俊頼 - みる会図書館


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1. グラフィック版 百人一首

源俊頼朝臣 うかりる人を ばっせの 山・おろしょ はげしかれごは一 いのらぬしのを はけしかれ とはいのら ぬものを 憂かりける な 0 4 ト ろくはらみつじ 旦 ( 中国 ) の西明寺、本朝の六波羅蜜寺」と答えて頼通を だざいのごんのそっ おおくら、まう ごんぢゅうなごん・うに 感歎させたという。大宰権帥・権中納言正一一位大蔵卿と 進んだ。碩学としては異例の昇進とされる。和歌はむし みなもとのとしよりあそん 七十四源俊頼朝臣 憂かりける人をはっせの山おろし はげしかれとは祈らぬものを ごんぢゅうなごんとしただ 『千載集』巻十二恋二に「権中納言俊忠の家に恋の十首 の歌よみ侍りける時、いのれどもあはざる恋といへる心 みなもとのとしよりあそん を源俊頼朝臣」として見える。 よ 題詠で「いのれどもあはざる恋」を詠んでいる。この としただ とき俊忠の家で開かれた歌会で詠まれた「恋十首」は、 十の題をきめておいて競作したわけだが、神に祈っても 逢うことのできない恋、というのは、題としても新しい しゅんぜいていか しゅこう 趣向だった。俊成・定家らの一世代前の和歌の革新者俊 ) 目ハこ十 6 ) 、 し力に 9 もふさわー ) い成 ~ か↓める。 ところで、『百人一首』の原形的なものと考えられて としより ていカ いる『百人秀歌』では、定家は俊頼に関しては「やまざ くらさきそめしよりひさかたのくもゐにみゆるたきの白 糸」、という、晴れやかで調べ高い叙景歌をとっていた。 、つ これが「憂かりける」に変更された理由はもとより明ら かでないが、晴れやかな叙景歌から恋の悲傷の歌へと選 択が変更されたのは、題の新奇さもさることながら、「憂 りける」の痛切かっ複雑な表現のうちにたゆたってい ていカ る近代的 ( 当時の ) 感触を定家が愛したからではないかと より たん せんざい さいみよう よりみち 私につらかった人をああ初瀬の山おろしょ やさしく風になびくようになびかせてくれと あれほどここな御仏に祈りまつったのに そうだ山おろしよおまえみたいに つらく当ることなど祈りはしなかったのに ていカ おぐらしきし 思われる。定家筆の「小倉色紙」ほか多くの本が、第三 句を「山おろしよ」と呼びかけの体にしている。複雑な恋 する男の心情を詠いこんでいるが、語句かぶつぶっと切 られているような切迫したスタイルは、やや難解である 「憂かりける」、憂くありける人の意。つれなかった人。 思ってもなびかなかった人。「はっせ」、奈良県磯城郡 はせでら かんのん にある。ここの山に有名な長谷寺があり観音をまつる。 この観音を信仰すると、現世の欲望がかなえられるとい われたから、多くの人々がここまで足を運んだ。「山お ろし」、山から吹きおろす風。「はげしかれとは」、激し くあれとは。つらく当るようにとは。「山おろし」の縁語。 みなもとのとしより みなもとのつねのぶ 源俊頼は、源経信 ( 七十一番の作者 ) の三男官位はそれは 亶の実力者で、歌合の判 ど高いとはいえなかったが、歌よ すとく しらかわ 者にもなり、白河法皇の命により、崇徳天皇の大治二年 ( 一一二七 ) 『金葉集』を撰進。父の遺志をつぎ、歌壇に新 風をもたらし、題材、表現ともに自由清新な作風で、そ しんこきん しゅんぜい の一端は俊成に継承され新古今調の成立に大きな影響を としよりすいのう 与えた。また歌論書に『俊頼髄脳』その他がある。 ろ余技だが、漢詩の詠みぶりをとり入れて姿勢のすわっ た輪郭のあざやかな歌を作り、歌人としてもすぐれてい きんよ、つ みはとけ はっせ えんご 0 107

