よ それが、近世に入るとややあやしくな 三十六歌仙が成立し、それぞれの歌集 家の手控えに息子の為家かその他の人がを詠む試みがなされるようになった。そ はりかわ ってき、近代になるといよいよ動揺して 手を加えて、現在の形になったものであの最初は『堀河院御時百首和歌』、略称が『三十六人集』として結集されると、 0 くる ろうと思われる。 『堀河百首』で、十四 5 十六人が ( 伝本にさまざまな視点から、新たな六歌仙 ていか 「百人一首』における為家の役割りをど 定家といふ人は上手か下手か訳の分 よって作者の数が異なる ) 、同じ百の歌十六歌仙が選ばれた。この歌仙の選定と う見るかは、なお人によって異なるが、 らぬ人にて新古今の撰定を見れば少 題を詠んだものである。そして、これに いうことの流行と百首歌の盛行とが結び き ) 」う れんしよう みなもとのとしよりおおえのまさふさ ともかく、選者は蓮生で、定家は揮毫し しは訳の分って居るのかと思へば自 は源俊頼・大江匡房などが深く関わって付いた所に、『百人一首』が成立する一 そうぎ たのみであるという考えや、連歌師宗祇 分の歌にはろくな者無之「駒とめて いる。その後、複数作者による百首歌は種の必然性があったといえる。 もみ ていか 『堀河 が撰んで定家に仮託したのではないかと相継いで行なわれている。また、 しかし、それだけではない。定家が蓮 袖うちはらふ」「見わたせば花も紅 しよう き ) 」う いう考えは、現在否定されている。 葉も」抔が人にもてはやさる、位の 百首』の百の歌題、いわゆる「堀河百首生から百首の選定・揮毫を依頼される以 じ かのう るたくちおき 者に有之候。定家を狩野派の画師に 百人一首』の構成ー百首と歌仙題」を個人が用いて練習的に作歌する習前、流謫地隠岐において、後鳥瀕院が「時 比すれば探幽と善く相似たるかと存 慣も広まった。そのような百首歌の盛行代不同歌合』なる、古歌人三十六名と新 たんにゆう 候。定家に傑作無く探幽にも傑作無 『百人一首』は百首から成る秀歌撰であから、百首という数は自然に選ばれたでしい歌人三十六名を選定し、それぞれの あわせ ていかたんにゆう 作品を歌合形式とした、いわゆる歌仙合 る。なぜ、百首という数に落着いたのであろう。 し。併し定家も探幽も相当に練磨の か あろうか。その背後には、百首歌が盛行 力はありて如何なる場合にも可なり ところで、『百人一首』は秀歌選であを撰んでいるという事実があるのである。 まさおかしき していたことが関係を有する。百首歌と にやりこなし申候。 ( 正岡子規「再 るとともに、名歌人選でもある。名歌人そして、定家はそれをひどく気にしてい よ そんすう は、もともと一人の歌人が一度に百首詠を選び出して尊崇する傾向は、上代の『万るのである。とすれば、『百人一首』は び歌よみに与ふる書』 ) によう さんしのもん これらは定家の和歌 ( こ対する批評であ むこと、またはその和歌のことで、源重葉集』での「山柿之門」という言い方に『時代不同歌合』から何らかの影響を受け たてまっ ごうまんふそん るが、その人物について、傲慢不遜であ 之が東宮時代の囹応院に奉ったものが古すでにはの見えている。次いで、『古今ているのではないであろうか。少なくと そわのよしただえぎよう か当のもとのひとまろやまべのあかひと いとされている。曾禰好忠や恵慶にも、 和歌集』序文でも、柿本人麿と山部赤人も両者の間にある程度の関係があることるとか、官位昇進に汲々としていた俗物 へんじようありわらのなりひらふんやのやすひで であるとか、かなり否定的な見方がされ 個人の百首歌が存する。そのうち、一定を二歌聖、遍昭・在原業平・文屋康秀・は確かであろう。『時代不同歌合』は、 きせん おののこまらおおとものくろぬし の条件のもとに、複数の作者達が百首歌喜撰・小野小町・大友黒主を六歌仙とす作者の似せ絵 ( 肖像画 ) 、いわゆる歌仙ることもないとはいえない。すでに同時 る考えが認められる。六という数は、詩絵を伴っていたらしい。それに対する『小代人の後鳥院が次のような痛烈な人物 りくぎ なら に倣って和歌でも六義が考えられたこと倉百人一首』も歌仙絵を伴っていたかど評を下しているのである。 ていカ へいあん 定家はさうなき者なり : 道に達 と無関係ではないであろう。平安中期に うかについては、人々によって意見が分 ふじわらのきんとう したるさまなど、殊勝なりき。歌見 なると、藤原公任は六の倍数の三十の名 かれている。 知りたるけしき、ゆゅしげなりき。 歌人を選び出し、次いで三十六人を選定 藤原定家という人 ただし、引汲の心 ( ひいきする心 ) した。それぞれ、『三十人撰』『三十六 ふじわらのていか 藤原定家は、中世においてはほとんど になりぬれば、鹿をもて馬とせしが 人撰』と呼ぶ。