雨月物語 目次 〈ロ絵〉賢覚草紙絵巻百人一首之内崇徳院・歌川国芳筆崇徳院眷属をして為朝をすくふ図・歌川国芳筆清姫・ 小林古径筆道成寺縁起絵巻 白峯 ちぎり 菊花の約 やど 浅茅が宿 夢応の鯉佰 吉備津の釜 しやせ 蛇生の婬 訳後雑記 しらみね あさじ 医」 / 、カ おう び っ ん 藤本義一。
、第、第ムな… : : Ⅲ罍ド円をを轗 「よくぞ来てくれたなあ」とおっしやるその声は、まさ すとくいん すとく しく崇徳院様。すると、目の前におわしますのは、崇徳 いん ば、つれい 院様の亡霊。私は地面に額をおしつけて、さめざめと泣 松山にうち寄せる浪に流されてきた船が都へも帰 むな ることも出来す、やかて虚しく朽ちはててしまった。 返歌はなんとも悲しいことだろう。 「どうして成仏されすに迷っておいでですか。よごれけ がれた世をのがれて仏の世界に入られた院様を私は羨ま ほうよ、つ しく思っているからこそ、今夜は法要し、仏縁にあすかり たいと思っておりますのに : それなのに成仏せすに ここに人のかたちで現われるとは、もったいないとは思 いますものの、悲しみは深くなるばかりではありません カただ一途に、 この現世のいやなことをお忘れ願いま して、仏の世界にお入り下さいませ。成仏して下さいま と、心から忠告申し上げたのだった。 すとくいん これをお聞き届けになられた崇徳院様は声高にお笑い になって、 「その方はなにも知らないだろうが、最近の世情の乱れ しわざ は、わたしの仕業であるぞ。わたしは生きているうちか こころざ ら魔道を志しておって、死んでからも平治の乱を起して たいらのきよもり ふじわらのしんぜい ふじわらののぶよりみなもとのよしとも 藤原信頼、源義朝の軍と藤原信西と平清盛の軍を戦わせ たた たのだ。朝廷に出示るのだ。よし見ておるがよい。やがて は天下に大いなる乱を起させようというものだ」 といわれたのだ。 あふ 私は、このお言葉を聞くと、悲しみの涙が溢れてくる まどう じようぶつ ひたい らん つわや
あふ きて、とめどなく涙が溢れ、頬を伝うのだった。 くしキっ 今夜は夜が明けるまで、供養の意をたてまつろうと、 きようもん とな すわ 御墓の前の平たい石に坐り、経文をしすかに唱えはしめ たのだが、心に一首歌が浮かんできたのだった。 松山の浪のけしきはかはらしを かたなく君はなりまさりけり 松山の海辺に寄せる波の景色はなんの変りもないのに、 すとくいん この景色を日毎ごらんになっておられた崇徳院様はすで にお亡くなりになったのだ。 そな 歌をお供えした後も、なおも心をゆるめすに一心に回 こう 向をつつけた。 あふれてくる涙と草の露が袂をしっとりと濡らしてい ぶきみ ふん 日が沈むにつれて、深山の夜は不気味な雰囲気に包ま れてきた。石の上と木の葉の降りつもりだけでは寒さは しらみわごりよう すとく 0 崇徳上皇白峯御陵怨念の大魔王と恐れら れた上皇の御陵は白峯山頂にある上円下方墳 西行はこの前で上皇の不運を嘆き夢と現実 のさなかで夜が明けるまでお経を読み続けた じよういし 0 高松から白峯への参道に立っている下乗石 はお たもと しん 厳しく、心はしーんと清みわたり、骨の芯に冷たさが宿 すざ り、なんということもないが、棲ましい心地がしてきた ものだ。 月は出たものの、鬱蒼と茂った木立からは一条の月光 もささないので、ものの見分けもまったくつかない闇の 中で、ただ心だけが疲れはててい 崇徳院の亡霊 ふち やがて、眠りの淵に入ろうとすれば、 えんい 「円位 ! 