2. グラフィック版 百人一首

み原基俊 契りおきし させもが 露を命にて あはれこどしの 秋しいぬめり あは ~ 、 ) と しのあきも いぬめり 契りおきし じよう ふじわらのもととし 七十五藤原基俊 ちぎ 契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり こひ そ - フづか - っカく ゆいまゑ 『千載集』巻十六雑上に「僧都光覚、維摩会の講師の請 ほっーる・うじにうだうさきのた、 を申しけるを、たびたびもれにければ、法性寺入道前太 じゃうだいじん 政大臣に限み申しけるを、しめぢが原と侍りけれど、ま ふじらのもととし たその年ももれにければ遣はしける藤原基俊」として 見える。 し」ーしト・り 亶の巨匠であるが、 作者は当時俊頼と並び称される歌よ じゅごいの としい・え 右大臣俊家を父とする名門の出にもかかわらす、従五位 さえんのすけ 上、左衛門佐にとどまった人である。その基俊がわが子 せんざい 1 もととし ぞうさんしよう ただみら ひしかわもろのぶ 忠道に恨みをのべる基俊百人一首像讃抄菱川師宣筆 」、つかく よ 光覚の出世を願って詠んだ歌。 こレ注がきゅいまえ ふじわら 詞書の維摩会は、藤原氏の氏の長者の主催で毎年十月 こ - フふくじ ゆいま、ー - う に興福寺でおこなわれる維摩経を講する法会で、その講 こうかく 師になることは非常な名誉とされていた。 光覚がたびた 4 わし」し」ーし ただ び選にもれるので、基俊はその時の氏の長者太政大臣忠 しゅ、つ、 しんこきん みち ただみち 通 ( 七十六番の作者 ) に愁訴したところ、忠通は『新古今集』 の「なほ頼めしめぢが原のさしも草われ世の中にあらむ 限りは」の歌をひいて、どんなにつらいことがあっても私 のいる限り信頼しておれ、と受合ってくれた。しかし今 むな 年も空しく選にもれてしまったので、この歌を差上げた というのである。相手の違約を責める歌だが、もちろん えん、エく 言葉は婉曲のかぎりをつくし、父親の子を思う真情を下 とろ 句に吐露している。 「契りおきし」、約束してあった。「おき」は露の縁語。 「させもか露」、さしも草に下りた露。「しめぢか原」か もぐさの産地であることから、「露」は露の命という意 を含み、さしも草に置く露のようにはかないお約束をも、 露の命の頼りとしておりました、ということになる。ま た「させも」は「さしも」、あれはどの意をふくみ、あ れほど約束して下さったのに、という、いを伝える。「命 「命」は露の縁語で、次いで来る「秋」も露の 縁語ということになる。手のこんだ技巧的な歌である。 ああ今年の秋も去っていくようてす しめじが原のさせも草を頼りに待てとの 露のようにはかないあなたのお約束 それを命に今日まて望みをかけてきました 今はもうはかない望みは露と散って : えんご 108

3. グラフィック版 百人一首

せんざい 『千載集』巻十七雑中に「述懐百首の歌詠み侍りける時、 くわうたいこうぐうのだいぶしゅんせい 鹿の歌とて詠める皇太后宮大夫俊成」として見える。 はうえん この述懐百首というのは、保延六年二一四〇 ) 二十七 歳の時のものである。この歌の「道」を「政道」の意に とり、政道の乱れ、無道をいったとするのは俗解だが、 作った当時からそういう解釈を受ける余地はあったとみ ゅうさいしよう しゅんぜい ちよくせん えて、『幽斎抄』によると、俊成は勅撰集『千載集』を 編んだ際、この歌を入れたいと思ったが、 「道こそなけ れ」が政道を非難しているとの俗難を受けるのを恐れて ためらっていたところ、特に勅命によって入集ときまっ こうた、、こうぐうのだ、一し人せ、、 皇太后宮大夫俊成百人一首画帖狩野探幽筆 たという話が伝えられている。 こころざし えんせい 歌の真意はいうまでもなく厭世、遁世の志と、それの とげがたいことへの嘆きにある。歌の声調が、二句で一 たん強く言い切り、三句以下で空間的な奥行きと、鹿と いう具体物とを出しながら、しみしみした気分で詠み下 しゅんせい しているため、余情の濃いものとなっている。俊成自身 ていか もこの作には自信をもっていたが、子の定家はこれを父 しゅんぜい の代表作とみなしていたらしい 俊成は、「タされば野 うづら 辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草のさと」を自讃の歌 ていカ としていたが、定家は「世の中よ」の嘆きの深さを父俊 成の本質として高く評価したのであろう。 「世の中よ」 この世。憂き世。「よ」は感動の助詞。 「道こそなけれ」、逃れる道はないものだ。 「か ( け・れ」 ぜんけい は係助詞「こそ」を受ける、「なし」の已殃形。「田 5 ひ 入る」、深く思いこんで。思い入ると山に入るをかけて ふじわらのていか こうたいこうぐうのだいぶしゅんせい 皇太后宮大夫俊成は、藤原定家の父。後鳥羽天皇 ( 九十 ひさんぎしようざんみこうたいこうぐうのだいぶ 九番の作者 ) に仕え、非参議正三位皇太后宮大夫に至る。 六十三歳の時、大病して死の手前をさまよい、病後出家 して法名を釈阿といった。その後長生きして九十一歳で ・もととし 没。早くから歌才にすぐれ、基俊 ( 七十五番の作者 ) に師事、 としより みこひだりけ じゃく 一方俊頼にも私淑し、やかて御子左家の家学を創立。寂 れんていか 蓮、定家らがその系統に輩出した。歌壇の大御所として いんぜん ごしらかわ 多くの歌合の判者となり、後白河法皇の院宣によって『千 載集』を撰している。子の定家は和歌を純粋詩的なもの しゅんぜい にきびしくきたえあげたが、俊成の歌には、信仰、いの深 さを背景にした心の深みと豊かな余情がある。 しやくあ とんせい 115