これによって、三十六歌 むろまち ばうじゃくぶじん ごとし。傍若無人、ことわりも過ぎ 仙のメンバーが決定した。それは『古歌神に近い存在であ 0 た。室町時代の歌 しようてつ 僧正徹はいう。 たりき。他人の詞を聞くに及ばす。 庵集』の六歌仙、いわゆる古六歌仙をすべ ていか この道にて定家をなみせん輩は、冥 惣して、彼の卿が歌存知の趣、いさ 厭て含んではいない。作品が少なく、家集 ふんやのやすひできせんおおとものくろぬし 加もあるべからす。罰をか、つむるべ さかも事・により、折によるといふこ 像の伝わらない文屋康秀・喜撰・大友黒主 しようてつ きことなり。 ( 正徹物語・上 ) となし。ぬしにすきたるところなき 0 定は省かれている。 か ためいえ ためいえ ていか みなもとのしげ えんりあん まん れん など たんにゆう か 0 156
右近 忘らるる身 をば思はす 書ひてし 人の命の 惜しくしあるかな びとのいの ちのをしく もあるかな 忘らるる 筆 師 亠抄 像 ・ 0 の 草 三十八右近 忘らるる身をば思はずちかひてし 人の命のをしくもあるかな うこん しゅう 『拾遺集』巻十四恋四に「題しらす右近」として見える。 神仏にまで誓いあって契りかわした仲なのに、男は自 分から去っていこうとする。しかし女は男を恨むよりも、 男が誓いをやぶった罰を神から受けはしないかと、その ことの方をむしろ心配している。きれいごとすぎる感じ がある。恨みが変して、こういう形で実は嫌味を言って いるともとれる。男に捨てられた女の、それでも相手を 案じる純情ととるか、それとももってまわった嫌味とと るか、解釈は読み手しだいで正反対になりそうな歌だ。 やまと 『大和物語』には、「男の忘れじとよろづのことをかけ て誓ひけれど、忘れにけるのちにいひやりける」として、 この歌がのっている。この歌に対しての「返しはえきか 0 0 0 0 0 0 0 0 うこん 0 0 私はいいのてす忘れられてしまおうと しのてす わか身のことはい、 てもあなたあれほど神に変らぬ愛を お誓いになったあなたのおいのちそれが ひとごとならずむにかかってなりません うこん す」とある。『大和物語』の作者は、この右近の歌を受 ごんちゅうなごんあっただ け取った相手を権中納言敦忠と見ていたようである。こ の歌は二句切れ。しかし、読みあげるときは三句「ちか 、し、三句切れに解す ひてし」まで読んだ方が調子がいし る考え方もなかったわけではない。その場合には「私は あなたに忘れられる身だったのに、それを考えもしない で、変らぬ愛をあなたとともに神に誓ったのでした。し かしあなたはその誓いをやぶってしまわれた。そのため に神罰をうけて命を失うのではないかと、あなたのこと が惜しまれてなりません」という意味になる。こちらの いんえい 方が、二句切れの場合よりも女の心の陰影がよりつよく 出てきて、歌の心は深味をますように感しられる。 ることが多いようだ ) がいっせいに飛び散る光景のよう に見ているのである。 野原の露を玉と見る発想は、この当時の歌人たちには 少なくない。ただこの歌は、秋の野のさびしいひろがり の中に静止した玉をおくのでなく、風に吹きとばされる 玉という激しい動きの視点からとらえているところに、 類型を脱した新鮮味が感しられる。 ひんばん 「吹きしく」の「しく」は「頻く」で、たび重ねて頻繁にの 意味の助詞。「つらぬきとめぬ」、糸に貫きとおしてない
大 . 江千里 月見れば千々に 物、、そ かな , しけれ わが身ひミつの 秋にはあらねざ わかみびと つのあきに はあら、ねと 月見れば 此たびは幤も ごりあへ . 紅葉のにしき 】の↓にま : もみちのに しきかみの まにまに このたびは おおえのちさと 二十三大江千里 月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身一つの秋にはあらねど こきん 『古今集』巻四秋上に「是貞のみこの家の歌合によめる おほえのちさと 大江千里」として見える。二十二番「吹くからに」の歌 と同じ時の歌合であろうと思われる。 えんしろうちっそうげつ - るあ物、たってただいち まくしもんじっ この歌は『氏文集』の「燕子楼中霜月夜、秋来只為 じんのためにながし ) 、つま 一人長。」を翻案したものだろうとされている。 でもなく、 「千々に」と「わが身一つ」を対比させた構 かんけ 二十四菅家 たむけやま このたびは幣もとりあへず手向山 もみぢ 紅葉の錦神のまにまに ぬさ これさだ 秋の月を見あげていると おもいは千々に乱れもの悲しさに包まれる 秋はこの世のすべての人にやってきていて 私だけの秋というわけてないのに なぜかひとり私だけが秋の中にいるようて 成である。