歌人 - みる会図書館


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1. グラフィック版 百人一首

よ それが、近世に入るとややあやしくな 三十六歌仙が成立し、それぞれの歌集 家の手控えに息子の為家かその他の人がを詠む試みがなされるようになった。そ はりかわ ってき、近代になるといよいよ動揺して 手を加えて、現在の形になったものであの最初は『堀河院御時百首和歌』、略称が『三十六人集』として結集されると、 0 くる ろうと思われる。 『堀河百首』で、十四 5 十六人が ( 伝本にさまざまな視点から、新たな六歌仙 ていか 「百人一首』における為家の役割りをど 定家といふ人は上手か下手か訳の分 よって作者の数が異なる ) 、同じ百の歌十六歌仙が選ばれた。この歌仙の選定と う見るかは、なお人によって異なるが、 らぬ人にて新古今の撰定を見れば少 題を詠んだものである。そして、これに いうことの流行と百首歌の盛行とが結び き ) 」う れんしよう みなもとのとしよりおおえのまさふさ ともかく、選者は蓮生で、定家は揮毫し しは訳の分って居るのかと思へば自 は源俊頼・大江匡房などが深く関わって付いた所に、『百人一首』が成立する一 そうぎ たのみであるという考えや、連歌師宗祇 分の歌にはろくな者無之「駒とめて いる。その後、複数作者による百首歌は種の必然性があったといえる。 もみ ていか 『堀河 が撰んで定家に仮託したのではないかと相継いで行なわれている。また、 しかし、それだけではない。定家が蓮 袖うちはらふ」「見わたせば花も紅 しよう き ) 」う いう考えは、現在否定されている。 葉も」抔が人にもてはやさる、位の 百首』の百の歌題、いわゆる「堀河百首生から百首の選定・揮毫を依頼される以 じ かのう るたくちおき 者に有之候。定家を狩野派の画師に 百人一首』の構成ー百首と歌仙題」を個人が用いて練習的に作歌する習前、流謫地隠岐において、後鳥瀕院が「時 比すれば探幽と善く相似たるかと存 慣も広まった。そのような百首歌の盛行代不同歌合』なる、古歌人三十六名と新 たんにゆう 候。定家に傑作無く探幽にも傑作無 『百人一首』は百首から成る秀歌撰であから、百首という数は自然に選ばれたでしい歌人三十六名を選定し、それぞれの あわせ ていかたんにゆう 作品を歌合形式とした、いわゆる歌仙合 る。なぜ、百首という数に落着いたのであろう。 し。併し定家も探幽も相当に練磨の か あろうか。その背後には、百首歌が盛行 力はありて如何なる場合にも可なり ところで、『百人一首』は秀歌選であを撰んでいるという事実があるのである。 まさおかしき していたことが関係を有する。百首歌と にやりこなし申候。 ( 正岡子規「再 るとともに、名歌人選でもある。名歌人そして、定家はそれをひどく気にしてい よ そんすう は、もともと一人の歌人が一度に百首詠を選び出して尊崇する傾向は、上代の『万るのである。とすれば、『百人一首』は び歌よみに与ふる書』 ) によう さんしのもん これらは定家の和歌 ( こ対する批評であ むこと、またはその和歌のことで、源重葉集』での「山柿之門」という言い方に『時代不同歌合』から何らかの影響を受け たてまっ ごうまんふそん るが、その人物について、傲慢不遜であ 之が東宮時代の囹応院に奉ったものが古すでにはの見えている。次いで、『古今ているのではないであろうか。少なくと そわのよしただえぎよう か当のもとのひとまろやまべのあかひと いとされている。曾禰好忠や恵慶にも、 和歌集』序文でも、柿本人麿と山部赤人も両者の間にある程度の関係があることるとか、官位昇進に汲々としていた俗物 へんじようありわらのなりひらふんやのやすひで であるとか、かなり否定的な見方がされ 個人の百首歌が存する。そのうち、一定を二歌聖、遍昭・在原業平・文屋康秀・は確かであろう。『時代不同歌合』は、 きせん おののこまらおおとものくろぬし の条件のもとに、複数の作者達が百首歌喜撰・小野小町・大友黒主を六歌仙とす作者の似せ絵 ( 肖像画 ) 、いわゆる歌仙ることもないとはいえない。すでに同時 る考えが認められる。六という数は、詩絵を伴っていたらしい。それに対する『小代人の後鳥院が次のような痛烈な人物 りくぎ なら に倣って和歌でも六義が考えられたこと倉百人一首』も歌仙絵を伴っていたかど評を下しているのである。 ていカ へいあん 定家はさうなき者なり : 道に達 と無関係ではないであろう。平安中期に うかについては、人々によって意見が分 ふじわらのきんとう したるさまなど、殊勝なりき。歌見 なると、藤原公任は六の倍数の三十の名 かれている。 知りたるけしき、ゆゅしげなりき。 歌人を選び出し、次いで三十六人を選定 藤原定家という人 ただし、引汲の心 ( ひいきする心 ) した。それぞれ、『三十人撰』『三十六 ふじわらのていか 藤原定家は、中世においてはほとんど になりぬれば、鹿をもて馬とせしが 人撰』と呼ぶ。これによって、三十六歌 むろまち ばうじゃくぶじん ごとし。傍若無人、ことわりも過ぎ 仙のメンバーが決定した。それは『古歌神に近い存在であ 0 た。室町時代の歌 しようてつ 僧正徹はいう。 たりき。他人の詞を聞くに及ばす。 庵集』の六歌仙、いわゆる古六歌仙をすべ ていか この道にて定家をなみせん輩は、冥 惣して、彼の卿が歌存知の趣、いさ 厭て含んではいない。作品が少なく、家集 ふんやのやすひできせんおおとものくろぬし 加もあるべからす。罰をか、つむるべ さかも事・により、折によるといふこ 像の伝わらない文屋康秀・喜撰・大友黒主 しようてつ きことなり。 ( 正徹物語・上 ) となし。ぬしにすきたるところなき 0 定は省かれている。 か ためいえ ためいえ ていか みなもとのしげ えんりあん まん れん など たんにゆう か 0 156

