたものであった。 はは はたなカカわ かねいえ かわいえ びばう さかのば てんろく け、、らゆう みちつなのはは にき ージ参照 ) 164
権勢を振るった。それもかなり兼家の性格をあら わしたようなやり方で。その結果強引に関白の権 限が強められている。あるいはまたむすこたちを みちなが 恣意的に抜擢してい その点道長のはうがむ しろ慎重です、権勢に対してはね。かなりこの親 子では性格的な違いもあるように思いますねと って道長はこまかい力とい、つと、やつばりけっ こう太っ腹なところがありましてね、そういう意 味しや、べつにほめるわけでもないんですけれど も、政治家としては一級品ですね。 田辺大政治家ですよね。まあ幸運に支えられ たというのも政治家の才能の一つだったら、そう かもしれませんけれども。 みちなド ばってき 詞 日 道 冖原 藤 の 品 級 て し と 家 政 みちなが 村井いまから考えると道長時代に一体どんな 独自の政治をしたかとい、つことになると、何にも ないです。これはむしろ先例に従って行なう時代 ですからないんですけれども、しかし人の扱いと みちなが いうふうなことにおいては超一流ですね。道長と い、つのは確かに政治を私したとい、つところもある んですけれども、意外とあれ、ルールに従って政 治はしているんです。ただ、自分のことにかかわ ってくると、も、つがむしやらにそれを貫くとい、つ ところがありまして、どんな敵でも撃破していく。 ところが一たん相手をやつつけて、もう再起不能 である、自分の敵にはならんだろうと思うと、今 度は一転、目をかけてやる。 カねい・ん わ ( し 田辺 小一条院がそうですね。小一条院をおろ すときのあくどさというものは、たいへんなもの ですね。小一条院は後一条天皇の東宮でしたが、 道長の圧迫で、東宮を辞退される。替って道長の あつよし 外孫の敦良親王が立たれたわけですね。やつばり カねいえ 父親譲りでしよう。、 父の兼家が花山天皇をだまし て、退位させたのと同しですね。 村井ところが一たんだめだとなると、今度は みちなが カわいかるでしよ、つ。ー」 ハ一条院がせっせと道長家 へ出入りするんですよ。あれしやドラマにならな いわけですよ。それで周辺の者ががっかりしちゃ って ( 笑 ) 、やつばりそういう点で心理を見抜くと いうようなところが道長にはありますね。 味も悪い意味も含めて、日本的政治家の原型とい えると思います。 不幸な女たちが 文学をつくる まくらの・つし 田辺『枕草子』というのは以後の日本文学に は絶えて現われなしョ 、、ト常に異端の文学ですね。 サロン文学が無いというのもそうだし、自然描写 もそうだと思うんです。あけがたの風が顔にしみ ゞ。、ン たとか、車輪に踏みしだかれたよもぎカノ、 おいたったというのはヨーロッハ文学系統の自然 かちさっふうげつ 描写でしてね。日本では型にはまった花鳥風月に なってしまうんです。 村井民族の資質の中になかったんでしようか ね。 田辺伝統を踏み破ってしまって、ついにそれ 以後の伝統がつくれなかったし : 日本文学に 定着しなかったと思います。たまたま定着しかけ ると、みんなで寄ってたかってつぶすわけです。 まくらのそ・フし 私はそういうふうな『枕草子』が好きなんですけ かざん 158
みには、相手の好意を確かめた上で、安心して相手の気 たけだか 勢をそぐような威丈高な姿勢をとっているようなところ がある。これも甘えのうちであろう。安全地帯での発言 の一種と読める。 私の中にも、この日記作者の分身はいるので、とても 大きなことは言えないけれど、自分本位、自己中心にし か生きられない人の、我執の強さと見合うような、生き る幅の狭さ、人間関係における度量の狭さが、贈し、怨 かねいえ めしと思って書いた兼家が鏡になってうっし出されてい るところに注目する。 その我執の強さは、日記の地の文もさることながら、 かねいえ やはり、兼家との歌の贈答の部分に躍動している。わが まま勝手であるが、わがまま勝手な詠み手がしつにいき がしゅう 賀茂川沿いにすすむ関白の牛車年中行事絵巻 かんばく いきと感じられるのは、やはり凡庸な詠み手ではない証 拠であろう。 かげろう みやもとゆりこ 『蜻蛉日記』を読みながら、よく宮本百合子の『伸子』を 思い出す。それは、この我執の表現からの連想であり、 贈んでいる男性が皮肉にもよく書かれていることからの 連想でもある。つまりは、他人を斬るように自分を斬る むすかしさということになるが、二十世紀ならぬ世紀 に、人々に先んして私生活を表現の素材にした勇気と実 視はやはり大医い さて、初瀬から帰って日が改まると、あの方から、 だいじようえ 「大嘗会の御禊の準備まで、あとわすかしかありません。 あなたの方で手伝ってほしいのはこれこれです」 と言って来られた。さすがに断るわけにもゆかないの で、大急ぎであれこれととのえる。 御禊の当日、女御代さまの行列は、儀式の車が引き続 にようばう・ くものものしさであった。こちらの下仕えの女房や、手 振りの男などが行列に従ってゆくのを見ていると、まる で自分がそこに加わっているような晴れがましさである。 かねいえ ■多忙な兼家が、とうとう御禊の前に字治まで作者を 出迎えた。即座には、贈まれロでしかあらわせなかった きよう 夫の好意の確認も、京に帰って振り返れば、多少は申し 訳なさにも見改められたのか、かっては縫物などできる ものですかと突き返した作者も、ここではしおらしくな かげ まわ って、黙って夫の希望に従っているし、夫の蔭に廻って の協力に、一時的にもせよ満足していることが、晴れが はっせ によう′」だい ばんよう ートもづか のぶこ 119
じようたん すけふじわらのかねいえ 佐藤原兼家さまときたら、かねてから父親に、冗談とも 真面目ともっかす執心のほどをはのめかされていたらし く、とてもお受けできる話ではない、あまりにもご身分 か違い過ぎますなどと申し上げていたのに、そんなこと は聞いてもいない体で、ある日、あの方のお手紙を預か った騎馬の使者が、派手に私の邸の門を叩いた。 しきたりにとらわれないお方といおうか、非常識な方、 それとも強引なお方といおうか、カくいう作者こそ身の ほど知らすという人があるかもしれぬが、言い寄られる 夢多い身がとまどったとしても不思議ではないだろう。 その上、手紙の料紙なども、およそ内容に合わないもの づか で、こ、つした折の、い遣いは、、つか力いよ、つもないかね てから、 いたらぬところなしと聞いていた筆蹟も、わが 耳、わが目を疑わないではいられないようなお粗末さで ある。これはいったいどうしたことだろう。お手紙には、 音にのみ聞けばかなしなはととぎす かねいえ ( 兼家 ) こと五ロらはむと田 5 ふ、いあり うわさ ( お噂ばかりというのは、あなたのことを田 5 い詰めている私 にはかなしいことです。ぜひ、お目にかかって、親しくお 話ししたい。 したた とだけ認められてある。お返しをしたものか、それとも このまま見過ごしたほ、つかいいのかしら、などと相談し ていると、何かにつけて古風な母が、 「やはりお返事は差し上げなければ失礼になりましよう」 はず と一一一一口う。そこで、心も弾まない一首を仕方なしに詠んだ。 語らはむ人なき里にほととぎす かひなかるべき声なふるしそ