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検索対象: グラフィック版 枕草子 蜻蛉日記
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1. グラフィック版 枕草子 蜻蛉日記

ひうぎ 檜扇 純然たるアクセサリ イとしては、礼装に用 ぎよくはい ぎよた、 いる玉佩・魚袋、女性 の釵子などがあるが、 むしろ実用を兼ねた品 に工芸・美術の粋がこ おうぎ らされている。扇は風 を送る実用よりも、常 たさ に携えていて、人の注 音 ~ をひく時に鳴らした り、女生はとっさの際 に顔を隠したりする。 メモの代用にもされる ちょ - フはう など重宝な生活の小道 具であるが、これに珍 しい骨を用いたり、 ごくさいしき おうぎ 扇には極彩色の絵を描 かせたりする。その美 おうぎあわせ をきそって扇合なども 催された。 装飾 さいし 挿鞋皇后や女官が常用 138

2. グラフィック版 枕草子 蜻蛉日記

あん ところあらわし今日の縁談と同しよう いうことばは母親を意味することが多く、 安されている。天子の日常の起居は清涼 てん おとど おまし に、あらかしめ男性側と女性の親との間 ことに娘に対する監督権は大きかった。殿で行われ、昼の御座・夜の御殿を初め、 生典 に約束が成り立っている場合もある。そ財産貴族の財産の大きなものは、邸宅天子が食事をとられる朝餉の間、顔や手 しさっえん の場合は、男性が形式的に「かよい」をと荘園で、荘園の領主であることを示すを清められる御手水の間、御膳を用意す へいあん だいばんど・再 こきてんふじつば おこなうが、平安朝中期には「三日の通券」が相続された。家亦という事務官がる台盤所などがあり、弘徽殿・藤壺の上 みつ岩 ひさしてんじよう てんじよう い」に固定する。そうして、今日の結婚財産の管理に任したが、邸宅・荘園の継の御局もある。南の廂の殿上の間は殿上 につ , ゅうふだ びとつめしょ 式に相当するのが「ところあらわし」で、承は女性もその権利をもった。それだけ人の詰所で、出勤を示す日給の簡がかけ 若「露顕」とも言う。男性が女性の家族のに家庭生活における女性の発言権は大きられる。 じじゃってん 一員として承認を受けることに主眼があかったのである。 後宮もと天子の常の御所は仁寿殿であ り、新しい夫婦は「三日の夜の餅」を食床離れ別居生活にある結婚では、女性った。この背後にある七殿五舎が後宮で、 、一・フなレ つばせんざい 恋する。 はただ男性の訪れを「待っ」だけであり、后妃たちの住居である。その壺前栽に植 きりつば 房すむ「ところあらわし」以前は、男性男性の「夜離れ」はそのまま結婚の解消えられた樹木により、桐壺 ( 淑景舎 ) ひ工う ふじつば は夜に入って女性のもとを訪れ、朝は暗に至ることもある。それとは別に、女性藤壺 ( 飛香舎 ) などの別名もある。后妃 たちはここから天子の夜の御殿に伺候す いうちに「暁の別れ」をせねばならない はその盛りの年齢を過ぎると「床離れ」 るのが通例である。 0 結婚 が、これ以後ー よ昼も女性のもとに留まるをして、仏門に入ったりすることが多か しんてん ことが許される。こうした安定した結婚った。その場合、自分の血筋の女性など寝殿造り貴族一般の住居は寝殿造りと 一夫多妻庶民の結婚生活についてはほ して知られている。寝殿 ( 正殿 ) を中心 とんど資料がない 一夫一妻が多く、女生活を「すむ」と言う。数か月ないし数を妻の座の後継者として推薦する。 いャみどのつりどの に、東・西・北の対の屋、泉殿・釣殿・ 性は労働力として迎えられたであろうと年の後には女性が引き移りをして同居の ーものやぞうしゃ 下屋 ( 雑舎 ) ・車宿が配置され、それら いう程度にしかわからない。今日知り得生活に入ることが多い はそどの ろう わたどの ( 0 内裏・邸宅 をつないで廊 ( 渡殿・細殿 ) がある。主 るのは貴族社会の結婚で、その最大の特消息結婚以前はもちろん、結婚後も男 へいあん第・ 色は一夫多妻にある。貴族の嫡妻はの女が別居している場合が少なくないから、大内裏平安京の中央北端に、東西約一・要な建物は母屋を中心に、その外側に少 あと呼ばれ、そのほか数人の妻があって、自然その間にはしばしば「消息」の交換二キロ、南北約一・四キロの地域を占めし低く廂・孫廂があり、さらにその外側 おんしさフ 男はそれぞれのもとに通うのが通例であが行われる。これが恋の文学の温床となる大内裏がある。周囲を土塀で囲み、そ るが、特に、男女が初めて一夜を共にしの外に溝をめぐらせる。大内裏の南中央 すざくもん きぬぎれ ふみ に朱雀門があり、ここから朱雀大路が平 通い婚恋愛や結婚は、男性が女性の風た翌朝、男性から送られる「後朝の文」 評を「おとにきく」ことから始まる。貴はその遅速が女性に対する熱意をはかる安京を二分して貫通し、羅城門に至る。 大内裏の内部は内裏 ( 皇居 ) と官庁街で、 族の子女は奥深い生活をしていて、風姿尺度として重視せられた。 を人目にさらすことがないからである。 子女の養育男性が婿として女性のもと文武百官の公的な生活の場である。 てんし 男性は見ぬ恋にこがれて消息を送り、女に通う生活では、身のまわりの世話その内裏天子の平素の生活は公私ともに内 おうだく 性が応諾の気持を示すと直接訪れてくる。他一切が女性の側の負担である。婿は大裏で行われる。内裏には十七殿五舎があ ししいてん せっしさっ こうして恋の折衝が続き、二人の仲が深切にされはするが、生活の実権をもたなり、公的な政務・儀礼の多くは紫宸殿で さこん うこんたもな まってゆく。その間男は通い続けるが、 かった。夫婦の間に生まれるこどもも、行われ、この庭前に左近の桜、右近の橘 かしこど・男うんめいてん 当然女性の側で養育される。「おや」とがある。賢所は温明殿にあり、神鏡が奉 世間に対しては「しのぶ」段階である。 むこ だいだいり みぞ すいせん し」・一は おもや あさいれい 145

