は落ちこぼれになってしまうことを知っているからです。もしもここに理想を高く掲げて、 そうこく それに向おうとする若者がいたとしたら、彼は理想と現実生活の相剋に苦しまなければな らないでしよう。そしてその解決は妥協と譲歩にしかないとすれば、迷わず妥協するのが 賢い道であると彼らは考えます。いや、それよりももっと簡単で賢明な道は、最初から社 会正義や理想などというものを持たないことだ : : : 。若者たちはそう考えた。殆ど本能的 にです。そうしてその道を選びます。思考することを放棄した。何も考えず、流れに乗っ て流れて行けば一番らくだということを知った。そうしてその結果、ものを考えたことの ない顔、あの顔もこの顔もみな同じ、区別のつかない血統書づきの大、コッカス。ハニエル やマルチーズになったのであります : : : 」 ある日、近くの公民館へ間崎鉄平氏の文化講演を聞きに行った光代さんは、メモする手 あっけ をはたと止めて、呆気にとられて壇上の鉄平氏を見上げた。 その前後のくだり、会場がどっと笑って ( 勿論、どっときたのは聴衆が五十歳以上の熟 年ばかりだったためだが ) 拍手が聞えたりした箇所は、数日前光代さんが間崎夫人にしゃ べったことだったからである。 「あらツ、まッ ! 」 光代さんは思わず声に出して、壇上の間崎氏を睨んだ。間崎氏は何くわぬ顔で、年に似 にら
たのかと、光代さんは、「斬って斬って斬りまくれ」と溜息をついているのである。 お向いの住人である間崎氏は、その文化講演で、 「もし個性的に生きようとすれば今の社会では落ちこぼれになってしまう」 と言い、そのあとで、 「何も考えず、流れに乗って流れて行けば一番らくだ」 とも言っている。 間崎氏の方は、最後に、 「ものを考えたことのない顔、あの顔もこの顔もみな同じ、区別のつかない血統書づきの 犬、コッカス。ハニエルやマルチーズになったのであります」 と、光代さんが間崎夫人に述べた感想を横取りして会場の笑いをとり、満足そうな顔を するのであるが、私達は流れにのるために、どれほど沢山のものを捨ててきたことか。 古くは明治維新の折、文明開化の波にのろうと江戸の風物も情趣も捨てた。ザンギリ頭 を叩いてみれば文明開化の音がするとうたわれ、歌舞伎までが開化ものを上演するような 世の中では、間崎氏の言う通り、個性的に生きようとするのはむずかしかっただろう。 昭和の敗戦後にも、自由だのプライ・ハシーの尊重だのという流れに身をまかせ、今度は 光代さんが大事にしている気くばりや人の世話などというものを捨ててしまった。日本を
194 とさすが長年連れ添っただけあって夫の孝造さんはいうが、光代さんは、 「本当に正しい人間は孤独に徹するしかないのよ」 昂然とどこかで聞きった言葉を使って、孝造氏を黙らせてきたのである。 光代さんが勝子さんに手紙を出して数日後、勝子さんからは何の沙汰もないうちに、 野々宮氏から光代さん宛の手紙が来た。 「突然、このようなお手紙をさし上げるご無礼をお許し下さい。さぞかしお驚きと思いま すが、今般、妻勝子、突然出奔いたしました。その置手紙によって、これまでの不届きす べてが判明し、一時はただただ怒り嘆くばかりでした。 置手紙で橋爪との関係のあらましがわかり、とりあえず橋爪のア。ハートへ人をやりまし たところ、橋爪は既に若い女と同棲しており、勝子は訪ねて来たが、事情を知って帰って 行った、というだけで、目下、行方を探索中であります。 じっこん 貴家とはひとかたならぬご昵懇にあずかっておりました様子。万一、お訪ねした場合は どうか、直ちにご一報下さいますよう。本人が何と申しましても、同情してかくまうなど ということはくれぐれもご無用に願い上げます : : : 」 野々宮氏の文面は冷たく簡潔である。余計な心情は何も人っていないのが、その怒りの ほどを現しているようだ。
