院 - みる会図書館


検索対象: グラフィック版 百人一首
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1. グラフィック版 百人一首

ごしらかわいん ごとばのいん 後鳥羽院は、後白河院とともに、歴代 天皇のうちでもきわだって強烈な個性の 持主だった。二人の院に共通するのは、 ほうげんへいじ 第一に、後白河院は保元・平治の乱、後 じようきゅう 鳥羽院は承久の乱と、一方が王朝末期・ かまくらばくふ 武家興隆期の大乱、他方が鎌倉幕府と京 都方との最後の勢力争いにおいて、みす しゆら から乱の中心人物として修羅のちまたを くぐった帝王たちだった点にある。後白 河院は機略を用いてついに動乱の時代を 生き抜いたが、後鳥羽院はあえなく敗退、 じようきゅう せんこう おき 一 ) 隠岐に遷幸となり、 承久三年 ( 一一三 はう」よ ついにこの島で崩御した。京都の古代的 な旧勢力と、鎌倉の中世的な新勢力との 政治舞台での勢力の交替を劇的に示す出 来事だった。後島羽院の運命はそういう 意味で、いわば「文」の支配から「武」 の支配に転してゆく大きな時代の転換を、 一身に象徴していたともいえるだろう。 いまよう へいあん 後白河院は今様を熱愛し、平安歌謡集 へんさん りようじんひしよう 『梁塵秘抄』の編纂を行なって、後世に大 の 幸 院 き岐 お当 ごとばのいん きな贈物をのこしたが、後鳥羽院はいう しんこきん までもなく『新古今和歌集』の成立に最 大の役割をはたした帝王歌人である。こ の二大詞華集それぞれの中心だったとい う点でも、二人の帝王は共通した点をも っていた。つまり、武の世界で似通った ところのあった二人は、文の世界でも重 要な美しい果実をのこしたのである。 ついでにいえば、二人の院は、恋愛生 俗く院買にの子後ご活 つよ猛を白とに 練宮河窰お い白と多たっ う拍くのて習中院い 子しのは、やにがて 英亀身よき ま今も 雄菊 : 分くま身で様あ 色への知じ分呼にざ をの低らめのび熱や 好寵いれな低入中か む愛女た貴いれしに はた話族女、て個 例有ちだたた夜、性 か名をがちち昼遊的 のとと女だ で愛 あし後顰のわやっ 鳥蹙交ぬ傀くた る と羽を情歌儡ぐ 文武兼備の帝王 とばのいん 後鳥羽院 こういう型破りの帝王が、文化的に大 きな業蹟をのこしていることは、とにか く興味ぶかい日本史上の事実であろう。 ごとばのいん よもちろんのこととし 後鳥羽院は和歌ー ゅうそくこじっ けまり かんげん て、管弦、蹴鞠、囲碁、有職故実などの 王侯のたしなみに精通し、武芸において すもう も、相撲、水泳、競馬、弓術、狩猟に秀 で、あまっさえみすから刀剣をきたえる せんこう おき ことさえした。隠岐へ遷幸してからもこ すけひで れは続けられ、刀の銘は助秀と切られた という。また豪力であったことは、強盗 かたのはちろう 交野八郎逮捕のエピソードからも知られ る。 かたのはちろう 交野八郎は当時名だたる大盗賊。この いまづ 男が今津の岸辺で捕手にかこまれた。後 まくめん 鳥羽院は院の北面の武士たちを指揮して 逮捕にあたったが、武士たちが寄ってた かっても組伏せられなかった八郎が、院 の指揮ぶりを見てへなへなになり、その ままひっとらえられてしまった。「放は どの悪党がどうしてたやすくつかまった のか」とたすねられた八郎は、「院が重 い櫂をまるで扇でも持つように振りまわ されたので、もはやこれまでと観念いた しました」と恐れ入って答えた。院はま たそれが気に入って、以後この賊を召使 、つことにしたといわれる。 なんじ 137