3. グラフィック版 枕草子 蜻蛉日記

1 ・枕草子・蜻蛉日記 さらしな 記』更級日記』など、後期王朝文学を代るはすであって、その依って来たるとこている。 女房文学全盛の時代 こういう記録のための文章が女性の文 表する作品がいずれも女性の手によってろはもっと根深いのである。 しよくしよう れんま 「かげろうにつき 蜻蛉日己 { ます、女房という階級の職掌から考え章表現の力を練磨する機会となった。当 言』カ書かれたのが今からちょ生み出されたのが、ほとんどこの西暦一 まくらのそうし うど千年くらいの昔、枕草子』のはう〇〇〇年を中心とする前後百年ばかりのてみなければならない。女房の職掌とし時、男性は記録のために漢字・漢文を用 はそれより二、三十年遅れるけれども、 間である。日本文学の歴史の上でも他にて考えられることがおよそ三つある。第 いるのが普通であった。しかし、そうい げん」う リようらん 「まくらのそうし さはどの時を隔ててはしなし本 、、 : 尢草子 類を見ない、女流文学の繚乱と花を咲か一に自分の仕える貴人の言行を記録する う正式な表記法による必要のなかった女 かげろう そう力な まんにようがな 「げんじ 源氏物語 せた時代である。 こと。第二に貴人の命令の伝達。そして性たちは、万葉仮名から変化した草仮名 蜻蛉日記』ばかりでなく、 0 っさ当し当ぶ 華物語』紫式部日記』和泉式部日 これらの作品の作者である女性たちは、第三に貴族の子女の教育である。このうで、日常語に近い国語表現をもってもの によう やしきみやづか 多くは宮廷や貴族の邸に宮仕えした「女ち、第一と第二は女房たちがもっていたを書く習慣であった。この国語による表 房」と呼ばれる人々であったので、この文字と文章の発達に直接関係がある。そ己、 言としうことが思想・感情の自由な表現 一類の文学は女房文学と称せられて、文して第三のものも、女房の文学を生み出を可能ならしめて、女流の文章を発達さ きえん させる機縁になったものである。 学史上に輝かしい一時期を画している。 せる導きとなった。そして、長い修練の きさきみ・」 . し学 / し 天皇とか后、皇子、あるいはそれに準 ど、つしてこの時代にこのよ、フ 間にその文章が十分に意思伝達を果すだ に集中して女流の文学が栄えたのであろするような族長クラスの貴族について、 けの機能をそなえるようになったのであ じせき ( 絵うか。この空前で絶後ともいうべき現象誕生や結婚の物語、生涯の事績を伝えるる。 かたリべ 一一縁はどのように説明されるのであろうか。 のは古代の語部以来の伝統であるが、平その点は、第二の命令の伝達について あん せつかん りつりよう 普通には、これを摂関政治と結び付け安朝においてはそれが女房の任務であつも同様である。律令が整備された時代に ふじわら かたっ て、藤原氏が自己の権力拡張のために娘 た。すっと後世になっても、宮廷には「御なると、宮廷における命令の下達には、 ゅどのうえ 一女 てん のを後宮に入れ、その娘のために周囲に才湯殿の上の日記」という日記かあって天 げんこう 能ある女性たちを集めたからだと説明さ子の言行を記録しているが、宮廷はじめ 菅れている。そのことは事実であるが、し貴族の家々ではこの種の日記が幾種類も つ上を ( 、、 4 を、 , ら ! , ・タく , ・てん・、を写 すかし、才能ある女性を集めたからといっ作られていたことが想像せられる。今日 ッ ) , 一、一 ~ ( 下参て、それらが直ちに女流文学 0 盛に 0 からは文学作品として扱われて〔る『紫 しきぶ みらながてい 寺ながるものではない。ある種の文学が興式部日記』てさえも、道長邸における皇 L 石隆するにはするだけの必然的な要因があ子誕生の記録という目的を明らかに見せ、ル ) い / 」ーさ / 、・イ・↓わ・いれ , 【和 160