一瞬、光代さんの頭に橋爪透の顔が閃いた。デイトをすっぽかされたくらいで怒るカオ ルさんではない。原因はきっと橋爪透だ。カオルさんはハンサムの橋爪が気に人ったのだ。 橋爪は橋爪でカオルさんが気に人った : : プレイガールとプレイボーイ。二人でコーヒー を飲んで、次のデイトの約束をしたのかもしれない。 カオルさんが逃げ腰になっていることを感じると、間崎氏の気持は急激に惹き寄せられ たようである。それまで自分を慕ってくる若い娘とのちょっとしたラプアフェアーのつも はま りだった間崎氏は、「逃げれば追う」の恋愛心理の原理にみごとに嵌ってしまった。間崎 たま 氏は何も手につかなくなった。書かねばならぬ原稿が溜っているにもかかわらず、せっせ と電話をかけ、手紙を出し、朝とタ方、カオルさんが大学から帰る頃を見はからって家の 前をウロウロしている。 それを察知したカオルさんは、わざと家を出る時間を早めたり、夜、遅く帰ってきたり しているという。 光代さんはそのことを頼子さんから聞いた。カオルさんの部屋の電話がしよっちゅう鳴 っている。カオルさんは受話器を取ることは取るが、一瞬後には何もいわないでガチャン と下ろす音がしている。黙って切るくらいならはじめから出なければいいのにと思うが、 カオルさんにいわせると、
「わたしなんか、奥さんから見たら、七つも年下なのに、とてももう、そんな元気はあり ませんわ、ホホホ」 間崎さんは何かというとホホホ、ホホホと笑う人だが、もしかしたらそうして笑うこと によって、辛いことや世の中の不条理をやり過してきたのかもしれない。 間崎さんは京都の和装小間物店の二人娘の姉の方で、婿養子に迎えることに決っていた 番頭を嫌って、新聞記者だった間崎氏と駈落ち同然に一緒になった。間崎氏は京都の商家 いいだくだく の封建性を批判し、その保守性の中に唯々諾々と埋没させられてきた女性の生きざまの、 「自覚せざる悲劇性」について弁じ立てたりする人だったので、間崎さんはむつかしいこ とはわからぬままに、この人なら女に理解のある人だと思って家を捨てたのだった。今、 実家は妹がその番頭と結婚し、京都の名店のひとつに数えられるまでになっている。 「わたし、番頭と一緒になった方がよかったと、今になって後悔してますのよ、オホホ」 旗と間崎さんはいう。 「この前、法事で京都へ行ったら、あの番頭の倉原がそれは立派になってますのよ。貫禄 ア もあって、太っ腹で、愛嬌があって、よく気がついて優しいし : : : それに較べたらうちの 主人の貧相なことといったら : : : 。傲慢で、威張り屋で、お行儀は悪いし : : : 」 間崎氏は年と共に専制君主のようになり、封建時代を地でいくといった家庭生活。新聞
176 申したのですが、両親を亡くした今は米山さんご夫妻を親のように考えているらしくて 「はあ : ・まあ : ・どうも・ : 恐れ人ります : : : 」 「で、家内は今、そちらでしようか ? 病院の方でしようか」 「え、いま、病院の方へ行っていただいてるんですけど」 「そうですか。では恐縮ですがひとつ病院の電話番号を : : : 」 「はあ」 脇の下からどっと汗が噴き出した。 「実は今夜、病人は家へ帰ってくることになりまして」 「ほう、・こ退院ですか ? 」 「はい。あのう、一時帰宅で : : : それで勝子さんに迎えに行ってもらってますの」 ではまた後で、と野々宮氏は電話を切る。光代さんは受話器を置き、思わずへナへナと その場に坐ってしまった。 「何だい ? 誰だい ? 病院だの一時帰宅だのって ? 」 いつもは光代さんの長電話など気にも止めない孝造氏なのに、こんな時に限ってしつか り聞いているのが腹立たしい。光代さんは返事もせずに立ち上って紅茶をいれた。早く勝
んが留守だったのでホッとして、赤福餅だけを置いて行った : まったく何という男だろう。 光代さんは赤福餅を台所の床にほうり投げて、そのままその日は寝てしまったが、翌朝 起きてそれを拾い、三時のお茶に間崎夫人を呼んで食べたのだった。 間崎夫人といえば、夫人の方はあれ以来、間崎氏と冷戦状態に人ったままである。夫人 に人歯を隠されてカオルさんとのデイトに行けなかった間崎氏は、その翌日、夫人から取 り上げた人歯を人れて東北地方の講演旅行に出かけて行った。一一泊三日の講演旅行を終え て帰宅したが、むつつりしたまま夫人と口を利かない。 「食事の支度が出来ました」 「うん」 「お風呂が沸いてます」 「うん」 「お先に休みます」 「うん」 昨日など、一日にしゃべった一一一口葉はそれだけですのよ、ホ・ホ : : : と間崎夫人は鯉がふ を食べるようにロに赤福を人れて含み笑いをした。 こい