そういう点には、あからさまに理知が働いて じよじよう いるが、読んでいて感じられるのはむしろ抒情性である。 結句の「秋にはあらねど」の字余りと、「ア」音のくり かえしによるゆったり旋回するようなリズムが、一種の じようちょ 情緒的ねばりをこの歌に与えているのであろう。 日本人の中にある「秋はかなしいもの」という観念を 快く刺激する愛唱歌のひとつであった。日本人が秋の季 節感として今でも感しるある種の感じは、このような歌 あんどうつぐ によって職われてきたところも多いだろう。なお安東次 さかのうえのこれのり ていか 男氏は定家が『百人秀歌』で、「月見れば」の歌を坂上是則 の「あさばらけ」の次に置いている ( 二十九番・三十番 ) こ これのり しゃうぜん とを指摘し、是則の歌が、李白の「牀前月光を看る、疑ふ かうべあ らくはこれ地上の霜かと、頭を挙げて山月を望み、頭を がえ 低れて故郷を思ふ」を翻して作られたことは明らかであ ていか ろうから、「定家は両歌のよく似た背景、想の拠りどこ ろを想い描きながら、これに対にしているのかもしれな い」といっている。 たむけやましず 手向山に鎮まります神私が捧げる幣として もみじ このえもいわれぬ紅葉の錦を みこころのままにお受けください このたびの旅はにわかの出立 捧げまつる幣の用意もございませんゆえ ぬさ ぬさ かうべ
願博院 百敵や古き 軒端の しのぶにも なはあまりある むか、しなりけり なほあまり あるむかし なりけり ももし」や じゅんとくいん 百順徳院 のきば ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり しよくごせん じゅんとくゐんぎよせい 『続後撰集』雑下に「題しらす順徳院御製」として見 える。 大宮の荒れはてた古い軒端に生えているしのぶ草、そ れはかって栄えた宮中の昔をしきりに思わせ、今の朝廷 の衰微のさまをあからさまに示すものである。この歌は、 そのしのぶ草につけてもしのばれる往古の盛観を思って 嘆じている歌だが、一首、言葉につくせない悲傷の思い がこもっていて、印象が深い ごとばのいんじゅんとくいん 後鳥羽院、順徳院父子の歌は、両方とも憂憤の歌、慨 世の歌である。この種の歌以外に秀歌も多い両院だが、 わざわざこういう歌が選ばれているところに、撰者の意 『百人 図もおのすとあらわれているといえよう。また、 てんち ド ) 髪、・フ 一首』巻頭に天智、持統父子の歌がおかれ、巻末の後鳥 じゅんとく 羽、順徳父子の歌と対応しているのも、意識的になされ ていることは明らかである。 順徳院は後鳥羽院に深く愛された。性格は幼いときか かつばっ ら活漫で勇武、父後鳥羽院にその点でよく似ていた。そ ふしみ の上、後鳥羽院や伏見院につぐすぐれた歌オをもっ天皇 であり、また歌論書として一級の重要性をもっ『八雲御 抄』の著者として多大の影響を後世に及ばした学者でも しんこきん あった。『新古今集』が編まれた当時、十歳にみたない さいぎよう じえんよしつねていか 少年だったが、西行、慈円、良経、定家らのすぐれた歌 のきば うつぶん たの古い軒端は荒れはてて わがもの顔のしのぶ草よ ああしのぶともしのびつくせぬ せきじっ 昔日の大宮の威儀その栄華 いまはただ古い軒端にしのぶ草が 人たちを見知って育った院は、早くから歌をつくり、 ていカ 暦三年のころには、十七歳の身で定家 ( 五十二歳 ) 、家隆 ( 五十六歳 ) ら大家の列に加わり、多くは女房の名を使って、 歌合に技を競ったという。 さんばう 後鳥上皇が反鎌倉挙兵をはかったときは、その参謀 役として、一身同体といってもいいような関係にあった。 じようきゅう 承久三年、天皇在位のままでは不便なことが多いという ちゅう、上う ので仲恭天皇に譲位、後鳥羽院について挙兵したが敗れ、 さ、 ゅうめいもん せんこう 二十五歳の若さで佐渡に遷幸の身となった。生母脩明門 院は悲嘆のあまり尼となった。院はその後二十年のあい ゅうへい だ、佐渡に幽閉の明け暮れをすごし、悲置をいだいたま は - フ、よ まその地で崩御した。もっとも、その間、たえだえにで はあるか、都や隠岐の後鳥羽院とも消息をかわしていた。 後鳥羽院が隠岐で崩御したのをきいて、 君もげにこれぞ限りの形身とは しらでや千代のあとをとめけむ よ の弔歌を詠んでいる。 じようきゅう 「ももしきや」の歌は、承久の乱をおこす前の作だから、 右にのべたような、政治を幕府から朝廷にとりもどそう もんもん としてはたせぬ悶々の情も、当然歌の背景にあると考え ていいたろ、つ。 「ももしきや」、「や」は詠嘆の助詞。「ももしき」は、 えたか 138
