五月も末だというのにまだ雪を残す富士山を 見て時節を知らぬ山だと詠む男 ( 第九段 ) 説もあります。後世の、神の言葉を人に伝える「中宣」 きそぶし ( 木曽節のなかで「なかのりさん」と歌われている ) のように。 なりひらちゅうじよう みんしやっ さて、そういうわけで、業平中将はどうしても民衆の 想像力のなかで、二条の后との事件のあとでは、東下り に出発しなくてはならなくなるわけですが、そして、こ のあたりに『伊勢物語』は、東下り伝説の幾つかを、ま とめて並べてあるわけですが、それを第二期の物語化の なかで、一人の主人公の話として、統一しようとすると、 ち無理が生じて来ます。 現に、第七段で「伊・尾張」の辺の海沿いの公道を あさ さまよっている主人公は、第八段では「甲麥」の国で浅 間山を眺めています。そうして第九段ではまた主人公は みかわ するカ 三河から駿河を旅しているということになるので、この か・ルし」 - フ なかせんどう ト小、つこ、 5- 、 者カら関東地方へ行くのに、東海道と中仙道と を同一人物が同時に東行することなど、ありえません。 : フ」わ だから、元来は幾人もの東下りの人物の挿話が、ここ に集められたのだと考えられますし、それよりも、第八 あさま 段の浅間山の歌は、この『伊勢物語』のなかの、主人公 きさき ふんえん の歌として読めば、そこに「あの噴煙のような私の想い みとが は、遂には人に見咎められるだろう」というふうの寓意 を含んだものと見えてくるわけですが、元来は、そうし むえん た都人の旅愁とは無縁の甲斐地方の民謡だったのでしょ 丁度、第九段の「時知らぬ : : : 」の富士山の歌が、 するカ やはり駿河地方の民謡であったであろうように。 かっかざん 富士山も業平の在世中に活火山であったので、この二 つの火山の民謡には、いすれも太古の火山信仰が影を引 いているとも見えるのです。 また、この富士山の歌で言えば、山頂にまだらに雪が 積ってみえるというのは、その地方の山の消えのこった 雪の模様によって、その年の秋のみのりをうらなったり、 農事の時を知ったりする、古代の農村の民俗が、そこに 反映している、とも読めるわけです。 それから、字津の山の歌ですが、これは物語の背景を するが 忘れて、ただ普通に読みますと、「駿河なる宇津の山べ まくらこと の」までは「うつつ」という言葉の単なる枕河であり、 、にこいて冰 だから字津の山の実景というわけではなく んだと思うのが自然で、たまたまこの歌が人のロにもて まくらことば はやされていたので、逆にこの枕詞から物語の方が後で ちな この地名に因んで作られた、と言うことになりましよう。 ただ、この場面の第一期での創作があまりにも、都人 ワよしゅ、つ の旅愁の情景として成功したので、それは日本文学のひ し」 - フカ、ーこ - フ とつの伝統的な手法となって、東海道を旅する多感な人 は、大概、この峠で知人に会う、という型が後世まで伝 わることになって行きました。たとえば、・『海道記』も と - フかんきこ - フ ざよ 『東関紀行』も『十六夜日記』も、皆、それが実際の旅 なりひら うつ と、つ , うつ
