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検索対象: グラフィック版 雨月物語
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1. グラフィック版 雨月物語

訳後雑記 第キ第ィ第 純粋大阪人秋成 うえだあきなり 上田秋成について、ばくが知っているという点 をあげれば、 一、大阪人。 二、私生児であり、商家で養われた。 とうそうわずら 三、四歳で悪性の痘瘡を患っている。 とい、つことである。 た商家で養われたという一点をのぞけば、ばく 描いた明治末の奇怪な芸をもって一生を終えた落 かつらばきよう 台語家桂馬喬 ( 桂米喬をモデルにした ) となんと似て おどろ しることかと理く。・旧いぐらいこ以ているわけで をこ : , →僧ある。 とたんかつらば だから、この現代語訳をしはしめた途端に桂馬 うた なお 喬を主人公にした『鬼の詩』で、第七十一回の直 野木賞を受けた時、背筋が寒くなった。 今でこそ、こ、つい、つふ、つに書けるけれども、馬 あきなり 歌喬と秋成があまりにも一致していたのが甬かった。 だから、現代語訳を終えてから、この一致を告白 」師しようと思って今筆を執っているわけである。 「まだ出来ませんか」 といわれて、 ちょっと 「はあ、もう一寸 : : : 」 こうやさん きしよう こわ こわ 136

2. グラフィック版 雨月物語

ー当 あきなり 最後に、今度秋成を現代語にしながら、感じた ったのだが、 やれないのである。なぜかというと、 ことは、輪を三重にかけての読者への迫り方であ あきなり 秋成は同じ、 しいまわしを積み重ねながら、どうや ひやく ど、つい、つことかとい、フと、はしめに長々と事の ら、省略を拒んで飛躍しようとする構えがみえる 次第が出てくると、普通なら二度目には、その個わけなのだ。 しゅぎよう 所を、 これは、ばくの浅いシナリオ修業からいっても 大変に難しい技法である。 「前に述べたとおり : AJ か 省略せすに飛躍ということは、重い砂袋を背負 カくかくしかしかと話をして : : : 」 って向う岸に跳ぶようなものであって、絶対とい というふうに省略するのだが、それが全然やっ っていいほど成功しないものなのだが、あえて秋 なり えん ていないのである。同じことを繰り返して延々と成先生はやっておられるのだから愕きである。 あきなり 述べてい ばくの単純な考えからいくと、秋成は、はじめ あおすきん 「雨月物語講挿絵青頭巾人肉を食べる僧が里人を追いかけている場面 ひんふくろん 「雨月物語」挿絵貧福論主人公左内が黄金の精と対話している場面 あき 一中 そうし 草紙作者として出発したものの、それが急に小説 家に変貌したのではないかと思うのである。 うえだあきなり もし、タイムマシンに乗って上田秋成先生と対 談したなら、きっと、ロの中でばそばそという人 ではないかと思う。その聞きづらい声の中に、あ らゆる古典からの引用の句や文章が散りばめられ しようりようぐせ ていて、聞いている方は、その古典渉猟癖とかい 、つものに、 ただ、ただ愕き、そのねちねちとした 論法の展開に、参ってしまうのではないかと思う のである。 こういうふうに、古典を読みながら、作者を想 像してみるのも一興である。 これ以上の推論というのか推理はお遊びの質の それも質の悪いものになるからやめたいと思う。 忠実に訳したつもりである。 たんわん 一粒一粒を丹念に拾ったつもりである。 現代語訳を解体して、また別の現代語訳が生れ てもいいのではないかと思う。 139

3. グラフィック版 雨月物語