の「黒鬼の微笑」に魅了された一人なのである。 「ご精が出ますなあ、奥さんはほんとうに働き者でいらっしやる」 「あら、恐れ人ります。家が古いものですから、せめて周りだけでもきれいにしておきま せんと : : : 」 「家内にもいっているんですよ。つまらないおしゃべりばかりしてないで、少しは米山さ んの奥さんを見習いなさいって」 「あらまあ、どうしましよう : : : 先生にそんなにいっていただくなんて : : : 」 そういいつつ、胸の中では「これネ、これなのネ」と思っている。 「とにかく口のうまいことったら、若い娘を見たら、やあ、きれいだね、とかすばらしい、 チャーミングだ、とか必ずなにか嬉しがらせることをいうのよ。中年には中年なりに落ち ついた魅力があってすてきだとか。いうことがなくてもなにかかにか絞り出すんですよ」 あげく 「働き者」といわれたのは「なにかかにか絞り出し」た揚句のお世辞なのかと思うと、光 代さんはあまり嬉しくない。 立花カオルさんと間崎鉄平氏はそんなふうにして親しくなった。いっかの五月の朝の約 束通り、間崎氏を訪ねたカオルさんは、それ以来・ハス停前の喫茶店で会ったり、この頃は 夜遅くスナックの片隅で水ワリのグラスを重ねたりするようになっている。
「じや失礼します」 といってカオルさんは家の中へ人ってしまった。 ぼうぜん 光代さんは朝刊を手にしたまま茫然とその後ろ姿を見送り、イマイマしさで胸がいつば いになる。イマイマしいのは、カオルさんが朝帰りしたためではない。朝帰りを見つけら れたにもかかわらず、恐縮するどころか「経験のひとっ」だなどとうそぶいて、光代さん の追及がかわされたことがイマイマしいのである。 一度でいい、光代さんはカオルさんの心臓をギュウと撼んでねじ上げ、カオルさんの愛 らしい顔が苦痛に歪むのを見てやりたいのだ。 いつも光代さんはカオルさんに肉迫しては、その都度、身をかわされている。勝負に出 て一度も勝ったことがないのだ。 なぜ勝てないのか。それは光代さんの力不足というわけではなく、相手の鈍感さとひと 利りよがりのためなのだ。光代さんはそう思う。そう思うと糠に釘を打つような、のれんに 腕押しをするような、何ともいえない苛だちと口惜しさに襲われるのである。 な せ孝造氏が出かけるのを待って、光代さんは間崎さんを呼ぶことにした。さっき朝帰りを 幸 した間崎氏はきっと寝ているにちがいない。だから間崎夫人にはこちらへ来てもらった方 がいいのである。 つど ぬか
っていたくらいだから、好人物で人に欺されたのかもしれない。銀行からも見放され、ど こからも金を借りることが出来なくなってしまった。そこで勝子さんは決心して、東 ~ 示に 心当りがあるといって家を出てきた。 ( もしかしたらその心当りをウチだといってあるの かもしれない ) そして一夜、箱根で金貸しのヒヒ爺イから金を借りる。身を捨てて夫と家 を救おうと決心した : そんな想像は光代さんを感動させる。 だが事実はどうなのか、箱根に待っているのはヒヒ爺イか ? それともイロ男か ? 光代さんはじっとしていられなくなって、すっくと立ち上った。間もなく孝造氏が帰っ てくる。夕飯の支度にとりかかる時間だが、雨をついて外 ( 出た。行く先はいわずとしれ た間崎さん宅である。 ←「奥さん、まあちょっと、聞いてちょうだい」 にしん 素といいながら台所へ人って行った。間崎さんは丁度、台所でみがき鰊を煮ているところ 人である。間崎氏はこのところ食欲が減退している。それで間崎夫人は夫の好物である鰊そ で ばを作っているのだ。 いつも夫の悪口をいいながら、こうして食欲のない夫のために好物を作っている。そん な間崎さんが光代さんは、微笑ましいというよりはもどかしい。だからご亭主はいい気に