2. グラフィック版 百人一首

願博院 百敵や古き 軒端の しのぶにも なはあまりある むか、しなりけり なほあまり あるむかし なりけり ももし」や じゅんとくいん 百順徳院 のきば ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり しよくごせん じゅんとくゐんぎよせい 『続後撰集』雑下に「題しらす順徳院御製」として見 える。 大宮の荒れはてた古い軒端に生えているしのぶ草、そ れはかって栄えた宮中の昔をしきりに思わせ、今の朝廷 の衰微のさまをあからさまに示すものである。この歌は、 そのしのぶ草につけてもしのばれる往古の盛観を思って 嘆じている歌だが、一首、言葉につくせない悲傷の思い がこもっていて、印象が深い ごとばのいんじゅんとくいん 後鳥羽院、順徳院父子の歌は、両方とも憂憤の歌、慨 世の歌である。この種の歌以外に秀歌も多い両院だが、 わざわざこういう歌が選ばれているところに、撰者の意 『百人 図もおのすとあらわれているといえよう。また、 てんち ド ) 髪、・フ 一首』巻頭に天智、持統父子の歌がおかれ、巻末の後鳥 じゅんとく 羽、順徳父子の歌と対応しているのも、意識的になされ ていることは明らかである。 順徳院は後鳥羽院に深く愛された。性格は幼いときか かつばっ ら活漫で勇武、父後鳥羽院にその点でよく似ていた。そ ふしみ の上、後鳥羽院や伏見院につぐすぐれた歌オをもっ天皇 であり、また歌論書として一級の重要性をもっ『八雲御 抄』の著者として多大の影響を後世に及ばした学者でも しんこきん あった。『新古今集』が編まれた当時、十歳にみたない さいぎよう じえんよしつねていか 少年だったが、西行、慈円、良経、定家らのすぐれた歌 のきば うつぶん たの古い軒端は荒れはてて わがもの顔のしのぶ草よ ああしのぶともしのびつくせぬ せきじっ 昔日の大宮の威儀その栄華 いまはただ古い軒端にしのぶ草が 人たちを見知って育った院は、早くから歌をつくり、 ていカ 暦三年のころには、十七歳の身で定家 ( 五十二歳 ) 、家隆 ( 五十六歳 ) ら大家の列に加わり、多くは女房の名を使って、 歌合に技を競ったという。 さんばう 後鳥上皇が反鎌倉挙兵をはかったときは、その参謀 役として、一身同体といってもいいような関係にあった。 じようきゅう 承久三年、天皇在位のままでは不便なことが多いという ちゅう、上う ので仲恭天皇に譲位、後鳥羽院について挙兵したが敗れ、 さ、 ゅうめいもん せんこう 二十五歳の若さで佐渡に遷幸の身となった。生母脩明門 院は悲嘆のあまり尼となった。院はその後二十年のあい ゅうへい だ、佐渡に幽閉の明け暮れをすごし、悲置をいだいたま は - フ、よ まその地で崩御した。もっとも、その間、たえだえにで はあるか、都や隠岐の後鳥羽院とも消息をかわしていた。 後鳥羽院が隠岐で崩御したのをきいて、 君もげにこれぞ限りの形身とは しらでや千代のあとをとめけむ よ の弔歌を詠んでいる。 じようきゅう 「ももしきや」の歌は、承久の乱をおこす前の作だから、 右にのべたような、政治を幕府から朝廷にとりもどそう もんもん としてはたせぬ悶々の情も、当然歌の背景にあると考え ていいたろ、つ。 「ももしきや」、「や」は詠嘆の助詞。「ももしき」は、 えたか 138