4. グラフィック版 枕草子 蜻蛉日記

もまあ女から見てわかりそうですけれど、「猫の 村井そうですね、それを陰性というのとまた で、お互いしゃべられた話題しゃなかったんでし 耳」に飛躍するのは大変なことなんですよ。私、い 違うかもしれません : よ、つか , ね つもそういうふうな″ものはづけ , を読んだとき 田辺老成じゃないですか、何かひねていらっ 田辺なるはど、そうするとやつばりたくさん に劣等感を感しるの ( 笑 ) 。これはうれしいなあ。 しやるの。 の英知を結集したという部分もあるかもしれませ 村井あれはまたあれで、私はたいへん人格的 んね、彼女だけじゃなくて。 いお話伺って、よ 一条天皇をめぐ なんていうと大げさな話になりますけれども、 かったわ。だって、あんまり連想が激し過ぎてね。 るニ人の女性 い女性だと思いますよ。 これは一人の人が考えたんだったら天才だと思っ 田辺非常によくできた人ですね。 たんですよ、それは先生の話でよくわかりました。 田辺さっきちょっとお話に出ましたけれど、 ていし しト・しちゅうぐう 村井やつばり定子はそういうはなやかな時代 たぶんそうですよ ( 笑 ) 。もの書きの嫉妬です、や定子皇后と彰子中宮の性格の違いというのは大き をーーー・晩年はそうでもありませんでしたけれども つばりあんなに書けたらたいへんですよ。 いですね。 はなやかに生きたという、自分のオ能を発揮 ありがたきもの」に、″ものをよく抜くる毛抜″ 村井また、それのもたらす影響というのも大 というのがありますでしよう。それからすぐ。、 きいですね。 できるような状况におかれて、また発揮したとい みちなが う感しですけれど、彰子というのは逆に道長の と飛んで " 舅によく思わるる婿の君なというのが 田辺定子皇后が陽性で、非常に才気にあふれ ありますね、たしか。その飛躍というのがちょっ ていらして、というのと反対に彰子という方は、 おやしの勢によっかかり、あるいはそれを活用 と考えられない 「むつかしげなるもの」のとこ表に出さないよう、出さないようにしてられますしようとすりや、何でもできた女なのにできる だけ目立たなくしようというふうなところがある ろに「ぬひ物の裏」「猫の耳」というのは、これね。 人でしてね。これはまたこれとして : 田辺りつばですね。 村井りつばな女性ですね。 田辺『紫式部日記』を読むと、非常に何かちょ っとぶつくさと不平を言っていますでしよう、彰 子中宮がいつも引っ込み思案でいらっしやるから、 ここのサロンがーーーーサロンという名前ではありま せんけれど もう一つパッとしないとかね ( 笑 ) 。 レら、、しきぶ 村井紫式部は多少というか、それが大いに不 ていし 満だったんですね。ですから、かりに定子と紫式 部を結びつけたらああいうサロンができたかとい レら、、しきぶ うと、そうではないと思うんです。紫式部の性格 からいって、これは絶対にできなかったと思うん ていし レり、ーーぶ ですがね。紫式部は、定子と清少納言との間にあ ふん ったサロンの雰囲気というふうなものが自分のと ころにもできたらと思う反面、現実にそれがない ことが不満でああいう文章になったんだと思うん ーうと しっと 一条天皇円融寺北陵 ( 京都市・右京区 ) 、、ちじよう レ . っさきしきぶ はっき 153