後直極編前去政夫 、りぎりす 鳴や霜夜 さむ・しろに 衣かた・しき びまりかも寢む 、一ろ 4 もかた・ しま一「びとり かもねむ きりぎりす ) 」きよう′」くせっしようだいじようだいじん 九十一後京極摂政太政大臣 しもよ むしろ きりぎりす鳴くや霜夜のさ筵 ( ころもかたし 衣片敷きひとりかも寝む せっしゃうだいじゃうだい しんこきん 『新古今集』巻五秋下に「百首歌奉りし時摂政太政大 じん 臣」として見える。 ほっしようじにゆっ ふじわらのよしつね ごきようごくせっしようだいじようだいじん 後京極摂政太政大臣とは藤原良経のことで、法性寺入 どうただみち 道忠通 ( 七十六番の作者 ) の孫に当る。年若くして太政大臣 しゅんせいていか になったこの博学多オな貴公子は、和歌を俊成・定家に みこひだりけ 学び、彼らの御子左家を後見、いわばパトロン的な立場 にたっていた。後鳥羽天皇の信任厚く、新古今歌壇の醸 ちかつね 成に力をつくす一方、漢詩文を親経に学んですぐれたオ を示した。能書家で、『新古今集』の撰者の一人。仮名 あいせき きゅうせい 序を書いた。三十八歳で一夜急逝したので、一層愛惜さ おくせつ れた。急死の理由について暗殺その他の臆説がある。 この歌は『新古今集』秋の部に収められているが、恋 歌として読むことができ、そうするとき一層歌の姿はけ せきり ざやかになる。恋する男の寂寥感が、単なる寂寥を越え 霜夜にひとり寝る男 うた て、どこか艶をただよわせるような詠いぶりだからであ る。するどく寒さを誘う「力行」「サ行」の音韻を重ね じようちょ て秋の夜長の一人寝の情緒をとらえている。 よしつね あきしののつききょ あきしのげつせい 良経は「秋篠月清」と号し、その家集を『秋篠月清集』 というか、それにちなんでいえば、彼の歌には、澄んだ あまね しの 月光が地上に遍く照 、り、篠の影をあざやかに浮きたたせ しようとく るような澄明感と生得ののびやかさがある。和歌の理想 たけたか のひとつである「長高し」という体のこころをよくとら ちみつ ていか えている歌人で、定家の考え尽された緻密な歌風とは対 極をなすといってよかろう。 こきん 「きりぎりす」の歌は、『古今集』恋四の「さむしろに しゅう 衣かたしき今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫」と、『拾 遺集』恋三の「足引の山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を 独りかも寝む」 ( 『百人一首』三番に人麿作として選ばれてい まんによう る ) を本歌とするが、『万葉集』巻九には「吾が恋ふる 妹は逢はさす玉の浦に衣片敷き独りかも寝む」があり よしつね 『古今集』の歌はそれをふまえていると思われる。良経 のこの歌が、秋の歌であっても実際には恋を背景にもっ ことは、そういう一連の恋歌の系列からも明らかである。 「きりぎりす」、現在の「こおろぎ」をさす。「鳴くや」 鳴いている。「や」は感動の助詞。「霜夜」、霜の下り る寒い夜。「さ筵に」 「さ」は接頭衄。むしろ。わら あ鳴いているのはこおろぎか 寒い霜夜のさむしろに そで た一人わが袖ひとっ片敷いて しんしんと身にしむ夜の闇の底 うずくまってあわれ一人寝 むしろ ひとまろ 126
歌人紹介 とう ごんぢうなごん としより わらのよりつね ゅうし じゅさんみのうひょうえのかみ 別後、一品脩子内親王 ( 一条帝と子季以来の六条藤家の家系を継ぎ、俊頼原頼経の次男。参議従三位右兵衛督に し経て権中納言。また本院中納言、枇杷 しゅんぜい にようばう しんこきん 中納言とも呼ばれた。琵琶の名手。三の女 ) 家の女房として出仕。『水閣歌や父の教えを受けて精進し、自邸で歌至る。俊成に学び、『新古今集』撰者 けまり 十六歌仙の一人。家集に『敦忠集』。 合』以下多くの歌合に参加、指導的地合を主催したり、また数々の歌合の作の一人となる。和歌・蹴鞠の家として し さだより あすか らよくせん すとくいん よりいえまり 勅撰集入集四十首。・ 位にあった。定頼との恋愛が知られる。者・判者となる。崇徳院の命を受け『詞の飛鳥井家の祖。将軍頼家の鞠の師と きんよう あすか らよくせん ごんぢゅうなごんさだより ・権中納言定頼 ( 九九五ー一〇四五 ) 中古三十六歌仙の一人。家集の他、『後花集』を撰進。『金葉集』以下の勅撰なったこともある。家集に『明日香井 きんとう あきひらしんのうむら 集に七十八首。他に家集『顕輔集』。 集』。「新古今集』以下に百三十一一首。 : 四条大納言公任の息。母は昭平親王 ( 村拾遺集』に百八首。 