4. グラフィック版 百人一首

歌人紹介 じんぎはく せみまる じゃくれん たいけんもんいんのほりかわ ( 一一三九 ? ー一二〇二 ) 位したが、父上皇の倒幕計画に参加。敗るところから蝉丸の名がついたともい ・寂蓮法師 ・待賢門院堀河 ( 生没年未詳 ) 神祇伯 ほう しゅんかい さどせんぎよ ふじわらのさだながしゅんぜい みなもとのあをなかむすめ しらかわ 俗名藤原定長。俊成の兄弟俊海が父。れて佐渡に遷御。二十年後その地に崩 : % 源顕仲の女。はしめ白河帝皇女令子内 きん ぎよ しゅんぜい さきのさいいん そうじようへんじよう 父の出家により俊成の養子となるが、御。御集に『順徳院御集』。その他『禁・僧正遍昭 ( 八一六ー八九〇 ) 俗名良親王に仕え、前斎院六条とよばれる。 ・りくしよく びしよう ていか たいけんもんいん じゅ みねのむねさだかんむ 定家らの出生により出家したともいう。 秘抄』『八雲御抄』などの著書がある。岑宗貞。桓武天皇の孫。素性の父。従のち待賢門院に出仕し、門院の落飾に しよくごせん みこひだり ほうぎよ にんみよう ) 」いじようくろうどのとう 歌オにひいで、御子左家の歌人という『続後撰集』以下に百五十四首。 五位上蔵人頭に至ったが仁明天皇崩御殉じて出家。西行とも親しく歌の贈答 しんこきん たいらのらゆう すおうのないし ひえい だけでなく『新古今集』時代を代表す・周防内侍 ( ? ー一一一〇頃 ? ) 平仲を悲しみ比叡山にのばり出家。のち京が見える。中古三十六歌仙の一人。家 きんよう ごれいぜい すおうのかみたいらのむねなか かざんがんイようじ 集の他、「金葉集』以下に六十五首入 る歌人の一人。『新古今集』の撰者に子。周防守平棟仲の女という。後冷泉都花山に元慶寺を創設、座主となり、 せん しらかわほりかわ かざんそうじよう けいみようりゅうれい なったが撰歌途中で没。家集の他、『千朝から出仕、白河・堀河両朝にも仕え花山僧正と呼ばれた。軽妙流麗な歌を集。 だいそうじようイようそん ざい ふじわらのあきすえふじわらのみらとし おののこまち 載集』以下に百十七首。 る。藤原顕季・藤原通俊はしめ歌壇に詠み、小野小町との贈答は有名。家集・大僧正行尊 ( 一〇五五ー一一三五 ) おんじよう みなもとのもとひら 、】きん おける親交は広く、数々の歌合に参加。 に『遍昭集』があり、古今集』以下に三参議源基平の子。小一条院の孫。園城 てんのうじべっとう てんにん 寺 ( 三弗寺 ) 長吏、天王寺別当を経て 天仁元年 ( 一一〇八 ) 以後出家、間も十五首入集。 すとく てんだいざすしらかわとば へんじよう ′」しゅう ・素性法師 ( 生没年未詳 ) 遍昭の子。天台座主。白河・鳥羽・崇徳三天皇の なく没。家集の他、『後拾遺集』以下 らよくせん じようがん えんぎ きんよう に三十五首入集。中古三十六歌仙の一貞観から延喜 ( 八五九ー九二三 ) にか護持僧。「金葉集』以下の勅撰集に四十 、」きん ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ : 間けての人とわれ、『古今集』の六歌仙七首。家集『行尊大僧正集』 せんじゃ だいなごんきんとう すとくいん ・崇徳院 ( 一一一九ー一一六四 ) 第七時代と撰者時代をつなぐ役割をはたし・大納言公任 ( 九六六ー一〇四一 ) 藤 ちょうひび とば しように いごんのだいな′」ん つのよりただ 。書家としても知られる。「古今集』原頼忠の子。正二位権大納言。上流貴 十五代天皇。鳥羽帝皇子。父の寵妃美 ごせん このえ ふくもんいん 福門院の子近衛天皇擁立のため、心なに三十余首、『後撰集』に二十首余り入族の恵まれた環境に育った学識豊かな ほうげん らすも譲位。不満が保元の乱へと結び集。・ 才人で、和歌・作文・管弦はもとより、 そねのよしただ しルう さぬき ゅうそくこじっ いえたか 「拾遺集』 つく。しかし乱に敗れ、讃岐にながさ・曾禰好忠 ( 生没年・伝ともに正確に有職故実にも詳しかった。 ・従ニ位家隆 ( 一一五八ー一二三七 ) ごせん はうぎよ らよくせん 、カ巽集にも「拾遺集』 藤原光隆の四男。寂蓮の養子となりれた院は悲置のうちに崩御。御年四十は未詳 ) 『後撰集』から『拾遺集』時の撰者となり束ま しん ごとばのいん ぜい 六歳。和歌を好み、『詞花集』以下の代の人と推定される。長いこと六位丹以下九十二首。家集の他、著書に『新 成に歌を学ぶ。後鳥羽院の信頼厚く そたんご ′」のじよう きんぎよく わかくほん ちよくせん せんずいのう 後掾であったらしく、曾丹後とか曾丹撰髄脳』『和歌九品』『金玉集』『三 定家と並称され、定家・雅経らととも勅撰集に七十七首入集。・ わかんろうえい こうはう せいしようなごん 十六人撰』「和漢朗詠集』などがあり、 に『新古今集』撰者の一人。家集に『み・清少納言 ( 生没年未詳 ) ただし康保 つらゆきていか まんじゅ せんざい 貫之・定家とともに名高い歌人。・ 二集』。『千載集』以下に二百八十一年間から万寿年間 ( 九六四頃から一〇 だいなごんつねのぶ きょはらのもとすけむすめ ・大納言経信 ( 一〇一六ー一〇九七 ) 二七頃 ) までと推定。清原元輔の女。 、 3 首。 みなもとの みんぶ当ようみちかた うだげんじ たちばなののりみつ のりながふじわらのむねよ しルんえ みなもとの 字多源氏。民部卿道方の六男。母は源 ー一一九一 ) 源橘則光との結婚で則長、藤原棟世との ・俊恵法師 ( 一 だぎいのごんのそっ しように くにもりむすめ こうまのみようぶ まくらのそう としより とうだい 一国盛の女。大納言正一一俺大宰権帥。多 俊頼の子。東大寺の僧となる。のち京結婚で小馬命婦を生む。著書に『枕草 きんとう し ′」しゅう しらかわかりんえん 芸博識。公任とふたりいわゆる三船の 都白河に歌林苑を主宰。しばしば貴賤子』及び家集『清少納言集』。『後拾 ちよくせん オを称され、当時の歌壇に重きをなし 僧俗を問わす様々な歌人を集め . 、歌会遺』以下の勅撰集に十五首。中古三十 みちとし かものらようめい た。通俊の「後拾遺集』に対し、みす や歌合を催したという。鴨長明は彼の六歌仙の一人。 ( エピソード参照 ) : うだ せみまる から「難後拾遺集』を著して批判した 弟子。中古六歌仙の一人。家集に『林・蝉丸 ( 生没年・伝未詳 ) 字多天皇の らよくせん ぞうしき あっざわ ことは有名。勅撰集入集八十七首。家 皇子敦実親王の雑色、または醍醐天皇 葉集』。『詞花集』以下に八十四首。・ ・順徳院 ( 一一九七ー一二四一 l) 第八の第四皇子とか、その生涯は伝説化さといわれた。社会的には不遇であ 0 た集『経信集』。 ふじプのけんし だいにのさんみ へいあん ごとばのいん が、平安朝の異色歌人として著名であ・大弐三位 ( 生没年未詳 ) 藤原賢子。 た十四代天皇。後鳥羽院第三皇子。家れはっきりしない。盲目で和歌と琵琶 ふじわらのかわたか 0 っさきしをよ のぶたか おうさか らよくせん 一に和歌を学び度々歌会や歌合を催されにすぐれ、逢坂の関のほとりに住んでる。家集に『曾丹集』。勅撰集に八十父宣孝、母紫式部。始め藤原兼隆と結 れいぜいいんめのと ごとばのいん 婚し、後冷泉院の乳母となるが、のち いたという。一説には嬋歌の名人であ九首入集。 した。後鳥羽院の期待を一身にうけて即 じゅに そたん じゅん 0 161