5. グラフィック版 枕草子 蜻蛉日記

草を摘む女たち七草の日には 高貴な人々も若菜摘みを楽しむ っこみがちで、よく見られないものである。 八日、この日は女性を対象に、位階を授けられたり禄 ごんじよう をたまう日。人々かお礼の言上に、車を走らせる音も、 いつもよりは喜びがあふれているようで晴れがましくて しいものだ。 十五日は、餅がゆのお食事を主上にさし上げる日。貴 これは、 族の家では「かゆの木」のさわぎがおかしい かゆを炊いた木で女性の腰を打っと、男の子がうまれる きんだち という俗信があるのである。公達や若い女房がそっとね らっているのを、たがいに打たれまいと用心していつも うしろに注意しているのも面白いか、どうやってうまく しゅび すきを見つけたものか、びしりと首尾よく腰を打ち、「し てやった」と面白がってどっと笑っていたりするのも、 華やかていいものである。打たれた方は、くやしい もっと 思、つのも尤もだ。 むこぎみ 新婚の姫君と婿君のところでも面白い。婿君は宮中へ さんだい 参内されるために部屋を出られる、それを待ち遠しがっ て古参の女房などが、奧の方にそっとたたずんでいる。 姫君の前にいる女房たちはそれと気付いて笑うのを、「し つ、静かに」と手まねで制するが、姫君は知らぬげにお っとりと坐っていられる 「ここにあるものを取らせて下さいまし」などといって そばへ寄り、走りざまに姫君の腰を打って逃げると、そ こにいる限りの人々はどっと笑、つ。 むこぎみあいきよう 婿君も愛嬌よくにこにこしているのも面白い。女房同 士打ちあったり、はては男性まで打ったりするようだ。 ゆだんして打たれた人は、どういうつもりか泣いたり腹 にようー - フ