さんじようのいん さきようのだいぶみちまさ さ当のだいそっじようじえん かみ むすめごんぢゅうなごんしようにいひょうぶ 上帝皇子 ) の女。権中納言正二位兵部・前大僧正慈円 ( 一一五五ー一一三五 ) ・左京大夫道雅 ( 九九四ー一〇五四 ) ・三条院 ( 九七六ー一〇一七 ) 第六十 みなもとのしげみつ ぎどうさんしふじわらのこれちか むすめ ふじわらの かんばくふじわらのただみち 卿に至り、四条中納言とよばれ、父を関白藤原忠通の子。十歳で父の死にあ父儀同三司藤原伊周。母は源重光の女。七代天皇。冷泉帝第二皇子。母は藤原 かわいえむすめらようし みち けんきゅう かんばくみちたか 継ぐ典型的貴族歌人。中古三十六歌仙 い十一歳で出家、畆山にのほる。建久祖父の関白道隆に愛されていたが、幼兼家の女超子。在位五年で、眼病と道 なが みちなが あつひら てんだいざす さ当のさいぐうまさ の一人。家集には定家自筆本も現存。三年 ( 一一九二 ) 天台座主となって以にして父の失脚にあい、また前斎宮当長の策謀により、道長の外孫東宮敦成 かんにん らよくせん 『後拾遺集』以下の勅撰集に四十六首。来、法界と朝廷とを結ぶ第一人者とな子 ( 三条帝の皇女 ) との恋愛事件で天親王 ( 後一条天皇 ) に譲位。寛仁元年 しゅんぜい ていか しんこきん げきりん ( 一〇一七 ) 四月出家、法名金剛浄。 : る。俊成・定家らと交流。新古今時代皇の逆鱗にふれ、晩年は不遇であった。 ごんぢゅうなごんていか ぐかんしよう らよくせん ・権中納言定家 ( 一一六二 : 同年五月崩御。家集はなく、『後拾遺 ー一二四この代表歌人の一人。史論『愚管抄』。 勅撰集入集は七集。・ しんこきん しゅうぎよく せんざい 新古今時代を代表する歌人。「新古今家集『拾玉集』。『千載集』以下に二百・猿丸大夫 ( 生没年・伝未詳 ) 三十六集』以下に八百首入集。・ さんじようのうだいじん げんめい 集』撰者。主な著書『顕註密勘』『一一五十五首。 ・三条右大臣 ( 八七三 ? ー九三二 ) 藤 歌仙の一人で、元明天皇の頃の人、あ しだい さきのらゆうなごんまさふさ わらのさだかたやしき へいあん がんぎよう 四代集』「詠歌之大概』『近代秀歌』『毎・前中納言匡房 ( 一〇四一ー一 一 ) るいは平安初期、元慶年間 ( 八七七ー原定方。邸が京の三条にあったため三 げつしよう しルうい らやくりゅう なりひら まさひら たかふじ 月抄』。日記『月記』。家集『拾遺愚匡衡の曾孫で成衡の子。大江氏の嫡流八八四 ) に生きていた人ともいわれて条右大臣と呼ばれる。高藤の子。兄に そう げんじ こきん さだくに 草』。また『源氏物語』『古今集』な いるが、伝承上の人物と見る説が強い。 定国がある。和歌・管弦にすぐれ、従 せんざい どの古典考証の功も大きい。「千載集』 「猿丸大夫集』に収められている歌も弟堤中納言兼輔とともに醍醐朝歌壇の 以下に四百六十五首。 ( エピソード参 はとんど読人しらすのものである。 : 中心となる。『古今集』以下に十数首 さんぎたかむら おののたかむら ・参議 ( 八〇一一ー八五一 l) 小野篁。入集。他撰であるが家集に「三条右大 かわ さいぎよう みねもり ・西行法師 参議岑守の子。漢詩文・和歌・書道に臣集』。 らひろかわでら へいあん しよっわ しん・」 内の弘川寺で没。七十三歳。『千載集』 すぐれた平安初期の学者。承和の初、 ・式子内親王 ( ? ー一二〇こ『新古 ちよくせん けんとう ふじわらのつねつぐ きん せんざい 以下の勅撰集に二百五十余首。家集に 遣唐副使に任しられたが大使藤原常嗣今集』時代の代表歌人の一人。『千載 さんか らよくせん 『山家集』。 ( エピソード参照 ) : と争い仮病をつかって乗船しなかった 集』以下の勅撰集に百四十九首。家集 おき しようかん さかのうえのたむらま さかのうえのこれのり ・坂上是則 ( 生没年未詳 ) 坂上田村麻 ため、隠岐に流罪、のち召還されて参『式子内親王集』。 ( エピソード参照 ) 、」きん ろ よしかげ さかのうえ 議に進んだ。『古今集』以下に十二首。 呂四代の孫好蔭の子 ( 坂上氏系図 ) と たかむら うだだいご いわれるが確かではない。宇多・醍醐として漢学を身につけ、若くして蔵人、 後人の作だが歌物語『篁日記』がある。・持統天皇 ( 六四五ー七〇二 ) 四十一 てんち さえもんごんのすけ うしようべん 代天皇。天智天皇皇女・天武天皇后。 朝の歌人。蹴鞠の上手としても名があ左衛門権佐、右少弁を兼ねて三事兼帯 みなもと さんぎひとし うののさららのひめみこ だざいのごんのそっ もん った ( 西宮記 ) 。三十六歌仙の一人。の才名を得、権中納言、大宰権帥、と文・参議等 ( 八八〇ー九五一 ) 姓は源。