3. グラフィック版 百人一首

藤原定家 ふじわらのていか 藤原定家は激家ごっこ。 オオ二十四歳の てんじよう みなもとのまさゆき とき、殿上で同僚の源雅行と言い争い しよくだい 相手からばかにされたというので燭台で 殴りつけるという事件を起した。場所柄 をわきまえるという、貴族社会の最も大 ぶさはうもの 切な身の処し方さえ知らない無作法者と して、彼は宮中から除籍されるという不 しゅんぜい 面目なことになった。これは父の俊成が たてまっ ごしらかわいん のちに後・白河院に歌を奉って許しを乞い えんりあん おぐら 小倉山荘の跡といわれる厭離庵 ( 京都市・嵯峨 ) ていか 再び昇殿できるようになったが、定家の こういう激情家の側面は、こと和歌に関 しては、もっとはげしい形であらわれる ことかしばしばだった。自分に対しても、 他人に対しても、度をこえて厳しく、欠 点をそのまま見逃すということのできな い人だった。 場所柄をわきまえない ついては、彼の主君であり、当代一流の ごとばのいん おき 歌人であった後鳥羽院も、隠岐で書いた といわれる有名な回想的歌論書『後鳥羽 ごくでん 院御ロ伝』で、「総じてかの卿〔定家〕 ぞんぢ が歌存知の趣、いささかも事により折に よるといふことなし」と突放して評して ていか いる。定家は歌というものが、その詠ま れた折の時とか場所の特殊事情を考慮し なくても、りつばに一人立ちして読める ものでなければならないと考えていた。 激情の新古今歌人 ふしわらのて しカ 壮年期にはとくにこの考え方か強烈な信 念だった。これよ ) ) 、 ーししカえれば、歌を一 個の純粋美の世界として自立させるとい うことで、この信念にはすれる歌は、た とえ他人の賞讃を集めている自作であっ ようしゃ ても、決して容赦しないというきびしさ ごとばのいん をみせた。それが、後鳥羽院のような宮 廷社会の王者からみると、 いかにもせせ こましく固一古しい 地下風なものに感し られたのである。 「折にムロ、フ」とい、つことを尊重したのは ) 」しらかわいん いまよう 後白河院も同様で、今様歌謡の名手だっ ごしらかわいん た後白河院は、臣下の者が何かの催しの さいその場に合うよ、つに歌詞をちょっ と変えて今様を朗々とうたったりすると、 「折に合ってめでたい」と大いにほめ、褒 りようじんひしよう 美を与えたりした。この話は『梁塵秘抄』 の中の院の今様修行回顧録『ロ伝集』に たびたび出てくる。 ていカ 定家という人は、いわば宮廷社会の優 雅な社交の道具としてのこういう歌の位 置・役割を一変させ、歌を純粋芸術とし かんこう て自立させるという一大事業を敢行した のである。『新古今集』という、和歌の ごとばのいんてい 芸術美の結晶である集が、後鳥羽院と定 家という両極を中、いに作られたことは、 その意味でも大きな意味をもっていた。 134

4. グラフィック版 百人一首

後鳥院 ーへもせョ , し 人し恨めし 味氣なく 世を思ふゅゑド ものおもふ身は よをおもふ ゅゑにもの お宅ふみは 人もをし ごとばのいん 九十九後島羽院 ひと 人もをし人も一フらめしあぢきなく 世を思ふゅゑに物思ふ身は しよくごせん ごとばのゐんぎよせい 『続後撰集』巻十七雑中に「題しらす後鳥羽院御製」 として見える。 意味をそのまま直訳的にたどれば、人というものはい としくも思われ、限めしくも思われるものだ。この世を あしきなくつまらないと見ているので、いろいろ物田 5 い にふけることの多い身の私にとっては、ということにな ろう。そういうふうに意味だけとってみると、理屈つば い内省的感慨をのべているだけの歌のようにみえる。や やその気味がなくもないが、全体としては贈い人間に対 する押さえがたい怒 」り、思うようにならぬ現実に対する とばのいん かのうたんにゆう 後鳥羽院百人一首画帖狩野探幽筆 せん = = ロないことたカ世を田 5- フ 世を思えば物を思 , フ いとしい者かいる憎い者がいる つまらない世に なおこの愛と贈しみのある心のふしぎ うつぶん やりばのない鬱直を一息に吐きだしたという印象か強く 伝わってくる。「あぢきなく」以下の下句の述懐が全体 の気分を強く支配しているからである。 ばのいん 後鳥羽院はこの歌を作ったとき、三十三歳だった。『新 こ、、ん へんさん おうせい とっげ 古今集』編纂当時までの若々しく旺盛な作歌活動は峠を カ↓ ` 第、・ら 越え、政治的には鎌倉幕府との間のあつれきからくるま まならぬ思いの日々も多くなっている。院が絶望的な情 せんこう 勢の中で討幕の兵をおこし、敗れて隠岐に遷幸になる承 きゅう 久三年の乱は、この歌から九年後におきる。 おそらくそういう事情が、この「題しらす」の述の ものう 歌には色濃く影をおとしているだろう。 い、かに 9 も物一愛げ・ じようちょ な、世の中を白眼視した姿勢が、和歌的情緒など踏みし だくようにして、あらわに示されている。しかし、も、つ 一歩ふりかえって考えれば、一、二句の「人もをし人も うらめし」という表現には、それなりに自分の愛贈をい ったん突放した上でそれをしっと観察し、人間とはなん と奇妙な存在だろうかとふしぎがる余裕をもちえた中年 の述とも読めるところがある。 いとし、 いしら 「人もをし」 「ん」ーし」は「し」 「あぢきなく」、つまらなく。面白くなく。 「世 を思ふ」にかかる。「世を思ふ」、この世のあれこれを 田 5 、フ しん 136