円位 ! 」 と呼ぶ声がするのだった。 さいぎようしゆっけ ほうみ、・ ( 円位とは西行が出家したすぐ後の法名である。俗名佐藤義清は ほくめん 北面の武士であったが二十三歳で出家した ) はっと目醒めて闇をすかし見ると、異様な人影がある。 背が高く痩せおとろえた人がいる。顔つき、着物の色柄 こちらを向いて立っている。 は定かではないが、 ほうし 私は、仏道に信仰あつい法師だから、恐しいとは思わ 「そこに来たのは誰か」と問うてみた。 すると、その人は、 へんか 「つい前しがた、そなたが詠んでくれた返歌をしようと 思ってやってきたのだが : というではないか。そして、 松山の浪にながれてこし船の やかてむなしくなりにけるかな と詠んだのである。 えん うっそう さとうのりきょ
山を下る西行 みになっていたとしても、こうしてお亡くなりになって 現世を離れていらっしやる現在ではそのような現世の地 きょえい 位、名誉、虚栄はなんにもならぬことではないでしよう じようぶつ か。よくお考え下さい。考えた末に成仏してもらいたい。 死んでしまえば、身分の差もなにもあったものではあ りません。 たか 私は、思わす感情が昻ぶって、声高く詠んだのだった。 ゆら 院様はお聞き届けになったらしく、心の揺ぎらしきも のをお見せになり、次第にそのお顔もやわらいできたの 鬼火も次第に薄らいでい ) 」と そして、お姿もかき消すが如く見えなくなった。 あの奇怪な鳥も、いつの間にか飛び去ったようだ。 うっそう 十日あまりの月は山の端にかくれ、鬱蒼と茂った木立 なが の闇の中に瞶めていると、夢うつつの世界に安らぎを得 た気分であった。 やがて、白々あけの夜明けがやってきたのだ。巣て目 醒めた朝の鳥々の囀りが、すがすがしい朝を告げたのだ。 あく だいはんにやきよう その鳥々の声に合わせて、私は大般若経の中の一巻、悪 くどく こん′」うきよう とな またいさんばんのうこくふく 魔退散、煩悩克服の功徳を説く金剛経一巻を唱えた。 いおり こんぎよう そして、山を下りて庵に帰り、静かに昨夜から今暁に もろもろ かけて起った諸々のことを思い泛かべてみると、平治の しようそく 乱をはしめとして、人々の消息、その年月の一致してい ることを知ったのだった。この一件は誰にもいわないで おこうと誓いをたてた。 じしよう こんなことがあってから十三年後の治承三年 ( 一一七九 たいらのしげもり たいらのきよもりていはっ 年 ) の秋、平重盛は病没し、平清盛は剃髪して仏門に入っ ごしらかわ とばりきゅうゆうへい たものの、後白河法皇を恨んで鳥羽離宮に幽閉するとい ったおそれおおい行動に出て、その後、法皇を京都から すがや そまっ やかた ひょう′」 ふくはら 兵庫の福原にある茅ぶきの粗末な館にと移し、苦しめた のだった。 みなもとのよりとも 源頼朝が東の国から機運を見て兵を挙げ、これにつづ みなもとのよしなか いて源義仲は北国から雪を蹴立てて上京し、平家の一 は西の海にと追われたのだった。 さぬき しとやしまやしま 遂に平家一門は讃岐の海志戸八嶋 ( 屋島 ) に追いつめら えじき れ、武勇の兵士たちのほとんどは魚や貝の餌食となった のだった。 あかま だん しものせ当 せきやまぐちしものせき さらに赤間が関 ( 山口県下関の旧称 ) やら壇の浦 ( 下関海峡 あんとく 東ロの北岸 ) に追いつめられ、幼君安徳天皇は八歳にして じゅすい 入水ということになってしまった。