■芝居の屋談ばなし : 0 地図ーー雨月物語ゆかりの地 : ロ図版目録・ 装幀・レイアウト : 日本の幽霊・ 雨月物語の怪奇性・ ・解説・雨月物語・ 明 弘 166 165 140 ・暉崚康隆Ⅷ : 馬場あき子 ・中村博保 上田秋成陶像
雨月物語 藤本義一
とのばしに延ばしたのも、現代語訳していると、 こわ 怕くなってくるのだ。それだけが似ているのでは あきなりそうこう まだ、あるのだ。秋成が糟糠の妻を失った 年齢に、馬喬もまた妻を失っている。 あきなり 秋成か、 おきふしはひとりとおもふ幻にたすくる人のあ るか非しさ と歌っている年齢と同し年齢で、奇妙な芸人桂 くだ れい 馬喬は妻を求めて霊を下してもらっている記録が ある。 ぐうぜん これは一体どういうことかと考えてみる、偶然 の一致といったならそれまでである。しかし、あ 面 場 亡 の ち た 次 カ 然 夢 冖仏 え絵 れ挿 語 物 月 雨 0 00 むぜんひでつぐ ・ ) くじ だ。あらゆる原本を参考にしての小説ではな まりにも要素が酷似している。そして『鬼の詩』 この現代 いかと思う。時空を超えている点が評価の基にな の桂馬喬を描き上げてから一か月目に、 こわ のもあた るのではないか。わが国の十八世紀のだと思 語訳の話が持ち込まれたのだから、怕い りまえである。 われて仕方がない。かのラグクラフトの世界が、 どちらも実在の人物なので、その類似の点にば わが国の十八世紀に誕生したと思われるのである。 らゆう′」く せんとう あさじ たとえば「浅茅が宿」にしても、中国の「剪燈 かり気がとめられてしまったのだ。 こんじゃく つれづれぐさ らようど しんわ そして、二人の間には、恰度百年の差がある。 新話」と「万葉集」と「今昔物語」と「徒然草」 あきなり あきなり と「源氏物語」が入っていて、それが秋成の時空、 秋成が死んで、馬喬となって生れかわり、そし くでん て、己の魂を口伝によって後世の落語家に伝えた次元でびったりと一致しているわけである。 ばくは、絶対に、これらの作品群を日本の のではないかとさえ思われるのである。 古典だといいたし ちなみに『鬼の詩』を書いた時に『雨月物語』 あきなり あきなり 秋成は古典を 巧みに繋ぎ合わせたのではなく、 は読んでいたが、秋成の生いたちその他について はまったく 巧みに組み敷いたわけである。 無知であった。それだけに類似してい ちかまっ さいかく そして、その裏に、西鶴にも近松にも見られな るところが恐しいのである。 ひにく わた かった大阪人の皮肉さを垣間見るのである。これ ま、こんな私事に渉る話はそれとしておいて、 つうれつふう よしむねきようほう うげつ は八代将軍吉宗の享保の改革に対しての痛烈な諷 雨月の現代語訳をしながら思ったことは、秋成が し らゆう′」く どんよく 大阪人の貪欲さをばくの目のあたりに示してくれ刺と、中国小説に対する主観が論文というかたち たことである。ひとつの短編をつくるために、実でなくて、小説、説話、物語という形式で展開さ に色々な原本を下敷きにしている。たとえば「白れているのではないか ようきよく せんじゅ みね 「へ、こういうのんはどうだすか」 峯」ひとつを取り上げても、謡曲、西行の「撰集 ふてい ちやめ しよう さんかしゅう しらみね という大阪人独特の茶目っ気と不逞さが作品の 抄」「山家集」それに白峯寺関係の本、それに「保 らゆう ) 」く たいへいき こうのだいせんき ひとつひとつに感しられるわけである。 元物語」「国府台戦記」「太平記」中国の小説、 そうしるい 草紙類とあらゆるものを集結させて、自分のもの に組み敷いているのである。 反大阪人を描く秋成 現代語訳しながら、ふと考えたことは、これら あきなり の原書をひとっすっ抜いていったなら、秋成は一 さて うげつ 体どこに自分を残すのだろうかと考えてみた。