2. グラフィック版 百人一首

藤原定家 ふじわらのていか 藤原定家は激家ごっこ。 オオ二十四歳の てんじよう みなもとのまさゆき とき、殿上で同僚の源雅行と言い争い しよくだい 相手からばかにされたというので燭台で 殴りつけるという事件を起した。場所柄 をわきまえるという、貴族社会の最も大 ぶさはうもの 切な身の処し方さえ知らない無作法者と して、彼は宮中から除籍されるという不 しゅんぜい 面目なことになった。これは父の俊成が たてまっ ごしらかわいん のちに後・白河院に歌を奉って許しを乞い えんりあん おぐら 小倉山荘の跡といわれる厭離庵 ( 京都市・嵯峨 ) ていか 再び昇殿できるようになったが、定家の こういう激情家の側面は、こと和歌に関 しては、もっとはげしい形であらわれる ことかしばしばだった。自分に対しても、 他人に対しても、度をこえて厳しく、欠 点をそのまま見逃すということのできな い人だった。 場所柄をわきまえない ついては、彼の主君であり、当代一流の ごとばのいん おき 歌人であった後鳥羽院も、隠岐で書いた といわれる有名な回想的歌論書『後鳥羽 ごくでん 院御ロ伝』で、「総じてかの卿〔定家〕 ぞんぢ が歌存知の趣、いささかも事により折に よるといふことなし」と突放して評して ていか いる。定家は歌というものが、その詠ま れた折の時とか場所の特殊事情を考慮し なくても、りつばに一人立ちして読める ものでなければならないと考えていた。 激情の新古今歌人 ふしわらのて しカ 壮年期にはとくにこの考え方か強烈な信 念だった。これよ ) ) 、 ーししカえれば、歌を一 個の純粋美の世界として自立させるとい うことで、この信念にはすれる歌は、た とえ他人の賞讃を集めている自作であっ ようしゃ ても、決して容赦しないというきびしさ ごとばのいん をみせた。それが、後鳥羽院のような宮 廷社会の王者からみると、 いかにもせせ こましく固一古しい 地下風なものに感し られたのである。 「折にムロ、フ」とい、つことを尊重したのは ) 」しらかわいん いまよう 後白河院も同様で、今様歌謡の名手だっ ごしらかわいん た後白河院は、臣下の者が何かの催しの さいその場に合うよ、つに歌詞をちょっ と変えて今様を朗々とうたったりすると、 「折に合ってめでたい」と大いにほめ、褒 りようじんひしよう 美を与えたりした。この話は『梁塵秘抄』 の中の院の今様修行回顧録『ロ伝集』に たびたび出てくる。 ていカ 定家という人は、いわば宮廷社会の優 雅な社交の道具としてのこういう歌の位 置・役割を一変させ、歌を純粋芸術とし かんこう て自立させるという一大事業を敢行した のである。『新古今集』という、和歌の ごとばのいんてい 芸術美の結晶である集が、後鳥羽院と定 家という両極を中、いに作られたことは、 その意味でも大きな意味をもっていた。 134