こ子もも策る のにした訪 ち中文げを もの注あ家 らそがりの す緒につて 現とっ枝を を人後の姿 姿六の玉旅 と匠年ぬの つじ治三わ偽 そか鍛が らのはたこ子 か流こ子分み皇 が家一み皇寸 れ時たと深 隠当っの略 蓬葉の玉の枝と くらもちの皇子 さくりや、 やけ くらもちの皇子は、策略深い人で、公の場には、「筑 髪」・フド ) 紫の国へ湯治にま、 かぐや姫の家 しります」と暇を亠ロげ、 には、「玉の枝をとりにま、 ります」と伝えさせて、西 へお下りになるので、お仕えしている人びとはみんな、 難波までお見送りした。 しの 皇子は「できるだけ人目を忍んでいく」とおっしやっ そっきん て、従者も多くつれてはいかれない。 冂近の者だけ をつれて舟で出で立たれた。お見送りの人びとはたたれ るご様子をお見届けして帰った。おでかけになったと人 にはみせておかれて、三日ばかりたってから、その舟を しっしゃ 0 み Ⅷ日ぎ冖布していらっしやった。 以前から、計画はちゃんと命令しておかれたので、そ の時代最高の、一のともいえる治匠六人を召して、 容易には人が寄りつかないような家を作り かまどル」ー ) つらえ、三重にかこいこめて、エ匠たちをその中におい れになり、皇子自身も同し所におこもりになって、領し C よう・ ておられる十六か所の領地をはしめとして、蔵の財宝を あげて ( 「玉を作るためにかまどに特別の装置をはどこして」の 説もある ) 玉の枝をお作りになる。かぐや姫がおっしやっ た通りに、まちかいなく作りたした。たいそううまく計 画して、難波に、こっそりと枝をもち出した。「舟にの てん って帰ってきましたよ」とご殿にしらせてやって、ひど く苦しそうな様子をしておいでになった。 お迎えに人がたくさんやってきた。玉の枝を長櫃に入 おお れて、覆いをかぶせて持ってくる。いっ聞いたのか、人 びとは、「くらもちの皇子は、三千年に一度花咲くとい - フどんげ われる優曇華の花を持って、おのほりになった」とさわ うわさ いで言っている。その噂を聞いたかぐや姫は、「わたし は皇子に負けてしまうらしい」と、胸つぶれて悩んでお られた。 み そうしているうちに、門をたたいて、「くらもちの皇 っ たびす力た 子かおいでになりました」と告げる。「旅姿のままでお お、な いでになったのです」というので、翁かお目にかかった。 ) ました。 皇子が「命を捨てて、あの玉の枝を持ってまい ~ そういって、かぐや姫のごらんにいれてください」とお おきな っしやる翁は姫のもとに玉の枝を持ってはいった。 ふみ この玉の枝に、文かついていた。 さんじっ ながびつ
すみだ 0 隅田川を渡る男と友人たち あずま ( だ 伊勢物語図絵東下り図 る。ひろげてごらんになり、たいそうたいそう悲しくお かんげん 思いになって、なにもおあがりにならない 管絃 ( 音楽 ) おんあそ の御遊びなどもなさらないのだった。 おとどかんだちめ 大臣や上達部をお召しになって、「どこにある山が、 てん 天にいちばん近いのか」とおたすねになると、ある人が、 するが 「駿河の国に在るという山が、この都にも近く、また天 にも近うございます」と申しあげる。これをお聞きにな あう なみだ 逢ことも涙にうかぶ我身には なに 死なぬくすりも何にかはせむ ( 姫にあうすべもなく、あふれる涙に浮かんでいるような、 希望のないわたしに、死なぬ薬なんて、何の意味があろう か。 ) つば おんししゃ 姫がさしあげた不死の薬に、壺を添えて、御使者にお らよくし もたせになる。勅使には、つきのいわかさという人をお わがみ するが 召しになって、駿河の国にあるという山の頂上に持って みね ゅノ \ レ小、フに、 ご命令になる。そして山の嶺でなすべき次 第をお教えになる。 つば 御文と、不死の薬の壺をならべて、火をつけて燃やす おもむき おお ようにと仰せになる。その趣をうけたまわった御使いか つわもの 武士 ( 士 ) どもをたくさん ( 富 ) つれて、山へ登ったと ころから、その山を、ふし ( 富士 ) の山と名づけた。 その煙が、い まもなお、天の雲のなかへ、立ちのばり つづけているものと、昔から言い伝えている。 