な 本来なら『雨月物語』といえば、後三本が入ら にも残らないのではないかとさえ思ったのだが、 なくてはならない きくかをり あおずきん ひんふくろん ぶつばうそう いや、そうではないと「菊花の約』あたりから思 「仏法僧」「青頭巾」「貧福論」である。 こうやさん むぜん ぶつばう差ろー ーは、夢然という男が高野山 いはしめたのだ。 仏法僧のスト丿 もちろん うえだあきなり ひでつぐ かんばくひでつぐ 底に流れる基調の線は、上田秋成そのものであ で、関白秀次に会い、秀次の家臣にも会う。勿論、 うげつ しりよう ばうれい る。そして、ばくは、この『雨月物語』を単なる怪奇これらは亡霊、死霊という例の様相である。その 月説とか怪異小説とは違うのではないかと思うの亡霊たちから、和歌や俳句を主人公が学ぶという うげつ あきなり つな 137
備津の釜」にみられるように、中国小説制の支配が人間の内部にまで及んだこと はむしろ知的趣向としてかりられたにと 人間の内 は前章でしるしたとおりだが、 どまっており 『雨月物語』は、基本的部が、内部として自覚化されたのも、そ に、日本の怪異小説として読まれることのような抑圧の時代においてであった。 寺 く言田 を要求している。 秋成の小説においては、怪異は意識の内 : フにて・・つし さ しやせい 例えば「蛇性の婬」では、道成寺説話 側に転位しており、その幻想世界は、自然 ようあん 京 のイメージを背景に、善悪をかかわり知との境を恐布のなかに溶暗させている。 墓 らない愛の原始的な原像が、主人公であ『雨月』のこわさは、そのような空間が、 とよお の かっ、・フ 成る豊雄のますらおへの成長と葛藤させて直ちに読者自身の内部につながってくる ところにある。 かれており、原話のエロティシズムは、 あきなり めい力い 秋成においては、明界と幽界が重なり せることにな「たのである。「草』出たちは、「英草紙』にならったものだと本然的なエロスの追求に昇華をみせてい あいよく りぎよ むおう 合っているように、幽霾も人間と区別さ 「夢応の鯉魚」にみるが、作者はこの王朝風の愛慾の物語に 現の最大の意義は、伝奇がもっ知識的性されており、また、 られるような、異文を含めて中国小説をよって現実に許されない生命の悲劇を描れていない。むしろ幽霊こそ、人間の願望 格によって、「虚構」がはしめて自覚化 とよお された点にあり、庭鐘がきりひらいたこ摂取する方法も、医師の、庭鐘から直接き出そうとしていた。作者が豊雄に自己が純粋に露呈された存在であった。例え みやぎ あさなり ば、宮木にしても磯良にしても、その個 の本のジャンルのうちから、秋成の『雨教えられたのではないかとされているなを投影させて血を通わせたのも、また真 あきなり うげつ なんそうさとみはつけんてん たきざわばきん 的な変貎は、それぞれの、本来的なもの 坪物語』も、滝沢馬琴の『南総里見八大伝』ど、秋成の『雨月物語』は庭鐘の強い影女児をエロスの結晶として描き出したの もうみ出されることになる。 響のもとに成り立っていたが、漢学の知もそこに理由があった。もののけそのもが純粋なかたちをとった姿にはかならな あきなり きび さカ あきなワ 秋成はこれを、「性」という言葉で は、人格のリアリテイや小説の構識は師に及ばぬ秋成にはかえって鐘ののの恐ろしさを復活させた作品は「吉備 さカ 「吉備津」では、も示している。死は、このように「性」の 知識性に埋没しない豊かなヴィジョンと津の釜」であった。 成力など、従来日本の小説に欠けていた へんほう ののけにまで変貎しなければならない女本質を露呈させるフィルターの役目を果 文学的な想像力を本邦にもたらすことに虚構を本格化する内部の深さがあった。 きだん だからこそ、幽界から明界に なったが、その内容はむしろ知識的綺談その虚構は、知識性によってはぐくまれ性の連命の苛酷さと、封建秩序のもとのしており きだん 抑圧された魂の反逆の恐ろしさが描き出現してくる死者達は、生者以上に生の必 といった性格が強かった。