3. グラフィック版 百人一首

こきん つらゆき 「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだ まさおかしき これあり らぬ集に有之候」。明治の正岡子規が『歌 よみに与ふる書』でこう書いたことは有 きのつらゆき 名で、この一撃のために、紀貫之と『古 きん 今集』のそれまでの名声はがた落ちにな ってしまった。子規が明治半ばの時代に こう書かすにいられなかった事情はい つもあって、その意味では彼の攻撃は十 分理解できる性質のものだった。しかし そういう明治の新風興隆期の評価が、そ の後も大筋ではそのまま鵜のみにされて きたことには疑問がある。貫之や『古今 集』が長い歴史の中で後代に及ばしてき た影響力の大きさを無視しては、日本人 の生活伝統の中にしみこんでいる数多く の古今集伝統の姿を、正確に理解するこ とかできなくなってしまうだろう。 うだ つらゆき 貫之が活動したのは宇多・醍醐両帝の へいあん 時代だが、この時代は平安朝全体の中で もきわだって興味ぶかい時代だった。藤 せつかん 原家の摂関政治が、この時代約四十年に わたって中断し、天皇親政の一時期が出 きのとものり 現したのである。貫之をはしめ、紀友則、 みぶのただみね おおしこうちのみつね 凡河内躬恒、壬生忠岑ら、『古今集』と ちよくせん いう栄えある勅撰和歌集の選者にえらば れた歌人たちは、いすれも藤原氏全盛下 の官僚としては全くうだつのあがらない わら う 点をつくったといえるのであり、その要 の役をはたしたのが、『古今集』の成立と いう出来事だった。そして『古今集』編 つらゆき さん 纂の中、いはいうまでもなく貫之だっこ。 貫之の歌は現在一千首余り残っている。 そのうち約半数が、皇族や大貴族の注文 びようぶうた によって作った屏風歌である。屏風は当 しんでん 時の寝殿造りの家屋では重要な家具であ りまた装飾だった。一流の歌人と一流の ばってき 下級貴族だったが、歌のオを見こまれて 抜擢されたのである。藤原という大勢力 がわがもの顔にふるまっている官僚社会 の中で、歌にひいでた文人というだけで、 宮中にしかるべき名誉ある地位を保つこ 、つ とができたのは、彼らの幸運だった。宇 多・醍醐両天皇のいちしるしく文化主義 的な傾向が、結果として、中国文化の強 い影響下にあった日本文化に大きな転回 だ びようぶうた 屏風歌の名人 きの 紀貫之 つらゆき ふじわら かなめ つらゆき 画家がそれに歌と絵を描いた。貫之がこ の分野で他の歌人を圧していたことは明 らかで、つまりプロ詩人の随一だったと い、つことかてきる。 あふさか しみづ 逢坂の関の清水に影見えて ひ もらづき いまや牽くらむ望月の駒 たとえばこういう歌は、名所として有 こうこう おうさか 名な逢坂の関、そこの清水に皎々と映え る八月十五夜の満月 ( 望月 ) 、それに重 しなの なるように影をおとす信濃の望月 ( 地名 ) しゅんめ の官の牧場から牽かれてきた駿馬、それ を出迎える都の役人といったものが描か れている絵に付けられたのだろう。「望 月」の二重映像を活用して、いかにも青 れやかな歌である。貫之はこういう「青 れ」の舞台むきの歌の名人だった。それ ようえん は逆にみれば、余情あるいは妖艶といっ たスタイルの歌人ではないということで、 ふじわらのていか たとえばのちの藤原定家はそういう観点 から貫之を批評している。貫之の歌の個 人性の乏しさにあきたらない思いをする 人も少なくない。しかし貫之自身の置か れた立場、また時代そのものが、個人的 画じよう 抒情を盛る器としての歌ではなく、むし ろ公的な晴れの場で歌われ、鑑賞される 歌を必要としていたのであり、貫之はそ の任に最もよくこたえたのだった。 うつわ ひ