5. グラフィック版 百人一首

あきひと 劇の因をなした。鳥天皇は顕仁親王が五歳になった折、 すとく あきひと しらかわ 白河法皇の圧力で譲位させられ、顕仁は崇徳天皇として 即位したが、白河法皇はまもなく胛し、鳥羽院が代って らようひびふくもんいん 院政をとる。院は寵妃美福門院に皇子が生れると三ヶ月 すとく で皇太子にし、翌年早くも崇徳天皇を譲位させたのであ る。いわば、自分を屈辱の身に追いこんだ白河院に対す この ふくしゅう る復讐をこういう形でおこなったといえる。こうして近 え 、、卩立し、鳥羽院は出家して法皇となり、本院と 衛天皇が只イ みなもとのかねまさ 七十八源兼昌 あはぢしま 淡路島かよふ千鳥のなく声に すま せきもり いくよ 幾夜寝ざめぬ須磨の関守 、、んよ - フ 『金葉集』巻四冬に「関路千鳥といへることをよめる み′とのかわまさ 源兼昌」として見える。 げんじ 「関路千鳥」という題詠であるが、この歌は『源氏物語』 の須磨の巻をふまえて作っている。冬の須磨の浦を守る せき 0 よう せ、、 - もり 関守の夜ごとの寂寥をうたうが、須磨の巻の「友千鳥も ろごゑに鳴くあかっきはひとりねざめの床もたのもし」 ちどワ をふまえ、孤独な関所の番人が、わすかに千鳥を友とし つつも、人恋しさは限りないという哀感をうたっている。 物語世界の情趣を背景に、実感のこもる歌で、愛誦生に 富んでいる。 ・フ」まくら 「淡路島」、古くからある有名な歌枕で、「あはぢ」と は阿波 ( 県 ) へゆく道の意味。須磨の西南に位置する。 あわじ 「かよふ」淡路島から通ってくる。通ってゆく。ゆきき 源兼 路島かよふ 千の なく磐に いくよれぎめぬ す ~ の關もり 、くよねさ めぬすまの せ一もり 淡路島 た、え すとく 呼ばれ、崇徳上皇は新院と称されるようになった。本院、 この 新院の感情的対立は深刻になり、久寿一一年 ( 一一五五 ) 近 ほう」よ 衛天皇が十七歳で崩御すると、鳥羽院は崇徳上皇の呪い のためだとして、上皇の皇子をさしおき、上皇の弟後白 ふじわらのただみら かわ 河天皇が即位する。不満やる方ない上皇は、藤原忠通 ( 七 はう・けん よりなカ 十六番の作者 ) を敵視するその弟頼長らと計り保元の乱を さぬき 起したが、敗れて讃岐に流され、九年後配所で限りない おんリようたん 怨みと悲置のうちに崩した。崇徳院の怨霊譚は多い あわじ 彼方に浮ぶ淡路島から千鳥が通ってくる 私一人を友と思ってくれるかのように こしゅう 千鳥しば鳴きひとしお孤愁は深まる 幾夜こうして孤独の眼をみひらいたまま すませきもり 朝を迎えることだろう須磨の関守私は するの諸説がある。「幾夜寝ざめぬ」、幾夜目をさまして しまったことであろうか。古くから文法的に問題とされ ている個所。「寝ざめぬ」で完了しているのか、「寝ざめ ぬらん」ととるか、「寝ざめぬる」ととるかが問題とされ 、問いかけの気 るが、いったん切れた上で、かるく疑 分が加わったものととっていいだろう。「須磨の関守」 須磨の関の番人。 みなもとのとしすけ みなもとのかねまさ 源兼昌は、源俊輔の次男で従五位下皇后宮少進。大治 へいあん かねまさ : ゅうこ・フ すみよし 三年 ( 一一二八 ) 住吉歌合には兼昌道と見える。平安末 期の歌合に多く出詠しているか、専門歌人というほどで ていカ はなかった。しかし定家はこの物語的情趣にあふれた歌 を好み、この歌を本歌とした「旅ねする夢ぢはたえぬ須 よ 磨の関かよふ千鳥のあかっきのこ」を詠んでいる。 まなこ きゅうじゅ 111