はぎ さやさやとすすき葉が揺れ、萩のまろ葉が黒い影とな あお かん る名月の夜、月を仰いで永遠を想い、 死生を観じ、愛を ー - っ・ぞく きわん しまもこの国に生きている。月 祈念する月見の習俗は、 ) を仰ぐすべての人びとの胸に、幼い頃から親しんだかぐ や姫も生きつづけている。 たーとりものカたり 『竹取物語』のなかで、わたしがもっとも惹かれるのは、 「このかぐや姫、きと影になりぬ」の一節である。さん てんによ ざん男心をなやます悪女のごとき天女、「きと影に」な きれい る、意志表示の綺麗さが、思いの底にしみ通る。 とぎ お・りか・け たけとワものカたり いわば、蒼古のお伽としての面影をもっ『竹取物語』 の原文を、勝手な構成に書きかえることは、独得の匂い を失うようで心重い。幸い字数が許されたので、できる きひん だけ原文に忠実に、原文の気品と香りとを生かすロ語訳 をと、いかけた。 『日本古典文学大系』『日本古典文学全 集』を、参照させていただいた。 不死の国である月は、また、生物不生の天体。かぐや けしん 姫は、さんぜんたる月光の化身であった。 おんふみ てんたい おんつか
・解説・伊勢物語・ 海外の竹取説話・ ・解説・竹取物語・ あさま ・ 8 2 \ オカ : しの 浅間の岳・ : 東下り : たのむの雁 : むさしのみ きのありつね むさしの・ ぶ山 : : 囲紀有常 : 空ゆく月・ : 武蔵鐙・ : 筒弗筒・ : 櫢引 : 逢わてねる夜 ・ : 加もろこし船・ らいの影・ : 川 かたみ・ : 花の賀い ・ : 。しすのおたまき・ : 加 じよう したひも ほたる みなもとのいたる 情な人・ : 燗下紐 1 源至 : うるわしき友・ わか′、さ ひがしやま はなたち工な こけるか、ら : 若草・ : Ⅷ鳥の子・ : Ⅲ東山 : 花橋・・ 1 くも髪・譱狩の使・あまのつり舟 : の斎垣・磊大 おしお 淀の松 : 1 小塩の山 士カま・・・ 2 諸の院 : さカて 目離れせぬ雪 布引の滝 : 天の逆手 : 世のうきこと 力、わ たったがわ 寝ぬる夜 : 白露 : 賀茂の祭 : 竜田月 島・ : 浜びさし : 我とひとしき人 : : 金田元彦 伊藤清司 135 101 ぬのびき 蒔絵長硯楕 ( まきえながすすりばこ ) ・ 0 工芸品にみる伊勢物語 : 0 伊勢物語のうた一一百九首 : 0 地図ーー伊勢物語ゆかりの地 : ■図版目録 : 装幀・レイアウト : : 日下弘 あま 166 164 145 140 作 みやこ おお
まんドよう の物語をそっくりそのまま載せていても、 ー奪卒発 m. 万葉このかたの伝統をもっ和歌が作られ者の好みも違うので、種々の変化がある。 へいあん げんじものたり ることは、まれであった。むしろ、その平安時代では、「源氏物語』がもっとも 「白玉の」の歌もけずり、鬼が女の身体を をべ「くして、あとに女の髪だけが散手 影響が大きく、紫自身、『伊識』 当時の和歌は、漢学者には「淫歌」とし したいふ 乱していた描写をつけ加えて、話を恐ろ ていやしめられ、宮廷に仕える士大夫の の熱心な読者であったので、後世の作品 まゆ 口にすることは、識者に眉をひそめられの中では、もっとも読み方がたしかであしくリアルに書きなおしている。鎌倉時 こじだん ることであった。しかし、堅苦しい漢詩 理解の程度にも深いものがある。例代の説話集『古事談』には、奥州の野原 おののこまち うだいじん お′づきょ にころがっていた小 野小町のドクロと業 程 : 文一点ばりの文芸では、どうしても、日 えば、右大臣家の末娘、朧月夜の侍は、 よ ひら へいあん 、】第をョ寸 本人の気分として、何か、物足りなさを平安時代の女性としては、個性的で鋭角平が歌を詠みかわした話。東下りの後日 番 ・ - ん むみようしさっ 0 加 諏。