これを最後に、ほと んどの武将は亡び去ったのだった。 すとくいん この事実は、かって崇徳院様がおっしやった予見と同 しであり、おそろしく、また不思議な物語ではある。 すとくいん ′】りようしょ その後、崇徳院様の御霊所は、院様お亡くなりになっ けんきゅう ごしらかわ て二十七年の建久二年 ( 一一九一年 ) に、後白河法皇様が とんしよう こんりゅう 頓証寺として建立なさったが、玉を散りばめて飾り、色 たてまっ どりも美しく、その威光をいつまでもあがめ奉るように なったのだった。 さぬき ′」りようしょ 讃岐への旅をする人は、この御霊所に、 かならす御幣 をささげて、自分のけがれを払い清めることになった。 死して後、如何に人間臭く迷われても、尊い方には変 りはないのだ。 私ハ神ノ中ニ人ガ棲ンディルノデハナク、人ノ中ニ神 ガ棲ミ給ウトイイタイノダ。 ほろ
あさじ が美しいのだが、そうして生した怪奇は、浅茅が であるように隸われる。なぜであろう。私はやは みやぎ ーん力い みさお そこに〈怪奇〉を語り据えることに対する一 宿を守ったさかしめ宮木の操への固執と似た狷介 つの構えがあったようにわれてならない 伝承 さにおいて共通している。 しゆら あるいはまた、「白峯」「仏法僧」などの修羅体の結びは、一話を事実として認知させるととも 一旦は詠歎的にそれを過去に押しやるものだ なす瞋恚が内攻するものは、過渡的な時代の波に うげつ が、あくまでも創作である『雨月物語』において 没した救いようもない無念さであって、その裏切 つぐな その結果うかび上がるのは、語り直された怪奇の られた人生を償いきれるものは屋奇以外に考えら れない 内面的主題への畏敬の情であり、詠歎である。秋 このような秋成の主題追求の中に浮かび 上がってくるのは、なぜかつねに、情が志へと昇成は〈屋奇〉という非正統なものを主題に取り上 しんす げたが、そのもう一つ向うに本当の主題としてみ 華してゆくはてに、「神清み骨冷え」て生した屋 あおずきん すえていたものは、怪奇にいたる人間の苦悩や、 れ奇なのである。また、「青頭巾」は稚児愛のはて、 あいせき よう ーうしんき あじゃ 哀惜のあまりその屍肉を喰う執心鬼となった阿闍 情の破綻や、異形の志など、すべて、より人間的 梨の話であるが、その姿はおそろしいと同時に、 な内がわへの瞠目なのである。 うげつ きんろ工うじゃ はなぶさ第うし わすかに、ぶざまで哀れである。 『雨月物語』は、先人近路行者の『英草紙』や『繁 秋成はこれらの短篇を、かなり多彩な語りの型夜話』などの奇談物に影響されつつ赴いた世界だ . し・ら . ね といわれる。だとすれば、当然そこには、なぜ〈奇〉 を組み合せてかいている。たとえば、「白峯」で さいよう ではなく〈屋〉なのかという、主題のありようも は、ワキ僧風の西行が登場するが、東国一見を終 さぬきしらみね みちゅき えて讃岐白峯に到着する道行文が冒頭におかれ、 とわれなければならないだろう。奇談の興味が、 すとくいんお 4 りっ 崇徳院の怨霊の出現、怨みの述懐など、 人にして人ばなれのした趣にあるとすれば、怪談 ちぎり はより深く内面的であり人間的である。それはむ 曲風にでき上がっている。あるいは「菊花の約」 きびつ けんげん 交りは軽薄の人と や「吉備津の釜」では、「 しろ、内がわにくすぶる内燃のドラマの顕現であ 結ぶことなかれ」とか、「婦の養ひがたきも、 るゆえに、人間を超えていればいるだけ、深く内 老いての後其の功を知ると。