鰌の虚構のたものでありながら、綺談性をはるかに 然を強く示しているのであり、また、 方法を受けつぐとともに、その虚構を内こえて、現実を透視する本格的な虚構とされている。近世怪異小説の基本的なか あきなり して働くことになったのである。「菊花 たちが、異国のロマンティシズムにむけ秋成の描く幻視の世界が、現実以上に現 面の風土の方向に深めることによって、 本格的な怪異小説を書きあげたのが秋成の約」が『古今小説』の「范巨卿鶏黍死られてきたことはさきにしるしたが、『雨実的であるという逆説も成り立っことに せいのまじわリ じやせい 生交」のかなり忠実な翻案であり、「蛇性坪物語』では、怪異のオリジンをむしろなるのである。 であった。 あきなり まくじようしえいちん 、せいつうげん さいカく 自国の風土のなかに求める屈折が示されこうして秋成は、西鶴が人間に対する 『雨ル物語』の五巻五冊九話というかの婬」また、『警世通言』の「娘子永鎮 雷塔」の翻案であ「たことからも分るている。こうして王朝の夜の文化が、再強烈な興味によ 0 てリアリズムを実現さ とおり、『雨坪物語』も、当時の伝奇的新文び、近世の昼の文化のなかに復活するこせた興隆期の現実が喪われてしまった時 古田 学の機運のなかで、翻案という知識的な とになったが、王朝の恐怖が文学的な復代に、幻想と虚構のうちに喪われた人間 おおやけ 帳 権をとげたのは、秋成の公の意識の裏側を凝視する、幻視者のリアリズムによっ 去形式に従って書かれていたが、『雨月物語』 一 1 ・ホ国 の においては、題材の性格と主題の意味はで、幻想空間としての内部が形成されてて自己の文学を結品させたのである。 成 いたからにほかならない。享保以後、体 秋 ( 静岡大学助教授 ) 明確に区別されていた。「白峯」や「吉 1 し・らみ っ あきなり あきなり うげつ ししゃ 164
あさじ が美しいのだが、そうして生した怪奇は、浅茅が であるように隸われる。なぜであろう。私はやは みやぎ ーん力い みさお そこに〈怪奇〉を語り据えることに対する一 宿を守ったさかしめ宮木の操への固執と似た狷介 つの構えがあったようにわれてならない 伝承 さにおいて共通している。 しゆら あるいはまた、「白峯」「仏法僧」などの修羅体の結びは、一話を事実として認知させるととも 一旦は詠歎的にそれを過去に押しやるものだ なす瞋恚が内攻するものは、過渡的な時代の波に うげつ が、あくまでも創作である『雨月物語』において 没した救いようもない無念さであって、その裏切 つぐな その結果うかび上がるのは、語り直された怪奇の られた人生を償いきれるものは屋奇以外に考えら れない 内面的主題への畏敬の情であり、詠歎である。秋 このような秋成の主題追求の中に浮かび 上がってくるのは、なぜかつねに、情が志へと昇成は〈屋奇〉という非正統なものを主題に取り上 しんす げたが、そのもう一つ向うに本当の主題としてみ 華してゆくはてに、「神清み骨冷え」て生した屋 あおずきん すえていたものは、怪奇にいたる人間の苦悩や、 れ奇なのである。また、「青頭巾」は稚児愛のはて、 あいせき よう ーうしんき あじゃ 哀惜のあまりその屍肉を喰う執心鬼となった阿闍 情の破綻や、異形の志など、すべて、より人間的 梨の話であるが、その姿はおそろしいと同時に、 な内がわへの瞠目なのである。 うげつ きんろ工うじゃ はなぶさ第うし わすかに、ぶざまで哀れである。 『雨月物語』は、先人近路行者の『英草紙』や『繁 秋成はこれらの短篇を、かなり多彩な語りの型夜話』などの奇談物に影響されつつ赴いた世界だ . し・ら . ね といわれる。だとすれば、当然そこには、なぜ〈奇〉 を組み合せてかいている。たとえば、「白峯」で さいよう ではなく〈屋〉なのかという、主題のありようも は、ワキ僧風の西行が登場するが、東国一見を終 さぬきしらみね みちゅき えて讃岐白峯に到着する道行文が冒頭におかれ、 とわれなければならないだろう。