4. グラフィック版 百人一首

中納言家持 かささぎの 渡せる橋に おくの 白きを見れば - 夜ぞ更けにける しろきをみ れはよ、ふ かささぎの ちゅうなごんやかもち 六中納言家持 かささぎ 鵲の渡せる橋におく霜の しろきを見れば夜ぞ更。 しんこきん やかもち 『新古今集』巻六冬の部に「題しらす中納言家持」と やかもち して見える。『家持集』には入っている ( 結句は「夜は ふけにけり」 ) か『万葉集』にはなく、作者が家持であ るかど、つかいささか疑問とされる。 へんさん 家持は『万葉集』の編纂に最も重要な役割を果した万 葉集末期の代表的歌人で、万葉集に収録されている歌の 数では集中随一である。ただしそれらの歌は日録風のも ひとまろ のが多く、万葉最盛期の歌人、たとえば人麿のような歌 人の歌にみられる非日常的幻想味を感しさせるような原 始的生命力には乏しい。繊細な作風で知られる人である。 たなばた 「鵲の渡せる橋」は、中国の七夕伝説にある。七夕の夜 かささぎ まんによう たなばた 七夕の夜かささぎが羽を連ね 思われ人を向う岸に渡してやった天上の橋よ みはし 今は冬かの天の橋にも紛う宮中の御階に まっしろな霜が降りている 目に寒いこの霜ゆえにしんしんと夜は木まる かささぎ になると、鵲の群が真白な羽を連ねて天の川に橋をかけ、 しよくじよ 織女を渡らせたという話である。夜空に白く夢のように 鳥の橋かかかっているのを、いにしえの人々は空想した。 かささぎ かものまぶち しかし賀茂真淵は「鵲の渡せる橋」を、天上界にひとし 強、イ、はし ひゅ い宮中の階段の比喩と見る説をたて、その説の支持者が だが、鳥の群が大空にかける橋の幻想味は捨てが たいし、歌を読んでの感しもそこからひろがってゆくの が自然であろう。七夕にちなむ夏の幻想的風景を冬の霜 夜に結びつけ、その霜の白さか目にしみるほどに夜がふ けたことをいう、その対照の妙にこの歌の見どころがあ るといえる。声調の大らかさは愛誦するにふさわしい

5. グラフィック版 百人一首

良暹法師 淋・しさに宿を 立も物て なかむれば おなじの物 っこもお なしあきの ゅふくれ さびしさに んたるイメージを思い描かせるものであることを念じて みむろ 作っている。「三室の山」という有名なもみじの名所と、 たった 「龍田の川」という、同しくもみじの流れ落葉で有名な 名所とを、一方は見上げ、一方は見おろすという二方向 への視線の分割によってうたい、それを「あらし」とい う強い動きの中でかきまぜ、重ね合わせているのである。 のういん しかし、この歌か能因というすぐれた歌人のものとし て全く魅力にとばしい歌であることはいなみがたい。「嵐 みむろ 吹く」、かならすしも暴風雨とは限らない。 「三室の山」、 たった なら たかいち あすか もみじ 奈良県高市郡飛鳥村にある山。龍田川とともに紅葉の名 やまと たった 所。「龍田の川」、奈良県、大和川の上流。 のういん たらばなのながやす 能因法師は、俗名橘永。はしめ朝廷に仕えたが、十 七十良暹法師 さびしさに宿を立ち出ててながむれば いづくも同じ秋の夕暮 ごー - う りゃうぜんほっし 『後拾遺集』巻四秋上に「題しらす良暹法師」として 見える。 秋をさびしく物がなしい季節としてとらえる感覚は、 ・まんもくしようじよ・つ 日本人の中に深く根づいている。満目蕭条たる冬へむか せき 0 よう って万物が傾いてゆくところからくる寂寥感は、物田 5 わ じようちょ しくするものである。こういう気分を漠然とした情緒の しんこきん 領域から詩歌の領域にまで文芸化したのは、『新古今集』 の歌人たちだった。この歌などには、まだ象徴化された ていカ 秋の気分というものの強い自覚はないが、定家がこの歌 りようぜんほっし せつつ ゅういん 、い摂聿に住んだ。歌を藤原長 六歳ころ出家して融因とし 能に師事、歌道で師弟関係の出来た最初ともいわれる。 ここんちよもんじゅう 歌に執した人で、数々の逸話があるが、『古今著聞集』に し、らかわ ある白河の関の話は有名である。気に入った一首、 都をばかすみとともに立ちしかど しらかは 秋かぜぞふく白河の関 しらかわ のういん が出来上った。しかし能因はそのとき白河に旅していた きようと わけではなかった。京都に居ながらこんな歌ができてし まった。そこで彼は、人に知られないように家にこもり ーおう・しゅう いかにも奥州への長旅で日にやけたように顔をやき、や よ がて人々に奥州旅行のついでに詠んだ歌として、さきの 一首を披露したというのである。 夕暮 家にいても身にしみるさびしさ おもてに出て見渡せば い」 + り、らにっ同じ 秋の色 て、カ を百首の中に含めたのは、定家自身に、そういう目でこ の種の歌を読む傾向があったからだろう。 「さびしさに」、さびしさのあまり。「宿を立ち出でて」 家を出て。「ながむれば」あたりをながめ渡すこと。 、ユうと りようぜん 良暹法師は生没年未詳。京都の大原の里に住んでいた み′とのとし - り ことがある。源俊頼 ( 七十四番の作者 ) が友人と大原に行っ たとき、とっぜん馬をおりた。人々がたすねると、ここ りようぜん は良暹の住居のあとだからといった。一同もそれになら った、という話が『袋草紙』にある。 おおはら ふじわらのなが 103