咨これ何人のぞや」奧に下りてくる錘の重さがある。 あきなり あお というように、冒頭に一篇を総括する戒語をおき 秋成は屋奇の怪を煽らす、奇を衒ってもいない 詠歎風に吾りはじめる。その他多くは、どこそこ むしろ、『雨月物語』五巻の読後に交響しつつ湧 に誰某という人があった式の、説話風の語り口の き上がってくる重たい量感のある息苦しさは、倫 しやせい ときょ いつの時代理的な抑止感や、徐々に激しく志へとたかまり奔 じゅんじよう タ なりけん」という、ものがたり風のおばめいた吾 る殉情のかなしさなのだ。 しらみわ すとくいん り口ではじめられている。この一話の結びはまた、 「白峯」の崇徳院のやる方ない怨み一つを考えて となんかたりったへける」という伝承体の も、歴史の中の、情況の犠となった海しさは、対 立者のどの一人を怨んでも怨みきれるものではな 結びによって閉しられているが、こうした伝承体 の結びは半数をこえる定型をなしている。 推し移る大きな時間に投げこまれ、欲望と情 うげつ 『雨月物語』ではこうしたことが、かなり意識的 念の渦に浮沈しつつ、わずかに骨肉の情の裏切り はく盟う え、たん あきなり しん しらみね あきなり ああ うげつ おもむ、、 てら くや あき 154
ひふん すとくいん さい、ユう を悲するはかない崇徳院の前に、西行の説く王 の全体をもって評価されるということは、いつの 道は何とこざかしく空しくきこえることか。そし 場合も意外に少い。人は多く、その部分、その場 すとくいん て、秋成が幻視する崇徳院は、悲願の誠心をこめ面において総体を賭けねばならぬ不幸な場に立ち しや、よう ばうちょう た写経を呪咀と疑われた怨みを膨張させつつ、 やすいカ日 ( + 寺こ釜奇に、時に異形にたかまらざる きゅう、ユく ちまち歴史を動かす大魔王となってゆくが、赤々 をえないその情念とは、弱者の窮極にのみ用意さ 市 出 とすきとおった炎の象をみせる怨みの心力は、ま れる破滅的な自己回復の手段なのだ。 坂 しらみね ひるのように白峯の山河をかがやかせる。あるい 、、 / 、カ . つぎり あかなそうえもん はまた、「菊花の約」の赤穴宗右衛門の亡霊が、 秋成の選んだ怪奇の舞台 跡 義弟左門との黙契をはたすため、「みづからに 所 こよひかゼ 御 ところで、秋成はこうした破滅的な怪奇な内奥 伏し、今夜陰風に乗りてはるばる来り菊花の約に い井 3 雲 赴く」と語るとき、どっとあふれる涙を感じさせを表現するのに、どのような方法をとったてあろ の うか。〈怪奇〉という非正統の主題を文学的正統の るとするならば、秋成の語ろうとする〈屋奇〉と あきなり す 」徳 はいったい何なのであろう。 あきなり 秋成の怪奇の主人公は、すべて一つの情念のみ を巧みに導入し利用したことはさきにもふオたカ あきなり げんじ きいん せいちょう 用されているものであるが、それは同時に源氏物 荒第と美、ないしは清澄な自然の気は、秋成の がクローズアップされ、その情念一つによって生 はんも 語の世界に繁茂する植物群落にも地つづきのもの 怪奇を支える不可欠の要素である。それが王朝以 きている哀れさゆえに屋奇なのである。人は、そ じよじよう しっしゅん であり、湿潤の風土の湿潤の情を宿す小暗やみと りぬけて来た日本的屋奇性の抒情 来、中世をくぐ して長い伝統をもってきた場なのでもある。