奇談の興味が、 すとくいんお 4 りっ 崇徳院の怨霊の出現、怨みの述懐など、 人にして人ばなれのした趣にあるとすれば、怪談 ちぎり はより深く内面的であり人間的である。それはむ 曲風にでき上がっている。あるいは「菊花の約」 きびつ けんげん 交りは軽薄の人と や「吉備津の釜」では、「 しろ、内がわにくすぶる内燃のドラマの顕現であ 結ぶことなかれ」とか、「婦の養ひがたきも、 るゆえに、人間を超えていればいるだけ、深く内 老いての後其の功を知ると。咨これ何人のぞや」奧に下りてくる錘の重さがある。 あきなり あお というように、冒頭に一篇を総括する戒語をおき 秋成は屋奇の怪を煽らす、奇を衒ってもいない 詠歎風に吾りはじめる。その他多くは、どこそこ むしろ、『雨月物語』五巻の読後に交響しつつ湧 に誰某という人があった式の、説話風の語り口の き上がってくる重たい量感のある息苦しさは、倫 しやせい ときょ いつの時代理的な抑止感や、徐々に激しく志へとたかまり奔 じゅんじよう タ なりけん」という、ものがたり風のおばめいた吾 る殉情のかなしさなのだ。 しらみわ すとくいん り口ではじめられている。この一話の結びはまた、 「白峯」の崇徳院のやる方ない怨み一つを考えて となんかたりったへける」という伝承体の も、歴史の中の、情況の犠となった海しさは、対 立者のどの一人を怨んでも怨みきれるものではな 結びによって閉しられているが、こうした伝承体 の結びは半数をこえる定型をなしている。 推し移る大きな時間に投げこまれ、欲望と情 うげつ 『雨月物語』ではこうしたことが、かなり意識的 念の渦に浮沈しつつ、わずかに骨肉の情の裏切り はく盟う え、たん あきなり しん しらみね あきなり ああ うげつ おもむ、、 てら くや あき 154
雨月物語 目次 〈ロ絵〉賢覚草紙絵巻百人一首之内崇徳院・歌川国芳筆崇徳院眷属をして為朝をすくふ図・歌川国芳筆清姫・ 小林古径筆道成寺縁起絵巻 白峯 ちぎり 菊花の約 やど 浅茅が宿 夢応の鯉佰 吉備津の釜 しやせ 蛇生の婬 訳後雑記 しらみね あさじ 医」 / 、カ おう び っ ん 藤本義一。
ー当 あきなり 最後に、今度秋成を現代語にしながら、感じた ったのだが、 やれないのである。なぜかというと、 ことは、輪を三重にかけての読者への迫り方であ あきなり 秋成は同じ、 しいまわしを積み重ねながら、どうや ひやく ど、つい、つことかとい、フと、はしめに長々と事の ら、省略を拒んで飛躍しようとする構えがみえる 次第が出てくると、普通なら二度目には、その個わけなのだ。 しゅぎよう 所を、 これは、ばくの浅いシナリオ修業からいっても 大変に難しい技法である。 「前に述べたとおり : AJ か 省略せすに飛躍ということは、重い砂袋を背負 カくかくしかしかと話をして : : : 」 って向う岸に跳ぶようなものであって、絶対とい というふうに省略するのだが、それが全然やっ っていいほど成功しないものなのだが、あえて秋 なり えん ていないのである。同じことを繰り返して延々と成先生はやっておられるのだから愕きである。 あきなり 述べてい ばくの単純な考えからいくと、秋成は、はじめ あおすきん 「雨月物語講挿絵青頭巾人肉を食べる僧が里人を追いかけている場面 ひんふくろん 「雨月物語」挿絵貧福論主人公左内が黄金の精と対話している場面 あき 一中 そうし 草紙作者として出発したものの、それが急に小説 家に変貌したのではないかと思うのである。 うえだあきなり もし、タイムマシンに乗って上田秋成先生と対 談したなら、きっと、ロの中でばそばそという人 ではないかと思う。その聞きづらい声の中に、あ らゆる古典からの引用の句や文章が散りばめられ しようりようぐせ ていて、聞いている方は、その古典渉猟癖とかい 、つものに、 ただ、ただ愕き、そのねちねちとした 論法の展開に、参ってしまうのではないかと思う のである。 こういうふうに、古典を読みながら、作者を想 像してみるのも一興である。 これ以上の推論というのか推理はお遊びの質の それも質の悪いものになるからやめたいと思う。 忠実に訳したつもりである。 たんわん 一粒一粒を丹念に拾ったつもりである。 現代語訳を解体して、また別の現代語訳が生れ てもいいのではないかと思う。 139