6. グラフィック版 枕草子 蜻蛉日記

宇治川で魚をとる漁師たち長い問果たした はっせもう いと思い続けていた初瀬詣でにたっことにな った見るものすべてがめずらしくことごと に風情を感じる道中であるあの方は使の者 に手紙をもたせてよこした石山寺縁起絵巻 いましよう、夢には通い路があって、かえって夢の中のほう が人に逢えるとはよく聞くことでございますが、、つつつはも とより、私はその夢の中でさえ、お逢いもできないでおりま 川と見てゆかぬ心をながむれば じようがんてん いとどゅゅしくいひや果つべき ( 貞観殿 ) Ⅱに隔てられて対岸の人のもとへも行けないように、近くの あなたにお逢いもできす歎いている私なのに、二人の間を、 「こと絶ゆる」などと、そんなゅゅしいお返しをなさっていし のでしようか。 ) 渡らねばをちかた人になれる身を ふちせ 心ばかりは淵瀬やはわく ( 御方さまは、夢の中でその川をお渡りにならないので、私は おちかたびと ふちせ 遠方人になっていますけれど、心ばかりはどんな淵瀬にも隔 てられることなく、お側に参っております。 ) じようがんでん ■貞観殿登子との作者の贈答には、作者だけに歎かれ 責められたり、また、期待されたりしている兼家と は違った彼の一面が浮かび上がってくるところが面白い めの 恐らく、作者がこの贈答を日記に残したのは、今更、乳 母かそこにいてやらなくても、という、思いかけないユ ーモアが残したかったのではなく、それは照れであると じらよう ともに自尊心の裏返しにされた自嘲のポーズでもあって、 じようがんでん むらかみ それ以上に、貞観殿の御方という、村上帝在世中は同性 こ、つきゅう のそねみをかうほどに後宮で時めいた女性との対等な交 誼をそれとなく誇りたかったのであろう。 兼家の妹でもあるこの登子は、亡き重明親王の妃で、親 むらかみ 王没後、これも后の宮安子薨後の村上帝のもとに入内、 らよう 寵を得たというか、さきのように読んではしめて、「こと 絶ゆるうつつや何ぞなかなかに : 」と詠んだ作者に、 くちょう しか 叱るような口調で川と見てゆかぬ心をながむれば・ とたしなめすにはいられなかった登子との贈答の残され た意味もっかめるように思う。 贈答は、時姫の場合に典型的であったように、作者が かねいえ 兼家の真意をつかみかね、乂、兼家に飽きたりす、欲求 かいふく 不満で平静を乱されている時の、自己恢復のための有力 な手段の一つで、わすかにそうした領域で優越感を示し 、他人に求められている自分を確認したりしてひそ かに自らを慰めているところかいかにもこの日記作旧ら かねいえ かねいえ かねいえ じゅだい 110

7. グラフィック版 枕草子 蜻蛉日記

せつきよう 説教を聞きに集まる人々お籠りに入った寺 で下衆の生活を見た私はかえって不浄にかか わったような思いをさせられる夜が明ける と人々は支度にとりかかり私には有無を言わ かすがごんげんれいげんき せすに出立させてしまった春日権現霊験記 しすれもわすかながらはっきり書かれている。 か〕ろ、つ はせ ところか 『蜻蛉日記』では、長谷寺への道中のことに 多くの筆数をあて、長年の宿願などと言っているのに、 こも かんじん 肝腎のお籠りについては、具体的なことはほとんど書い これは読みくらべて興味あることだ。 ていない りやく ご利益にあすかるのを専らの目的とする実益のための いなり - も、つ 信仰は、この日記作者の、さきの稲荷詣でに限らす、広 王朝一般の女性の信仰ともいえる一面があって、信 仰の思想的自覚とか、観念としての理解などということ になれば、もっと時代を下らなければならないにしても、 かげろ、つ さんろう 『蜻蛉日記』の長谷寺参籠についていえば、信心のあら われとしての参籠もさることながら、住み馴れている場 所から自分を強制的に連れ出して気分転換をはかったり、 かねいえはんのう 兼家の反応をうかがって、愛のほどの確認をしようと したことは疑えない。男性とは異り、戸外での行動が限 たいぎめいぶん られていた女性にしてみれば、参籠は大義名分のある外 出の名目でもあり、この外出によって精神の流通をよく たの したり、 自然や年中行事の観客となって愉しんだりとい かげろう う事情は、『蜻蛉日記』にも認められる。 いったん予定を立てたら、変更不可能という作者の日 常生活でもないのに、また、二、三日をあらそう参籠で かわいえ もないのに、兼家の関心を知ると、意地になって独りで 迎、たに一打ノ \ から 旅立っところも、早く帰った方がいい かねいえ という兼家に、わざと拗ねて予定を知らせないようにす るところもこの日記作者らしい。仕立ててほしいと一一一口っ て来た着物を、そのまま突き返してしまう女はここにも うなカ 生きていて、帰宅を促されている内心のよろこびは、見 せてなるものかという態度である。 さんろう しかし、参籠は、作者の予定通りには行なわれない。そ れがたとえ周囲の者たちのはからいであったにしても、 やむにやまれぬ自発的行為としての参籠なら、頑なに自 己主張を通すことのできない作者ではないはすである。 ものもう このあたり、のどかな物詣での実態を見せられる思いで ある。 かねいえ 兼家の出迎え そういうわけで、長谷寺にはいましばらくとどまりた いと思ったが、夜が明けると、人々は騒がしく支度にと りかかり、とうとう有無を言わせす、出立させてしまっ かたく 115