6. グラフィック版 百人一首

五十九やすらはて寝なましものをさ夜更けて ・待賢門院堀河 : 赤染衛門 8 八十長からむ心も知らず黒髪の : 六十大江山いく野の道の遠ければ 小式部内侍 八十一ほととぎす鳴きつる方をながむれば : : 後奘寺左大臣 八十一一思ひわびさても命はあるものを・ 道因法師Ⅲ いにしへの奈良の都の八重桜・ 伊勢大輔 六十一一夜をこめて鳥の空音ははかるとも : ・清少納一言 八十三世の中よ道こそなけれ思ひ入る : : : : 皇太后宮大夫俊成Ⅲ 六十一一一今はただ思ひ絶えなむとばかりを : : 左京大夫道雅 八十四ながらへばまたこのごろやしのばれむ : : : ・藤原朝臣 六十四朝ばらけ宇治の日霧たえだえに 俊恵法師邯 権中納一一 = ロ定頼 八十五夜もすがらもの思ふころは明けやらて ・目莫 8 六十五恨みわびほさぬ袖だにあるものを : 八十六なげけとて月やはものを思はする・ 西行法師 六十六もろともにあはれと思へ山桜 : : 大僧正行尊四 八十七村雨の露もまだひぬまきの葉に 寂蓮法師脚 六十七春の夜の夢ばかりなる手枕に ・ : 周防内侍燗 八十八難波江の蘆のかりねのひとよゅゑ・ ・・皇嘉門院別当盟 六十八むにもあらてうき世にながらへば : 三条院川 八十九玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば : ・式子内親王盟 六十九嵐吹く三室の山のもみぢ葉は ・能因法師 九十見せばやな雄島のあまの袖だにも : ・殷富門院大輔 七十さびしさに宿をたち盟ててながむれば 良暹法師 九十一きりぎりす鳴くや霜夜のさ筵に : : : : 後京極摂政太政大臣 七十一タされば門田の稲葉おとづれて・ : 大納一三曻信川 九十一一わが袖は潮干に見えぬ沖の石の・ : 一一条院讃岐盟 七十一一音に聞く高師の浜のあだ波は・ ・祐子内親工豕紀伊 九十三世の中は常にもがもな渚こぐ : 鎌倉右大臣 七十三高砂の尾上の桜咲きにけり : ・ : 前中納言匡房燗九十四み吉野の山の秋風さ夜ふけて : ・参議雅経 七十四憂かりける人をはっせの山おろし : ・源俊頼朝臣期 九十五おほけなく憂き世の民におほふかな・ : 前大僧正慈円Ⅷ 七十五契りおきしさせもが露を命にて : 九十六花さそふ嵐の庭の雪ならて : ・藤原基俊 ・ : 入道前太政大臣 七十六わたの原漕ぎ出てて見ればひさかたの・ : 九十七来ぬ人をまつほの浦のタなぎに 権中納一 = ロ宀生豕 : 法性寺入道前関白太政大臣鵬九十八風そよぐならの小川の夕暮は ・従一一豕隆燗 七十七瀬をはやみ岩にせかるる滝川の・ ・ : 崇徳院Ⅷ 九十九人もをし人もうらめしあぢきなく : 後島羽院 七十八淡路島かよふ千鳥のなく声に・ : 源兼昌Ⅲ 百ももしきや古き軒端のしのぶにも : 順徳院烱 七十九秋風にたなびく雲の絶えまより : ・ : 左京大輔朧 ■代表歌人紹介 小野小町 在原業平 : : : : 菅原道真 紀貫之・ 和泉式部・ : ・ : 西行法師・ 式子内親王・ 藤原定家 後鳥羽院・ 関忠夫Ⅷ ・伊藤嘉夫剏 : 久保田淳 緊るたの歴史 異種百人一首 : こ目 ・解説・百人一首・ ば木ー 物硯 えヘム 罎■歌人紹介 〔花■図版目録 : 0 索引 : 螽・レイアウト・ : 134 57 : 日下弘