5. グラフィック版 百人一首

はうげんもりとし 板地百人一首歌かるた法眼守俊筆 141

6. グラフィック版 百人一首

歌人紹介 まん せいらよう つらゆき むすめかわいえ ほっしようじのにゆうどうさきのかんばくだいじようだいじん 母は伊尹 ( 徳公 ) の女。兼家の養子・法性寺入道前関白太政大臣 ( 一〇九貫之との贈答歌もある。三十六歌仙のれ、整った清澄な調べで群を抜く。「万 ふじわらのただみち となるが二十一一一歳で早。「いみしき七ー一一六四 ) 藤原忠通。父忠実との一。『古今集』以下に十五首。家集に葉集』に長歌十三首、短歌三十数首。 『宗于集』。・ 和歌の上手」といわれていたことが説不和により、氏長の地位を奪われたが、 こきん ほうげん みぶのただみ 話集などに見える。中古三十六歌仙の保元の乱後再び氏長者となる。彼の活・壬生忠見 ( 生没年未詳 ) 『古今集』 てんとく みぶのただみね 一人。『拾集』以下に四十九首。家躍は政治のみならす文学・芸術面にま撰者の一人壬生忠岑の子。天徳二年 ( 九 せつつ はっしようじ 0 : でおよぶ。書道は法性寺流を興し、二五八 ) 摂津大目。幼時より歌をよくし 集に「一信集』 てんとく るいじゅ ふじわらのもととし たが、天徳四年内裏歌合に出詠した「恋 ・藤原基俊 ( 一〇六〇ー一一四一 l) 父十巻本『類聚歌合』の編集につくし、 たいらのかねもり としより としいえ 右大臣俊家。名門の出であるが官途にまた俊頼ら歌人の庇護者になるなどのすてふ」の歌が、平兼盛に負けたため こうけん きんよう もんし じゅ′」いのじようさえもんのすけ 恵まれす従五位上左衛門佐にとどまる。貢献もしている。『金葉集』以下に六悶死したという説話は有名。家集に『忠 らよくせん みなもとのとしより のち出家。和漢のオにすぐれ、源俊頼十九首。他に家集・日記・漢詩集など。見集』。勅撰集に三十数首。・ きんさっ みぶのただみね ・壬生忠岑 ( 生没年未詳 ) 下級官吏で と対比された歌人・歌学者。『金葉集』 みなもとのかわまさ みなもとのとしすけ はあったが、 歌人としては早くから知 以下に百七首。家集の他、『新撰朗詠・源兼昌 ( 生没年未詳 ) 源俊輔次男。 とものり しようしん じゅごいのげ 集』などの著書がある。・ 従五位下。皇后宮少進。のち出家したられ、『古今集』以前の歌合には友則 ふじわらのよしたか うしようしよっ ・藤原義孝 ( 九五四ー九七四 ) 右少将と考えられる。いくつかの歌合に名がと並ぶ歌数を残している。『古今集』 ゅうしないしんのうけのき 正五下。藤原伊尹の子。兄挙賢の前見え、『金葉集』以下の勅撰集に七首撰者の一人で、『古今集』以下に八十・祐子内親王家紀伊 ( 生没年・伝未詳 ) ごすィッ、 ルう たかくらてい ただみね てん 余首入集。家集に『忠岑集』。また『和高倉邸に住んだ後朱雀帝の第一皇女祐 少将に対し、後少将と呼ばれたが、天入集。・ たかくらいらのみやき ようし ねんとう みなもとのしげゆき 然痘のため兄は朝、義孝はタに夭死。 ー一〇〇一 ? ) 清和天皇歌体十種』という歌論書もある。三十子内親王に仕えたので高倉一宮紀伊と ・源重之 ( ? てん ただみ みなもとのかねのぶ : も呼ばれた。すぐれた歌人として、天 二十一歳。熱心な仏教信者であった。曾孫。源兼信の子であるが伯父の参議六歌仙の一人。忠見の父。 : かんし えら 家集に『義孝集』。『後拾集』以下兼忠の養子となる。従五下相模権守。・紫式部 ( 九七〇 ? ー一〇一四 ? ) 越喜四年 ( 一〇五六 ) 皇后宮寛子春秋歌 えいきう つくし みちのく みちのく ごのかみふじわらのためときむすめ 一三 ) 定通歌合 合より永久元年 ( 一一 に十一首。中古三十六歌仙の一人。能 旅を好み、筑紫や陸奥に下向、陸奧の後守藤原為時の女。幼時に母を失った。 らよくせん だいにの けんし ふじわらののぶたか ゆきなり 書家の行成は息。・ 地に没したという。家集に『重之集』。父の友人藤原宣孝と結婚、賢子 ( 大弐まで度々の歌合に参加。勅撰集に「後 ・文屋朝康 ( 生没年未詳 ) 康秀の子と『拾遺集』以下に六十六首。また彼の三位 ) を生む。夫に死別後、一条院中拾遺集』以下二十九首。他に家集「祐 ′」しゅう らよくせん ぐうしようし いわれるが、延喜一一年 ( 九〇一 D 大舎東宮に奉 0 た百首歌は創始期のものの宮彰子に仕える。勅撰集には『後拾子内親王家紀伊集』。 げんじ よっぜいいん りのだいじよう : 集』以下に五十八首。著書に『源氏物・陽成院 ( 八六八ー九四九 ) 第五十七 人大允に任ぜられたことなどの他詳し一つである。・ 0 っさ当しきぶ っさきし当ぶ らよくせん みなもとのとしよりあそん 語』『紫式部日記』及び家集『紫式部代天皇。父清和天皇。母は有名な一一条 い伝記は伝わらない。勅撰集には三首・源俊頼朝臣 ( 一〇五五ー一一二九 ) ふじわらのたかいこ かんばくふじわらのもと これさだ しゅんえ もくのかみじゅし ・ : の后藤原高子。乱行のため関白藤原基 しか入っていないが、『是貞親王家歌源経信の三男。俊恵の父。木工頭従四集』。中古三十六歌仙の一人。・ つわたかいこ もとよししんのう いのじよう ・元良親王 ( 八九〇ー九四三 ) 父は陽経 ( 高子の弟 ) に廃されたという。勅 合』などに出詠しているところから当位上。自由な詠風で歌壇に新風をおこ せん 時重んぜられていた歌人であろう。 し、多くの歌合に参加し判者ともなる。成天皇。風流好色の皇子として知られ、撰集入集は「つくばねの」の一首のみ としよりずい やまと 『金葉集』を撰進し、歌学書『俊頼髄『大和物語』などに逸話が伝わる。従である。・ みち りようぜん へいあん のう ふんやのやすひで ・文屋康秀 ( 生没年未詳 ) 平安初期の脳』を著す。「金葉集」以下に約一一百って女性との贈答歌が多い。『後撰集』・良暹法師 ( 生没年・伝未詳 ) 父を道 ふじわらのさねかためのわらわ さんばく らよくせん ぶんりん ・」きん まなじよ 済とする説や、母を藤原実方の女童白 以下の勅撰集に二十首。 人。「古今集』真名序には文琳とある。首。家集に『散木奇歌集』十巻。 じようがん やまべのあかひと 貞観二年 ( 八六〇 ) 刑部中判事となり、 ・源宗于朝臣 ( ? ー九一一一九 ? ) 是忠親・山部赤人 ( 生没年未詳 ) 奈良時代の菊とする説などあるが確かではない。 みかわやましろ みなもと ひとまろ ・」う・」う 歌をよくし、『後拾遺集』以下に三十 ついで三河・山城の地方官を歴任。三王 ( 光孝帝皇子 ) の子。臣籍に下り源人。後世人麿と共に歌聖と称される。 ふくろそうし おののこまち かわ 河に下る時、小野小町を誘ったことがの姓となる。昇進がおそく『大和物語』出自・履歴は不明であるが、下級官吏二首入 0 ている。また『袋草紙』「古 こんちよもんじルう じっきんしよう イようこうぐ 一知られる。のち縫殿介となる。「古今 に官位の進まないのを嘆いた歌が見えとして宮廷に仕えていたらしく行幸供今著聞集』『十訓抄』などに逸話が記 よ かんち 録されている。 材ふ集』以下に数首入集。・ : れる。『寛平后宮歌合』などの作者で、奉の歌が多い。自然を詠んだ歌にすぐ よしたか み きんよう ・」せん し さだみち 3 らよく 163