とのばしに延ばしたのも、現代語訳していると、 こわ 怕くなってくるのだ。それだけが似ているのでは あきなりそうこう まだ、あるのだ。秋成が糟糠の妻を失った 年齢に、馬喬もまた妻を失っている。 あきなり 秋成か、 おきふしはひとりとおもふ幻にたすくる人のあ るか非しさ と歌っている年齢と同し年齢で、奇妙な芸人桂 くだ れい 馬喬は妻を求めて霊を下してもらっている記録が ある。 ぐうぜん これは一体どういうことかと考えてみる、偶然 の一致といったならそれまでである。しかし、あ 面 場 亡 の ち た 次 カ 然 夢 冖仏 え絵 れ挿 語 物 月 雨 0 00 むぜんひでつぐ ・ ) くじ だ。あらゆる原本を参考にしての小説ではな まりにも要素が酷似している。そして『鬼の詩』 この現代 いかと思う。時空を超えている点が評価の基にな の桂馬喬を描き上げてから一か月目に、 こわ のもあた るのではないか。わが国の十八世紀のだと思 語訳の話が持ち込まれたのだから、怕い りまえである。 われて仕方がない。かのラグクラフトの世界が、 どちらも実在の人物なので、その類似の点にば わが国の十八世紀に誕生したと思われるのである。 らゆう′」く せんとう あさじ たとえば「浅茅が宿」にしても、中国の「剪燈 かり気がとめられてしまったのだ。 こんじゃく つれづれぐさ らようど しんわ そして、二人の間には、恰度百年の差がある。 新話」と「万葉集」と「今昔物語」と「徒然草」 あきなり あきなり と「源氏物語」が入っていて、それが秋成の時空、 秋成が死んで、馬喬となって生れかわり、そし くでん て、己の魂を口伝によって後世の落語家に伝えた次元でびったりと一致しているわけである。 ばくは、絶対に、これらの作品群を日本の のではないかとさえ思われるのである。 古典だといいたし ちなみに『鬼の詩』を書いた時に『雨月物語』 あきなり あきなり 秋成は古典を 巧みに繋ぎ合わせたのではなく、 は読んでいたが、秋成の生いたちその他について はまったく 巧みに組み敷いたわけである。 無知であった。それだけに類似してい ちかまっ さいかく そして、その裏に、西鶴にも近松にも見られな るところが恐しいのである。 ひにく わた かった大阪人の皮肉さを垣間見るのである。これ ま、こんな私事に渉る話はそれとしておいて、 つうれつふう よしむねきようほう うげつ は八代将軍吉宗の享保の改革に対しての痛烈な諷 雨月の現代語訳をしながら思ったことは、秋成が し らゆう′」く どんよく 大阪人の貪欲さをばくの目のあたりに示してくれ刺と、中国小説に対する主観が論文というかたち たことである。ひとつの短編をつくるために、実でなくて、小説、説話、物語という形式で展開さ に色々な原本を下敷きにしている。たとえば「白れているのではないか ようきよく せんじゅ みね 「へ、こういうのんはどうだすか」 峯」ひとつを取り上げても、謡曲、西行の「撰集 ふてい ちやめ しよう さんかしゅう しらみね という大阪人独特の茶目っ気と不逞さが作品の 抄」「山家集」それに白峯寺関係の本、それに「保 らゆう ) 」く たいへいき こうのだいせんき ひとつひとつに感しられるわけである。 元物語」「国府台戦記」「太平記」中国の小説、 そうしるい 草紙類とあらゆるものを集結させて、自分のもの に組み敷いているのである。 反大阪人を描く秋成 現代語訳しながら、ふと考えたことは、これら あきなり の原書をひとっすっ抜いていったなら、秋成は一 さて うげつ 体どこに自分を残すのだろうかと考えてみた。な 本来なら『雨月物語』といえば、後三本が入ら にも残らないのではないかとさえ思ったのだが、 なくてはならない きくかをり あおずきん ひんふくろん ぶつばうそう いや、そうではないと「菊花の約』あたりから思 「仏法僧」「青頭巾」「貧福論」である。 こうやさん むぜん ぶつばう差ろー ーは、夢然という男が高野山 いはしめたのだ。 仏法僧のスト丿 もちろん うえだあきなり ひでつぐ かんばくひでつぐ 底に流れる基調の線は、上田秋成そのものであ で、関白秀次に会い、秀次の家臣にも会う。勿論、 うげつ しりよう ばうれい る。そして、ばくは、この『雨月物語』を単なる怪奇これらは亡霊、死霊という例の様相である。その 月説とか怪異小説とは違うのではないかと思うの亡霊たちから、和歌や俳句を主人公が学ぶという うげつ あきなり つな 137