7. グラフィック版 百人一首

富門院大輔 見せばやな 雄島のあま ぬれにぞぬれし 色はかはらず ぬれにそぬ れしいろは か「はらそ , 見せばやな いんぶもんいんのたいふ 一・九十殷富門院大輔 をじま 見せばやな雄島のあまの袖だにも 濡れにぞ濡れし色はかはらず そで 見せてあげたいこの袖をあの方に 雄島の磯て濡れそばっている漁夫の袖さえ どれほど濡れても色まて変りはしないのに わたしの袖は濡れに濡れて 紅に変ってしまった血の涙いろに 『千載集』巻十四恋四に「歌合し侍りけるとき恋の歌と いんぶもんゐんのたい てよめる殷富門院大輔」として見える。 し、、し いんぶもんいん ごしらかわ 殷富門院 ( 後白河天皇皇女発子内親王、式子内親王〈十八、九 番の作者〉の実姉 ) に仕えた飃輔という女房の歌合の歌で ある。 「見せばやな」、見せたいものです。「ばや」は願望の をじま ↓・つし↓・ みちのく 助詞。「雄島」、陸奧の松島群島の一島。「あまの袖」 あま 「あま」は海士、海で貝や魚、海草を採る。したがって 袖はいつも濡れている。「だにも」でさえも。「濡れ にぞ濡れし」、濡れに濡れた。「ぞ」は濡れた意を強めて かかりむす 「ぬれし」と係結びになる。「色はかはらす」、色は変ら といっておいて、言外に 「あまの袖」の色は変らない、 自分の袖はちがう。恋の苦しみのため血の涙を流し、そ のため袖の色は赤く変ってしまった、ということを言っ じよ、つートフ ている。恋の涙は血の涙、という発想は、当時の常套的 な詩的発想だった。この歌はそれを踏まえて、恋に泣く 懷女の恨みをうたっているが、今の目で見ると誇張がます - まっし↓・ みたとのしげゆき 感じられる。『後拾遺集』恋四、源重之の「松嶋やをし あま まが磯はあさりせし海士の袖こそかくはぬれしか一を本 図歌とするが、本歌取りの技巧という観点からすれば、大 しゅ・ : フ 輔の構えた趣向には新味もあって評価されよう。 せんざい くれない 125

8. グラフィック版 百人一首

第誉第当、気 嘉別な一ゝ 第を汜の掌の かりれの 一夜ゅ三 身をつく・してや 思ひわたる・ヘき みをつくし てやこびわ たるヘま一 難波江の こう力もんいんのべっとう 八十八皇嘉門院別当 難波江の蘆のかりねのひとよゅゑ みをつくしてや恋ひわたるべき こ「摂政、右大臣の時の家の歌合 『千載集』巻十三恋三 : くわうかもんゐんのへったう りよしゆくにあふこひ に、旅宿逢恋といへる心を詠める皇嘉門院別当」とし て見える。 ) ロカ 院 が嘉 せんざい よ冖」↓、ん ひとよ なにわえ 難波江の仮寝の宿の一夜の契り ひとよ 蘆の刈り根の一節ほどのそんなはかない契り その行きずりの恋ゆえに私はこうして 身を尽し捧げ尽して波のまにまに 恋いわたらねばならないというのてしようか ふじわらのかねざね こうかもんいん せっしよう たたみ・つ 摂政は藤原兼実 ( 七十六番の作者忠通の息 ) 皇嘉門院は崇 徳天皇皇后聖子で、兼実の異母姉にあたる。作者はこの かねざね こレがき べっとう 人に仕えた女別当だった。詞書にあるように、兼実がま だ右大臣のころその家で催された歌合で詠んだ歌。「旅 宿に逢ふ恋」という題詠である。 な : わ 旅宿というもののイメージから、難波、芦、かりね、 えんご かけ・ば ひとよ、みをつくしなど一連の縁語や掛詞を駆使して、 一種夢幻的な舞台装置をしつらえ、それを背景にして女 の恋のいのちをかけた哀しさをうたっている。女は、旅 ちぎ の一夜のはかない契りであっても、それを結んだばかり に生身を捧げつくして恋いわたらねばならないものな ふい のか、と自問している風情である。題詠だし疑った技巧 の歌だが、女は一夜の恋にも身を尽すほどの宿命を背負 ってしま、つとい、つ認識と嘆きには、架い心かこもってい て、人をうつ歌となっている。 「難波江の」、難波の入江。芦の名所。難波の旅宿を暗 示している。「芦のかりねのひとよゅゑ」 ひとよ ひとよ に刈り根と仮寝をかけ、「ひとよ」に一節と一夜をかけ 「みをつ る。「芦の」までが序。「みをつくしてや」 くし」は二十番参照。「や」は疑問の意の係助詞。「恋 ひわたるべき」 「わたる」は時間の長い連続的経過を 示す。「べき」は「や」の結び、連体形。 かねざね 121