成長してゆく物語は本文にしるされたとき換えている。「三貞の賢き操」は、お おりで、記州・吉を舞台に長編的構想のれに要求する愛のモラルとして描かれ はくわけいせいつうげん がとられている。明末の白話『警世通言』てこそ、愛の抗議となって人の心を打っ はく・ろ・しえいちんらいはうとう の「白娘子永鎮雷峰塔」と、ほとんど同のである。節操が上下の関係に働く意味 らいほうかいせき 文の『西話』「雷峰怪蹟」を典拠とし、 しかもたなかった日本の社会で、個人に どうじようじ ( , わ」「道成寺伝承を重ねた翻案小説だが『伊勢』内在する操を描くためには、ます「愛卿 『潦氏』などの古典をかりた香り高い文伝」をかりる必要があり、更にそれを変 章によって、原文以上の世界がつくりだ型させる必要もあったのである。 うげつ されている。この小説でエロスと恐怖の『雨月物語』の小説としての特質は、そ 一致という美の構造が提示されているこれが修辞によって書かれた戯作であった とも見落すことはできない という点にある。序文にしるされている あおずきん 「青頭巾」ーー病死した愛童の屍肉をく剪枝畸人が、秋成その人であることは間 ・て・フりト・ って鬼道に堕ちた僧侶が、名僧の一喝に違いないが、秋成自身は生涯ついに自己 よって白骨と化すはなしで、『怪談とのの作品であるとはしるしていない。その すいこてん ゐ袋』からとった題材を、『水滸伝』のような秘作が人間性に対して強烈な照射 構成をかりてまとめた一篇。人間性の深を与えているのはなぜか。この逆説は、 えん 淵が語られている。 近世における小説の連命を考えてみない ひんふくろん 「貧富論」 家の臣、岡左内と黄と分らない。近代の文学とは異って、 金の精霊のあいだに議論を展開させた異説は、近世を通して社会の秩序のなかに ドエうざんさだん ーイい 1 た色の一篇で、「常山紀談』や『史記』の「貨位置をもっことがなかった。しかしその 行殖列伝」が典拠となっている。 ような戯作も、中期以後、体制の内面支 」が『雨月物語』の九篇は、このように和漢配に対して、意識的に役に立たない領域 のの題材を知的に集約したかたちをとってとして意味をもっことになる。体制の外 妖いるが、しかしいすれの作品も、題材の に位置することによって、社会と人間を じおびただしさを統一する強力な主題陸に自由に批評することができたからである。 あさ のよって書きかえられていた。たとえば「浅「雨月物語』は、いわば、体制に対して自 近茅が宿」を例に考えてみると、原典の「立した虚構の眼を、人間自身の内部にむ けることによって書かれた小説であって、 筆卵仁」は、愛卿という遊女出身の女が 光操を守って縊死するはなしで、秋成はそ役に立たないはすの戯作のうちに、幻や 土こから亡霊出現の必然性と女性のモラル憤りやねがいが、かえって自立して現れ ることになったのである。その出現の過 」、 ~ 。・、製図と〔う二つのモティフをと「て〔たか 、エ一「 3- 0 義「浅茅」では原話から儒教的な道徳性を程を、次に怪異文学の流れの面からたし 、ニ百けすって、内発する愛のモラルとして書かめてみよう。 うげつ あきなり いっかっ 162