生活 的背旦足であることはい、つまでもない あきなり の衰弱するとともに、たちまちその上をおおいっ 人間描写において秋成は決して巧みではないが、 、、・うじん くす植物の強靫な繁茂力について、この国の文学 人を居らしめる自然の気配の描出において、その あきなり なっとく は伝統的に詠歎を繰返してきたが、秋成はこうし 抒情内容を納得させる手腕をもっている。それは た場を屋奇の舞台としてえらんだ。したがってそ まるで、自然そのものの中に怪奇への道がひとす じようも・よ の怪奇の場には、幾重にも重なる古典的な情緒の し、ひっそりとかくされてでもいるよ、つで、冷え 冷えとした気流の通う荒した風景は、死にきら歴史がみられる。 良花す欠號 本 山宗、髙堂 版 そしてまた、なぜか秋成は、こうした荒廃の中 ぬ情念をそっと棲まわせているのである。「神清 ひょうりん きいんぎんが の屋奇を、秋の気配とともに語ることにおいて独 み骨冷え」た気韻、銀河、月の氷輪、風の音、虫の す かっ・ : フ あきなり 自であった。なぜ秋なのかはわからない。いや『雨 音などは秋成の怪奇の棲む恰好の舞台であるが、 た 用物語』の一篇一篇は、たしかに四季さまざまの それはいたすらに雰囲気を求めたものではなく、 よちょう あきなり 景を背景としているのだが、なぜか怪奇を予兆す 一々 ( を・ぼのま一を・ , 会なさか 6 る 心の象なのである。したがって秋成の怪奇の棲む を もや 響景はきわめてくきやかである。霧や靄などの抒情る澄み冴えた夜陰の気流は、銀河や月輪とともに しつじゅん カ 的湿潤をともなわないそれは、むしろありありと秋を錯覚させるのである。それは秋成が怪奇をみ はんも 軾 ( 物聶わ 3 ケ。をいレ ~ をを ) = 火 つめる時の抒情の色なのであろうか。万物の命の 繁茂する植物の力に領しられ、閉ざされている。 えん・ ( を ~ 0 をンふるをそみ田 円熟し、安らかに枯れしすまる季節の、しすまり こうした情景設定は、謡曲などにもしばしば常 あきなり はのお あきなり かたち ちかひ かたち あきなり ふん す えいたん あきなり あきなり 155
りようしようざんはくはうしえんぎ O 白峯寺山門と綾松山白峯寺縁起上田秋成 が「白峯」執筆にあたり参考としたこの縁起 じんあん かんなづき には「・・・上皇崩御の三年後仁安元年神無月の 頃西行法師御廟前に詣で一夜中法施して・・・」 とあり両人の歌のやりとりも記されている オー と叫ばれたのだ。 ばけもの と答えて飛んで来たのは鳶のように奇怪な鳥姿の化物 であった。それは院様の前に、ははあとひれ伏し、次な る命令を待っているのだ。 院様は、その奇怪な鳥に向い いのち 「お前は、どうして早く重盛の生命を奪って来ないのかー きよもり まさひと 雅仁と清盛を苦しめるのを忘れたのか ! 」 ごしらかわ 「後白河上皇の御幸福はまだつづいているのでございま す。重盛の忠義と、そして信義には近付けないのでござ います。しかしながら、ただ今から十二年経ちますれば、 重盛の寿命も尽き果てるわけでございます」 といったのだった。 院様は、これを聞くと、手を叩いてお喜びになり、 しらみね しゆくてきへいけ 「あの贈い宿敵平家の一門奴は、ことごとくこの白峯の せとうら 北の瀬戸内の海に亡び去ってしまうのだ。この目の前に 亡び去るのだ」 こだま その声は、谷や峯に大きな木魂を生み、その凄ましさ は言葉ではいいあらわすことが出来ないほどであった。 私は、この魔道のあさましい様子を見て、涙をこらえ ることが出来なかった。 ふたたび歌を一首詠んで、院様がなんとかして仏様の 縁につながって下さるよう、そんな御心になって下さる たてまっ ようにとすすめ奉ったのだった。 とこ よしゃ君昔の玉の床とても かからんのちは何にかはせん すとくいん やかた 崇徳院様、たとえ昔のように宝玉散りばめた館にお住 えん ほろ みね とんび たた すさ