8. グラフィック版 枕草子 蜻蛉日記

扇 けを女の幸福と思っているような女は、私には気づまり で軽蔑したい気がする。 やはり、相当な身分の人の娘などは、世間の人にも交 宮中にお仕えす わらせ、世の中をみせて馴れさせたい。 にようかん る女官などにも、しばらくならせてみたいものだ、と思 われる。 「宮仕えする女は軽薄でいけない」などという男はにく らしいものだ。 だがまあ、それも一面からいうとそうかもしれない。 はこいりむすめ 箱入娘とちがって、たくさんの人にわが顔を見せること になるのだ。申すも恐れ多いが、主上をはじめ奉って、 みやづか てんじようびと かんだちめ 上達部、殿上人、四位、五位の男たち : : : 宮仕えする以 にようばう 上、顔を合わさぬ人は少ないほどであろう。それに女房 の従者、実家から来る者たち、身分賤しき下女までに顔 を見られる。いちいち恥すかしがってかくれていたりす るわけに ) し , カかよい 男性たちだって、そういう賤しい者たちと顔を合わせ ないわけにもいくまい。宮仕えしているかぎりは、男も 女も同じことではないか。 北の方 ( 奥方 ) などといってあがめかしすいている場 っ 合、それが、もと宮仕えしたことのある人の場合 は、どこや まり職業婦人だった、というようなとき ら奧ゆかしさに欠けるような気もするのは、これはむり もないが、また一方、「内侍のすけ」などといって折々 さんだい は参内し、賀茂祭の使に出たりするのも、女性としては 名誉なことではあるまいか。 そんな風で家庭にはいっている人はたいへんよろしい かた たてまっ すりよう ごせち 受領が五節の舞姫など出す折にも、その北の方に宮仕え いなかもの の経験があれば、ひどく田舎者めいた見当はすれのこと など人にたすね聞いたりはするまい。奥ゆかしくていし ものである。 ロ興ざめなもの 何だかしつくりせす興ざめなもの。昼間、ほえる大。 あじろ 春の網代 ( 魚をとる簀で秋から冬のものである ) 。同しく冬から春 こうばいがさね 先ときまったものなのに、初夏のころ着ている紅梅襲の うぶや ひばち ちのみご 衣。乳呑子の死んだ産屋。火おこさぬ火鉢。牛の死んだ 、つし力い もっ はかせ 牛飼。「博士」は学問を以て代々仕える官吏であるが、 せしゅう これは男子のみの世襲である。しかるに、その家でうち つづき女の子を生ませているのなども。 かたたが 方違えにいっているのに、もてなしてくれないところ。 かたたが せつぶん 節分の日の方違えはまして興ざめ。地方からこちらへは きよう るばるよこした手紙に、贈りもののついてないもの。京 からの手紙もそう思うかもしれないけど、何ていったっ ってこちらは、都の面白いニュースや噂を書いてやるの いなか だもの、田舎のたよりとはいっしょにならない や 人のもとへわざわざ美しく書きあげて遣った手紙の、 返事を今か今かと待って、いやに、おそいなあと思って いると、持たせた手紙を汚ならしくしてそのままに持っ て帰ってくる。紙をけばだたせ、結び目の上に引いてあ すみ った墨まで消えていて、「いらっしゃいませんでした」 ものいみ とか「物忌で受け取られませんでした」などというのは まことに興ざめである。 また、必す来るはすの人のもとへ牛車を迎えにやって きぬ す ぎっしゃ うわさ

