116 「キヨーミありますか ? 」 カオルさんはさも面白そうな丸い目で光代さんを見て、 「米山さんくらいの年の人って、ほんとに他人のこと : : : しかも男と女のことに好奇心が あるんですネ」 「好奇心なんかじゃありませんよ。ただ心配してるだけですよ」 「どうして心配するんですか ? ただスナックで飲んで歌って踊っただけなのに」 「スナックで ? でもスナックが夜明けまでやってるかしら ? 「やってますよう。白々あけに店を出て、雨はやんだし、風は強かったけれど、気持がい いから散歩したんですう」 「間崎先生と二人で ? 」 「そうですよ。あんなおじいちゃんと二人で夜明けのコ 1 ヒ 1 を飲んだって、一向にピン とこなかったけれど。でもこれも経験のひとつだから : : : 。経験って、沢山する方がいい : これ間崎先生の意見です んですって。どんな経験でも、しないよりはした方がいい・ カオルさんの丸い目は上等の黒アメみたいに光っていて、とても夜通し飲んだり歌った りした人の目とは思えない。
か、その若者が悪者で、頼子さんは誘拐され、今に身代金の要求が来るのではないか ? そんな思いも頭に閃いたりして光代さんは落ちつかない。 身代金の要求が来ないのは、頼子さんが抵抗して殺されてしまったからではないか ? まったくこの頃の世の中、何が起るかわからない。そんなのは妄想だと一概にいい切って しまえないところが今の世の中の怖いところだ。まさか、と思うことが起きるのだから : と考えはじめるとだんだん妄想が現実のものになっていくような気がしてますます落 ちつかない。 「ねえ、お父さん。大丈夫かしらねえ。頼子さん : : : 」 と孝造さんに向っていわずにいられなくなる。 「ほんとにこの頃の人ときたら、他人への配慮ってものがまったくないんだから。着いた ところから必ず連絡しますと約束したのよ。その簡単な約束も履行しない。こっちの心配 なんてアタマにないのね。自分のことばっかり : : : 」 「だから心配なんかしなければいいんだよ」 いつものように孝造さんは面倒くさそうにいう。 「ほっとけばいいじゃないか。だいたいお前はうるさ過ぎるよ。間借人は家族じゃないん だから、部屋代だけ貰ってればいいんだ」 ひらめ
「で、熱はどれくらいあるんでしよう ? 」 「あのう、ええと : : : 一一十 : : : 」 といいかけたのは電話のそばの温度計をつ い見てしまったためで、慌てて、 「いえ、三十八度くらいですけど」 といい直す。 「三十八度 ? 高熱ですなあ」 野々宮氏はますます心配そうな声になって、 「では明日の祝賀会には、出られそうもあり ませんね」 「はあ ? : : : いえ、さあ」 いきなり「祝賀会」が出てきたが、光代さ んは何のことやらさつばりわからない。 「もし、更に熱が上るようだと何とか手を打 たなければなりませんから : : : 申しわけあり ませんが、一時間ほど後にもう一度、お電話
114 とカオルさんや頼子さんにあてつけることが出来なくなってしまったのが光代さんはロ 惜しい。 明け方になって風が出てきたと思ったら、久しぶりに雨がやんで夏を思わせる強い朝の 光に、古家の古壁からは湯気が立つようである。 勝子さんはどうしたかしら ? 目覚めるなり頭に浮かんだことはそれである。どうしたかしら ? という思いは、心配 ではなく、腹立たしさであることはいうまでもない。 孝造氏が会社へ出て行ったら、すぐにでも間崎さんを訪ねて、この事件について話し合 わなければ、と思いながら朝刊を取りに玄関を出た。向いの間崎さんの二階の窓は濃緑の カーテンがまだ垂れている。朝刊を手に中へ人ろうとすると、軽い靴音がした。ふり返る かばん と鞄を下げたカオルさんである。 「おはようございます」 悪びれるふうもなく挨拶した。 「あら、朝帰り ? 」
「はい。それがあのう : : : 」 とどろ 光代さんは胸が轟いた。光代さんはおしゃべり大好き人間だが、嘘はついたことがない。 それは長い人生の間には、方便としての嘘をついたことはあったが、その時だってそうス ラスラと嘘が出てきたわけではない。いつも能弁の光代さんだが、その時だけはしどろも どろという感じになり、そういう自分を意識すると、血が顔に上って目の中で。ハチ。ハチと 火花が散るようだった。 「それが、あのう、勝子さんは、あのう、たいした熱ではないんですけど : : : 風邪だと思 うんですけど、ちょっとお熱が出て、さっき風邪薬を飲んで休まれたところでして : : : あ のう、ナンですわ。多分、雨に濡れたせいでしようと思うんですけど、あいにく、いらし て下さった時に、わたくし留守にしていたもので : : : もうビショ濡れでお待ちになってた もので : : : 申しわけありません。わたくしがいけなかったんです : : : 」 なぜそんな余計なことをいうんだろうと自分でも思いながら、光代さんはしゃべってい 野々宮氏は心配そうな声で、