6. グラフィック版 百人一首

しんぎはくおおなか かげろう せのたいふ あかぞめえもん あかぞめときもち ーか・赤染衛門 ( 生没年未詳 ) 赤染時用の・伊勢大輔 ( 生没年未詳 ) 神祗伯大中あり。『蜻蛉日記』の著者として知らる。三十六歌仙の一人。・ ノ。実父は母の初めの夫平兼盛ともい臣輸親の女。能宣の孫。上東摯完に仕れるが、当代有数の歌人で、『拾集』・大中臣能宣 ( 九二一ー九九こ主 やすすけおうのはは たかしななりのぶ らよくせん みちなが りんし じようとうもん われる。道長の妻倫子に仕え、上東門え、のち高階成順と結婚、康資王母ら以下の勅撰集に三十七首、家集に『伝 あ 院彰子にも出仕したらしいが、のちを生む。上東門彰子菊合以下数々の大納言母上集』がある。中古三十六歌 ・」うえい さらしな おおえのまさひらか たかちかごうのじじゅう 章博士大江匡衡に嫁し、挙周、江侍従歌合に出詠。康永三年 ( 一〇六〇 ) 以仙の一人。『更級日記』の著者は彼女 いすみしきぶ を生む。和泉式部と並称された才女で、後七十数歳で没したらしい。中古三十の姪に当る。・ らよくせんしう しゅう えぎよう 勅撰集には『拾遺集』以下に九十三首。六歌仙の一人。家集『伊勢大輔集』。 ・恵慶法師 ( 生没年・父祖・伝未詳 ) ′」しゅう 家集『赤染衛門集』。『栄華物語』の『後拾遺集』以下に五十一首。 ・ : 叩出生九四〇年以前、活躍期九九二年頃 はりまのこうじ いんぶもんいんのたいふ 作者に擬されてもいる。三十六歌仙の・殷富門院大輔 ( 生没年未詳 ) 七十歳までと推定。播磨講師などを勤め、大 なかとみのよしのぶきのときぶみたいらのかわもりみなもとのしげゆき ふじわらののぶなり いんぶもんいん : で没か。父は藤原信成。殷富門院 ( 後中臣能宣、紀時文、平兼盛、源重之ら しゅうい あべのなかまろ しらかわいん ・安倍仲麿 ( 六九八 ? ー七七〇 ) 良白河院第一皇女・式子内親王の姉 ) のと交友。『拾遺集』時代のすぐれた歌 しようしいのげ よりもと よりもと よしのぶすけちか けんとう らよくせん ・」じじゅう 時代の文学者。十六歳で遣唐留学生と女房。小侍従と並び女房歌人として知人の一人。中古三十六歌仙の一。勅撰正四位下。父頼基。頼基・能宣・輔親 らよう と父子三代にわたり祭主で歌人。三十 して渡唐。名前を朝 ( 晁 ) 衡とあらたられていた。家集の『殷富門院大輔集』集入集五十四首。・ なしつば げんそう よりまささい おおえのちさと うだ め、玄宗皇帝に仕えた。博学多オの人の恋の部には贈答歌が多く、頼政、西・大江千里 ( 生没年未詳 ) 宇多天皇の六歌仙の一人。梨壺の五人の一人とし よりうど まんによう りはくおう ぎようもろみつ じゃくれんしゅんえ で、李白・王維らとも親交があった。 行、師光、寂蓮、俊恵らの名がみえる。頃の人。儒者・歌人。諸説あるが大江て和歌所の寄人となり、『万葉集』の くんてん ′」せん あんなん せんざい おとんどあば ありわらのゆきひら 七五三年帰国途上暴風にあい安南に漂『千載集』以下に六十五首。・ 音人 ( 阿保親王の子 ) の子。在原行平・訓点、『後撰集』の撰修に当った。『拾 なりひら ちさと えん 着、帰国を断念して再び唐朝に仕え、 業平は千里の叔父に当たる。官位は延遺集』以下に百二十四首。家集『能宣 いせのたいふすけちかむすめ ひょうぶだいじよう そのまま唐土に没した。・ 喜三年 ( 九〇三 ) 兵部大丞まで昇って集』。伊勢大輔は輔親の女である。 