雨月物語 0 ロ 0 黽 9 8 H 国 0 : = 0000000 、 0 解説 0 何かを教えてくれる存在であった。今日、世界のうちに描き出される死者達のさまのが最もふさわしい 作者と時代 『雨月物語』は、単なるお化けの小説としざまな姿は、いすれも怪異をかりて、人享保十九年、吉宗のいわゆる享保の改 三島由紀夫は「戦争中どこへ行くにもてではなく、近代小説につながる、小説間性の深部をとらえてみせたものであっ革も終りに近づいた時代に、鬼印根崎 ふざほう ゅ・フか′、 しせいじ 持ちあるいていた本は、冨山房百科文庫の古典として読まれているが、秋成を たが、それはまた、小説とは何かを知りの遊廓で、私生児として出生、五歳の時、 の『わ田全集』であ 0 た。座右の書小説の天才という虚像から救い出してつくしていて、読者自身のうちに、意識痘瘡のため両手の指が短折した不幸とと しんえん 、ずみ、を - うか せんりつ のみならす、歩右の書でもあ 0 た。」との小説家として評価してきたのは、棗鏡花世界の深淵とその戦慄を示してみせたももに、生涯消しがたい運命の暗さを背負 みしま あきなり さとうはるお いしかわじゃル いしかわじゅん べている。若き日の三島にとって、秋成や、佐藤春夫や、石川淳など、近代の作のでもあった。石川淳は、その主人公たわされることになった。無腸の号は、お は、愛好の相手である以上に、小説とは家達であ 0 た。『雨坪物語』の強烈な想念ちが、作者の想像力の内側からうみ出さのれの不具を臨にかたちど「たものであ れていた必然性を明らかにして、「オ。 ハる。秋成は、その出生の暗さと、天才と ケのいる空間を具象的に充実させているしてのイメージによって、治の頃まで、 方のは、作者の精神の運動である。」とのべかなり口マンティックな虚像によって包 すうせんじ 図ている。近代の作家達が、日本におけるまれてきた。例えば、崇褝寺馬場の伽討 いくたてんよちろう リアリズムの元祖として発見してきた作で知られる生田伝郎の遺児であるとす 莱家が西鶴であったとすれば、「小説家」る俗説 ( 「伝奇作書」 ) などがそれだが、 あきなり 先の祖として発見してきた作家が秋成であ最近高田衛氏は文献を整理して、実父は えどはたもとこーりまさつぐ 江戸旗本小堀政報という、無輒の青年で うえだあきなり 城上田秋成 ( 一七三四ーー一八〇九年 ) は、 あったらしいという推定を発表している。 まさつぐ 『雨月物語』や「春雨物語』の作者としてこの政報という武士は、秋成の生れる前 知られているが、生前はむしろ歌人や煎年に一七歳で死亡していたが、庭園家と こばワえんーゅう ちやどうあそ ちやじん 、国」回国回・国 して知られる小堀遠州の直系の子孫であ 江茶道に遊んだ茶人として知られていた。 図はかに、俳人としての活躍や、古典の研って、もし推定が正しければ、秋成は、 えんーう まぶち 究があるが、最も力をいれたのは、真淵その出生に、遠州の血をうけるというド ラマを隠していたことになる。しかし、 】島国笋の学統に立っ古典の研究であった。 堂 あきなり 才能と精神がもとめるままに自由に生き秋成自身は、「父無シ其ノ故ヲ知ラズ」 たその個性的な生涯は、「文人」と呼ぶとだけしかしるしていない。不 火成の個性 みしまゆきお うげつ うデっ うげつ よるさめ せん 中村博保 あきなり あきなり あきなり あきなり 158
、、い 1 ・りけ・れか′ : フ て木村蒹葭堂、富士谷成章、小沢職、 秋成は晩年、「わたくしとはオ能の別 きえん 皆川淇園等の名が挙げられるが、これら名也」といっているが、秋成その人は、 の人達には、共通して前時代にはみられ学問における個性と見識によって、文人 ないある特徴をみることができる。つまとしての自己を規定した人であった。 おやけ 精神の生活と実生活を区別する主知「わたくし」とは、公の秩序が、内面を じゅばく た的態度がそれだが、この時代は学芸と才呪縛した時代にあっては、むしろ自立す 開能によって、人間の多面な内部が掘りおる内部をさし、認識における個的な領域 じゅ を こされた時代であり、伝統の呪縛から脱をさすことばであった。小 説における虚 争 論して、私的領域が拡充された時代であっ構もまた、こうした「わたくし」の意識 国 た。一芸に徹するというリゴリスティッ のうちからしか生れない。