7. グラフィック版 百人一首

、、ん第」 - フ たいじようだいじんふじわらのよりたた しじようだいなごん 公任は太政大臣藤原頼忠の子で四条大納言とよばれた。 かんげん さんせんさい 漢詩・和歌・管弦のいわゆる三船の才を兼ねそなえ、有 、を鵞をふよ ゅう そくこじっ 職故実にもくわしく、歌論歌学者としても絶対的権威を もっていた

8. グラフィック版 百人一首

發内工家紀伊第 高師の濱の あた浪は かけじゃ袙の ぬれもこそすれ かけしやそ てのぬれ宅 こそすれ 音に聞く ゅうしないしんのうけのき 七十一一祐子内親王家紀伊 たかし 音に聞く高師の浜のあだ波は ぬ かけじゃ袖の濡れもこそすれ ほりかはのゐん えんしょあはせ きんよう 『金葉集』巻八恋下に「堀川院の御時艶書合によめる いらのみやき 一宮紀伊」として見える。 こうわ 「堀川院の御時艶書合」というのは、康和四年 ( 一一〇 二 ) 閇五月二日及び七日に催されたもので、この一首は、 らゆうなごんとしただ しゅんぜい 中納言俊忠 ( 俊成父 ) の「人しれぬ思ひありその浦風に 波のよるこそいはまはしけれ」の歌の返しとして詠まれ た。当時の紀伊の年齢は七十歳くらいと推定され、一方 き そで ぞうさんしよ i ひしかわしろのふ 高師の浜にたたずむ女百人一首像讃抄菱川師宣筆 さかい たかし うわさ 噂に高い高師の浜のあだ波などに そで 袖を濡らしてなるものてしようか あなたの心はあだ波の高く寄せても すさ たちまち退るあだなさけ 女は袖を濡らして泣き明すのがおちてすもの としただ 俊忠は二十九歳という。艶書合というのは、男から女へ の求愛とその返し、女から男への恨みごととその返しと いう形式で歌合をおこなうもので、もとよりまったくの 虚構の恋の歌、言葉の遊びである。男が北陸の有名な歌 ありそ 枕荒磯の浦にかけて、人知れすいだいている恋の思いを、 浦風にのって波が岸にうちよせるように、打ちあけたい、 といったのに対して、そんなあだ波はごめんです、身を ゆだねたりしたら、あとでどんなに泣かねばならないこ とか、とやりかえしている。掛詞や縁語の技巧をこらし た言葉の遊びの世界では、女がこれはど痛央に男を突ば ねることもできた。 たかし 「高師の浜の」、現在の 「音に聞く」うわさに高い はまでら たかいし 堺市浜寺から高石市にかけての海岸。歌枕。「音に高し」 という心が「高師」には含まれる。「あだ波」いたすら に打ち寄せ返す波。男の浮気心のたとえ。「かけしゃ袖 の濡れもこそすれ」、「し」は打消の決意を示す助動詞。 波はかけま亠 9 ま い、袖がぬれ土ー ) よ、つか、ら。「かけ・ト ) や」 浪の縁 は波を「かけ」まい、亦の田いを「かけ」まい 吾。「濡れ」も浪の縁語。捨てられて涙で袖が濡れるこ ゅうしないしんのう すざく いらのみやき 一宮紀伊は、朱雀天皇の第一皇女祐子内親王に仕えた ため、その名がある。 0 105