はうげん すとく つ崇徳上皇像菊池容斎筆保元の乱に敗れ だ、、じようきよう さぬき て讃岐に流された上皇は五部の大乗経を写 しんせい 経するが都に届かす信西のために送り返さ れた上皇はこの恨みを晴らすため自分の がんもん 血で願文を書き魔道に生きようとされた 崇徳上皇所用の鍔 ぎしんほう 議親法という法令があって、天皇の五等親、太皇太后・ 皇太后の四等親、皇后の三等親までの親族が減刑される という特別の処置があるというのに、その法令をも無視 して、兄の筆蹟すら都の中に入れないというのだ。この 限みは死んだ後もまだ解けていないのだ : すとくいん 崇徳院様の目に恨みがこめられたのだった。 まどう しやきよう 「よし、それならば、これを魔道への写経としてやろう さまた しようば、つ てんぐ と思ったのだ。正法の妨げをする邪道、天狗道の方に、 しゆとく くどくそそ この写経をもって得た己の修得の功徳を注ぎ込んでやろ うと思ったのだ」 一途にそう思いつめた院様は指を切ってその血で願文 きよう を書きつらね、経と一緒に志戸の海 ( 坂出市の北の海にある 大椎、 小椎島間の椎途の海 ) に投げ込み、沈めてしまった後 は誰にも会わす、ただひたすら魔王にならんものと大願 がんじようじゅ をつづけた結果、果して、その願が成就して平治の乱が しんぜい ふじわらののぶより このえだいしよう 起り、藤原信頼が近衛大将の地位を望んで信西と争い 殺されるということになったというのだった。 ) 」うまん のぶよりやっ 「あの信頼の奴ばらが高位高官を望みおる傲慢な心を利 みなもとのよしとも 用して、源義朝と手を握らせたのだ。あの義朝こそ、憎 ためよし ほうげんらんじようこう みてもあまりある奴。父の為義は保元の乱で上皇方につ いて敗れて首を斬られおったのをはしめとして、兄弟の はうげ - ん らん 武士たちもいすれも保元の乱で生命を捨てて自分のため に働いてくれたというのに、あの義朝だけが敵にまわり ためよし らんぜいはらろうためとも おったんだからなあ。鎮西八郎為朝の勇猛さと、為義、 ただまさ 忠正の軍略に勝利の色濃く見えていたのに、不意に吹き しらかわでんきよっと 荒れた西南の風に本陣としていた白河殿 ( 京都市中京区丸 、つ あ 太町、元・白河法皇の御所 ) が焼き討ちの悲運に遭い、敗退 て さかいで らん やかた を余儀なくされ、自分は白河殿の館をのがれ出てからは、 みねきようとひがしやま 如意が嶽 ( 京都東山の一番高い峰 ) まで逃げのび、あの嶮し ふとん きこり い山で足を痛め、あるいは椎夫、漁師の椎柴を蒲団がわ りにして雨露をしのいだりして、苦労に苦労を重ねて、 ついには囚われの身となって、この島に流されたのだ。 しわざ おらい ああいう羽目に陥ったというのも、すべては義朝の仕業 う・ なのだ。あいつが焼き討ちをかけなければ、あの苦しみ おらい こュよ々旧、ら 。あの時の仕返しをするため なかったのに : ばうぎやくざんにん には、自分の気持、心、魂をも暴虐残忍な鬼と変えて、 いんばう のぶより 信頼の陰謀に加勢させたのだ。