幼名齲野讃良皇女。壬申の乱では夫側 げんじのまれ きん くさかべ 家集に「坂上是則集』。『古今集』以章生を振り出しに異例の昇進をした。 嵯峨天皇の曾孫、中納言源希の子。官について行動する。皇太子草壁皇子夭 だざいのだいに てんりやく えんらよう てんむ くぐっ ごせん 下に約四十首。『後撰和歌集』の撰者の『狐媚記』「遊女記』『傀儡子記』など歴は延長八年従四位大宰大弐、天暦元折のため天武没後みすから即位、藤原 さかのうえのもらき ′」しゅう ごうのそっ 一人坂上望城は息。・ 著書多数。家集『江帥集』。『後拾違年参議などと詳しいが、歌人としての宮に遷都。政権維持の為には権謀術策 てんむ ちよくせん みなもとのよりみつ さがみ 経歴は家集もなく不明である。勅撰集を用いたこともあるが、夫天武への ・相模 ( 生没年未詳 ) 源頼光の養女。集』以下の勅撰集に百十四首。 か まんによう さきようのだいぶあきすけ ( ー後撰集』の四首のみである。 : : 歌は哀切である。『万葉集』に作品六 相模の名の由来は、大江公覧と結婚し・左京大夫顕輔 ( 一〇九〇ー一一五五 ) しようさんみさきようのだいぶあき さんぎまさつね ふじわらのあきすえ 相模に下向したためである。公と離藤原顕季の三男。正三位左京大夫。顕・参議雅経 ( 一一七〇ー一一三一 ) 藤首。 けまり せんざい くろうど か さが らよくせん じとう じんしん てんむ ふじわら 160
なからむ 黒髮の みたれてけさは 物をこそおもへ みたれてけ さはものを こそおもへ 長からむ 左京大夫顯輔 秋楓にたなび く雲のたえ 、 - よ町 もれ掛づる月の かけのさやけさ ( , つる つきのかけ のさやけさ 秋風に さきようのだいぶあきすけ 七十九左京大夫顕輔 秋風にたなびく雲の絶えまより もれ出づる月の影のさやけさ すとくゐん しんこきん 『新古今集』巻四秋上に「崇徳院に百首の歌奉りけるに さきゃうのだいぶあきすけ 左京大夫顕輔」として見える。 よ 一見古風な平明さ、澄明さを重んじた写実的な詠みぶ りの歌で、当時の流行であった技巧的な歌に対立する六 あきすけ 条家の祖としての顕輔の考え方がうかがわれるようであ る。こういう歌は、技巧派の多い世界にあってはかえっ て一つの新風となる。 「秋風に」、秋風によって。秋風に吹かれて。「たなび 「たなひく」は、 く雲の」、横に長く吹かれている雲。 「なびく」に接頭語「た」かついている。「絶えま」、切れ たいけんもんいんのはりかわ 八十待賢門院堀河 長からむ心も知らず黒髪の みだれて今朝はものをこそ思へ 『千載集』巻十三恋三に「百首の歌奉りける時恋の心を たいけんもんゐんほりかは よめる待賢門院堀河」として見える。 きぬぎぬ 後朝の恋の歌。夜の間は男が真心をみせて誓いもする カ明ければその、いはまことに頼りにならないそうい 不安というだけ う女の不安を歌っている。しかし、ただ、 でなく、 昨夜の愛の熱にまだ半ばうかされて、乱れた心 せんざい 目。雲と雲との間。「月の影」、月の光。「さやけさ」、 澄みきった明るさ。形容詞「さやけし」の語幹に、接尾 語の「さ」をつけて名詞化した語。 あきすえ ふじわらのあきすけ 藤原顕輔は、すぐれた歌人・歌学者だった顕季の三男 あきすえ ( 末子 ) たカ牛ー。ロ ( 寺こ歌こすぐれていたため顕季の遺志をつ からすま いでいわゆる六条家 ( 住居が鳥丸六条にあった ) を創始し、 - うさんみさのだいぶ みこ .- りけ ていカ 俊成・定家らの御子左家に対抗した。正三位左京大夫に このえ ほりか・わ すとく 至り、堀河・鳥・崇徳・近衛の四代の天皇に仕えた。 ふじゃらのきょすけ ひとまろ 『詞花集』の撰者。人麿を尊崇した。藤原清輔 ( 八十五番の 作者 ) は彼の息。 いつまてあなたを繋ぎとめておけるてしよう 田 5- フまいとしても田 5 いはそこへ行ってしま - フ 別してこんなに黒髪も乱れたままに よ いとしがり愛しあった夜の翌朝は 黒髪の乱れごころが千々に乱れる さながらに乱れている黒髪のイメージを表に出し、複雑 ようえん でしかも妖艶な恋の悩みをうたう。百人一首の恋の歌の 中でも印象の強いものである。 「長からむ心も知らす」、末長く変らないお心なのかど えんご うかわからす。「長からむ」は髪の縁語。 「黒髪の」 ひゅ 意味としては黒髪のようにと譬喩になるが、実際にはも 澄んだ秋風は夜空を渡る たなびく雲の輪郭は浮き立つようだ その切れ目から ひと筋洩れて輝き出る 月の光のさやけさ つな 112