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: 近藤啓太郎《編集部だより》 ①古事記・ * 第七回配本の『雨月物語』をお届けします。原作者上田秋 : 邦光史郎 私見・古事記 成は日本人の心の底に流れてきた異への危風、好奇心を格 : 池田彌三郎 2 万葉集・ 調高く文学にまで昇華させています。『鬼の詩』で直木賞受 ・ : 岡部伊都子 3 竹取物語 賞、一躍脚光を浴びた藤本義一氏初の本格的古典ものをお楽 : 中村真一郎 伊勢物語 しみ下さい。豊富なカラーで紹介した幽霊絵も広重、応挙な : 田辺聖子 0 枕草子 : ど江戸期の画家たちが想像力をめぐらせた一級の名画です。 : 竹西寛子 蜻蛉日記・ 《次回配本》 3 太平記 : 円地文子 3 源氏物語 は、約六百年程前に * 戦記物語の名作の一つである『太平記』 : 古山高麗雄 ⑥今昔物語・ 小島法師という人が書いたといわれています。後醍醐天阜は : 野坂昭如 宇治拾遺物語・ ようやく鎌倉幕府を倒し皿の中興を実現しますが、足利尊 典 : 瀬戸内晴美 第平家物語 氏らによって再び政権を奪われてしまいます。公家政権と武 ⑧徒然草 : : 島尾敏雄家政権との間に展開されるめまぐるしい抗争、そのなかでの さまざまな人間の生き方など : 堀田善衞 方丈記 : ク を作家・山崎正和氏が執筆し : 山崎正和 ☆ 3 太平記・ ています。楠公桜井の別れ、 : 吉行淳之介 ・ : っレ」・つのた・いー」 - ったよしさた ⑩好色五人女 : ~ 本 新田義貞と勾当内侍との恋、 おおとうのみや : 山本健吉 日ロ奧の細道 : 大塔宮の最期、盆台」 上冫半の悲 : ・水上勉 心中天網島 : 劇など、かって私達の父母が 囮仮名手本忠臣蔵 : : : 戸板康ニ 「涙した名場面の数々を現代訳 で味わうことができます。図 ・ : 藤本義一 雨月物語・ 版の方でもめったに発表され 囮東海道中膝栗毛 : : : 安岡章太郎 たことのない太平記絵巻が、 けんらんごうか : 杉浦明平 田南総里見八大伝 : 随所に絢爛豪華な戦争場面を ・大岡言 別巻百人一首 : 【繰り広げています。 白抜き数」は既 ☆印は大回配本 全 17 巻

5. グラフィック版 雨月物語

たん たいそよしとしうたがわくによし の源流はインドのナーガ信仰に端を発『東海道五十三次』によって余りにも 大蘇芳年は歌川国芳の門人で、彼が 彖■函表・ もろこし し一唐土をへてわが国に伝わったもの有名だが、風景画のうちでも『近江八同門の芳幾と競作した『英名二十八衆 金雨月物語鏑木清方筆 せいさん である。絵は細密で力感あふれた秀作。景』は秀作のひとつである。 句』は、血みどろの凄惨をきわめたシ 目■函裏■ むろまら しかし人びとは道中画のけんらんた ョズものの画集である。その異常な 菊花流水簾屏風俵屋宗雪筆京都国室町時代の作品と考えられる。 しへき そううつ ■道成寺縁起絵巻・ 立博物館蔵 る成功に目をふさがれ、人物画の画業嗜癖を見ても想像がつくように躁欝病 ひろしげ しゆくあ 9 ・を忘れがちである。広重は、人物画に 乂■表紙裏見返し・ ・道成寺蔵 : の宿痾に悩まされ、やがて明治二十五 こんじゃく 年に狂死している。彼の画業と伝記は、 日本濕蠣経験記や今昔物語から大成もすぐれた画才のひらめきを見せてい 雨月物語版本 ( 安永五年本 ) された説話が絵巻物になったもので、 るのだ。その人物画の一亜型ともいう成書『血の晩餐』に詳しいが、彼こそ ・片かんのんロ絵■ ことばがき こまついんしんびつ べきゴゼの亡霊など、迫真的な恐ろし 詞書は後小松院宸筆、絵は土佐光重の は最後の浮世師であり、浮世絵は芳年 賢覚草紙絵巻根津美術館蔵 作と伝えられるが、画風からして、伝さに充ちているといっていい。 を以て命終の時を迎えたのだった。幕 ちなまぐさ えられるよりもやや後代のものかもし ・歌川国芳■ ・鏑木清方・ 末の血腥い時期が去って、ようやく天 のうながうた ・雨月物語・ : 函表れない。道成寺伝説はやがて能、長唄、 ・百人一首之内崇徳院鈴木仁一氏下は明治の御代になると、法的な規制 『やまと新聞』の創立者兼社長、文人歌舞伎、浄瑠璃と、あらゆる分野の芸蔵・ もあり、血の絵がかけなくなったが、 ーしれ、られ、はとんどし、らない 條野採菊を父とし、明治十一年に生ま事にと ) その代り多くの妖怪画を残している。 ・讃岐院眷属をして為朝をすくふ図 きよかた れた清方は、当時さかんに活躍してい 人はいないと思うが、本絵巻はその意鈴木重三氏蔵・ : 6 あらゆる意味で芳年は、日本の妖怪画 よしとし こしき↓ ~ た芳年や芳幾らの霈絵を見ながら育っ味で道成寺芸術の原点といえるだろう。 : の終着駅でもあったのである。ここに ・浅倉当吾の亡霊 : ■小林古径・ た。清方の作品のひとつに『芳年』と 奇想の画家として、近年とみに再評のせた『新形三十六怪撰』という三十 C.D CV ・清姫山種美術館蔵・ いう絵があるのを見ても、有形無形の ーズは晩年の作であるが、「日 価の声が高い国芳は、初代豊の門人六枚シリ たかよし やすだゆきひこ 安田靫彦は、隆能の源氏物語絵巻に 影響は無視できないと思う。さて清方 で、その弟子に芳年がいる。『百人一 す ーズのうち「崇 は、芳年四天王のひとり水野芳方に入比べて「八百年後にうけ継いだ古径の首之内』という百枚シリ あきなり しらみね とくいん うきょえ 砥な巻には、彼らには見、られない苦 . 悩と 徳院」は、秋成の「白峯」に照応する 門して伝統的な浮世絵の系列下にはせ 有名な作品である。生きながら鬼と化 参しながら、江戸情調や明治の風俗を叡知があリ、近代的知性と情熱が輝い あきなり し、死後、魂魄この世にさまよった上 描き、多くの秀作を遺した。秋成の『雨ている」と批評しているか、古径は、 月物語』 ( 本 こイをえた絵巻八段は、『山古典を新しい現代的な知陸と感覚によ皇の黒い怨念を、幕末体制への反逆を いわさ ハネとして描きあげたという考え方も 中常盤』など岩佐派のグロテスクな手つて解釈しなおし、〈新古典主義〉とも 法にならったというか、芳年流の病的 うべき画境をきすきあげた。全八面あるが、さらに深くは、日本人の心の へんしゅう な偏執も見られない から成る絵巻『清姫』は、むろん道成地下水を流れる霊魂信仰にもとづくの高川」や「二十四孝」など、すぐ 寺縁起にその材を得ているが、そこにではなかろうか ? また、「讃岐院眷もののひとつである。 ー賢覚草紙絵巻■ ためとも ■菊池容斎■ は女のとぐろ巻く執念が巧みに描きっ属をして為朝をすくふ図」は、三枚っ ・根津美術館蔵 : けんか ( ぞうし づきの最も得意とする構図である。即 くされている ・崇徳上皇金刀比羅宮蔵 : 賢覚草紙は道成寺説話の異本であり あんらんきょひめ ・安藤広重ー ち中心へ大胆に巨大なマッス ( この場・女の霊全生庵蔵・ 道成寺縁起が安珍、清姫であるに対し、 きくらようさい とおとうみ み 合は鰐 ) を置き、周辺に点景を置くダ ・木曾街道六十九次内山晋氏蔵・ 僧は三井寺の賢覚、女は遠江の長者の 菊池容斎で有名なのは、『前賢故実』 7 ー . 8 イナミックな手法を駆使した傑作。 娘となっている。ここに現われる龍の 十巻の歴史画である。この版本は、 ■大蘇 ( 月岡 ) 芳年ー わば幕末のベストセラーともいうべき ・近江八景高橋誠一郎氏蔵 : 描写は鎌倉初期のものと推定される『華 ごんえんぎ ・新形三十六怪撰宗谷真爾氏蔵・ ものであり、当時の画壇に大きな影響 ・川を渡る瞽女全生庵蔵 : 厳縁起絵巻』を手本にしたものかもし ゅうそくこじつやまと あんどうひろしげ ・Ⅱ・に・に・・を与えた。有職故実と大和絵を研究し 浮世絵六大絵帥のひとり安藤広重は とまれ、女体が蛇身になる話 よしかた よしとし 図 9 28 166

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プい気 : イ当 ? をいしい、 「これは死んだ夫が家宝として大事にしていた太刀でご ざいます。これを、あなた様の腰に佩いて下さいませ」 というのだった。 いっぴん 古代の逸品である。 ためら とよお い。が、婚約の儀の 豊雄は躇った。あまりにも素晴し はじめに断るのもなんだと思って、そのまま貰っておく ことにした。 「さ、今夜はここで泊って行って下さいませ」 とよお たっての願いと真女児は引きとめたが、豊雄は、外泊 よ見ゞ 明日は、つまい口生大 ( 辛カかりでは許されませんといし かわ をもうけてきっと来ると約束を交し、真女児の家を去っ その夜も妙に目が冴えて眠りに入ることが出来なかっ ふち 夢が現実になり、そして夢を見る眠りの淵に入るこ とも出来ない奇妙さを彼は味合ったのだった。 盗まれた太刀 りよ・つし 早朝、太郎は漁師たちをたたき起し、漁に追い立て、 とよお なに気なく弟豊雄の寝室の隙間からのぞいてみると、消 まくら え残った灯の光をうけて、きらきら輝く見事な太刀を枕 ー 0 し」 許に見たのだった。 「おかしい。変だ : : 」と律儀者の兄が思うのも当然で ある。一体、あんなものをどこから手に入れてきたのか と不思議に田 5 ったのだ。 とよお ガラッと戸を開け、豊雄の目を醒まさせようとした。 りちぎもの は りよ・つ ・ ) ・フド ) っ 112