9. グラフィック版 百人一首

陽成院 筑波嶺引峯より みなの川 ぞっもりて 淵・こなりめる こびそっ宅 てふちと なりる 筑波嶺の 1 1 1 作風について「歌のさまは得たれども、まこと少し」と 評している。歌の言葉はととのっているか、心の深さに へんじよう 欠けるところがある、という意味である。これは遍昭に ついての一種の定評にもなっていった。 ようぜいいん 十三陽成院 つくばね 筑波嶺のみねより落つるみなの川 ふち こひぞっもりて淵となりぬる ゃう つりどの ごせん 『後撰集』巻十一恋に「釣殿のみこにつかはしける陽 こうこう ぜいゐん 成院」として見える。「釣殿のみこ」と呼ばれた光孝天皇 ッ , ぞうさんしよう ひしかわもろのぶ 筑波山の峯から落ちる水百人一首像讃抄菱川師宣筆 つくば 思ってもください東の国の筑波山の みわ 峯から細々おちてくるわずかな水も つもれば満ちて男女川ともなるというのに 思ってもくたさい私の恋も つもりつもって今ははや深い淵 やすこ ようぜい の第一皇女綏子内親王 ( のち陽成妃 ) に、恋の思いをう つくばね ったえた歌。筑波嶺の峯から落ちるわすかな水が、やが みなのがわ ては男女川となり、深い淵をたたえるほどになるように、 自分のひそかな慕情もつもりつもって今は深い淵になっ てしまったという。歌としてはとりたてていうほどの特 ようぜいいん 徴もないが、作者陽成院の性格を思い合せると、それな りに興味はある。 この帝は清和天皇の第一皇子で、八十二歳の長寿を保 ったが、若いうちから脳を病んで狂暴な振舞いが多かっ 幼くて帝位についた帝は度をすごした馬好きで、宮 中でひそかに馬を飼わせ、飼育の仕方がいいと らようあい の理由で、たちの悪い臣下を何人か寵愛した。動物を集 めるのも好きで、大と猿をけんかさせたり、気に入らな い臣下に対しては剣を抜いて追いまわすなど、狂態が多 ふじわらのもとつね ついに関白藤原基経に廃されてしまった。在位わす こうこう か八年、十七歳で光孝天皇に譲位したが、その後も狂暴 な振舞いで都の人々を恐れさせたといわれる。 へんじよう しかし遍昭の歌が、そういう点をも含めて、当時の和 歌のある面を代表していたことはまぎれもない事実であ って、「天っ風」の歌はその特色を存分に発揮している のである。 みなの ふら