9. グラフィック版 百人一首

しゅうい うたあはせ たひらのかねもり てんリやくおんとき 『拾遺集』巻十一恋一に「天暦の御時の歌合平兼盛」 むらかみ として見える。「天暦」は村上天皇の年号 ( 九四七ー五七 ) ことはがき てんとく である。ただし詞書にいう歌合は、村上天皇の天徳四年 もよお はんじゃうだいじんふじ ( 九六〇 ) 三月三十日に催されたもので、判者は右大臣藤 わらのさねより はん こうせい 原実頼。この天徳四年の歌合は、後世まで歌合の範と仰 かねーンり がれたものである。兼盛はこの歌合では二十番右として ただみ 忠見の「恋すてふ」の歌とつがえられた。ともに優劣き さねより めがたい秀歌だったので、判者実頼は判定にこまり、天 皇の気色をそっと伺ったところ、天皇も判をくださす、 かねーっり かねもり た兼盛の歌を低く口すさまれたので、兼盛の勝とした。 みぶのただみ 壬生忠見はこの歌に敗れ、食事ものどに通らなくなり、 たいらのかわもり 平兼盛百人一首画帖筆者不詳 それがもとで死んだと言い伝えられている。二人の歌は このエピソードによって非常に有名になった面もある。 「しのぶれど」思いを心に包みこんでいるのだけれど。 「色に出でにけり 」とうとう顔色にまで出てしまった。 勿田 5 いをして 「色」は顔色、態度。「ものや思ふと」牛 しるのかと。この場合は、恋に悩むことを指す。「もの や」の「や」は疑問の係助詞、「思ふ」と係結びになる。 「人の問ふまで」、他人が不審に思って問いかけるまで 調べのいい歌である。技巧的にもなかなかのものであ かねもり る。というのも、忍ぶ恋のはげしさをいうのに、兼盛は 恋する男の気持について何ひとっ直接には表現していな いからである。上句では、たえしのび、必死に隠してい たのに、その切ない思いは、わが意に反しておのすと顔 色に出てしまったのか、というわけだし、その理由とし て、下句で、「どうかしたのですか、恋に悩んでいらっ しやるのですか」と、他人からたすねられたことを言っ ているというわけで、上句、下句とも、本人の意思に反 してまで恋の思いかいわば独走し、外部にあらわれてし まった、という形に仕たてている。いわば逆説的な方法 で、おさえきれない切ない思いを歌っているのである。 こ、つい、つ技巧は、しかし、鼻につくといえばいえないこ と一 9 もいオオ一 = 調べのよさがそれを救っているといえ かねもり げんそん たいらのかねもり 平兼盛は、光孝天皇の玄孫に当る。兼盛王とも称して あかぞめえもん ごせん 『後撰集』時代の有力歌人の一人。オ女赤染衛門 の父だという説もあるが、真偽は明らかではない こうこう