などがあり、『無名抄』の著者、鴨 感した筈である。和歌を愛し、和歌の伝的な行動をとっているが、それに「一条の 剿五ロ なりひらやしき お再づき の 統を守りぬき、このひとすじの道に、自后の人物像を、さらに書きこむと、朧月長明は、古風な作りだった業平の邸が、 げんべい かっせん へいあん らの文学の世界を見出した、代表的な人夜の侍に近づいてくる。一体、平安時源平の合戦に焼けてしま「たのはまこと げんべい かっせん に残念であると書いてある。源平の合戦 ニ = ロ 物が、実は、在原業平であ「た。この業代の宮延女房は、みな『伊』の売 へいけものたり たいらのしげひら だいぶつ せものたり りさきしきぶ といえば、「平家物語』の平重衡は大仏 を主人公にした、『伊勢物語』によ 0 者なので、紫式部もそれを承知の上で、 ぶ舞 えん・う 。歌 て、日本文学は、新しい文学の世界を切読者の知識に寄りかかりながら物語をす炎上の罪によって頼朝に召しとられてし しげひら りひらいたのである。 すめている。例えば、「行幸」の巻の大まうが、この重衝の海道下りの文章は、 もちろな せものがたり こうしよくいちだいおとこ なりひら′了くだ はらの萋 - うこう 原野行幸などは、業平の歌を踏まえなが業平の東下りの文章を真似て書かれてい可の『好色一代男』は勿論、『伊勢物語』 せものがたり なり へいあん おおかがみ 『伊勢物語』が与えた影響 業のパロディであるが、『仁勢物語』のよ る。平安時代に出来た「大鏡」には、 ら、読名をはぐらかしている占 ~ がある かなぞうし うに題名をもじった仮名草子もある。歌 『伊』以後に書かれた主な古典の清少言の『枕草子』には、「噂の陣」平と飜子の事件を事実としてとらえてい とみ げんろくかぶき ぶき るが、中世以後の注釈書の大部分は、『伊舞伎の方面では、古くは元禄歌舞伎に富 が描いてある。退屈な女ばかりの世界に 大部分は、この作品の影響を受けている。 ながへいべえ なりひらかわちめよい せものがたり 勢物語』と歴史的事実をつきあわせてい 永平兵衛作の『業平河内通』がある。近 ニ = ロ 一種の刺激となるのは、雷鳴がひらめい ただ時代によって、社会状勢も異り、売 づつなりひらかわちめよい まつじようるり ぶかん る点に、ひとつの特色がある。さらに、 松の浄瑠璃には『井筒業平河内通』があ た時、衛府の武官が、御所を守るために ないわかめすけ ますかがみ つれづれぐさ 「徒然草』「増鏡』の時代になると、『伊 、やや時代が下って奈河亀輔の「競伊 駆けつけてくる。その時は、男達が、一 せもの・ - り せものがたり 番頼もしく見えると書いているが、それ勢物』の内容をひとつの故実としてと勢物語』がある。この作品は戦前には上 ヤ、れ ~ いい , をンー きはん おにひとくち せものいたり に『伊勢物語』の「鬼一口」の段を重ねらえ、宮廷生活の規範としようとする傾演を中止されていたが、戦後、再演され きのありつね 合せて読んでみると、当時の女房たちは、向がみられる。文学作品としては、謡曲ている。気分としては武家風の紀有常が とる かきつばた 語 の『井筒』『杜若』『融』『小塩』などは、 登場している。『伊』と直接関係 一物自分が「一条の后にな「たつもりで、武官 まっかゼ まっかゼむらさめ 伊 はないが、飜群『松風』の松風村雨の二 のひとりが、雷鳴の中を物ともせず、自『伊物』のひとつの章段をそのまま これたかこれひと ゅうげん ありわりのゆきひら こなふ。ー弋 ? 、久絮ッ乃まい 礎亠なを、煢う吠は・、「 ~ ー ~ 花分を背負「て逃げてくれないかと、誰も幽玄なドラマに仕立てたものが多い。