9. グラフィック版 枕草子 蜻蛉日記

けんえい これが朝 となった。晴の装束とも言い もので、一人膳に相当するが、略式には武官の場合は冠は巻纓で、靴の沓をはき、 うちぎうち , からぎれ たかっき ゃなぐい 匱である。唐衣・裳・表着・打衣・袿・ 高坏という一本足の方形または円形の台弓・胡鱇を帯びるなど、多少の相違があ月 だいばん る。 を用いた。 やや下級のものは台盤という 単・跏のなどから成り、一番表に着る化 粧 .1 粧は「けさ、つ」と 9 も「かほづく じゅばん からぎね り」とも言われたが、美顔と整髪とに分 長方形で四脚の台に居並んで食事する習布袴と衣冠束櫂を略式化したのが袴のが唐衣である。丈は短く、形は襦袢に さしぬき うえまおおぐちばかま くりには白粉・紅を塗り、 慣であった。 けられる。顔づ で、束帯の表袴と大口袴に代えて指貫と似ている。裳は腰より下、背の方に着け ひきまゆ はぐろ さしれきすそ 引眉・歯黒めをする。白粉は下等なもの 下袴を用いる。指貫は裾に組み緒を通し、るが、唐衣と裳には地質・色目に制限が ちょっきょ は米の粉や胡粉で作り、上等なものとし くるぶしの上でくくるようになっている。あり、特定の色は勅許によるところから す うわぎ きんじき ては鉛を酢で蒸して製したはふになどが 袴をさらに簡略化したのが衣冠で、「禁色」「ゆるし色」と呼ばれた。表着・ うちぎぬ いおはんび 礼装男性の場合は中国風の福服を着用襲や半臂を略し、笏の代りに扇を持つ。打衣はそれぞれ袿の一枚であるが、哇 かうち , さんだい するのが最も正式であるが、多額の費用これは公事以外の平素の参内の服装であは重哇とも称せられ、五枚・七枚と重ね へいあん て用いた。単は肌着であり、袴で肌に着 を要するので、平安朝も中ごろ以後はほる。 とんど用いられなくなり、それに代わ「直衣貴族が家庭にあ「て着用する常のけるのが下袴である。袴は跏色の長袴 ひれ 縫掖で、これらのほか公事の場合には比礼・ て正装として一般化したのが束帯で、朝服は直衣である。島帽子をかぶ ) 服とも言う。ます冠をかぶり、表より順のに似た直衣を表に着る。これには位裙帯・額・銚子などの装飾を付け、手に ほうはんび したがおあ ざっぱう は檜扇を持った。 に袍・半臂・下襲・衵・単を着る。袍は色の規定がないので、「雑袍」とも言う。 こらちきはそなが わき ・つ第のきぬ うちぎぬ曾》ん さしぬき 表衣で、縫掖という腋を縫ったもの、闕この下に打衣・単を着、指貫を着用する。褻の装束褻の装束には小袿・細長など こうち , からぎ さんみ しさっぞく せんじ 掖という腋を縫わないものの二種がある。三位以上の者は宣旨によりこの装束で参がある。小袿は唐衣に代わるもので、表 前者は文官、後者は武官が用い、その色内を許されることがあり、名誉とされた。着とほとんど変らないが軽装である。細あった。白粉は男性も使用することがあ べにばな はおべに すそ はんび かりぎぬ った。紅には頬紅と口紅があり、紅花か は位階によって規定されていた。 半臂は狩衣と水干狩衣はその名のように狩猟長は小袿の上に重ね、裾を長く引く。 はぐろ そて した巻お ら製した。歯黒めはいわゆるおはぐろで 短く、袖のない胴着で、下襲の背部にはに用いたもので、旅行や蹴鞠の際の衣服袿よりはやや公式な服装である。 ひきまゆ 裾があって袍の下から出して引いた 下であるが、軽快であるので日常にも用い童装束少女の正装として用いられる汗あるが、引眉は眉毛を引き抜いたあとに まるえりわき ざみ そてくち うえばかま おおぐちばかま 衫は、汗取りのための肌着から発達した眉墨をもって眉をひいたもので、ともに には表に表袴、内に大口袴を着け、腰にられた。円領で腋が開き、袖口にくくり わらわしさフぞく ひも せきたい 石帯を締め、魚袋をかけ、太刀を帯びる。の紐が付いている。衣と言って、もともので童装束としては、最も普通のもの女性が成年に達したしるしである。 かざみ あこめ 足には襪と浅沓をはき、手に笏を持つ。布で作られたが、上流では絹・綾を用いである。汗衫の内には表着・衵を、下に整髪貴族の女性は髪を長く背後に垂ら かりーかま あ・あうち , た。鳥幗子をかぶり、狩袴をはき、手にはを着る。衵は袿の小さいもので、肌したもので、身の丈にあまるほどの長さ すいかん あ・あ」え 扇をもつ。これを簡略にしたのが水干で、に近く着けたが、さらに衵や単を重ねるを誇りとした。時々先端を切り、毛根に 油をすりこんで髪の伸びるのを促した。 下層の官僚が用いた。ほかに平服としてこともある。 ひたたれ 洗髪は沐浴のおりにも行うが、髪だけを 直垂・小袖等がある。 旅装束男性は前述の狩衣を用いるが、 しよっぞく 十ニ単女性の服装は晴の装束と褻の装女性の外出にはまんしゅう型の深い朮女洗うこともある。米のとぎ汁、強飯の蒸 束に大別される。礼装ははじめ唐風を模笠をかぶり、袿や小袿を着て、紐で腰の汁などの「盟」をも「て洗い、梳るには櫛 つばそうぞく を、整えるには笄を用いた。 鏡は金属性 第ノ貴していたが、次第に簡略化され、同時にあたりを結んだので、壺装束と呼ばれた。 0 たれぎれ へいあん - 姿優美を主とするようになって、平安中期笠のまわりにはむしの垂衣という薄い布のものである。 ・ようばうしっぞく ドゅうに」え 冰浴今日ほどしばしば入浴することは 。直以降は女房装束、俗に言う十一一単が正装を垂れる。 てき ぎよたい のうし こそて のうし あや からぎぬ うわ かりぎぬ うわ まゆずみ 0 日常生活 ごふん 3 こわ 1 生活に欠かせない鏡台と硯箱 147