むすめ たかのぶ によりて、我が歌なれども、自讃歌歌人として成長してゆく。隆信は当時有強情で協調性に乏しく、そして悲観論 寺 国 にあらざるをよしといへば、腹立の名な風流才子であった。その家集を見る者で感傷的であった。そのようなかれの 相 ごくでん 性格は日記『明月記』にしばしば、つかか 気色あり。 ( 後鳥羽院御ロ伝 ) と、はとんど女との恋に明け暮れしてい たかのぶ 家 大変きびしい批評だが、おそらく当っ るかの観がある。そのような隆信に刺激われることである。たとえば、治承四年 ふく 定 ているのであろう。ただし、これは後鳥されて、若い定家も青年らしい恋の体験 ( 一一八〇 ) 十月二十七日の日記では、福 はらせんと ば ていか たかのぶ 羽院が定家に対して不決感を抱くようにをしたようである。しかし、隆信が遊び原遷都後すっかり荒廃してしまっている 旦成立後も、上皇の命による切継ぎ ( 改 なってのちの執筆であるから、定家の悪上手なドンファンであるのに対して、定都の有様を次のように描写している。 閑院殿に参る。 ・ : 遷都の後なら訂作業 ) が延々と続けられていると、定 い面、いやな点ばかりが拡大されている家はむきになる傾向があった。これが芸 か たてじとみ つるくさ てんだう オしに上皇に対して不満を抱くよ ざるに蔓草庭に満ち、立蔀多く顛倒家はしご、 よ、つな傾向もないとは一一一一口いきオない 術に立ち向かう時はすばらしい集中力と ていか せうさく うになる。上皇の撰歌態度をあげつらっ せり。古木黄葉、蕭索の色あり、傷心 なって現われるのであるが、恋愛に際し 定家はどんな人柄だったか。ます、か いんきょ 箕子の殷墟を過ぐるがごとし。 ( 原たりもしたらしい。そのことが上皇の耳 れの略伝を記しておこう。 てはどうであったであろうか。不器用な ていか おうほう に入れば、不快感が生するのも当然であ 漢文 ) 恋であったに違いない。かれはまた、神 定家は院政末期の応保二年 ( 一一六一 l) 、 じよう当ゅう ていか ふじわらのしゅんぜい びふくもんいんかが ふじわらのちかた虐の 定家は主人に恵まれた。主人は二十五つた。承久二年 ( 一一三〇 ) 二月十三日 経質でもあった。体質的にはひょわで、 藤原俊成を父、美福門院加賀 ( 藤原親忠 くじよう ていかきんき わずら 女 ) を母として生まれた。父はいうまで生涯にさまざまな病気を患っていること歳の頃から仕えるようになった九条家のの内裏歌会で、定家が禁忌に触れる歌を ′」とば いんかんこうむ ′」当よう′」くよしつね よしつね 後京極良経である。良経のサロンが定家よんで、後鳥羽院の院勘を蒙ったという もないが、この母もまた文学的才能に恵と、この性質とは無関係ではないだろう。 まれていたので、定家の遺伝的素質とい神経質ですぐむきになるたちの人は、対の才能を開花させたといってよい。それのは、しつは一つのきっかけにすぎなか よしつわ う点では申し分なかった。これのみなら人関係がスムーズにいかないことが少なゆえ、建永元年 ( 一二〇六 ) 三月、良経ったであろう。 きゅうせい みなもと ていか しゅん が急逝した時の定家の悲しみは激しいも定家は人間よりはむしろ自然に親しむ くない。かれは二十四歳の時、殿上で源 す、すぐ身近に定家の従兄弟で一時は俊 さが のまさゆき じゃくれん のがあった。そして、その悲しみは、後 ことが多かった。嵯峨のやさしい自然を 成の養子でもあった寂蓮、父は異なるが雅行という友人にからかわれたのを怒っ まさゆき しそく たかのぶ ふじわらのためつわかが 愛し、また、梅・柳をはしめ、多くの木 母を同じくする隆信 ( 藤原為経と加賀とて、雅行を紙燭で打ち、しばらく除籍さ年に至るまで消えることがなかった。 つれづれぐさ しゅんぜい 定家の才能を認め、これに傾倒し、や草を栽植して楽しんだ。「徒然草』にも、 の間に生まれている ) などがいた。これれたことがある。この時は、父俊成が愁 ていか そ ていか けんこう ていか 定家は一重の梅を愛していた、兼好の時 がて定家その人をも重用しつつ、ついに らの人々に取り巻かれて、定家は早熟な訴して除籍を解除されたのであった。 ′一とば はこれを疎んした君主ーーーそれが後鳥羽代まで京極の家には定家遺愛の梅があっ 父母は定家の教育に熱心だった。父は ′」とば れいらく ふじわら 自身の代で零落した、北 たと伝えている。 家藤原氏の一支院である。後鳥羽院と定家とは一時牽引 めいげつき はんばっ みこひだり 流で御子左家と呼ばれるこの家を、このしあい、のちには反撥してしまった、お かれの日記『明月記』は、「百人一首』 息子が立て直してくれることを、期待し互いがお互いにとって宿命的な存在であを撰んだと考えられている嘉樵元年 ( 一 9 向、を」を 4 罍夭れを ていたのである。家は両親の大きな期った。