面人姉妹と在原行平の恋物語と、准喬・准仁 第 - うげんなりひらもち らんべい かぶさ をこ ( ら , へ」レー・いー 本が空想していたようにみえる。『更級日白いのは、狂言『業平餅』のように、当の立太子の争いを歌舞伎化した、「蘭平 デ ふうし たちまわ もの ~ ~ い の襄とがなありわらけいず の記』の芝寺の話にしても、高貴な姫君時の貧乏公家を諷刺した作品もある。業物狂 ( 倭仮名在原系図 ) 』も立廻りが派手 第あ・ , いキんーのうし ひら ちゃみせ むしん ゆきひらやかた ゅ・フカい みき、 ! ョんめ 、い 1 , 、新い ~ た 平が茶店に寄って餅を無心したところ、 で、特に行平館における「奴すがたの狂 が、衛士によって誘拐される話である。 の よ なりひら こんド ( ものたりーう もし本当の業平だったら歌を詠んでみろ い」は見ごたえのある楽しいおどりであ = イマれル子しかし、『今昔物語集』の時代になると、 おにひとくち といわれている。江戸時代になると、西る。 ( 国学院大学教授 ) 社会環境が悪くなったせいか、「鬼一口」 ら はず 、イ いんか えふ なりひら さらしなにつ 0 力い′」・フ′、だ め の なり やをま やっこ 155
工台響みる伊勢物語 『伊勢物語』は『源氏物語』『字津保物語』などと同しょ うに日本の古典文学として、制作されてこのかた公家や けんてん 文芸に興味のある人々に宣伝されてきたことは見のがし 力いー一や かたいことである。短篇的な『伊勢物語』は人口に膾炙 され、多く語り伝えられたことは歴史的にも証明されて いる。それはただ古典というだけでなく、内容がまこと うつば 東下り鐔秀随作 に平易で、王侯貴族の生活や気分がつぶさに感じられる きび し、また男女の心の機微にふれることがスマートに記述 され、庶民的な感覚をにしませているからでもある。 そのためこの物語が芸術作品に取り入れられ、絵解き されたり、 工芸的なデザインにまで発展し、物語絵巻、 屏風絵、掛幅にまた器物の絵付など王朝趣味を豊かに彷 - し・れし」 - フ 彿とさせるものがあった。そのため各時代に滲透して人 人に親しまれ、文学的なものと並行して、美の世界の題 そうたっ 材となるに至った。とくに宗達・光琳派の画風はこれを テーマーとしたものが画派のパテントのようになったら やまとえ しく、大和絵的題材には、ほとんど『伊勢物語』が用いられ 要、 - っ 4 」っ たことは注目に値する。宗達・光琳画派は近世の諸派中、 日本の古典を絵画化するために、近世的な意匠化と色鮓 ざんしん やかな色彩効果を目標にしていただけに、斬新できめの 細かい装飾性が生かされていて、古典の新解釈が行われ ていた。ただ古典の再現でなく、現時代的な理解を作品 としてあらわし、同物語の象徴的解釈のもとに文学その ものをも発展させたことになろ、つ。 もちろん それは絵画に勿論、工芸的な器物にも応用されていて、 だんせん 屏風絵として室内を装飾的にし、または団扇の図柄に、 すずりばこ さらに硯箱の模様にも及んでいる。それも物語から抜け 出て、花鳥とか、自然の景を描きながら、物語の情景を 思い浮かばせるような方法がとられているのも奇抜であ やつはし オずり・・は・一 る。硯 ( 相は物語中の八橋の段に見えるものを、理想化し かきつばたやつはし て燕子花と八橋だけで象徴している。この近代的な感覚 がつねに華開いていたことになるわけで、文学の美が再 ( 中村溪男・東京国立博物館 ) 現されている。 - ) ・フりん 140
士山を見あげる男の一 行 尾形光琳筆 伊勢物語東下り図 やつはし み かわ やつはし 三河の八橋で歌を詠む男たち 伊勢物語八橋図尾形光琳筆 富