ありわらのなり学つあそん 、」きん らよくせん ・在原業平朝臣 ( 八二五ー八八〇 ) いる。『古今集』以下の勅撰集に一一十 ののこまち おののこまち へいあん 野小町と並び六歌仙を代表する歌人。 五首。家集に『大江千里集』。・ : ・小野小町 ( 生没年・伝未詳 ) 平安初 こきん おおしこうちのみつね へいあん 『古今集』以下に八十七首。 ( エピソー ・凡河内躬恒 ( 生没年未詳 ) 平安前期期の人。六歌仙時代の代表的女流歌人。 うだだい らよくせん ド参照 ) : の歌人。三十六歌仙の一人。字多・醍勅撰集に入っている歌は六十二首に及 いすみしきぶ おおえのまさむね ・】まら ・和泉式部 ( 生没年未詳 ) 大江雅致の 醐両帝に仕え、官位は低かったが、貫ぶが、全部が小町の作とはいえないよ 、」しきぶ ゆきただみねとものり こきん 女。小式部の母。家集『和泉式部集』 之・忠岑・友則らとともに『古今集』うである。家集の『小町集』も後人の ちよくせんしゅう 及び勅撰集に二百三十八首。その他『和 撰者となった。家集に『躬恒集』があり、編集らしく、他人の作も多く混入して 泉式部日記』がある。中古三十六歌仙 『古今集』以下に百九十三首入集。貫いる。 ( エピソード参照 ) : うこんえのしようしようすえなわ もん かきのもとのひとまろ の一人。 ( エピソード参照 ) : : ・右近 ( 生没年未詳 ) 右近衛少将季縄と並んで古今集時代の代表歌人。・ ・・柿本人麿 ( 生没年未詳 ) 持統及び文 ふじわらのつぎかげむすめ むすめ む おおとものやかもち ・伊勢 ( 生没年未詳 ) 藤原継蔭の女。の女といわれている。醍醐天皇の皇后・大伴家持 ( ? ー七八五 ) 旅人の子。武両帝頃の宮廷詩人だったと推定され びようぶ 、」きん むらかみ おんし おおとものさかのうえのいらつめ 古今集時代の代表的女流歌人で、屏風穏子の女房として村上朝歌壇で名があ叔地に大伴坂上郎女がある。妾腹の子ているが、その生涯には謎が多い。荘 よ ふじわらのあっただもろすけあさただみなもとのしたごう リゅう じよじよう 歌や賀歌を多く詠んでいる。若い頃藤った。藤原敦忠・師輔、朝忠、源順らとして生まれ、同母弟に書持、妹に留重雄大な調べと力強い抒情性によって うだ わらのなかひら やまと じよえっちゅうのかみ まんによう 原仲平に失恋、その後字多天皇の中宮と交際のあったことが『大和物語』な 女。越中守を初め、中央、地方諸官を『万葉集』中抜群のスケールの詩人。 ごせん うだ おんし 温子に仕え、字多天皇の寵を賜わり皇どで知られる。『後撰集』以下に九首。歴任、延暦一一年中納言。しかし政治的『万葉集』に署名のみえる作品長歌十 うだ ようせつ まんによう 子 ( 夭折 ) を生む。宮中退下後、字多 には不遇に終わった。万葉集中歌数最九首 ( 二十首とも ) 、短歌七十五首。 なかっかさ うだいしようみらつなのはは ふじわらのとも へんさん 天皇の皇子敦慶親王と恋愛、中務 ( 歌・右大将道綱母 ( ? ー九九五 ) 藤原倫 も多く、『万葉集』の編纂には彼のカ他に『柿本人麿歌集』よりとして『万 ふじわらのかねいえ やすむすめ せん 人 ) を生んだ。三十六歌仙の一人。家集寧の女。摂政藤原兼家の妻となり右大が大きく貢献したとみられている。繊葉集』に収める歌が三百数十首ある。 さいゅうえん に『伊勢集』。・ : 将道綱を生む。本朝三美人の一人の称 細優艶な歌風は後期万葉時代を代表す せ えいが 小ぉ 20 みらつな う、」ん ふみもち たびと しようふく おお じとう 158