10. グラフィック版 百人一首

ながかた 以上は一の解釈である。これに対して、 を揮毫したものであろうか。 権中納言長方 とあり、奥書は、 おぐらしきし き′」う 「小倉色紙」と呼ばれる色紙五月二十七日に揮毫したものはやはり『百 紀の国の由良のみさきにひろふてふ 上古以来の歌仙の一首、思ひ出だす たまさかにだにあひみてしがなか何枚か伝わっている。江戸時代にはそ人一首』そのものだったであろうという に随ひ之を書き出だせり。名誉の人 ゆくえ の秀逸の詠、皆之を漏らせり。用捨そして、次の三首は反対に『百人一首』の一枚が行方不明にでもなるとお家騒動立場を採る学者もいる。その場合は、定 じゅうはう がおこりかねなかった重宝とされている。家の内なる文学的良心と世俗的顧慮とが 心に在り。自他傍難有るべからざるにあって『百人秀歌』にない歌である。 かっとう みなもとのとしよりあそん 葛藤の末、文学的良心が打勝ったと見る 源俊頼朝臣 『小倉百人一首』の和歌を書いたもので、 か。 ( 原漢文 ) ていか 定家筆と伝えられている。この「小倉色のである。以下、その説をやや詳しく述 うかりける人を初瀬の山おろしょ とある。その内容ははとんど『百人一首』 き′」う ′とば はげしかれとは祈らぬものを紙」の中に、後鳥羽院の「人もをし」やべると、定家は五月一日頃色紙形の揮毫 と重なる。ただし、計百一首を収め、そ はちだいしよう みなもとのとしより 源俊頼の「うかりける」の歌を書いた色を依頼される、過去に撰した『八代抄』 後鳥羽院御製 のうち左の四首は『百人一首』にない作 などをも参考にして直ちに着手する、そ 紙形があるのである。とすると、定家が 人もをし人もうらめしあぢきなく である。 れんしよう の時点では、公的な『新勅撰集』に入れ 世をおもふゅゑにもの思ふ身は蓮生に書き送ったのは、やはり『百人一 一条院皇后宮 じゅんとく られなかった両院の作を、せめてこの私 首』の歌であったのだろうか。 順徳院御製 よもすがらちぎりしことを忘れずは 的な秀歌撰には入れようと考える、五月 しかしながら、この問題にはなお腑に ももしきや古き軒ばのしのぶにも こひん涙のいろぞゆかしき くにざわ 落ちない点が残る。最初に述べたように、十四日両院の還幸が認められなかったこ なはあまりある昔なりけり 権中納言国信 ごとば じゅんとく 結局、『百人秀歌』のメンバー百一人『新勅撰和歌集』には後鳥羽院や順徳院のとを知り、一旦両院の作を入れない『百 春日野のしたもえわたる草のうへに と みなもとのくにざねふじ のうち、一条院皇后宮定子・源国信・藤作は採られていない。それらは幕府を人秀歌』を撰ぶ、十日ほどのうちに考え つれなく見ゆる春のあは雪 みなもとのとしよりあそん わらのながかた って草稿本から削除されたらしいのであ直し、これを手直しして、両院の作を入 原長方の三人が『百人一首』には見出さ 源俊頼朝臣 うつのみやにゆうどうれんしよっ じゅんとく 山ざくらさきそめしより久方の れす、代りに後鳥院・順徳院の二上皇る。一方、宇都宮入道蓮生は関東の豪族れ、代りに『百人秀歌』から定子皇后ら 雲ゐにみゆるたきのしらいと が入っているのである。そして、両方にである。その別荘には幕府の要人が立寄の作を除き、歌順も変えた『百人一首』 みなもとのとしより いくら私的な の決定稿を作る、これを揮毫して送る、 加えられている源俊頼の作品はそれぞれらないという保証はない。 は 異なっている、この他、一致している作試みとはいえ、そこに貼る色紙形で幕府以上のようなことになるであろう。 このいすれが正しいか、或いはいすれ 者、作品の場合でも、順序の違いが見出が忌避する両院の歌を定家は書いたであ される。 ろうか。かれはそのような点には人一倍でもないか、現在の段階では立証し難い おくよう が、少なくとも、『百人一首』の大綱が 計百一首から成る『百人秀歌』がいわ気を配る、臆病な人間だったのではない うわさ かんこう 定家の選歌基準によって決定されている か。先に、四月頃両院還幸の噂があった ば草稿本で、丁度百首の『百人一首』が 定稿本であろうと考えることは、自然でと述べた。が、これは噂に終った。五月こと、その成立には歴史的、政治的な条 ある。或いは定家は当初自身の作を入れ十四日、定家は息子為家がもたらした情件が作用したらしいことは、確かである。 また、現在写本としてまとめられている 尺尺の年霆部ない百首を選んだのかもしれない。が、報によって、幕府が両院の帰洛を認めな ぶんリやく いということを知ったのである。そのよ『百人一首』の作者名は、文暦二年五月の 書蓮生に「どうかあなたの作を是非」と言 ′」とば 魄心 2 製庁 この時、後鳥羽 うな情勢にある時、定家は火中の栗を拾時点でのものではない。 さどのいん おきのいんじゅんとく ~ 10 ー、 ) 、第の ( , い《、 , 、・ , 、′紵 ~ 内われて、百一首とな「たのかもしれない。 院は隠岐院、順徳院は佐渡院と呼ばれて うようなことを敢えてしたであろうか それにしても五月二十七日の『明月記』 じゅに いえたかしようざん いたであろう。また、従二位家隆は正三 にいう色紙形は、『百人秀歌』を記した「人もをし」の「小倉色紙」はひそかに自 秀 みいえたか 百ものであろうか、それとも『百人一首』身のために記したと解することもできる。位家隆であ 0 た。これらの作者名は、定 おくがき き ) 」う あ ためいえ くり 155