書 : 三ロ の ル又 最 条 本 写 物 勢 伊 むかし、ある男が、どんなことを田 5 った折であったろ うか、詠んだ歌、 田 5 ふこといはでぞただに止みぬべき 我とひとしき人しなければ ( 第百十六段 ) ロ『伊勢物語』も終わり近くなって、また業平の東下り おちば の落穂のような章段が、い くつかばつりと現れます。 それらは後の物語化の手が加わっていないだけ、「 じよじト唸っ・ て素朴な抒情が漂っていて、小さな貝殼のような美しさ があります。 我とひとしき人 ことに久しくなった、あなたに逢わないで・ なりひら ッ ・とばドき ついに行く道 むかし、ある男が、病気になって、今にも死んでしま いそうに田 5 われたので、 つひに行く道とはかねて聞きしかど きのふけふとは田 5 はざりしを ( 死というものが最後には誰もが行く道とはかねてから聞 昨日今日のさしせまったこととはっても いなかったのに・ ( 第百二十五段 ) 0 最後のひとつ前の第百二十四段の歌は、長いあいだ かん・ら ~ 、 人生をしんだ男が、急にこの世の歓楽に興味を失って、 ペシミストになった趣きを示しています。それは心の奥 の深い部分に、死の目覚めるのを予感した人の感情とも 言えるものです。 りんじゅう そうして、最終の第百二十五段の臨終の歌となります。 ここで現行の『伊勢物語』は一応、終わります。 ただ、第三期においての編集の段階で、はみ出てしま ったらしい幾章かが、更にこの後に付載されるのが饋例 になっているのですが、それは今回では、わざと省きま した。作品の全体的統一を味わっていただくために ( 、いに田 5 うことかあっても、ロに出してはいわすにそのま ま止めておくのかいいのだ。どうせこの世には自分と同し 心の者はいないのだから。 ) おもむ ( 第百二十四段 ) 139
栗原郡 ( 第十四段本文八四頁 ) 東下り 八 八 ・ ~ 戔間山 下総 陸奥 をま宇津谷峠 尾張 信夫山 富士山 ( 第九段本文七八頁 ) き宮 ・伊 三吉野・ 富士山 八橋 ( 第九段本文七八頁 ) ・八橋
図版目録 ー函表■ 本によったと隸われるが、い がりの光に目もくらみ、伏してしま、つ ろう。東下り図は富士や雲を外隈であ 竹取物語絵巻竹取の翁前田青邨筆何によったか判然としない もの、目をしばたいても見えぬもの、 らわし、きわめてゆきとどいた態度で 鹿島出版会蔵 ■竹取物語絵巻■ 天よりの偉大な力には抗すべきものが 描いている。仰ぎ見る一行と富士の高 ■函裏 ・鹿島出版会蔵前田青邨筆 : なく、その有様を描いたものである。 さ、画面に微妙な動きをとらえている 0 4 . C.D . 8 C-D ・ 8 ・ 伊勢物語かるた鉄心斎文庫・芦沢新 っこ・つこ・つ 0 陵 ( 一八九〇ー一九六九 ) は川辺御点は繊細な光琳の気質であり、また色 やすだゆきひこ ニ氏蔵 大和絵の研究に小古、安田靫彦橇 ( 一八 = 一七ー一九〇五 ) に師事して、 彩感覚の優れていることは、宗達の遺 せいそん ー表紙裏見返し■ らと熱を入れた青邨 ( 一八八五ーーー ) 古土佐の画風を究めたため、この種の風を継承しそこに現代感覚を加えた才 かじたはんこ 伊勢物語写本 は、古径と同じ梶田半古の門に学び、 大和絵的な素材と武者絵の系統を絵に気がすみすみにまで到達していること ー片かんのんロ絵・ 再興日本美術院創立以来つくしてきた したものが多かった。それから後は近を語っている。彼の画風、すなわち琳 伊勢物語図屏風むさしの佐多芳郎元老である。しかも大正三年再興院展世西欧絵画と日本の伝統画との折衷を 派画風を総帥した彼の力量はこれらの 筆 第一回展に出品したのがこの絵巻であはかった画法をとるが、初期にはこの 絵画面から蘇ってくる。 った。