7. グラフィック版 百人一首

み原義孝 君か爲 惜か , り霍ぐり : し 命さへ 長くもがなご おもひけるかな なかくか なとおもび 君がため かんろうえい 漢朗詠集』にも「みかきもり衛士のたく火にあらねども 我も心のうちにこそおもへ」という歌かある。これは文 句なしに、百人一首のこの歌の方がいい よしのぶ もっとも、この歌は『能宣集』にはなく、作者につい こきんろくじよう ては早くから疑問が出されている。『古今六帖』一に見 える作者不明の「君がもる衛士のたくひのひるはたえよ ふじわらのよしたか 五十藤原義孝 いのち 君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと田 5 ひけるかな 『後拾遺集』巻十二恋二に「女の許より帰りて遣はしけ しようしようふじはらのよしたか る少将藤原義孝」として見える。 ことばがき きぬぎぬ 詞書で知られるように後朝の歌である。思いをとげる までの間は、一度でも逢えたら死んでも惜しくない、 ふじわらのよしたか 藤原義孝百人一首画帖永真安信筆 さえ思っていたのに、 いったん思いかかなってみると、 命が惜しくてた この幸せをいつまでも手放したくない、 きび まらぬ、という気持になる。その心の機微をうたってい る。技巧的な歌の多い百人一首の中ではきわだって直情 的な恋の歌であり、作者が二十一歳で夭折したことを知 ると、一層あわれぶかいものがある。 ふじわらのこれただ 義孝は、藤原伊尹の三男。伝説的な早熟の歌才を示し た。その人柄もすぐれ、人々に大いに嘱望されていたが、 てんねんとう たかかた 天然痘にかかって急死した。兄の挙賢が朝、義孝は同し ゆきなり 日の夕方に死んだ。その子息行成は、平安朝を代表する のうしよか 能書家となった。 「君がため」、あなたのためなら。上代では女が男に呼 びかける語法としてよくつかわれたが、この場合は女に いつま 呼びかけている。「長くもかな」、長らえたい。 でも生きていたい。 「もがな」は、願望の終助詞。 るはもえつつ物をこそ思へ」か誤まり伝わったものでは ないかといわれる。 おおなかとみのしのぶ よりもと よしのぶ すけちか 大中臣能宣は、父頼基、能宣、その子輔親と、父子三 なしつは 代にわたり祭主で歌人であった。梨壺の五人の一人とし ごせん せんしん まんによう て『後撰集』の撰進に当り『万葉集』の訓点の業に従っ せのたいふ すけちかむすめ た。なお、女流歌人伊勢大輔は、輔親の女である。 きのうまては田 5 っていました あなたのためなら死んてもいし 一度だけても逢えるならと : ・ 今はちがいます幸せていつばいになって 私は願ういつまても生きていたいと よしたか しあわ ようせつ よしたか