10. グラフィック版 枕草子 蜻蛉日記

つ安産をいのる祈鵜の中でご出産なさる中宮 半裸の女性は中宮にかわってお産の苦しみを 代役する憑坐である御産の疇安田靫彦筆 0 若宮のご成長を祝う御五十日の儀祝の食 膳がすえられ宴が催される紫式部日記絵詞 いのつ と一い、つを ) ) ました ! 」 「やや、これはまいー なりまさ と生昌はびつ くりして感に堪えぬごとく、 、っていこく かん 「よく、そんなことをご存しで。それは漢の于定国の故 事でごさいましよう。門を大きく造ったために子孫か栄 しんじ えたという : : : 。年功を積んだ進士 ( 学問をおさめ、役所の試 「家の格や身分に合わせたのでございます」 と答える 「でも、 門だけを高く造った人もあったって聞きますわ 験に合格した人 ) でもございませんと、おっしやることかわ かり土亠 9 土 6 い。私はたまたま、この道を専攻しておりま したから、それと察せられたのでございますか」 「さあ、その道も、 しいかげんなものよ。敷物を敷いてあ ったけれど、穴ばこに落ちこんだりして、みな大さわぎ でしたわ」 を ) い、つと ) 「雨か降りましたから、さもありましたろう。 へいこうとんしゅ あなたさまか何かいわれるとこちらは閉ロ頓首です。失 ネいたします」 しやもう、