そこに竹取物語についての造詣 ような物語絵から取材したものがある。・伊勢物語図色紙・ ■竹取翁井がぐや姫絵巻物■ の深さも知れるばかりか、青年青邨が光による鮮明な色彩効果は、やはり近・禊図伝俵屋宗達筆・ ・宮内庁書陵部蔵 : 抱いたこの物語への情熱を知ることも代画家としての要素を持っていたこと ・大和文華館蔵芥川図・ : できる。物語を現代風に解釈し描かれが知られる。また人々の服装、所持し 伊勢物語の有名な各段を色紙に描い ゅうそく CV L.O 、 .0 8 . 4- ( 0 . ている。しかも古いスタイルの絵巻物 た武具等には大和絵の特色である有職 たもので、かって古美術蒐集家として こレ」工が、、 よさのあきこ として、詞書に与謝野品子 ( 一八七八故実に通じたあとをしのばせるものが著名な益田孝氏 ( 男爵 ) 旧蔵にかかり、 ある。 ー一九四二 ) が流麗な書風をみせてい ー一六三〇 ) の描いた るのも、まことに貴重な作品である。 ■尾形光琳作品■ 伝承は古くから伝えられていた。現在 姫を竹の中から得た翁の喜びにあふ ・燕子花図屏風根津美術館蔵 : : 四十六枚が残り、以前は八十枚以上のも れる様子、姫の提出した難題になやむ ・八橋図東京国立博物館蔵 : : 引のがあったと思われるが、すでに散逸 五人の若者たち、翁や嫗に別れをつげ ・東下り図五島美術館蔵 : してしまっている。絵は色彩豊かなも て天の羽衣をきた百人もの美女にかし 以上の三作は尾形光琳 ( 一六五八ー ので、宗達派の特色を発揮し、色紙の 竹取物語は平安朝にすでに喧伝されずかれながら車に乗って昇天していっ 一七一六 ) の筆になるものであるが、 小さな画面内を充分に生かしていて、 かきつばた 古本として伝わるものも多く、説話と た姫。これらの各段のきらびやかで美中でも燕子花屏風はもっとも代表的傑その斬新さにも注目すべきものがある。 して「かぐや姫物五ロとい、つ亠里〉請にな しいこと、またそれぞれに静と動との作の一つとして数えられている。八橋また図の上部には図に合った和歌が乱 コントラストを巧みに織なして、そこ り、人々に親しまれてきた。しかしこ という説明的なものを一切はぶいて、 れ書きされていて、絵と書の美が成さ に物語のもり上りを示すあたり、青邨 れを絵にした作品はきわめて稀れであ 燕子花の花と葉だけで六曲折りの大画れている。書の筆者には高松宮好仁親 とぎ る。今残る作品としては室町期のお伽 の大和絵手法に精通したあとを知るこ面へと展開させたところに光琳らしい 王、か里恥房、近衛「一一ら六名 草子風のものが最も古いであろう。本とができる。 意気込みがあり、彼の象徴的な解釈と といわれていて、書も競いあっている。 ■竹取物語■ 書で掲げた作品もはとんど江戸後期以 表現の自由さがあったと考えられる。 図版とした「芥川図」 ( 第六段 ) 「禊図」 ・中村溪男氏蔵中村岳陵筆 : 降現代の画家によるもので、古く遡る 八橋図には大らかな気分が漂い、王 ( 第六十五段 ) などはなかでも優れ、大 作品に乏しい。宮内庁本はその原形を かぐや姫が月に帰るのを腕すくでも朝復興ばかりでなく、人情の細やかさ 胆な構図と色彩の配合によって、その 示すものとして貴重である。画風から止めさせるようと集まったものたちは、 が人物の表情にうかがえるのはさすが筆者の非凡な才を知ると同時に、この 見ると、江戸後期の上佐派の画人の手打ちさわぎ、手に手に弓矢をもち、屋であり、光琳自身が業平の気持になっ ように同物語を解釈していたことを裏 になったと見られる。これより古い原根にのばるものもいたが、まばゆいばてこの歌意を理解していたことにもな 付けるものがある。 まそれが おカ・、こうりん 166