10. グラフィック版 百人一首

歌人紹介 とう ごんぢうなごん としより わらのよりつね ゅうし じゅさんみのうひょうえのかみ 別後、一品脩子内親王 ( 一条帝と子季以来の六条藤家の家系を継ぎ、俊頼原頼経の次男。参議従三位右兵衛督に し経て権中納言。また本院中納言、枇杷 しゅんぜい にようばう しんこきん 中納言とも呼ばれた。琵琶の名手。三の女 ) 家の女房として出仕。『水閣歌や父の教えを受けて精進し、自邸で歌至る。俊成に学び、『新古今集』撰者 けまり 十六歌仙の一人。家集に『敦忠集』。 合』以下多くの歌合に参加、指導的地合を主催したり、また数々の歌合の作の一人となる。和歌・蹴鞠の家として し さだより あすか らよくせん すとくいん よりいえまり 勅撰集入集四十首。・ 位にあった。定頼との恋愛が知られる。者・判者となる。崇徳院の命を受け『詞の飛鳥井家の祖。将軍頼家の鞠の師と きんよう あすか らよくせん ごんぢゅうなごんさだより ・権中納言定頼 ( 九九五ー一〇四五 ) 中古三十六歌仙の一人。家集の他、『後花集』を撰進。『金葉集』以下の勅撰なったこともある。家集に『明日香井 きんとう あきひらしんのうむら 集に七十八首。他に家集『顕輔集』。 集』。「新古今集』以下に百三十一一首。 : 四条大納言公任の息。母は昭平親王 ( 村拾遺集』に百八首。 さんじようのいん さきようのだいぶみちまさ さ当のだいそっじようじえん かみ むすめごんぢゅうなごんしようにいひょうぶ 上帝皇子 ) の女。権中納言正二位兵部・前大僧正慈円 ( 一一五五ー一一三五 ) ・左京大夫道雅 ( 九九四ー一〇五四 ) ・三条院 ( 九七六ー一〇一七 ) 第六十 みなもとのしげみつ ぎどうさんしふじわらのこれちか むすめ ふじわらの かんばくふじわらのただみち 卿に至り、四条中納言とよばれ、父を関白藤原忠通の子。十歳で父の死にあ父儀同三司藤原伊周。母は源重光の女。七代天皇。冷泉帝第二皇子。母は藤原 かわいえむすめらようし みち けんきゅう かんばくみちたか 継ぐ典型的貴族歌人。中古三十六歌仙 い十一歳で出家、畆山にのほる。建久祖父の関白道隆に愛されていたが、幼兼家の女超子。在位五年で、眼病と道 なが みちなが あつひら てんだいざす さ当のさいぐうまさ の一人。家集には定家自筆本も現存。三年 ( 一一九二 ) 天台座主となって以にして父の失脚にあい、また前斎宮当長の策謀により、道長の外孫東宮敦成 かんにん らよくせん 『後拾遺集』以下の勅撰集に四十六首。来、法界と朝廷とを結ぶ第一人者とな子 ( 三条帝の皇女 ) との恋愛事件で天親王 ( 後一条天皇 ) に譲位。寛仁元年 しゅんぜい ていか しんこきん げきりん ( 一〇一七 ) 四月出家、法名金剛浄。 : る。俊成・定家らと交流。新古今時代皇の逆鱗にふれ、晩年は不遇であった。 ごんぢゅうなごんていか ぐかんしよう らよくせん ・権中納言定家 ( 一一六二 : 同年五月崩御。家集はなく、『後拾遺 ー一二四この代表歌人の一人。史論『愚管抄』。 勅撰集入集は七集。・ しんこきん しゅうぎよく せんざい 新古今時代を代表する歌人。「新古今家集『拾玉集』。『千載集』以下に二百・猿丸大夫 ( 生没年・伝未詳 ) 三十六集』以下に八百首入集。・ さんじようのうだいじん げんめい 集』撰者。主な著書『顕註密勘』『一一五十五首。 ・三条右大臣 ( 八七三 ? ー九三二 ) 藤 歌仙の一人で、元明天皇の頃の人、あ しだい さきのらゆうなごんまさふさ わらのさだかたやしき へいあん がんぎよう 四代集』「詠歌之大概』『近代秀歌』『毎・前中納言匡房 ( 一〇四一ー一 一 ) るいは平安初期、元慶年間 ( 八七七ー原定方。邸が京の三条にあったため三 げつしよう しルうい らやくりゅう なりひら まさひら たかふじ 月抄』。