8. グラフィック版 百人一首

惠法師 八第むぐ・ツ しげれる宿の び・し . きに / 、 人こそ見えれ 秋はきにけり びとこそみ えねあきは 0 こけり、 やヘむぐら 八重葎 皮の死後、 歌壇からは認められることなく排斥されたが、彳 その作品は見直され、当時における抜群の新鮮な作風と えぎようほうし 四十七恵慶法師 やヘむぐら 八重葎しげれる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり かはらのゐん ーう 『拾遺集』巻三秋に「河原院にて、荒れたる宿に秋来る、 蓼斗うはふし といふこころを人々よみ侍りけるに恵慶法師」として 見える。 みた毯とのとおる ことばがき かわらのいん 詞書にある河原院は、京都六条に源融 ( 十四番の作者 ) おうーうしおがま が奧州塩釜の浦の景色を模して作らせた豪華な庭園。し えぎ工う とおるざいせ かし、恵慶たちが集まって歌を詠んだのは、融在世の時 え工う しんゅうあんばうほうし 代より約百年ののちで、恵慶の親友安法法師が気ままに おもか・け 住み、かっての華やかに贅をこらした面影はなく荒れ果 むぐら むぐら生い茂る屋敷のさびしさ 訪れてくる人もない けれどごらんそんなに見捨てられた庭だから 忘れずに訪れてくる秋の姿は かえってこんなに眼にしみる えぎ工う てた庭になっていた。恵慶よりもかなり年長の紀貫之に も、すでにこの庭園の荒廃ぶりをうたった歌がある。恵 工う よいきょ 慶らは荒廃した庭に発墟の詩情を感したのであって、単 に無常をなげくというのではないことを見落としてはな るまい この歌はいやみなところがなく、言葉は単純だ か心はなかなか深い 「葎」は、アカネ科の二年生草本で夏、黄緑色の小花を つける。路傍や草むらに繁茂する蔓性の雑草で、荒れた 家や庭の景物。「さびしきに」、さびしい状態であるの に。「人こそ見えね」、人は見えないか。「ね」は、打 ぜんけ 「こそ」を受ける係結び。 消の助動詞「す」の已然形。 「ど」を補って解する。「秋は来にけり」の「は」は、前 の「人」に対して「秋」を強調している。 かざん え工う 恵慶法師の生没年は未詳であるが、花山天皇の頃の人 しゅう 『拾遺集』時代のすぐ で、播磨国の講師だったという。 たいらのかねもりみた毯とのしげゆきおおなかとみのよしのぶ れた歌人の一人で、平兼盛、源重之、大中臣能宣らと交 かわらのいん あんぼうほうし 友があったが、特に河原院に住む安法法師と親交があり えぎよう 恵慶法師はその河原院に集まる歌人たちの中心的存在で あった。 して高く評価されるに いたった。百人一首のこの歌など、 そういう彼の力量をよく示した作といってよかろう。 むぐら はり↓・の′、 - はんも つる きのつらゆき

9. グラフィック版 百人一首

ようばくつわのぶ 恋の悩みを詠った王朝の女流歌人相模百人一首画帖養朴常信筆 さがみ

10. グラフィック版 百人一首

いにしへの 奈良の都の 人重機 けふ九重ド 匂ひのるかな ぬへけ なほこ びの せのたいふ 六十一伊勢大輔 なら いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな いちじゃうゐん 『詞花集』巻一春に「一条院の御時、ならの八重桜を人 の奉りけるを、その折御前に侍りければ、その花を題に ここのヘ し、せのた、、ふ そのかみ 奈良の都に咲きほこった八重桜 今日は ここのえ 京の都の九重の宮居のうちに 照り映えて咲きほこって せのたいふ て歌よめとおはせごとありければ伊勢大輔」として見 える。 せのたいふ おおなかとみのよしのぶ 伊勢大輔は大中臣能宣 ( 四十九番の作者 ) を祖父に、伊勢 神宮の祭主で、歌人としても知られている輔親を父に持 っ女流歌人で、この歌を詠んだ当時、一条院中宮、上東 もんいんしようし 門院彰子に仕えたばかりの、いわば新参女房であった。 ことばがき 詞書にあるように、奈良からみごとな八重桜が献上され た折、その場に居合せた彼女か即詠を命しられ、歌の家 柄の娘がこれをどう詠みこなしてみせるかという満座の 好奇心と注視の中でこの歌を詠んだのである。その即妙 りゅうれい の才と「ナ行」の音を連ねた流麗な調べに、「殿を始め 奉りて万人感歎、宮中鼓動す」 ( 袋草紙 ) と伝えられてい 「いにしへの奈良の都の」、かって栄えた奈良の都の。 へいじようきよう こ、つにん げんめい 元明天皇から光仁天皇までの平城京をさす。「けふ九重 に」、「九重」は皇居。中国の王城の門は九重に造ったこ とからくる。さらに「八重」を受けて「九重」と応じた。 、は「いにしへ」に対し、また「奈良」に対する京 へいあんきよう ( 平安京 ) 」をもいう。「にほひぬるかな」、色美しく咲いて 「にほふ」は色が美しく照り映えること。 やすすけ ちくゼんのかみたかしななりよし せのたいふ 伊勢大輔はのちに筑前守高階成順と結婚し、歌人康資 伊王母らを生んでいる 言 おうのはは なら じようとう