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れたのです。天皇がお亡くなりの後、この兄弟の皇子は 互いに譲り合いの気持をみせ、どちらも帝位につこうと はなさいませんでした。三年の歳月を経ても、この譲り 合いが終りそうもないので、 ~ 兎道の王の方が心配の挙句 めいわく に『どうして私がこれ以上永生きして、人々に迷惑をか きみ とばはうおう 鳥羽法皇像第一皇子が崇徳上皇である けられましようか』と自害なさって、やむなく兄の皇子 が帝位におっきになったではありませんか。これこそが 帝位の尊さ、厳しさではないでしようか。父に孝、兄に ( 貞節 ) を守る、これが人道ではありますまいか。真実 しよく の心をつくしたところに、下劣な人間の私慾が入り込む せいけんぎようしゅん 隙もありません。先程おっしやった聖賢堯舜の道という のは、こういうことではないでしようか、わか国におい じゅきよう ても、儒教を尊んで、もつばらその道を天皇道、天帝学 きみ くだららようせん の理論としているのは、菟道の王が百済 ( 朝鮮 ) の学者の 王仁を招いて学ばられたのがはしめですから、この御兄 ちゅう′」く 弟の皇子の心こそ、そのまま中国の聖人たちの精神とい ぶおう いんらゆうおう えるでしよう。また『周のはしめに、武王が殷の紂王の ば、つぎやく 暴虐に怒って、これを討ち、そのために人民を安らかに ちゅうおう した。これは臣の身として紂王を亡したというのではな ちゅうおう 、仁にもとついたカで義を忘れた紂王を殺したのだ』と もうじ しる 中国戦国時代の哲学者の記した『孟子』なる書物にもみ えると、これはいっか聞きました。だからこそ、中国の きようてん いたるまで神の意にもとっ 書物は、経典、歴史書、詩文に き、理にかない、それぞれわが国に伝えられていますが、 残念なことに、 この『孟子』という書だけはまだやって来 ておりません。その理由は、この書物を積んでくる船は、 必す暴風に遭って沈んでしまうということです。なぜか あまてらすおおみかみ と申しますと、わが国は天照皇大神様が国をはしめ、お 治めになってから、皇孫の天子がすっと継承されて代々 , 位に就いておられるからで、もしも、このような口先 で丸め込む論法ともとれる教えを伝えると、後の世にな って、帝位を奪っても罪ではないと思う国賊が発生する ちゅうごく しゅう てんし ちゅうごく

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、、い 1 ・りけ・れか′ : フ て木村蒹葭堂、富士谷成章、小沢職、 秋成は晩年、「わたくしとはオ能の別 きえん 皆川淇園等の名が挙げられるが、これら名也」といっているが、秋成その人は、 の人達には、共通して前時代にはみられ学問における個性と見識によって、文人 ないある特徴をみることができる。つまとしての自己を規定した人であった。 おやけ 精神の生活と実生活を区別する主知「わたくし」とは、公の秩序が、内面を じゅばく た的態度がそれだが、この時代は学芸と才呪縛した時代にあっては、むしろ自立す 開能によって、人間の多面な内部が掘りおる内部をさし、認識における個的な領域 じゅ を こされた時代であり、伝統の呪縛から脱をさすことばであった。小 説における虚 争 論して、私的領域が拡充された時代であっ構もまた、こうした「わたくし」の意識 国 た。一芸に徹するというリゴリスティッ のうちからしか生れない。虚構とは、何 で 間クな生き方が風土を支配する日本におい よりも秩序に対して自立する想像力の自 とては、この時代はむしろ特別に豊穣な一由を意味するからである。『雨月物語』 秋時期であったとい、つことができる が示す小説としての新しさは、作者の精 宝暦から町のいわゆる田沼時代は、神のなかに、すでに近代に通する知識人 居享保改革の成果を引きつぎながら、政策の構造が誕生していたことを示している。 