茶の間へいくと孝造氏はテレビに顔を向けたまま、 「この頃の女の子はよくしゃべるなあ : : : 光代がこのくらいの年の頃は、いくらお前さん でもこんなふうにはしゃべれなかっただろう ? 頭の回転がいいんだなあ、今の女の子は テレビでは二十そこそこに見える女のレポーターがキイキイ声をはり上げて外国の風習 を紹介している。 「それにどの子も皆、明るて快活なんだ。日本の女も変ったもんだねえ」 「そう、変りましたよ、壼くね ! 」 厚かましくて身のほど知らず、アタマのてつべんから声を出して : : : といいかけた時、 電話が鳴った。 「はい、米山でございます」 「あ、どうも。わたくし松江の野々宮ですが」 み 怨あっと思った。勝子さんの夫からだ。何も知らぬ実直そうな声がいった。 福「ご主人がお悪いそうで、ご心配ですなあ。いかがでいらっしゃいますか ? 」 赤 「あ、ハイ。あのう、まあ、今のところなんとか : : : 」 かえ 「家内がお世話になった方だからどうしてもといいまして : : : 却ってご迷惑じゃないかと
て行っては、間崎夫人を相手にいいたいことをしゃべりまくる。 「どうしてこう、男も女も規格品になってしまったんでしよう ? 」 夫の孝造さんにそう話しかけても、孝造さんは面倒くさそうに、 「そんなこと、お前が心配してもしようがないだろう」 というだけなので。 「ほんとねえ、そういわれればそうねえ。お宅へくる学生さんたちを見ても、皆、同じよ うに見えるわねえ : : : オホホホ」 間崎夫人が光代さんの意見に反対したためしは一度もないのである。夫人は必ず賛成す る。オホホと笑って感心する。 もったい 「奥さんはほんとに鋭いことおっしやるわねえ : : : 勿体ないわねえ。このまま、主婦とし て埋もれさせるのは : : : 」 そう感心されると光代さんは悪い気がしない。より痛烈なことをいって、もっと間崎さ 性んを感心させたくなるのである。 な 「同じような生活環境、同じような目的意識、同じような食生活、そして同じ価値観 果 因それが同じ顔を作ったのであります。今の若者は現実の豊かさに充足するあまり、社会や 人としての生き方に理想も疑問も持ちません。もし個性的に生きようとすれば今の社会で
代表する詩人、松尾芭蕉の「秋深し隣りは何をする人ぞ」の句もおせつかいのひとこ とで片付けられるようになってしまったのである。 その後も消費は美徳、何ものにも拘束されない恋愛などという流れにのって、駅弁の蓋 についたご飯粒を食べる、一粒のご飯を大事にする気持や、不倫を深刻に悩む気持も失わ れた。 いつまでこんな流れにのっていれば気がすむのだと、光代さんが心配するのも無理はな カオルさんは、誰にも煩わされたくないと言って女子学生専門のマンションに移って行 ったが、もし来年、カオルさんが洗濯物を出し放しにして実家へ帰ったら、誰がそれをと りこんでくれるのだろう。光代さんがカオルさんのような人だったら、洗濯物は濡れたま まになっているのである。 もう一人の間借人、頼子さんも、思いきりばかなことをしてみたいと言ってアメリカへ ホーイフレンドをつくって同棲するかもしれないし、浮気もするかもしれない。 行った。・、 かっての間借人である勝子さんは、浮気をそれほどわるいことだと思っていないようだ 解 し、浮気相手のハンサム氏にいたっては、何人もの女性がいるようだ。 それでも何とかなると、皆が皆思っているのである。
「そこのところはお委せします。でも三十八度はちょっと高すぎるかもしれません。あん まり高いと主人のことですから、心配して飛んでくるかもしれませんから。熱は下ったけ れど、大事をとって帰りを一日二日、延ばした方がいいんじゃないかしらって、奥さまの ご意見のようないい方でおっしやっていただけます ? 」 「電話口に出して下さいっておっしやったら ? 」 : うまいこと、おっしやって下さいましな」 「よく眠ってるとか何とか : そして電話は切れた。 ーー勝子さんはいっから、こんな人になってしまったのだろう ? 光代さんはつくづく、歳月というものの怖さを覚えた。勝子さんの優しげな声、静かに 落ち着いた抑揚は昔のままだ。だがその優しさ、静かさの中からジワジワと滲み出てくる きようじん しなやかな強さ。鈍感なのか、とぼけているのか、さつばりわからない強靭さは結婚生活 っちか 利の中で培われたものなのか、それとももともと勝子さんの中に潜んでいたものか。 いずれにせよ、光代さんは面白くない。 な せどんな事情があるのかわからないが、こんな勝子さんの一面を知ってしまったからには、 幸 「そこへいくと、昔いた勝子さんという人はそれはよく出来た娘さんだったわ : : : 」
「わたし、もう、のぼせてしまって、無我夢中。どうしようかと思ったわ : : : 」 「ホホ。申しわけありません。で ? いかがでした ? 」 「いいましたよ。風邪をひいたらしく熱が三十八度出たので、薬を飲んで休まれましたっ て。そうしたらとても心配なすって、あと一時間したらもう一度、電話をかけますって。 そうそう、それでは明日の祝賀会には出られませんね、っておっしやったけど、わたし、 あなたから何も聞いてなかったでしよう。何て答えればいいかわからなくてドギマギしち やったわ。ほんとに勝子さん、もうこんな役目はごめんですよ」 「すみません。ごめんなさい : 勝子さんの声はあくまで優しい。 「で、あなた今、箱根 ? 」 ごうら 「ええ、強羅にいますの。雨がシトシト降ってとっても寒いんですけど、でもすてき 利 権 「で、明日はどうなさるの ? 何の事情も聞かされないで、嘘をつかされるのは辛いんで すよ。祝賀会のために上京なさったって何の祝賀会 ? 」 幸 「ご主人さまの古稀と奥さまの還暦を祝うダブルおめでたの会ってことになってますの」 のど ク・ク・と咽喉の奥で笑いを転がした。いつも静かで上品な勝子さんだが、今日はヘん