その結果、義朝の奴は、 てんし 天子に弓ひく国賊となり、武略なんぞはからっきし出来 たいらのきよもり ぬ平清盛に追いつめられてしまったのだ。その上、父の ばうさっ 為義を殺したがあらわれて、家来に謀殺されてしま しようなごんしんぜい 、天罰を己の死で知ったのだ。そしてまた少納言信西 の奴は、いつも己は学者なりと博学ぶっての他人の気持 を汲むことをしないねしれ心の持ち主だから、この男を のぶより じやどう 邪道の願かけで誘い出し、信頼・義朝連合軍の敵にまわ してやったところ、こやつも追いつめられて家を出て逃 うち げ隠れしている裡に、宇治山 ( 宇治市田原 ) のかくれ穴に入 ろくじよう っていたところを、ついに見付けられて、六条河原で首 しやきよう をさらされたのだ。これは、自分が京に送った写経を送 おもねり り返した罰を下してやったのだ。諛言の罪とでもいうも おうはう のだ。この勢いはますます力を得て、応保 ( 一一六一年から いのち びふくもんいん 六二年 ) の夏には、あの恨み重なる美福門院の生命をちぢ よう・りつ ごしわかわ らようかん め、長寛二年 ( 一一六四年 ) の春には、後白河天皇を擁立して ふじわらのただみちのろ ほうげんらん 保元の乱には天皇方についた藤原忠通を呪い殺し、自分 も同じ年の秋には世を去った。しかしながら、死後の世 ためよし とら
たん たいそよしとしうたがわくによし の源流はインドのナーガ信仰に端を発『東海道五十三次』によって余りにも 大蘇芳年は歌川国芳の門人で、彼が 彖■函表・ もろこし し一唐土をへてわが国に伝わったもの有名だが、風景画のうちでも『近江八同門の芳幾と競作した『英名二十八衆 金雨月物語鏑木清方筆 せいさん である。絵は細密で力感あふれた秀作。景』は秀作のひとつである。 句』は、血みどろの凄惨をきわめたシ 目■函裏■ むろまら しかし人びとは道中画のけんらんた ョズものの画集である。その異常な 菊花流水簾屏風俵屋宗雪筆京都国室町時代の作品と考えられる。 しへき そううつ ■道成寺縁起絵巻・ 立博物館蔵 る成功に目をふさがれ、人物画の画業嗜癖を見ても想像がつくように躁欝病 ひろしげ しゆくあ 9 ・を忘れがちである。広重は、人物画に 乂■表紙裏見返し・ ・道成寺蔵 : の宿痾に悩まされ、やがて明治二十五 こんじゃく 年に狂死している。彼の画業と伝記は、 日本濕蠣経験記や今昔物語から大成もすぐれた画才のひらめきを見せてい 雨月物語版本 ( 安永五年本 ) された説話が絵巻物になったもので、 るのだ。その人物画の一亜型ともいう成書『血の晩餐』に詳しいが、彼こそ ・片かんのんロ絵■ ことばがき こまついんしんびつ べきゴゼの亡霊など、迫真的な恐ろし 詞書は後小松院宸筆、絵は土佐光重の は最後の浮世師であり、浮世絵は芳年 賢覚草紙絵巻根津美術館蔵 作と伝えられるが、画風からして、伝さに充ちているといっていい。 を以て命終の時を迎えたのだった。幕 ちなまぐさ えられるよりもやや後代のものかもし ・歌川国芳■ ・鏑木清方・ 末の血腥い時期が去って、ようやく天 のうながうた ・雨月物語・ : 函表れない。道成寺伝説はやがて能、長唄、 ・百人一首之内崇徳院鈴木仁一氏下は明治の御代になると、法的な規制 『やまと新聞』の創立者兼社長、文人歌舞伎、浄瑠璃と、あらゆる分野の芸蔵・ もあり、血の絵がかけなくなったが、 ーしれ、られ、はとんどし、らない 條野採菊を父とし、明治十一年に生ま事にと ) その代り多くの妖怪画を残している。 ・讃岐院眷属をして為朝をすくふ図 きよかた れた清方は、当時さかんに活躍してい 人はいないと思うが、本絵巻はその意鈴木重三氏蔵・ : 6 あらゆる意味で芳年は、日本の妖怪画 よしとし こしき↓ ~ た芳年や芳幾らの霈絵を見ながら育っ味で道成寺芸術の原点といえるだろう。 : の終着駅でもあったのである。ここに ・浅倉当吾の亡霊 : ■小林古径・ た。清方の作品のひとつに『芳年』と 奇想の画家として、近年とみに再評のせた『新形三十六怪撰』という三十 C.D CV ・清姫山種美術館蔵・ いう絵があるのを見ても、有形無形の ーズは晩年の作であるが、「日 価の声が高い国芳は、初代豊の門人六枚シリ たかよし やすだゆきひこ 安田靫彦は、隆能の源氏物語絵巻に 影響は無視できないと思う。さて清方 で、その弟子に芳年がいる。『百人一 す ーズのうち「崇 は、芳年四天王のひとり水野芳方に入比べて「八百年後にうけ継いだ古径の首之内』という百枚シリ あきなり しらみね とくいん うきょえ 砥な巻には、彼らには見、られない苦 . 悩と 徳院」は、秋成の「白峯」に照応する 門して伝統的な浮世絵の系列下にはせ 有名な作品である。生きながら鬼と化 参しながら、江戸情調や明治の風俗を叡知があリ、近代的知性と情熱が輝い あきなり し、死後、魂魄この世にさまよった上 描き、多くの秀作を遺した。秋成の『雨ている」と批評しているか、古径は、 月物語』 ( 本 こイをえた絵巻八段は、『山古典を新しい現代的な知陸と感覚によ皇の黒い怨念を、幕末体制への反逆を いわさ ハネとして描きあげたという考え方も 中常盤』など岩佐派のグロテスクな手つて解釈しなおし、〈新古典主義〉とも 法にならったというか、芳年流の病的 うべき画境をきすきあげた。全八面あるが、さらに深くは、日本人の心の へんしゅう な偏執も見られない から成る絵巻『清姫』は、むろん道成地下水を流れる霊魂信仰にもとづくの高川」や「二十四孝」など、すぐ 寺縁起にその材を得ているが、そこにではなかろうか ? また、「讃岐院眷もののひとつである。 ー賢覚草紙絵巻■ ためとも ■菊池容斎■ は女のとぐろ巻く執念が巧みに描きっ属をして為朝をすくふ図」は、三枚っ ・根津美術館蔵 : けんか ( ぞうし づきの最も得意とする構図である。即 くされている ・崇徳上皇金刀比羅宮蔵 : 賢覚草紙は道成寺説話の異本であり あんらんきょひめ ・安藤広重ー ち中心へ大胆に巨大なマッス ( この場・女の霊全生庵蔵・ 道成寺縁起が安珍、清姫であるに対し、 きくらようさい とおとうみ み 合は鰐 ) を置き、周辺に点景を置くダ ・木曾街道六十九次内山晋氏蔵・ 僧は三井寺の賢覚、女は遠江の長者の 菊池容斎で有名なのは、『前賢故実』 7 ー . 8 イナミックな手法を駆使した傑作。 娘となっている。ここに現われる龍の 十巻の歴史画である。この版本は、 ■大蘇 ( 月岡 ) 芳年ー わば幕末のベストセラーともいうべき ・近江八景高橋誠一郎氏蔵 : 描写は鎌倉初期のものと推定される『華 ごんえんぎ ・新形三十六怪撰宗谷真爾氏蔵・ ものであり、当時の画壇に大きな影響 ・川を渡る瞽女全生庵蔵 : 厳縁起絵巻』を手本にしたものかもし ゅうそくこじつやまと あんどうひろしげ ・Ⅱ・に・に・・を与えた。有職故実と大和絵を研究し 浮世絵六大絵帥のひとり安藤広重は とまれ、女体が蛇身になる話 よしかた よしとし 図 9 28 166