と おおさか が積極化された時代で、大阪を中心とす やす 『雨月物語』の構想と意義 われている。こののち、文学作品らしい としながらも古典の研究につとめ、『安る都会では、一時的に極めて自由な文化 み′」と かきぞめきげんかい れいごっう かん あんえい うげつ ものとしては、『書初機嫌海』 ( 小説 ) 々言』『よしゃあしゃ』『霊語通』『冠の成熟がみられるに至った。都市知識人『雨月物語』 ( 安永五年刊 ) は、直接には 『町』 ( 随筆風読物 ) と、最晩年に完辞続貂』『金砂』等の著作を遺している。達のうちに内面を自立させ精神と現実をその師であ 0 た都賀鰌の『』『 ばくはんはうけ・れ はるあ よみはん 成した『春雨物語』があるくらいで、む最晩年の生活はかなり悲惨で、茶をすす区別させたものは、このような幕藩封建野話』の読本 ( 知識的小説 ) の様式をう まんにト しろ万葉の研究に打ちこんだ国学者とし って死をまっ心境にあったという。それ体制の本質的な抑圧と、都市文化の洗練け、また、仮名草子時代に浅弗了が書い おうせい ぶんか て生きることになった。この時期の国学でも精神力は旺盛で、没年 ( 文化六年、 化であった。内面へむかっての新しい個我た『伽婢子』の形式をつぐ中国怪異の醂 はるさめ 者としての面目を示すものとしては、太七十六歳 ) の前年には創作『春雨物語』 の伸長は多芸多趣味のかたちで現れる。案小説として書かれている。流行の中国 はつおん 陽神の解釈と、古代における撥音の存否を完成させ、また、痛烈な批評精神を包こうして、俗を捨てて雅をとり、現実よ白話 ( ロ語文学 ) からとった材を独自な たんだいしようしんろく もとおりのりなカ ぶしん をめぐって本居宣長とのあいだに展開しますに表した随筆集『胆大小心録』を残りは学芸文事をよろこ、ぶ、文人という新虚構空間のうちにうっすとともに、和漢 せんちゃ している。煎茶の趣味をしるしたものに たいわゆる「日の神」論争が有名である。 しいタイプの知識人がうみ出されること にわたるおびただしい古典が典拠として せいふうさげん てんめい 天明七年、五十四歳の年に、病のため『清風瑣言』があり、文人の内面をしる になった。『雨月物語』は、このような集約されている。その独特な文体は、当 つづらぶみ 医を廃して村居、文字通り「歌かき文よみした歌文集に『藤簍冊子』がある。 反俗的で主知的な文人の精神を結晶させ時の文人達の教養を結晶させたものであ あきなり て遊ぶ」文人としての生き方に徹するこ秋成の同時代人には、実学 ( 自然科学 ) た小説であって、上方文化の集中的な成って、知的状況とのあいだにつくり出さ かんせい ひらげんない とになった。寛政二年、五十七歳で左眼に活躍した平賀源内や、古典学の方法を熟と洗練、封建社会における脱階級の志れるイロニーのなかに、文学的自我が新 もとおワのりなか を失明、六十四歳の寛政九年には、唯一 完成させた本居宣長、絵画と匪諧に美の向者達であった文人達の知的自由の欲求しく構築されていた。日本の小説は、中 の伴侶であ「た妻の瑚璉必を喪「て、孤世界を構築したが数えられ、まを考えることなしには理解することがで国の文学を独自なみかたで題材化する成 きない 独の身となった。以後、知友の間を転々た秋成が生涯の間に交際した文化人とし 熟の段階を迎えていたのである。もちろ ぶんじん めほく そんきょ かんせい / イ あきなり うげつ 0 あん あきなり あきなり 160

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0 墓で行きあった女についてきた正太郎であ ったがそこにいた女主人は故郷に捨ててき た妻の磯良であった顔色は青ざめどろん とした眼つきも恐ろしげで指さす手は青く そっとう 痩せ細っていて正太郎はその場に卒倒した とだ 刀田の里 て、同しような、い境にある者同士か慰め合えばどうかと いそいでやって来たのですが : し子 / あるじ びようぶ すると主の女性は、屏風を少し引き開けて、 「お久しぶりでございます。これまでのあなた様のとて ひど も非道い仕打ちがどんなものであったか、その仕返しの 程度がどんなものであるかとお教えしましよう。