この二人の出会いが、日本文学史二三五 ) 、七十五歳の年の十二月の記事 そうけん 上奇蹟的とも見られるいわゆる「新古今までが残っている。この後、かれは五年 待をその双肩に荷なわねばならなかった。 かれが生涯、官位昇進に汲々としていた 時代」を現出せしめ、「新古今和歌集』生きていた。最晩年まで頭脳はしつかり 廴スャ , ノ ことは事実だが、それは当時の貴族一般を成立せしめたことは、はとんど疑いなしていたらしく、弟子の和歌を見てやっ せん ,. いえ置、、テを家 たりしている。そして、仁か一一年 ( 一一一 。その「新古今集』五人の撰者のうち、 , / 0 当い予、肴嘴定に見られる傾向であるし、かれの場合は ュ朝位第すえ き記父親の影響も強いと思われるので、かれ最も中心的な存在が定家であった。それ四一 ) 八月二十日、八十歳の生涯を閉し っ ~ 明のみを非難することはできない。 ( 東京大学助教授 ) だけに、元久二年 ( 一二〇五 ) 三月、一 ていか か けんえい ていか けんいん を ふじわらのていか 157
がさんざん経験しつくす、自尊心と恋情とのせめぎ合い などを、回想的私小説といった形で書きつづっている。 きせきれんめん 約二十年間に及ぶ女の生の軌跡が連綿とつづられ、鮮や かな小説世界をきすきあげている。 かねいえ どのようないきさつで兼家が彼女に言い寄ったかは分 はんらよう らないが、本朝三美人の一人といわれている彼女の、絶 世の美女という世間的な評判を聞いて求婚したのであろ ただひら うだいじんくじようもろすけ ていしんこう 兼家の父は右大臣九条師輔で、その父忠平 ( 貞信公 ) ともやす に次いで藤原一門繁栄の因をつくった人である。倫寧と は身分違いの貴族の家柄なのである。 ぞうと、つか 型通りの贈答歌ののち、彼女は兼家の求愛を受け入れ ( 時姫の存在は承知の上で ) 、秋のある夜夢のような契りをか わした。しかし当時の上流貴族の男を自分一人に釘づけ にす , ることは、、、 し力に彼女が容貌、歌オともにすぐれて いたといえ、出来ない相談であった。男は彼女を愛さな くなったわけではないが、 それと他の女のもとへ通うこ ととは別であった。だがそれは、自尊心の強い彼女には、 とうてい許される事ではなかった。 ずリよう 自信にみちた受領の女が、いわゆる玉の輿にのって上 流貴族の妻となり、その自負心ゆえに孤独と自己嫌悪を くりかえし、といって夫をうらみはしても夫から離れて みち しまうことも出来す、結局は、成長してゆく一人息子道 綱への愛情に生き甲斐を見出してゆくようになるーーーそ 。綱れが彼女の生の歴史だった。そこに多くの日本の女性が 強いられてきた生き方の一つの典型的な姿を見ることも できそうである。 つな ときひめ はんえい たま 73
式子内上 玉のをよ紀なは 第え心 ながらへば 、しいふるこ・、のー」ゞ よい 0 , もぞオ、るー ( しのふるこ とのよわり も、する 玉の緒よ しきしないしんの、つ わが命よ玉の緒よふつつりと 八十九式子内親王 絶えるならば絶えておくれ このままこ - フして永らえていれば 玉の緒よ絶えなば絶えねながら ~ ば むに固く秘め隠しているこの恋の おもい あふ 忍ぶることの弱りもぞする 忍ぶ力が弱まって思慕が外に溢れてしまう しきしない しんこきん だ、と思、つ。しかし「忍ぶ恋」の独特なところは、田 5 い 『新古今集』巻十一恋一に「百首歌の中に忍恋式子内 しんわう を絶対に隠し通さねばならない点にある。わか存在すべ 親王」として見える てを焼きつくすはどの恋情に焦がれなから、一切を自分 激しい恋の歌である。だが、その恋は絶対に相手に知 一人の中に隠し通すのである。それは通常の恋の姿から られることがあってはならない、憧れにみちた「忍ぶ恋」 すれば、異常に自虐的なものであり、それゆえ、相手に よおびただしいか である。忍ぶ恋の苦しみをうたった歌ー しきし 対する純粋な憧れの思いは、比較を絶して切なく哀しい その最も有名なものをこの式子の歌とする。内親王の一 はっこ、つ 「玉の緒よ」の歌は、忍ぶ恋が外に洩れてしまいそうな 生を考えるとき、この歌が彼女の薄幸で哀切な生涯をい 危機の瞬間の激情をうたっている。今は忍ぶ思いに耐え かにも象徴するようにみえるのである 恋情がわれと つつけているか、つらさに耐えられない 久しく忍びつつけてきた恋、それが極まるとき、苦し あふ せき あら わが心を裏切って堰を切って外に溢れてしまうのではな さのあまり、思わすそれを表に顕わしてしまいそうにな いかそれならばいっそ、わが命よ、絶えるなら絶えて る。私たちの普通の考え方からすれば、こういう場合、 しまえ、というのである。現代人には理解しかたい王朝 外にそれを顕わしてしまうのが当然だし、それでこそ恋 こ 122