虚構とは、何 で 間クな生き方が風土を支配する日本におい よりも秩序に対して自立する想像力の自 とては、この時代はむしろ特別に豊穣な一由を意味するからである。『雨月物語』 秋時期であったとい、つことができる が示す小説としての新しさは、作者の精 宝暦から町のいわゆる田沼時代は、神のなかに、すでに近代に通する知識人 居享保改革の成果を引きつぎながら、政策の構造が誕生していたことを示している。 と おおさか が積極化された時代で、大阪を中心とす やす 『雨月物語』の構想と意義 われている。こののち、文学作品らしい としながらも古典の研究につとめ、『安る都会では、一時的に極めて自由な文化 み′」と かきぞめきげんかい れいごっう かん あんえい うげつ ものとしては、『書初機嫌海』 ( 小説 ) 々言』『よしゃあしゃ』『霊語通』『冠の成熟がみられるに至った。都市知識人『雨月物語』 ( 安永五年刊 ) は、直接には 『町』 ( 随筆風読物 ) と、最晩年に完辞続貂』『金砂』等の著作を遺している。達のうちに内面を自立させ精神と現実をその師であ 0 た都賀鰌の『』『 ばくはんはうけ・れ はるあ よみはん 成した『春雨物語』があるくらいで、む最晩年の生活はかなり悲惨で、茶をすす区別させたものは、このような幕藩封建野話』の読本 ( 知識的小説 ) の様式をう まんにト しろ万葉の研究に打ちこんだ国学者とし って死をまっ心境にあったという。それ体制の本質的な抑圧と、都市文化の洗練け、また、仮名草子時代に浅弗了が書い おうせい ぶんか て生きることになった。この時期の国学でも精神力は旺盛で、没年 ( 文化六年、 化であった。内面へむかっての新しい個我た『伽婢子』の形式をつぐ中国怪異の醂 はるさめ 者としての面目を示すものとしては、太七十六歳 ) の前年には創作『春雨物語』 の伸長は多芸多趣味のかたちで現れる。案小説として書かれている。流行の中国 はつおん 陽神の解釈と、古代における撥音の存否を完成させ、また、痛烈な批評精神を包こうして、俗を捨てて雅をとり、現実よ白話 ( ロ語文学 ) からとった材を独自な たんだいしようしんろく もとおりのりなカ ぶしん をめぐって本居宣長とのあいだに展開しますに表した随筆集『胆大小心録』を残りは学芸文事をよろこ、ぶ、文人という新虚構空間のうちにうっすとともに、和漢 せんちゃ している。煎茶の趣味をしるしたものに たいわゆる「日の神」論争が有名である。 しいタイプの知識人がうみ出されること にわたるおびただしい古典が典拠として せいふうさげん てんめい 天明七年、五十四歳の年に、病のため『清風瑣言』があり、文人の内面をしる になった。『雨月物語』は、このような集約されている。その独特な文体は、当 つづらぶみ 医を廃して村居、文字通り「歌かき文よみした歌文集に『藤簍冊子』がある。 反俗的で主知的な文人の精神を結晶させ時の文人達の教養を結晶させたものであ あきなり て遊ぶ」文人としての生き方に徹するこ秋成の同時代人には、実学 ( 自然科学 ) た小説であって、上方文化の集中的な成って、知的状況とのあいだにつくり出さ かんせい ひらげんない とになった。寛政二年、五十七歳で左眼に活躍した平賀源内や、古典学の方法を熟と洗練、封建社会における脱階級の志れるイロニーのなかに、文学的自我が新 もとおワのりなか を失明、六十四歳の寛政九年には、唯一 完成させた本居宣長、絵画と匪諧に美の向者達であった文人達の知的自由の欲求しく構築されていた。日本の小説は、中 の伴侶であ「た妻の瑚璉必を喪「て、孤世界を構築したが数えられ、まを考えることなしには理解することがで国の文学を独自なみかたで題材化する成 きない 独の身となった。以後、知友の間を転々た秋成が生涯の間に交際した文化人とし 熟の段階を迎えていたのである。もちろ ぶんじん めほく そんきょ かんせい / イ あきなり うげつ 0 あん あきなり あきなり 160