思い知 らせまー ) よ、つ」 ) い、つ きってん 正太郎は仰天した。 「お、お前は : よく見ると、故郷に棄ててきた妻の礙良ではないか。 磯良は蒼白の顔、どろんと鋭さの失せた眼で睨み据え、 正太郎を指す指先は蒼く痩せ細り、その恐しいこととい ったらない 「ああッ ! 」 彼は叫び、倒れ、気を失ったのだった。 ややあって息吹き返し、そっと目をあけて見れば、家 れいあんじよ だと思っていた其処は、荒野の中にある墓地中の霊安所 で、古い黒すんだ御仏が一体立っていらっしやった。 ろうー、 正太郎は狼して立ち上り、遠く人里で吠える大の声 たよりに、彦六の家に帰っこ。 「彦六殿、こうこうしかじかの・ : ・ : 」 と話すと、彦六は動しないで、 きつね 「いや、それは大方の話、狐にでも化かされなすったに ちがいありません。心が疲れはてて、迷っておる時は、迷 あお やくびよう っ わし神という人の心を迷わす厄病神がとり憑くものでし てなあ。大体、あんたは気丈夫な人ではありやせん。そ いっしんふいい の人が迷い病んでおる時は、神や仏を一心不舌に拝んで、 とだひょう ~ ) 心をしすめるのが第一ということですしゃ。刀田 ( 兵庫県 い占の先生がおら 加古川市 ) の里というところに、えらー れる。今の話をの、はじめから詳しゅう話して、ごらん なされや。そのためには、身心を浄めて行きなされや。 魔除けのお札を占師より貰うてくればよいのでなあ」と いうのだった。 正太郎を連れた彦六は、占師のところへ行き、一件を 述べ、これはどうしたことかと占ってもらった。 占師は、占いの後、しっと考え込んでいたが、 「これはの : : 巛 . いかあんたの身に近付いておるのしゃ おん ? ・う のう。これはえらいことになっておる。この怨霊は、つ い先だって、若い女の命を奪いおったなあ。それでもま だ怨みはやまぬとみゆる。で、今度は、あんたに狙いを のち つけおって、あんたの生命も、今夜か明日というところ しゃ。 : ところで、この怨霊がこの世を去ったのは七 日前のことじゃなあ。よって、四十二日の間は、戸をし きんしん つかりと閉めて、厳重な謹慎をするのしゃなあ。わしの いうことを専一守るならばしや、あんたは九死に一生を いのち 得て、生命だけはなんとかとりとめるしやろ、つ。しやが ほんの一瞬であっても、この教えを破ってはなりません ぞ。破ったならば、死が見舞うことになりまするぞよ」 と、厳しくいましめ、筆をとると、正太郎の背中から手 てんしょ ちゅうぶん 足の先にまで、中国古代の書体といわれる籥文と篆書の か・一カわ きび もろ つつない ねら

10. グラフィック版 雨月物語

さいかく おぎゅうそら・ けいえん しオし としるしているか、このこと にもたらした古典として、近世を通して保の頃、荻生徂像の ~ 謖園学派や伊藤東 はなしから小説へ つうじ ばは、世界の中心に、人間の認識をおく オーソドックスな地位をもちつづけるが、濺の古義堂の学者を中心に、通事 ( 通訳 ) 近世のはしめ、民衆のあいだに、百物語とともに、生活空間の人間化を求めてや以来、異国の奇事によって精神の欲求をの指導によって、中国語を直接唐音で学 はなし という咄の集まりが流行していた。暗夜、まなかった近世人の合理的な態度をよく充そうとする方向と、怪異を事実化してばうとする機運が生れていた。これを唐 あんどん てん 青紙をはった行燈に百の燈心を点し、屋示しているということができる。このよ珍重しようとする方向の二つが、交叉し話学と呼んでいるが、その研究会で、た 談一話を語るたびに燈心を一筋引きとるうな開かれた現実的態度こそ、何よりも ながら、怪異文学の歴史をつづることにまたま中国の白話小説が教科書として用 とぎーう・ - という法式がきめられていて、語りつづます近世人を特徴づけるものであった。 なる。すなわち、「伽子』を模して『新いられたことが機縁となって、明末の白 けるにしたが 0 て、必す怖ろしいことがもののけや鬼や地霊たちが、闇のなかか御伽婢子』 ( 殪和三年、都の錦作 ) が出る話が異常な熱意をも 0 て迎えられること とぎばう・」 起ったという ( 『伽婢子』 ) 。この百物語のら人間を支配した王朝までの古代を、夜と、「御前御伽婢子』「拾遺御伽婢子』等、になった。