日記『月記』。家集『拾遺愚匡衡の曾孫で成衡の子。大江氏の嫡流八八四 ) に生きていた人ともいわれて条右大臣と呼ばれる。高藤の子。兄に そう げんじ こきん さだくに 草』。また『源氏物語』『古今集』な いるが、伝承上の人物と見る説が強い。 定国がある。和歌・管弦にすぐれ、従 せんざい どの古典考証の功も大きい。「千載集』 「猿丸大夫集』に収められている歌も弟堤中納言兼輔とともに醍醐朝歌壇の 以下に四百六十五首。 ( エピソード参 はとんど読人しらすのものである。 : 中心となる。『古今集』以下に十数首 さんぎたかむら おののたかむら ・参議 ( 八〇一一ー八五一 l) 小野篁。入集。他撰であるが家集に「三条右大 かわ さいぎよう みねもり ・西行法師 参議岑守の子。漢詩文・和歌・書道に臣集』。 らひろかわでら へいあん しよっわ しん・」 内の弘川寺で没。七十三歳。『千載集』 すぐれた平安初期の学者。承和の初、 ・式子内親王 ( ? ー一二〇こ『新古 ちよくせん けんとう ふじわらのつねつぐ きん せんざい 以下の勅撰集に二百五十余首。家集に 遣唐副使に任しられたが大使藤原常嗣今集』時代の代表歌人の一人。『千載 さんか らよくせん 『山家集』。 ( エピソード参照 ) : と争い仮病をつかって乗船しなかった 集』以下の勅撰集に百四十九首。家集 おき しようかん さかのうえのたむらま さかのうえのこれのり ・坂上是則 ( 生没年未詳 ) 坂上田村麻 ため、隠岐に流罪、のち召還されて参『式子内親王集』。 ( エピソード参照 ) 、」きん ろ よしかげ さかのうえ 議に進んだ。『古今集』以下に十二首。 呂四代の孫好蔭の子 ( 坂上氏系図 ) と たかむら うだだいご いわれるが確かではない。宇多・醍醐として漢学を身につけ、若くして蔵人、 後人の作だが歌物語『篁日記』がある。・持統天皇 ( 六四五ー七〇二 ) 四十一 てんち さえもんごんのすけ うしようべん 代天皇。天智天皇皇女・天武天皇后。 朝の歌人。蹴鞠の上手としても名があ左衛門権佐、右少弁を兼ねて三事兼帯 みなもと さんぎひとし うののさららのひめみこ だざいのごんのそっ もん った ( 西宮記 ) 。三十六歌仙の一人。の才名を得、権中納言、大宰権帥、と文・参議等 ( 八八〇ー九五一 ) 姓は源。幼名齲野讃良皇女。壬申の乱では夫側 げんじのまれ きん くさかべ 家集に「坂上是則集』。『古今集』以章生を振り出しに異例の昇進をした。 嵯峨天皇の曾孫、中納言源希の子。官について行動する。皇太子草壁皇子夭 だざいのだいに てんりやく えんらよう てんむ くぐっ ごせん 下に約四十首。『後撰和歌集』の撰者の『狐媚記』「遊女記』『傀儡子記』など歴は延長八年従四位大宰大弐、天暦元折のため天武没後みすから即位、藤原 さかのうえのもらき ′」しゅう ごうのそっ 一人坂上望城は息。・ 著書多数。家集『江帥集』。『後拾違年参議などと詳しいが、歌人としての宮に遷都。政権維持の為には権謀術策 てんむ ちよくせん みなもとのよりみつ さがみ 経歴は家集もなく不明である。勅撰集を用いたこともあるが、夫天武への ・相模 ( 生没年未詳 ) 源頼光の養女。集』以下の勅撰集に百十四首。 か まんによう さきようのだいぶあきすけ ( ー後撰集』の四首のみである。 : : 歌は哀切である。『万葉集』に作品六 相模の名の由来は、大江公覧と結婚し・左京大夫顕輔 ( 一〇九〇ー一一五五 ) しようさんみさきようのだいぶあき さんぎまさつね ふじわらのあきすえ 相模に下向したためである。公と離藤原顕季の三男。正三位左京大夫。顕・参議雅経 ( 一一七〇ー一一三一 ) 藤首。 けまり せんざい くろうど か さが らよくせん じとう じんしん てんむ ふじわら 160