生気を失い、低調に堕していた 日本の小説に代って、中国俗文学の面白 集りは、怪異を生活のなかに包みこむとの文化の時代と呼ぶならば、統一的な道御伽の名を冠した怪談集が続出し、また、 さが、新鮮な興味をもって注目されたか ともに、そのこわさを珍重した太平の民理的世界観によって魑魅の住む闇を照ら百物語の流行をうけて現れた「百物語』 まんじ の態度をよくあらわしている。そのようし出した近世期は、昼の文化の時代であ ( 万治元年 ) の系統にたっ『新百物語』「御らである。 さいかく そのよっな機運のうちから岡白駒が「警 伽百物語』「太平百物語』や、諸国見聞の説 な近世人の態度は、西鶴のなかに、さら ったと称していいたろう。 はくあん ~ ・うき に典型的なかたちで現れている。例えば 近世人の怪異愛好にこたえ、生活の彼話形式による『宗祇諸国物語』『西鶴諸国世通言』『醒世恒言』『拍案驚奇』から数篇 を選んで注解をつけた「小説精言』 ( 寛 西鶴は、『諸国ばなし』の序文に、「人方に新しい想像力の世界を描きだした仮ばなし』等、おびただしい数の怪談集が、 さくそう はうれき 保三年 ) 、「小説奇言』 ( 宝暦三年 ) が現れ、 はばけもの、世にない物はなし」ーーー世名草子時代の古典が、『伽婢子』 ( 六明和の頃まで錯綜しながら現れている。 とぎばう・一 あさ の中は広いが、人間はど不思議な化物は年、浅井了意作 ) であった。同書は、一見俗これら前期の怪談集は、例えば『伽婢子』続いて沢田一斎の『小説粋言』、西田維則 ちつごくは ( わ せきしようきえ 間の奇話めかした話をのせているが、事に、「妻の夢を夫面に見る」とか「地獄の『赤縄奇縁』等、中国白話の訳出と紹介 はなぶさぞうし るな 3 の奇はすべて海の彼方の中国橇 ( 盟・宋・を見て蘇」などの話が収められているこが続いている。『英草紙』も、このような知識 っ′ 17 レ とからも分るように、怪異の心象を事実的プームのうちからうまれており、「今古 明 ) によったもので、すでに紹介されてい せんとうしんわ みん くゆうせん 奇観』「警世通言』「古今小説』「青瑣高議」 た『剪燈新話』 ( 明の瞿佑撰 ) 二十話のうち化することによって奇異を楽しんでいた こんじゃく から十八話までが苦心して日本化されてもので、その意味では「今昔物語』以来のからとった九篇を、巧みに故事によって とイ、ばう・一 かん 「伽婢子」の名も、「新話』からう説話の形式をうけつぐものであった。寛『伽婢子』以来の翻案のかたちに移すと はなぶそうし えん ばたんどうろう ともに、和漢渝の清新な文章体を創出 っして書いた「牡丹燈籠」からとったも延二年刊行の『英草紙』 ( 都賀庭鐘 ) と、 あんえい うげつ のであった。知識人の手によって異国のそれに続く「雨月物語』 ( 安永五年刊 ) のして、伝奇的で知識的な新しい想像力の 一世界を本邦にもたらしている。 志怪 ( 怪異の書 ) を移入したものに、す出現によって、怪異の意味はまったく うきょぞうし はやしらざん の風俗観察小説 ( 浮世草子 ) は、すでに でに林羅山の「怪談全書』があったが、変し、怪異小説の歴史は、まさしく「小 行きづまって、末期的な趣向の工夫に堕 この『伽婢子』によって、事実性よりは説」の時代に入ることになる。 もゆ・つ ~ 一く おおさか つていし - っ ちていたが、中国小説から、複雑な構成 都賀庭鐘が、大阪の儒医で、中国の小 伝奇的な想像力を求め、風土の自然より は異国のロマンティシズムを求める近世説に精通した知識人であったことは前章と珍奇な趣向、漢文字のリアリティをと 写 怪異小説の基本型が定められることになで紹介したが、この新しい小説の出現の 0 て現れた『』の出現は、そのロ キ ~ のわを」ない ~ 〔効 7 一「あ「 " 物 0 た。『剪燈新話』は、文年間に渡来背景には、当時の知識人のあいだの中国マンティックな異国臭も手伝 0 て、読書 界の関心を一挙に伝奇的な世界にむかわ 春しており、伝奇的な想イ おまホ卑」考 3 久伝 , ち气 象力の原型を本邦白話 ( ロ語 ) 文学愛好のプームがあった。 はるさめ はくわ まのあたリ ひやく さいかく きか人 おかはつく かん 163